宮城県気仙沼市の杉ノ下地区の高台では、鳴り響くサイレンに合わせ、遺族会長の佐藤信行さん(72)と約300人の遺族らが、慰霊碑に向かって黙とうした。遺族会の高齢化が進み、震災翌年から開催してきた慰霊祭は、十三回忌の今年が最後。自身も高齢のため、会長を退く。「ここでみんなと顔を合わせるのが励みだった。やっと肩の荷がおりたかな」。そう言ってほほ笑んだ。
杉ノ下地区では全85戸が津波で流失し、住民312人のうち93人が犠牲になった。その半数以上は佐藤さんの妻才子さん(当時60歳)や母しなをさん(当時87歳)と同様に、市の指定避難場所だった海抜12メートルのこの高台を目指し、高さ18メートルの津波にのまれた。
杉ノ下地区では、明治や昭和の津波被害を教訓に毎年2回の避難訓練を実施し、この高台に逃げる訓練をしていた。才子さんも欠かさず参加していた。
あの日、佐藤さんが大きな揺れを感じて外出先から帰宅すると、自宅は流され、2階部分が残っているだけだった。才子さん、しなをさんと連絡が取れなかった。1カ月ほどしてしなをさんの遺体が見つかった。才子さんの行方は分からないままだった。
佐藤さんは市内で長女と避難生活を続けるうち、犠牲者を供養し、被害を伝承することが、生かされた自分たちの務めだと考えるようになった。慰霊碑の建立を住民に呼びかけ始めた。
2011年11月、住民不在となった自治会が解散し、代わりに52世帯で遺族会を立ち上げた。佐藤さんが会長に就任した。
12年3月には慰霊碑が完成。「この悲劇を繰り返すな」と刻んだ。その数カ月後、杉ノ下地区は災害危険区域に指定され、自宅再建は不可能になった。慰霊碑は、各地に移り住んだ遺族が集まり、近況を報告し、励まし合う場になった。
一方で、遺族会役員の高齢化が進んだ。慰霊祭の案内を出そうにも、県外に引っ越すなどして連絡が取れなくなる人が増えた。会の運営や慰霊碑の清掃、周辺の草刈りなどの負担が、一部の役員に偏った。
市営住宅で暮らし、杉ノ下地区の畑に通う佐藤さんにとっても、農業と会長の役割の両立が負担になった。震災6年の七回忌を前に、会長を辞めようと考え始めた。
18年、市内の海岸で見つかった遺骨が、才子さんと確認された。それまでは外出の度に「どこにいるんだ」と心の中で呼びかけ、仏壇に手を合わせるために早く帰宅していた。妻が見つかり、力が抜けた。「いつまでも遺族会の先頭に立つことはできない」との思いが強くなった。
遺族会で連絡が取れるのは40世帯ほどに減った。以前は彼岸や盆の法要も行っていたが、近年は年1回の慰霊祭だけになった。
今年2月、遺族会の役員会を開催し、慰霊祭を今年で最後とする方針を確認した。遺族会解散を提案する声も出ていたが、「まだ行方不明の人もいるのに」「今後の伝承のためにも必要じゃないか」などの意見があり、存続することになった。しかし、後任の会長は決まらず、今後の運営も不透明だ。父を亡くした事務担当の小野寺敬子さん(61)も「誰かの善意や好意がずっと続くわけじゃない」と運営に苦悩する。
最後の慰霊祭で、遺族らが鎮魂の祈りを込めた風船を放つと、佐藤さんは目を細めて見守った。夫と次男を亡くした女性(87)は「つらい日々だったが、遺族会のおかげで支え合ってこられた」と感謝した。最後の大仕事を終えた佐藤さんは「みんなに支えられてきた。これからも、たまに集まって雑談しながら一杯交わせればいい」と穏やかに話した。【平家勇大】