心の居場所というものについて、このごろよく考える。
「最初のころは参列してたけど、もう行ってないの」
昨年の3月10日、震災遺族と顔を合わせたときだ。「あすは、市の追悼式に行かれるんですか」と尋ねると、そう返答された。
ああ…と思い当たることがあり、「ご遺族のための式典とは思えませんものね。形ばかりで」と水を向けると、相手はわが意を得たように何度もうなずいた。
「そう。誰のため、何のための追悼式なんだろうって。だから今は自分たちが『ここ』と思う場所でゆっくり悼むことにしたんです…」
私の知る限りだからきっと違う市町村もあるのだろうが、自治体による追悼式典の基本構成は大体同じである。
犠牲者に黙(もくとう)をささげ、公的な立場の人が式辞を読み上げ、そして―まずは来賓たちが一人一人、献花を行う。遺族よりも先に。遺族が白菊をたむけるときは一斉に開始され、まるで流れ作業のようにあわただしいのに。
おととしの発災10年を区切りとし、追悼式開催を取りやめたり、縮小する自治体も増えている。「遺族のことば」をなくした市町村も多い。遺族の負担を考慮してとのことだが、一番大事なそれが式次第からなくなると、式典はますます形式化されていくように思えた。
先日、市の職員だった娘さんを亡くした知人女性と、3年ぶりにお会いした。「追悼式には行かなくなった」と話していた、先述の方とはまた別の一人だ。
「(市の式典は)娘を悼めるような場所ではない」と感じつつ、さりとて、「では、3月11日にはどこで手を合わせたらいいのか。どこが自分にとっての追悼の場なのか」と、さまようような気持ちでい続けたことを知っている。「あの子が生きていたら今ごろは」「なぜあの子が今、ここにいないのだろう」と考え、怒りとも悲しみともつかない、行き場のない感情を覚えることがあると。
だが、先日会ったときは少し表情が変化したように見えた。「ようやく、自分がいられる場所ができた気がする」―そう口にして。
一昨年冬、市役所庁舎内に、この女性の娘を含む殉職者の刻銘碑が完成した。
彼女をはじめ、職員遺族が中心となって強く働きかけ、建立に奔走していた。そこで知り合った他の遺族らとは、お盆前に碑を掃除したり、3月11日にはともに祈りをささげたり…と、ゆるくつながっている。
遺族同士で刻銘碑の前に立っていても特別、肩をたたいて語り合ったりするわけではない。だが、同じ空間にいるだけで、「思いを分かち合える人がいる」と安心する。「並んで一緒に手を合わせれば、心から娘を思うことができる」と。
この春から私は、「居場所」というテーマで、発災13年目の被災地を取材していこうと決めている。
追悼の場だけでなく、被災者が安心して過ごせる場所、必要としている場所について一緒に考えていきたい。
「やっと、自分の居場所ができた」
そう言ってほほ笑んだ彼女の声が、それほど強く印象に残ったのだ。 =おわり
■すずき・えり 1979年、岩手県生まれ。立教大学卒。東京の出版社勤務ののち、2007年、大船渡市・陸前高田市・住田町を販売エリアとする地域紙「東海新報」社に入社。震災時、記者として、被害の甚大だった陸前高田市を担当。現在は、同社社長。
自治体による公的な追悼式典は縮小傾向。今後の「追悼の場」のあり方が模索される (東海新報社提供)