「戦争は人間的な感情すらなくさせてしまう」。長崎で被爆した西岡洋さん(91)=横浜市=は、原爆投下直後の爆心地で目の当たりにした凄絶(せいぜつ)な光景に、あらゆる感情を奪われた。あれから78年。その体験は、多くの人の感情を揺さぶっている。
1945年8月9日、当時13歳だった西岡さんは、旧制長崎県立長崎中(長崎市)の2年生だった。
「敵機2機、島原半島を西進中」。別の生徒からラジオ放送の内容を聞いた数分後、大型機の爆音が聞こえた。「どんな機体か見てやろう」と窓際に走り寄った瞬間、黄色に少しピンクがかった光に包まれた。
とっさに目や口を手で覆って伏せると、体の上に4、5人の生徒が折り重なってきた。5、6秒して起き上がった瞬間、猛烈な爆風に襲われ、窓ガラスが割れ、木製の窓枠が室内に吹っ飛んできた。学校から爆心地まで約3・6キロだった。
原爆投下から2日後、先生から「市内の中学校には、かなりの被害が出ている模様だ。校舎の下に生き埋めの生徒もいるので、救助作業に行く」と言われ、西岡さんら生徒7、8人が選ばれた。
爆心地に近づくと、建物は全て倒壊か焼失し、焼け焦げた半裸かボロボロの布をまとった人が、何百と横たわっていた。死体の中には、うごめく負傷者も交じっていた。異様な光景に、不思議と何の感情もわかなかった。
爆心地から約900メートルにあった旧制県立瓊浦(けいほ)中では、生徒約10人が倒壊した校舎の下敷きになり、亡くなっているのが見えた。校庭と思われる場所に並べられた先生の遺体はパンパンに膨れ上がり、目にはハエがたかっていた。
帰り道、気持ちに少し余裕ができて周りを見ると、道端で倒れている人たちが「水、水……」と言いながら、西岡さんが腰にさげていた水筒をつかもうとしてきた。
「とんでもない。この水をあげれば、私の分はなくなる」と水筒を握り締め、そのまま歩き続けた。「自分のことしか頭にない世界。それが戦争だった」
戦後、東京都立大に在学中の53年には、学園祭で被爆時の写真や資料を展示する原爆展を開催。卒業後は、米国などとの貿易を扱っていた会社で働くようになった。
原爆を投下した米国相手の仕事。ただ、知り合った米国人は、自分が「原爆に遭った」と伝えると「それは申し訳ないことをした」と泣きそうになりながら抱きつき、謝ってくれた。
「これはもう、被爆の話をしてはいけない」。仕事で忙しくなったこともあり、自らの体験を口にすることはほとんどなくなった。それでも、いつか伝えたいという思いは抱き続けた。
退職後の96年、日本原水爆被害者団体協議会主催のイベントで講話をするために渡米。長崎で見聞きした事実を話した。それ以後、神奈川県内の中高生らを相手に50回以上、講話を重ねてきた。
当時の被爆体験を語るたびにあの日を思い出し、次の講話に行く足が止まりそうになることもある。それでも「原爆が投下された現実を、一人でも多くの人に知ってほしい」と歩を進める。それが平和へとつながる一歩になる、そう信じているからだ。
長崎原爆の日の9日は、長崎市の平和祈念式典に神奈川県代表として参列予定だった西岡さん。だが、台風6号の接近に伴い式典の規模が縮小され、招待は見送られた。
この日、78年前に長崎の焼け野原で見た名も知らぬ犠牲者たちに、約900キロ離れた横浜市の自宅から思いをはせ、西岡さんは決意した。「あまりに無力かもしれないが『反核』『反原爆』の闘いを、死ぬまで続けていきたい」【高橋広之、田中綾乃】