〈 〈写真多数〉14歳で捕虜になった動員学徒、金庫だけが焼け残る瓦礫と化した丸の内…1945年の日本人が目にしていた“絶望的な光景” 〉から続く
日本が太平洋戦争の終結を迎えた1945年から今年で78年が経つ。明治維新を経て誕生、20世紀半ばに向かって拡大を続けた大日本帝国はいったいどのように崩壊へと至ったのか。
ここでは近現代史に関する取材・執筆・編集を行う太平洋戦争研究会の著書『 写真が語る銃後の暮らし 』(ちくま新書)の一部を抜粋。終戦に向かう日本の実情を貴重な写真とともに振り返る。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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希望的観測に満ちた終戦工作
日本の敗戦は、少なくとも日本への空襲が本格化した時点で明らかだった。1943(昭和18)年11月にルーズベルト米大統領とチャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席が集まったカイロ会談の結果、翌12月に日本の無条件降伏まで戦い抜くことを宣言した。1945年2月には、ルーズベルト、チャーチル、そしてソ連首相のスターリンでヤルタ会談(クリミア会談)が開かれ、ドイツ降伏後、2、3カ月でソ連が対日参戦することが密約された。
ソ連は同年4月、日本に対して翌1946(昭和21)年に期限切れとなる「日ソ中立条約」の不延長を申し入れた。ところが、日本はそのソ連に和平交渉を申し入れた。米英から有利な講和条件を引き出せるのはソ連しかないという日本首脳の判断だった。また、どこかで連合軍に一撃を加えれば、講和条件も良くなるのではないかという淡い期待もあり、一方で日本軍は来るべき本土決戦の準備を進めていた。その間、ソ連軍によりベルリンが陥落し、5月7日にドイツが降伏した。
ソ連は当然ながら、日本からの和平交渉の依頼を相手にせず、ただノラリクラリと時間が過ぎるのを待ち、日本はやきもきしながらソ連の返事を待つことになった。そうこうするうちに、7月26日には、米英中によって日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」が出された。スターリンは会議に参加しているが、まだ参戦前だったため、表に名前は出ていなかった。
ポツダム宣言を受諾するかどうか議論した結果、日本政府はこの期に及んでも、ソ連の返答もまだ来ていないので、しばらく様子を見ようということになった。
広島・長崎に原子爆弾投下
ポツダム宣言受諾の決断を先延ばししているうちに、8月6日朝、広島に原子爆弾が投下された。爆発の衝撃と熱線、大量の放射線、その後に続く爆風で市街地はたちまち火災を起こし、さらには死の灰が広範囲に降り注いだ。広島の街は瞬時に灰燼に帰した。
広島県発行の『原爆三十年――広島県の戦後史』によれば、原爆投下時に市内にいた日本人は約42万人と推定され、この他に徴用などで強制連行された朝鮮人が「数万人」いたといわれる。このうちの約15万9000人が5カ月後の12月末までに死亡した。死亡者はその後も増加し、被爆1年後の死亡者は約16万4000人に達した(2022年8月6日時点で「原爆死没者名簿」に登載された人数は33万3907人となった)。
その3日後の8月9日、長崎にも原爆が落とされた。被爆直後の8月末現在で長崎県が発表した死者は行方不明者を含めて約2万1600人だったが、その後も犠牲者は増えていった。
結果として1950(昭和25)年7月に長崎市原爆資料保存委員会が推定した犠牲者の数は、死亡者7万3884人、重軽傷者7万4904人だった。そして長崎に原爆が投下される前日の8月8日、ソ連が参戦した。
二度の「聖断」で無条件降伏が決まる
8月9日午前11時過ぎ、長崎への原爆投下の1時間ほど前から、東京では最高戦争指導会議構成員会議が開かれていた。ポツダム宣言受諾を巡って条件付きでなければ受諾できないとする陸軍と、無条件で受諾すべきだとする政府・海軍とで意見は真っ二つに分かれた。
昭和天皇が和平を求めていることを知っていた鈴木貫太郎首相(1945年4月7日に就任)ら終戦派は、天皇の「聖断」によって終戦に導こうと考えた。そして8月9日深夜に御前会議が開かれ、日付が変わった10日午前2時、意見が出尽くしたところで鈴木首相が聖断を請うと、天皇は明快にポツダム宣言受諾の意志を示した。
ところが、外務省が連合国に「天皇の地位に変更がないと了解(解釈)してポツダム宣言を受諾する」旨を打電したところ、米国の返答、いわゆる「バーンズ回答」で、天皇および日本政府の権限は「連合国最高司令官に隷属する」とされたものだから、軍部はこれでは「国体護持」は貫かれないと反発。受諾拒否、本土決戦を叫び始めて再び会議は紛糾した。
事態を収拾したのは天皇の二度目の「聖断」だった。8月14日午前11時から御前会議が開かれ、受諾派と反対派の意見がそれぞれ述べられた後、鈴木首相は再び天皇の判断を仰いだのである。
ポツダム宣言を受諾して戦争を終わらせるという天皇の意志は不変で、梅津美治郎参謀総長のメモによれば、「国体の護持については敵も認めて居ると思う、毛頭不安なし」と問題にせず、天皇自身がラジオ放送を通じて降伏を国民に周知しても良いとまで言った。ここに、ポツダム宣言受諾が決まった。
8月15日早朝からNHKは、正午に「重大放送」があることを繰り返し伝えていた。国民も戦地の将兵もラジオの前に集まり威儀を正してその時を待った。
そして天皇の声が流れ出し、「……茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英支蘇(そ)四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」と述べた。「共同宣言」が何を意味するのか知らない国民は、何のことか分からなかった。やがて、「戦局必ずしも好転せず」とか「時運の趨(おもむ)く所、堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す」のくだりになって、ようやく「日本が負けたのだ」と悟ることができた。国民の多くは思いもかけぬ敗戦を知らされ、愕然とした。皇居前には、土下座して泣く「臣民」の姿が多く見られた。そして午後3時20分、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。
この日は不思議と静かだった朝鮮の京城(ソウル)市内は、翌16日になると南大門通りが白い朝鮮服で埋まり、人々の「万歳(マンセー)」「万歳(マンセー)」の叫び声が響いた。同日、東久邇宮稔彦王に組閣が命ぜられ、17日に皇族内閣が発足した。
見捨てられた満州開拓移民
この戦争の発端となった満州はどうだったか。1945年5月30日に大本営は「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」を作成。すでに関東軍が、満州国の新京を頂点とし朝鮮国境を底辺とする三角形の中に立てこもる方針を発令していた。この三角形の外の国境地帯に入植していた開拓団や在留邦人については「対ソ静謐確保」のため、ソ連参戦の恐れがあっても事前退避の措置はとられなかった。そして8月9日のソ連軍の侵攻によって満州国は崩壊する。日本が固執し、その確保のために戦争に突入した満州国が幻となって地上から消えたのだった。
関東軍に置き去りにされた在留邦人は、直前の根こそぎ動員によって壮年男子を関東軍に取られたため、老幼婦女子主体だった。避難命令は出されたが、逃避行の途中でソ連軍の攻撃により殺され、あるいは集団自決し、略奪や暴行にさらされた。
中国人に襲われた人々もいた。開拓団の多くはソ満国境地帯に入植させられていたが、「開拓」とはいっても、その土地は中国人や朝鮮人から耕地をただ同然で買い上げたものが多く、満州への開拓団送り出しも1936(昭和11)年の「二〇カ年百万戸送出計画」のように国策移民であり、ソ連侵攻の直前に入植したような開拓団もあった。開拓団は結果的に“棄民”に等しかったのだ。
ソ連参戦時の逃避行を生き延びても、その後の日本人難民としての抑留生活のなかで餓死・病死した在留邦人も少なくない。今日まで続く中国残留邦人(残留孤児・残留婦人)はその過程で発生したし、根こそぎ動員によって関東軍に編入された男性の多くは、戦後、シベリアや中央アジアに抑留され強制労働を強いられることになった。
8月28日、東久邇宮首相は国体護持の姿勢を強調するとともに「全国民総懺悔することが、我が国再建の第一歩である」と声明。戦争責任を全国民に帰するかのような発言をし、波紋を呼ぶことになる。そして同日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着した。また湘南海岸にも上陸してきたのである。
(太平洋戦争研究会/Webオリジナル(外部転載))