“見捨てられた被災地”能登で生きる 震災から1年 復興進まず“集約化”の動きも

能登半島地震からまもなく1年。復興が進まず「見捨てられた被災地」とも言われる能登で生きる決断をした家族を追いました。
震災を生き抜いた被災者を“絵”で励ます画家
今年9月、能登半島地震の被災地で開かれた展覧会。麻布に油絵の具で描かれているのは震災を生き抜いた家族の「笑顔」。愛知県田原市の画家・小林憲明さん(50)は、東日本大震災を機に被災地で生きていく家族の姿を描き続けてきた。
小林憲明さん 「被災しているのに、その中でアクションを起こして切り開いていこうという強さがあって。そういう頑張ってる人たちへの“エール”というか」
地震直後から被災地・能登へ何度も足を運び多くの家族を訪ね歩いた。
小林憲明さん 「絵というものを使っているんですけど、出会った人たちを記録していくような感じ。記録した絵をもとに家族の生き様や思いを伝えていく」
道路や水道などインフラの復旧や街の復興は進まず、崩れた家も手つかずのまま。それでもここに暮らす人々に向き合ってきた。
震災9か月前に東京から能登へ シングルファーザーと2人の息子
輪島市の杉本さん親子。絵のモデルだ。木工職人の父親・豊さん(51)と長男・和音さん(14)、次男・悠樹さん(11)の3人家族。
杉本豊さん 「ちょうど1月1日元日はここの居間に子どもたちと3人でいました。あまりの揺れなので、これだけ傾いてくるし天井は降ってくるし。一瞬死んだかもと思いました」
杉本さん親子が能登に来たのは、震災のわずか9か月前。それまでは東京で暮らしていた。妻と離婚しシングルファーザーになった後、長男の和音さんが中学に上がるタイミングで輪島市への移住を決断。
中心部の商店街に増えていた空き家の一つを買い取り、自宅兼木工品の販売店を構えた。ネット販売などで生活のめどが立ってきた矢先に起きたのがあの地震。
杉本豊さん 「見ていただくと分かるんですけど、隣の家に寄りかかっている。隣の家がなければ命がなかったかもしれないですね」
3か月が経っても公費解体のめどすら立たず、避難所生活が続いていた。
杉本豊さん 「復興はほんとに先長いですね。これだけひどいと。先が見えないぐらいの惨状ですね」
「見放されたと思っている」地元ボランティアの怒り
被災地の家族を描く小林さんにはもう一つの顔がある。それは復興ボランティア。毎月能登へ足を運び野菜や米を届け、炊き出しも行っている。小林さんは公的な支援が乏しい状況を肌で感じていた。
小林憲明さん 「こんなにボランティア頼りでいいのか。僕も渥美半島の先端に暮らしているので、同じように地震が来たら『切り捨てられるのでは』という怖さはある」
小林さんとともに活動している地元のボランティアも憤りを口にする。
能登のボランティア 田谷武博さん 「(国から)見放されてると思っている。1月2日か3日まで重機がちょっと動いてそのまま重機が置き去りになって。公費が入らないので重機が動かない。ダンプも動かないし人員も入ってこない」
今年4月、被災地復興について財務省は異例の提言を行った。
財政制度等審議会 増田寛也会長代理 「能登半島地震からの復旧復興にあたっては、地域の意向を踏まえつつ『集約的な街づくり』やインフラ整備が必要ではないか。事前防災にあたっては、地震が起こる可能性を自分事として『コンパクトシティ』を進めることが必要」
莫大な費用をかけて元通り“復興”させるより都市部への”住民集約”を優先する考え方。実際、若い世代を中心に復興をあきらめ能登を離れる人は増えていた。
能登のボランティア 田谷武博さん 「80歳90歳のじいちゃんばあちゃんが今この町だと7割がそうじゃないかな。働ける人はみんな仕事がないから(都市部へ)二次避難して向こうで働いているから。このまま潰れていくのかどうなのか。そんなところです」
能登に残るか離れるか 杉本さんの選択は…
去年、能登に移住したばかりだった杉本さんと2人の息子。11月、ようやく仮設住宅から引っ越すことに。
新しい家は同じ輪島市内。地震の後、空き家となった物件。杉本さんの選択は家族3人で「能登に住み続ける」ということだった。
地震で全壊した工房も自宅の横に再建。かかった費用は500万円。震災から1年が経とうとしている中、周囲の家は修復も解体もされず放置されたまま。移住で能登から出て行く人は増えていた。
杉本豊さん 「かなり空き家になっていて、隣も空き家、向こうも空き家」 「子どもたちには選択肢として、『東京に戻る選択もあるよ』と一応尋ねたんですけど、子どもたちは『門前が大好き。ここにずっといたい』という風に2人とも言うので、これはもうここにずっといようと決意しました」
杉本さん親子が守りたい能登の魅力
長男の和音さんが通う門前中学校。過疎化と震災で10年ほど前まで100人を超えていた全校生徒は42人に減った。
杉本さんの長男・和音さん 「こっちの学校は人数が少ないからみんなが仲いい感じ。あっち(東京)の学校だと人数が700人ぐらいいて話したことない人もいっぱいいるけど、ここの学校だと話したことない人はいないかな。未来のことは分からないけど、このあともここに居続けたいと思っています」
そんな杉本さん一家を地域の人も温かく見守っている。
輪島市の住民 「(杉本さん一家が残るのは)やっぱりうれしい。子どもたちが『能登に残りたい』と言ったのが本当にうれしかった。涙が出る」
杉本豊さん 「ここが本当に夕日がきれいで。このために東京から来たみたいなものです。晴れてるなと思ったら『きょう行こうか』とか一緒に子どもたちを連れて見に来ています。地震で海底が隆起してしまって、海があんなに遠くなってしまいましたけど、景色が変わっても夕日は変わらないです」
息子2人と、この能登で。
行政に頼らず能登を復興させようと奔走する元消防士
被災者の笑顔を描き続ける小林さんがこの日訪れたのが、能登町に住む脊戸郁弥さん(34)一家。妻、長男、長女の4人家族だ。
脊戸郁弥さん 「金沢で消防士をしてた時に東日本大震災の現場を見ているので。今回の地震が来た時に『あんな風になる』って思ってしまったんですよ」 「自宅の土台が割れて、2階に行ったら歩いてても駆け足になってしまうぐらい完全に傾いています」
自宅の1階には、インスタント食品やアルファ米、缶詰などたくさんの物資が。自分たちのためではなく、被災地で配るために全国から集めたものだ。行政の支援が行き届かない中、小規模な避難所などに配って回っていた。
脊戸郁弥さん 「こうやって能登が壊れかけているので、復興できるような手助けをしていきたい」
9月の豪雨災害でも、ボランティアチームを作って被災した家の清掃作業を行った。今は能登の未来を守ることに力を尽くしている。
現在は林業が本職の脊戸さん。ボランティアで小学校の裏山を整備し、子どもたちの遊び場を作った。自然豊かなふるさと能登を好きになってほしいという思いからだ。
「子どもたちが誇れる能登に」コンパクトシティには複雑な思いも
生まれも育ちも能登町。自然とともに生きてきた。過疎が進むこの地の復興に合理化を持ち込もうという国の政策には、複雑な思いが。
脊戸郁弥さん 「普通に人が暮らしやすく、今後も継続して生きていくという考えだと都市部に人を集めて『コンパクトシティ』じゃないけど、コミュニティを小さくしてというのがいいのかなって思うんですけど。能登の人々は文化を大切にしてきた、伝統を重んじて生きてきたので」
画家の小林さんは展示を終えた絵をモデルの家族に寄贈している。
脊戸郁弥さん 「こんな絵を描いてもらったのは初めて。いい記念になった」
4人だった家族は今5人に。11月に生まれた次男の琉禅くん。
脊戸郁弥さん 「この子たちが能登で育ったんだよって誇りを持てるような能登を作っていきたいと思います」
5人でこの土地で生きていく。
CBCテレビ「チャント!スペシャル 報道のチカラ2024」12月27日放送より