平成7年3月、当時の警察庁長官、国松孝次氏(87)が銃撃され重傷を負った事件は30日で発生から30年を迎えた。警察トップを狙った未曽有のテロ事件の捜査には延べ約48万人の捜査員が投入された。これまでに2人が〝自白〟したものの未解決のまま公訴時効が成立し、警察内部では「呪われた事件」ともささやかれる。なぜ未解決に終わったのか。
「元信者」
事件が起きたのはオウム真理教による地下鉄サリン事件発生の10日後。公安部が主導した警視庁南千住署捜査本部は当初から信者による組織的犯行とみて捜査を進めた。8年にオウム真理教信者だった元警視庁巡査長(懲戒免職)が「自分が撃った」と供述。情報は警視総監ら警視庁首脳部と捜査本部の一部の捜査員にしか知らされず、極秘捜査が行われた。情報が漏れることを懸念した上層部からは裏付け捜査が禁じられた。
8年秋、報道機関への情報提供などからこの事実が明らかに。警視庁が警察庁に報告していなかったことなどから捜査を指揮していた公安部長が更迭され、警視総監も引責辞任に追い込まれた。
長官銃撃事件の捜査に13年間携わり、公訴時効時に公安1課長だった栢木國廣氏(74)は「当初、公安部と刑事部の捜査はうまくいっていたが、元巡査長の情報を共有していなかったことが捜査員同士の不信感を招いた」と明かす。
元巡査長の供述は別の信者から聞いた話を自分の体験のように語った可能性を排除できず、実行犯として逮捕することは難しかった。それでも捜査本部は、実行犯ではなく「支援役」だったとみて捜査。元巡査長のコートからは拳銃を発射した際にできる「溶融穴」があったことなどから、捜査本部は16年、殺人未遂などの疑いで元巡査長と元信者ら4人の逮捕に踏み切った。だが元巡査長の供述は二転三転し、嫌疑不十分で不起訴処分となった。
栢木氏は「上層部に反してでもすぐに裏付け捜査をやるべきだった。結果的に身内をかばってしまったようになったことがいろいろな面で悪い方向に働いてしまった」と振り返る。
もう一人の男
事件が再び動き出したのは19年秋。別の強盗殺人未遂事件で実刑判決を受け上告中だった中村泰元受刑者が、警視庁捜査1課に犯行を示唆する供述をする。中村元受刑者は犯行に使った自転車を現場の南西約600メートルにある喫茶店前に乗り捨てた、などと状況を詳細に供述。中村元受刑者が借り、複数の拳銃が見つかった新宿の貸金庫では事件当日の午前9時26分に開扉された記録が残っていた。
事件では38口径回転式で米コルト社製「パイソン」と殺傷力が高く国内で使用例がない特殊なホローポイント型のマグナム弾が使用された。拳銃と銃弾の入手ルートについて中村元受刑者は1980年代後半、偽名を使って米カリフォルニア州のガンショップで購入したと供述。捜査員を米国に派遣して調べた結果、中村元受刑者の供述を裏付ける記録が見つかった。
当時、捜査1課長だった佐久間正法氏(74)は「犯人ではないという『シロ』になる捜査を行えば行うほど中村元受刑者の犯行が裏付けられていった」と明かす。
拳銃見つからず
接点がなく共犯関係ではない2人の「撃った」という供述を得ながら真犯人にはたどり着けなかった。理由は、犯行に使われた拳銃を発見できなかったことが大きい。
元巡査長は当初、「川に銃を捨てた」と供述。捜査本部は東京都内の神田川で捜索を行ったが発見できなかった。一方の中村元受刑者は犯行の翌月、伊豆大島へ向かうフェリーから拳銃を海に投げ捨てたとし、警視庁はこのときの乗船記録も入手した。ただ深海で捜索はできなかった。中村元受刑者は共犯者について供述することを拒み、捜査は打ち切られた。
昨年、中村元受刑者は医療刑務所で94歳で死亡した。佐久間氏は、上層部などが捜査方針を転換できなかったとし、「真実は一つしかない」と語った。真相はいまだ闇に包まれている。(大渡美咲)
◇
警察庁長官銃撃事件 平成7年3月30日午前8時半ごろ、東京都荒川区南千住の自宅マンションで当時の警察庁長官、国松孝次氏が後方から4発銃撃され3発が命中。一時重体に陥ったが一命を取り留めた。警視庁は延べ約48万人の捜査員を動員したが、22年3月30日、事件は未解決のまま公訴時効を迎えた。警視庁は「オウム真理教による組織的テロ」と結論づける捜査結果の概要を公表。教団主流派「アレフ」から名誉毀損(きそん)で訴えを起こされ、東京都側の敗訴が確定した。