笑顔と色が消え、無表情になった原発事故被災地…元先生カメラマンが「自撮り」で伝えたかった「被災した私」

〈 将来が見えない長期避難で、笑顔がなくなっていく、人が亡くなっていく。原発事故から14年。穏やかな暮らしの記憶は写真の中にしかないのか 〉から続く
小学校の教員を退職後、福島県浪江町の津島地区に住む人々を撮影してきた馬場靖子さん(83)。
『あの日あのとき 古里のアルバム 私たちの浪江町・津島』(2024年10月15日、東京印書館発行)に収録された写真は、東京電力福島第一原発(大熊町・双葉町)の事故でバラバラになる前の住民の笑顔がとても印象的だ。
だが、原発事故による避難後、馬場さんが撮影する写真は大きく変わった。「自撮り」が増えたのである。しかも笑顔はない。表情がないとい言った方が正しいかもしれない。
なぜなのか──。
震災後に初めて「撮りたい」と思った日
いつもカメラを持ち歩いてきた馬場さんが、全くシャッターを押さなかった期間があった。
東日本大震災が発生した2011年3月11日から約2カ月間である。
原発では4基の原子炉建屋が相次いで爆発・火災を引き起こし、津島にも目に見えない放射性物質の恐怖が迫っていた。住民はバラバラに避難し、馬場さんも約140km離れた会津地方にある同県喜多方市の実家に身を寄せた。
この間、周囲を撮影をする余裕などなかった。シャッターを押す気持ちにさえならなかった。
その後、初めて「撮りたい」と思ったのは、津島を脱出してからちょうど2カ月が経過した5月15日のことだ。
避難先の喜多方市から最低限の荷物を持ち出そうと津島に戻った5回のうち、最後の日だった。
自宅に別れを告げ、隣町との境にある緩やかな峠に向かう。これを越えると、もう当分は帰らない。ふと道路の横に視線を移した馬場さんは、美しさに目を奪われた。
花がいっぱいに咲き乱れていて、なだらかな山には新緑が萌えていた。
放射性物質に汚染されて、人は消えても、自然は芽吹き、花は相変わらず彩り鮮やかに咲いていたのである。
思わず車を止めてシャッターを切った。
津島は四季の移ろいがはっきりしていて、花が美しい。避難で凍てついていた馬場さんの心は少し溶けた。
津島の変化を記録しておかなければならない
馬場さんはこの写真を撮った後、再びカメラを構えるようになった。津島の人が入った仮設住宅を訪れるなどして撮影を始めたのだ。ただ、人が消えた津島を写す機会はなかった。
放射線量が高いと分かっていたので、わざわざ帰らなかった。自宅には2年以上、一度も足を踏み入れることはなかった。
そんな2013年7月、津島を訪れる機会ができた。夫の績(いさお)さん(80)の弟が、埼玉県から墓参りに来るのに同行することになった。
これがきっかけとなり、馬場さんは津島に立ち入るようになる。津島はどのように変化したのか。そして変化していくのか。記録しておかなければならないという気持ちが頭をもたげた。
なぜ自撮りを始めたのか
同年10月には1人で向かった。
自宅の前で車を止め、防護服や雨合羽をまとって、玄関へ向かう坂を上がる。両脇はツツジやサツキでいっぱいだったのに、ササが侵出するなどしてぼうぼうになっていた。
その坂を上がる後ろ姿を、三脚で「自撮り」した。わびしい背中が写っていた。
この時、なぜ自撮りをしようと思ったのか。今でもよく分からない。後に「写真を撮影する人としては、珍しい行為だ」と、多くの写真を専門とする人に言われた。
写真集には自分なりに整理して考え、次のように記した。
「その荒れゆく姿を見るたびに色んな感情がわき起こる。それは自分がここの住民であり、数年前まではここで当たり前の暮らしをしていたのだ。それが何の心の準備もないまま、追い出され、ここに来るためには色々な手続きをし、時間も制限され……などなど考えると、疑問だらけ。
もしかして今建っているものも、いつか壊し(いや壊れ!)何もなくなってしまうかも知れない。
その時、『あれ、ここにあったものはどこに行ったの?だれが住んでいたの?』と人が住んでいた証もなくなってしまう。
自撮りを始めたのは『ここは私達が暮らしていた所です!』という自己表現の気持ちからだった。
この光景がもうすぐ無くなってしまうと、今あらためて考えると非常につらいものがある」
「要するに、震災は自分に起きた出来事です。自分事として捉えた記録を残しておきたいという気持ちがありました。ただ、最初に自撮りをした時には、そこまでの意識はありませんでした」と明かす。
人がいなくなった。ならば、自分を撮るしかない
馬場さんは被災前、津島の魅力を人々の笑顔を撮影することで表現していた。
だが、被災後は避難指示区域となり、人がいなくなった。一時帰宅しても、馬場さんしかいない。ならば、自分を撮るしかない。「そこに住んでいた自分」「被災者としての自分」を撮ることで、何かが見えてくるのではないかと直感していたのではなかろうか。
その証拠というと言い過ぎかもしれないが、「自撮りされた馬場さん」には笑顔がない。というより、表情がないのだ。笑顔に満ちていた被災前の写真とは正反対だ。
「もちろん感情がないわけではありません。むしろ、いろんな感情がわいてきて、表に出すのが難しいほどでした」と馬場さんは語る。
ただ、時に無表情ほど雄弁に物語るものはない。津島は「笑顔」から「無表情」のまちに変わったのだった。
写真集の中の馬場さんは、防護服に雨合羽のスタイルで、荒れた屋内を片づけ、お気に入りの服を引っ張り出し、2階の窓から津島を見る。
自宅が雑草に呑み込まれていく様子も見つめる。
自宅の正面に設けたバリケードの前に立ち、「あと、何回来られるだろうか」と考える。
田んぼには身長をはるかに超えた草木が生い茂り、かつての面影などどこにもない。皆と一緒に作業をして、休憩中にお茶を飲みながら談笑したのが嘘のようだ。
自宅の放射線量を計測すると、地面に近い場所ではあったが、34マイクロシーベルト以上の値を示して驚いた。福島で汚染された地区の中でもかなりの高さだ。
「自撮り」写真で目立つのは、馬場さんが花を持ち歩く姿
自撮りの馬場さんは、避難後の津島の惨状を淡々と暴き出していく。
馬場さん夫妻は2013年12月、自宅から50kmほど離れた福島県大玉村に中古住宅を買った。屋内には震災でできたひび割れが大きく残る。直していない。「私達が余生を過ごすだけだから、それぐらいは大丈夫でしょう」と馬場さんは語る。実質的にここが終の住処になるのだろう。
津島の自宅には、母屋と農業用倉庫が二つ、そして牛舎があった。これらは、倉庫一つを残して全て解体した。
倉庫の中には2年しか使わなかったコンバインが入っている。績さんが農業を継ぐため、会津から2人で戻って来た時に買った年代物のトラクターも健在だ。
績さんは「まだまだやれる」と言うものの、将来の見込みが立たない。
「自撮り」写真で目立つのは、馬場さんが花を持ち歩く姿の多さだ。
花は共同墓地に供えるためのもので、墓参りが「帰宅」の理由のかなりの部分を占めていることが逆に分かる。
墓地では馬場家の墓以外にも、線香を上げて回る。すると、墓参りに帰った人の痕跡が残っている。「ああ、あの人が来たのだな。元気にしているのかな」などと想像を巡らせる。
そうして再々墓参に戻る人がいる一方、「避難先」に代々の墓を移した人もいる。「自分がいなくなった後、子供らが墓参りをする時、遠方の津島まで行くのは負担だろうから」という配慮からだ。そうなると、いよいよ故郷との縁が切れかねず、辛い選択になる。
日本リアリズム写真集団に組み写真を応募
馬場さんは「皆、帰りたいと思っていても、帰れる状況ではありません。そのうちに廃村というか、棄村にされてしまうのではないかと感じます。そうした現状を多くの人に知ってほしいと思うようになりました」と話す。
だが、写真一枚では伝え切れないと感じた。そんな時、日本リアリズム写真集団の公募展は組み写真で応募するのだと知り、2016年に初めて応募した。
避難から2カ月後に荷物を取りに帰宅した時、道路の横で目を奪われて撮影した美しい花々。そこに住んでいた女性が仮設住宅に入っていると聞いて、プリントを見せに行くと、女性は食い入るようにして写真を見た。他にも草でぼうぼうになった家の庭にぽつんと咲いた紫のキキョウ。帰還困難区域に指定された津島では自宅に行くにも申請が必要で、ゲートを通るにはかなり厳しくチェックされた。こうした理不尽さなどをテーマに、組み写真にして応募したのだった。
他にも、浪江町の中心部の避難指示が2017年3月31日に解除された後、人の気配がしない市街地の組み写真を「帰還率0.8%」というタイトルで応募したことがある。
写真集や展覧会で大きな反響
暮らしの中から自然に出てくる笑顔がテーマだった馬場さんの写真は、原発事故で被災した地域の問題を切り取る社会派の写真へと転換していった。
日本リアリズム写真集団には、応募を重ねているうちに会員として加わり、会合にも参加するようになった。
そうした時、同集団の関係者に「貴重な写真だから写真集にしてみたら」と言われた。
馬場さんは「確かに写真集だと、昔の津島と今の津島が同時に残せる。今の荒れてしまった津島しか知らない人に、昔はこんなに穏やかでいいところだったんだよと伝えられる。昔を知っている人には思い出してもらえる」と考えた。
写真集が完成した直後の2024年10月18日~12月21日、福島県三春町のギャラリーで写真展を開いた。すると大きな反響があった。
まず、避難前の津島のことを知っている人からは「すごく懐かしくて、すぐに全部見た」「泣きながらページをめくった」という声が届いた。
「昔の津島には色があったんですね」
避難後しか知らない人からは、意外な反応があった。
例えば、ある放送局のカメラマンが写真展を見に来てくれた。そして「昔の津島には色があったんですね」と驚いていた。
このカメラマンが初めて津島を訪れたのは、原発事故の直後の取材だった。津島では全てが「茶色っぽく見えた」のだと言う。だが、馬場さんが被災前に撮影した写真には、3人の女性が楽しそうに赤い木の実を集めている姿が写っていた。「赤色があって、緑色もある。色がありますね」と感慨深く言われた。
被災前の津島には、人々の笑顔があって、彩りが豊かだった。しかし、避難後の津島は無表情になり、色がなくなってしまったのかもしれない。
そんな津島はどうなっていくのだろう。
「残念だけど、私には見届けられないな」
馬場さんは「今年の1月17日で阪神・淡路大震災の発生から30年が経ちました。被災した人は、決して皆が順調にいっているわけではなく、以前の暮らしを取り戻せているわけでもないと新聞で読みました。30年が経過してもそうなのか、こちらはまだ15年が経過していません」と話す。
しかも、津島では2023年3月31日、ほんの一部の土地で避難指示が解除されたにすぎない。町営住宅が10戸整備されたが、そこにぽつんとあるだけに近い状態だ。政府は今後、希望者の宅地などに限り、「2020年代にかけて」除染を進める。
復興への足どりは、極めて遅い。
馬場さんは命ある限り、津島の写真を撮り続けていく考えだ。
「でも、長い時間がかかるのでしょうね。残念だけど、私には見届けられないな」
寂しそうに、つぶやいた。
写真=葉上太郎
(葉上 太郎)