「子どもたちはとにかく臭かった。足は真っ黒で、身体も汚れていた。風呂に入っても身体の洗い方を知らないのか、湯船で突っ立ったままの子もいた。パジャマに着替えるのも嫌がった。サティアンでは、風呂は2週間に1回、着替えもその時だけだったという」 30年前の1995年3月20日、東京都心でオウム真理教によるテロ「地下鉄サリン事件」が起きた。その約1カ月後の4月14日、山梨県・旧上九一色村の教団施設「サティアン」から、53人の信者の子どもが救出され、山梨県中央児童相談所に一時保護された。 警察官に抱きかかえられた子どもたちの顔色は真っ白で無表情。ヘッドギアをつけた子もいた。約3カ月間、共に過ごした元児相職員の保坂三雄さん(78)が、当時を振り返る。「オウムの教えでは親子関係は『煩悩』。オウムに帰りたがっても、親に会いたいという子はいなかった」(共同通信=味園愛美)
現在はスクールカウンセラーの保坂さんに、30年前のことを語ってもらった。
▽「とにかく、温かく迎えよう」
オウム真理教施設から保護した子どもたちと共に過ごした元児相職員の保坂三雄さん=2025年3月、山梨県甲府市
当時私は、子どもの指導方針を決める判定課長という役職でした。初めて警察から子どもたちを保護する可能性を伝えられたのは、1995年4月6日のことでした。 「学校に行っていない、保護を必要としている子たちがいる」 それから1週間、マインドコントロール(洗脳)について勉強したが、参考文献はほとんどない。何も分からないまま受け入れたというのが正直なところです。 地下鉄サリン事件を筆頭に、信者によるさまざまな犯罪が連日報道されていた最中のこと。子どもたちを保護することに、恐怖や不安もありました。手探りでしたが、児相では「とにかく、子どもたちが『ここは安心していいんだ』と思える場所にしよう。温かく迎えてお世話しよう」と決めました。 4月14日午前8時、「これから捜索に入る」と警察から電話がありました。最初は「20人くらい」という話でしたが、捜索が進むにつれて「30人、40人」とどんどん増えていきました。一時は「75人」という話もありましたが、最終的には53人で落ち着きました。
▽「いよいよ来るぞ」
山梨県上九一色村に建つ「第2サティアン」(右)などのオウム真理教施設=1995年2月
児相の周辺は朝から警察が警備を固めていました。マスコミもかなりの数が集まったため、窓に模造紙を貼って、中が見えないようにしました。 正午にはNHKのトップニュースで、保護した子どもたちを載せたバスが上九一色村を出発した映像が流れました。後ろから信者がバスを追っていました。「いよいよ来るぞ」。職員一同が席をわっと立ちました。
▽「これがマインドコントロールされた子どもたちか」
2歳ぐらいの子供の手を引き「第6サティアン」から出てきた女性信者=1995年3月、山梨県上九一色村
約2時間後、児相にバスが到着し、警察官が子どもたちを抱えて降りてきました。子どもたちの顔色は、透き通るように真っ白で無表情。頭にPSIというヘッドギアを着けた子もいました。 「これがマインドコントロールされた子どもたちか」。異様な光景にショックを受けました。男子27人、女子26人で、4歳から14歳。小学校中学年くらいの子が多かったです。 小児科医が子どもたちの診察をし、「顔色が悪すぎて病気かもしれない」と8人が入院することになりました。
▽「ここは現世?」
「第10サティアン」から保護された子供たちを返すよう要求するオウム真理教の信者たち=1995年4月14日、山梨県上九一色村(画像を一部処理しています)
立つこともままならず、毛布を敷いて寝かせた子も。うっすらと目を開けると「ここは現世?」と尋ねました。突然、「現世」と言われても、ピンときませんでした。 「現世では修行ができず、成長できない。だから、オウムに助けを求めて修行する。現世にいると自分はだめになる」ということらしいです。 他にも、透明のケースに飾られていた日本人形を指さして「監禁されている」と言うなど、子どもには似つかわしくない言葉を使うことに驚きました。
▽手づかみで食事
甲府市内の病院前で、保護された子供たちへの面会を求めるオウム真理教信者ら=1995年4月15日(画像を一部処理しています)
診察の後は入浴の予定でしたが、子どもたちがあまりにも「腹減った」と言うので、先に食事をとることにしました。マナーが悪く、手づかみで食べる子がほとんどでした。そして、食べること食べること。「おかわり」が止まらず、丼ぶり3杯食べる子もいました。 食後はお椀をペロペロなめて、それはもう、きれいになりました。がつがつと食べる日が2週間ほど続きましたが、不思議なことに腹をくだす子はいませんでした。
▽「親に会うくらいなら死ぬ」
オウム真理教から児童相談所に一時保護された子どもの学習ノートの一部。「はやくオウムにかえせ」と記されている(山梨県の開示資料より。一部画像処理をしています)
子どもたちは初め、「オウムに返せ」と敵意をむき出しにして迫り、脱走を試みる子もいました。一方で、親に会いたがる子はいませんでした。オウムの教えでは「親子関係は煩悩」と否定されていたからです。「親に会いたい」というのは禁句で、「親に会うくらいなら死ぬ」と言っていました。
▽ばらばらに遊ぶ
礼拝堂や第7サティアン=1995年2月、山梨県上九一色村
翌日から、子どもたちは狂ったように遊びました。「あと数年でハルマゲドンという世界最終戦争が起きる」「サティアンの外は毒ガス攻撃を受けている」と教えられて外出が制限され、ほとんど監禁状態だったようです。 はだしで外に飛び出して転げ回って泥だらけになり、1日5回も着替える子もいました。一方、子どもたちは「仲間意識」というものがないようで、人と遊ばずに一人でやりたいことをやる「ばらばら」の状態でした。
▽修行しない子は縛られた
元児相職員の保坂三雄さん=2025年3月、山梨県甲府市
サティアンでの生活は、非常に不衛生だったようです。ダニに全身をかまれ、ゴキブリやネズミもいたそうです。布団におもらししても、外に干せず、ベッドの縁に掛けて乾かしたそうです。
元児相職員の保坂三雄さん
勉強は1日1時間、「文部省」と呼ばれる役職の大人が教えました。1日2食で、大半の時間を修行に割き、オウムの歌を歌って、座禅を組んだといいます。 真面目に修行をしないと、両手と両足をそれぞれ組んだ状態のまま、ベルトで縛られたといいます。「縛り蓮華座」と呼ばれ、ひどい時は24時間その状態で、トイレにも行けなかったそうです。 泣いても許されず、子どもたちはその時のことをとても怖がって話していました。サティアンでは虐待が常態化し、恐怖心を抱かせてコントロールしていたようでした。
(下)「『任意か?強制か?』とにらんできた小学生も、次第に笑顔を取り戻した。彼らがどんな大人になったのか、知ることはできない」に続く