東電福島原発事故から14年…山里の笑顔を撮影してきた元先生カメラマンが「どうしてもシャッターを押せなかった2カ月間」に起きたこと

一冊の写真集がある。
『あの日あのとき 古里のアルバム 私たちの浪江町・津島』(2024年10月15日、東京印書館発行)。
撮影者は福島県浪江町の津島地区に住んでいた馬場靖子さん(83)だ。
津島は、東日本大震災による東京電力福島第一原発(大熊町・双葉町)のメルトダウン事故で、最も深刻な放射能汚染を受けた地区の一つである。帰還困難区域に指定され、全住民が長期避難を余儀なくされた。爆発から14年が経過した今も、「帰れる」とされた土地はわずかに過ぎない。
そこには山里ならではの穏やかな生活があった。人々の笑顔もあった。しかし、一瞬で全て奪われた。掲載された約450枚の写真には、かつて存在した暮らしの楽しさと、失われた悲しみが凝縮されている。「今もこんな地区があるのです。忘れてほしくない」。馬場さんは写真集を手に訴える。
教員にだけはなりたくなかったが…
馬場さんは同じ福島県でも雪深い会津地方の喜多方市で生まれた。
父と姉は教員。「教員にだけはなりたくない」と栄養士になったが、勤務先の小学校で教諭や児童があまりに楽しそうだったので、大学で単位を取り直して採用試験を受けた。
カメラが好きになったのは、もしかすると母の遺伝子のせいかもしれない。農業に従事していた母は新しい物が大好きで、自分でトラクターを運転したほか、上からのぞく「ウエストレベルファインダー」のカメラを愛用していた。
ただ、馬場さんは当初、カメラに興味はなかった。初めて所有したのは、喜多方市内の小さな分校で勤務していた時、教員を対象にした生協の人に「買いませんか」と勧められたからだ。子供達が肥料袋でソリを作り、雪の斜面を楽しそうに滑るのを撮影した。
「馬場先生のクラスは本当に楽しかったんです」
この分校時代、やはり喜多方市内で働いていた津島出身の績(いさお)さん(80)と結婚した。その10年後、績さんが年老いた父母の農業を継ぐことになり、夫妻で津島へ移った。
勤務先も太平洋岸に近い双葉郡の学校へ異動し、教職人生のうち後半の20年間は浪江町の中心部にある浪江小学校や、同町の津島地区にある津島小学校で教鞭を執った。
「楽しい学校生活にしたい」「いろんな体験をさせたい」。馬場さんは、そのための道具としてカメラを使った。例えば、校外見学に出掛け、学んだことをもとにして校内でお店屋さんごっこなどをする。記録写真を教室に張り出すなどした。
「馬場先生のクラスは本当に楽しかったんです。うちの子もすごく世話になりました」。今でもそう語る親がいるほどだ。
友人からの誘いでNHKの通信写真講座を受講
2001年の春、教職を退いた。
退職後の馬場さんは、二つのことに挑戦した。
浪江町内で写真を趣味にしていた友人から「写真を習わない?」と誘われ、NHKの通信写真講座を受講した。毎月3枚の写真を送ると講評をつけて返してもらえた。
友人は写真集を出すほどの実力を持つ本格派で、県内外の祭りなどの撮影に誘ってくれた。躍動する踊り手を写すのは楽しかったが、帰ってから現像代に真っ青になることもあった。そのころはまだフィルムカメラを使っていた。
私にとって、津島の人々は皆が先生
それから、時を同じくして、津島の地域活動に深く関わるようになっていった。
津島は1956年の「昭和合併」で浪江町になった旧村だ。阿武隈高地に深く抱かれた山の中にあり、役場の津島支所がある地点は標高400mを超える。人口は1400人ほどしかおらず、和気あいあいとして、人のまとまりがよかった。少子高齢化に抗って、津島を盛り上げようという動きも活発になっていた。
75歳以上の高齢者向けに体操や紙細工の教室が開かれる時には、食事を用意するボランティアが集まる。馬場さんはこれに加わった。「ボランティア仲間と出掛ける年に1度の旅行も楽しみでした」と話す。
自慢の農産品などを直売所「ほのぼの市」で販売する「つしま活性化企業組合」にも参加した。
「よく『世間様』と言いますが、世の中には素晴らしい技術を持っている人がたくさんいます。私にとって、津島の人々は皆が先生で、目が見開かれる思いでした」
特産の凍み餅や凍み大根、凍み豆腐を作る高齢の女性達。
炭焼きが得意な高齢男性もいた。
津島は高冷地だけに花が美しい。皆でリンドウ栽培に取り組んだこともあった。
伝統芸能も受け継がれていて、「津島の田植踊(たうえおどり)」や「三匹獅子」があった。
穏やかな暮らしの中から自然に出てくる笑顔が写真のテーマに
馬場さんは津島という地域の魅力にはまっていく。いつもカメラを持ち歩き、「ちょっと撮らせて」と日常の風景を切り取っていった。
馬場さんがカメラを向けると、津島の人々はにこやかに笑う。穏やかな暮らしの中から自然に出てくる笑顔が、馬場さんの写真のテーマになっていった。
家では牛を撮るのが好きだった。
夫の績さんは津島に帰った後、和牛の繁殖に取り組んだ。
和牛の繁殖農家は、母牛に子牛を生ませ、約10カ月間育てて競りに出す。津島は山間部で農地に乏しく、気候が冷涼なので、大規模な耕作には向かない。このため、林業や石材業に加えて、畜産業が盛んだった。
一時は母牛を二十数頭まで増やした績さんだったが、町会議員に当選し、9期31年も務めたので余裕がなく、最終的には4~5頭の母牛に数頭の子牛の飼養規模にとどめていた。
あの日を境に、津島は一転した
子牛は1年足らず飼うだけだが、母牛になると10年以上の付き合いになる。経済動物とは言え、家族同然だった。4~5頭とあっては、なおさらだ。
馬場さんも夫が議会で忙しい時にはエサをやるなどして面倒を見た。
運動場で子牛にカメラを構えると、エサをくれると思うのか寄ってくる。興味津々に見つめる姿もかわいらしかった。
「まるで我が子のようだな」と感じることもあった。
しかし──。
あの日を境に、津島は一転した。牛との暮らしも奪われてしまう。
「まさか、これが最後になるとは。今思えば、もっとシャッターを切って、いろいろな場面を撮ればよかった」。馬場さんは震災発生2日前に撮った子牛の写真に、こんなコメントを添えている。
家に電話しても、誰も出ない
2011年3月11日の午後2時46分、最大震度7の揺れが東北を襲った。
馬場さんはちょうど、家を空けていた。実母の容体が思わしくなく、入院していた喜多方市の病院の担当医から連絡を受け、訪れていた。
母の病室に着いてから約15分後、激しい揺れに見舞われた。
「病室のロッカーが倒れるかもしれないと押さえていたら、看護師さんが飛んできて、『危ないからダメェ。ベッドの下に潜って!』と言われました。『震源はどこだろう。喜多方でさえこれだけ揺れたのに、大変な事態になっているのではないか』と談話室でテレビを見ていたら、津波が押し寄せる映像が流れました」
山間部の津島に津波の心配はなかったが、家に電話しても、誰も出ない。績さんは議会の会議で町役場にいた。
浪江町は沿岸部の請戸漁港などが津波に丸呑みにされていた。住宅倒壊も相次ぎ、圧死した人もいた。これらを含めた町内の直接死は182人を数える。被災時の人口2万1434人(住民基本台帳)からすると、かなり多い。
馬場さんは自宅が心配だったが、急変するかもしれない母を置いて帰るわけにはいかなかった。
原発で原子炉が暴走、浪江町は大混乱
翌12日朝、績さんに電話がつながった。「こちらは大丈夫だ。家は壊れていない。何も倒れていない」という話だった。「津島の地盤は強い」と聞いていたので、「やっぱり被害は少なかったのか」と少し安心した。
だが、浪江町はこの日、沿岸部だけでなく、町内全体がかつてない大混乱に陥った。東電福島第一原発で原子炉の暴走が止まらなくなったのだ。
午前5時44分、政府は原発から10km圏内に避難指示を出した。原発から約9kmしか離れていない浪江町役場には寝耳に水だった。当時の馬場有(たもつ)町長=故人=らはテレビでその情報を知った。
人口約1400人の津島地区には8000人以上が避難
夜明けから行う予定だった津波被災者の捜索は、急遽中止した。「助けを待っている人を見殺しにするのか」という猛反発もあったが、原発からの避難を優先せざるを得なかった。
役場は、町内でも原発からおおむね20km以上離れた山間部の津島地区へ町民を避難させると決めた。呼びかけが始まると、国道114号を津島へ向かう車が長蛇の列をなした。午後には役場も津島支所へ退避を開始したが、その最中の午後3時36分、原発では1号機建屋が爆発した。
「パーン」。その時、役場の隣にある浪江消防署では、消防隊員らが乾いた破裂音を聞いた。しばらくして、空からチリのような物が降ってくるのが見えた。
その後の午後6時25分、政府の避難指示区域は20km圏内に拡大された。ところが、これも浪江町には連絡がなかった。
町の記録誌によると、人口約1400人の津島地区には8000人以上が避難したとされる。津島小学校や各地区の集会所など、人が入れる施設はパンク状態になった。各戸にも親類や知り合いを頼り、大勢の人が身を寄せた。
私はとても危険な所へ向かっているのではないか
馬場さんは、母の状態が落ち着いていたので、とりあえず津島へ帰ろうと決めた。
13日朝に実家を出て、まずは喜多方市内のガソリンスタンドへ向かった。既に給油待ちの車が長い列を作っていて、午前中いっぱいかかって2000円分だけ入れてもらえた。
「津島では食べ物が不足しているに違いない。簡単に食べられるものを」と生協の店舗に寄ろうとしたが、駐車場がいっぱいで入れなかった。別のスーパーには入れたものの、パンなどは全て売り切れていた。
津島へのルートは、いつも通る郡山市で給水車に行列ができているというニュースが流れていたので、迂回して別の道を通った。
津島の手前の川俣町まで来ると、道の駅に大勢の避難者がいるのが見えた。国道の向こうから避難の車がどんどん走って来る。逆に原発の方へ向かうのは馬場さんだけだった。
「私はとても危険な所へ向かっているのではないか。自問自答しながらハンドルを握りました」と振り返る。
津島に入ると、地域は避難者でごった返していた。知り合いを見つけて声を掛けると、「朝から夫婦でお握りを一つしか食べていない」と言う。実家で炊いたご飯を「食べて」と渡した。
自宅には親類や知人が12~13人身を寄せていた。前夜は22人いたという。
馬場さんは食事の用意などで忙殺された。績さんは津島じゅうに押し寄せた避難者の世話で走り回った。
防護服にマスク姿の人も見かけた
そうしている間にも、原発の暴走は収まるどころか、取り返しがつかない事態になる。14日に3号機、15日に2・4号機と建屋の爆発や火災が続いた。12日の1号機も加えると、四つの原子炉建屋で「爆発的事象」(当時の官房長官説明)が起きていた。既に炉心溶融(メルトダウン)も進行していて、この時に放出された放射性物質のせいで、津島地区はかなりの濃度で放射能に汚染されたとされている。ただ、そうした情報が地元に伝えられることはなく、津島では子供を含めて多くの人が建物に入り切らず、屋外にいた。
馬場さんも「14日には家の周りを散歩して、フキを取ってきて食べました。今から考えるとかなり複雑です。少量なので大したことはなかったでしょうけれど」と話す。
防護服にマスク姿の人を見た人もいた。住民は不審がった。「ただ、逃げろとも何とも言わなかったそうです」と馬場さんは憮然と話す。
浪江町は町長の独断でさらに遠方へ逃げると決めた
こうした混乱のさなかの14日夜、隣の「葛尾村が逃げた」という情報が流れた。
葛尾村は多くの土地が、原発から20km圏内という政府の避難指示区域から外れていた。だが、村役場は複数の情報源から「政府の現地対策本部が置かれたオフサイトセンター(大熊町)の要員が、原発から約60km離れた福島県庁(福島市)へこっそり退避した」という事実をつかんだ。そこで午後9時15分、退避したオフサイトセンターの要員を追い掛けるようにして福島市へ全村避難する決断を下したのだった。この時の避難を呼び掛ける村内放送が津島にも聞こえ、騒ぎになった。
葛尾村と津島は、明治から大正にかけて、「組合村」を作っていた間柄だ。人間の付き合いが深いだけでなく、原発からの距離もそれほど変わらない。
浪江町は翌15日午前、馬場町長の独断でさらに遠方へ逃げると決めた。一度避難した津島地区からも退避して、全町民で町から脱出するという決定だった。国や東電からの情報はほとんどなかったが、この判断は後に正しかったと証明される。
馬場家に避難していた人も、それぞれ親類などを頼ってバラバラに逃げた。馬場さんは喜多方市の実家へ向かった。行き場がなかった知人2人を連れて行くことになった。
績さんも一度は喜多方へ来たが、津島に近い知人宅に泊めてもらうなどしながら、牛の世話に通った。
浪江町役場が二本松市内に仮事務所を設けると、近くに家を借り、夫婦別々に避難することにした。この状態が3年近く続く。そして、そのまま津島に帰ることができなくなっていくのである。
容体が芳しくなかった馬場さんの母は、混乱のさなかに亡くなった。
人を呼ぶように鳴く牛
馬場さんが家から唯一、意識して持ち出したのは喪服だけだった。
次第に、津島はかなり汚染されていたことが明らかになっていった。
それでも家から持ち出さなければならないものがある。馬場さんは5月にかけて5回、自宅へ向かった。ホームセンターで買った長靴や合羽に全身を包み、放射性物質が付着しないようにした。この時、撮りだめた大切な写真データも喜多方へ移した。
久しぶりに帰る津島はひっそりとしていた。まるで人の気配がない。
自宅に近づくと、気配を察した牛が鳴き声を上げた。
「夫も毎日行けるわけじゃありません。エサを多めに置いてきても、空腹だったのでしょう。普通ならモウモウと鳴くのに、ウモーっと人を呼ぶような鳴き方をしていました。それは悲しい鳴き声でした」と馬場さんは語る。
エサを与えて、なでる。放射線量が高いと分かっていたので、長居はできなかった。「こんな目に遭わせてしまって、ごめんね。かわいそうに」。胸が締めつけられた。
当時、原発から20km圏内の避難指示区域は立入禁止となり、多くの家畜が餓死していた。「せめて自由にしてやろう」と飼い主が放った牛は野生化していた。これらを含めて20km圏内の家畜は全て殺処分にすると政府は決めた。
績さんが牛と別れた時の様子に「あの冷静な夫が」と驚いた
一方、20km圏外の津島では、まだ人間の立ち入りができた。
ただ、そのまま飼育し続けることは不可能だった。績さんはやむなく牛を売ると決めた。牛舎の中で被曝しないよう管理していたが、被曝検査をしたうえで引き取り先を決めた。
馬場さんは立ち会わなかったのだが、績さんが牛と別れた時の様子を最近、知人から聞いた。「あの冷静な夫が」と驚いた。
「ご主人は悲しくて、悲しくて、牛を運んで行く車を追い掛けたんです。『危ない』って言ったのに、車の後ろをつかんで、放さなかった」
家族同然だった牛を、不条理な理由で手放さなければならなくなったことが、どれだけ辛かったか。
「あまりに苦しくて悲しいと、口に出せないことがありますよね。だからでしょうか。夫はひと言もその時のことを言いませんでした。最近になって初めて、人づてに聞いた話です」。馬場さんもうつむく。
ところで、馬場さんは3月11日から約2カ月間、写真を一切撮らなかった。撮れなかったと言った方が正しい。
「カメラはいつも持って歩いていたのですけれど……。撮るどころではなかったし、撮る気になれなかったのです」
津島のありとあらゆるものを撮ってきた馬場さん。だが、津島を捨てるかのようにして、出て行かざるを得なかった場面は、写せなかった。
写真=葉上太郎
〈 将来が見えない長期避難で、笑顔がなくなっていく、人が亡くなっていく。原発事故から14年。穏やかな暮らしの記憶は写真の中にしかないのか 〉へ続く
(葉上 太郎)