「人間の手足がちぎれ飛び、血の海で足元が滑るなか脱出を…」20万人が死亡した“沖縄戦”生存者の96歳女性が明かす、“地獄の地上戦”の凄まじい惨状

太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦の戦場となり、20万人以上の命が失われた「沖縄戦」。影響力の大きい政治家が沖縄戦について発言し、話題を集めたことも記憶に新しい。きょう6月23日は、その沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされている日で、「沖縄慰霊の日」に制定されている。
昭和4年生まれの翁長(おなが)安子さんは、沖縄戦を経験したひとりだ。15歳の時に、地元沖縄の人々で構成された郷土部隊「永岡隊(特設警備第223中隊。中隊長・永岡敬淳大尉)」に入隊し、3か月に渡る“地獄の地上戦”を生き抜いた。沖縄戦では、実際になにが起きていたのか。ノンフィクション作家のフリート横田氏が、わずかに残った体験者である翁長さんに取材した。(全2回の1回目/ 2回目 に続く)
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「沖縄戦のこと、あなたは知っている?」
「沖縄のこと、沖縄戦のこと、あなたは知っている?」
携帯電話越しに、96歳になるとは思えないはっきりとした口調で、まず筆者はこう質問された。重ねて、「沖縄の歴史、地形もわかっていてそこを歩いたこともありますか?」とも。知っているとは言い切れないですが、自分なりには学んできたつもりです、と答え、これまで戦争体験者たちから聞いてきた証言を書く意図について説明するのが精一杯だった。
声の主は、翁長安子さん。昭和4年生まれ。戦中は、沖縄県立第一高等女学校(一高女)の2年生だった。一高女には、沖縄師範学校女子部という教員養成校が姉妹校としてあり、キャンパスや校舎を共有、校歌も一緒だった。
両校の愛称は「ひめゆり」。優秀な少女たちが集ったが、戦争末期、兵力不足に悩む日本軍は彼女たちをも動員、「ひめゆり学徒隊」を作り、兵士の看護にあたらせた。最前線に立たされた10代の女性たちが大勢命を落としたことが広く知られている。
翁長さんが筆者に問うたのは、これだけの高齢になって、もう一度あのころの体験を話すことに「迷っている」からだった。当然のことと思う。
実は今回、翁長さんとお話をする前段階からして、これまでの関東・関西での戦争証言聞き取りとは状況が異なっていた。地元のいくつかの機関に相談したものの、証言を行える人の紹介は難しいとの返答が相次いだ。
地上戦の地獄を話すには、時間も精神的負荷も大きくかかり…
沖縄という1つの県で、今も健在な戦争証言者の母数は本土と比べ少ないはずだし、3か月に渡る軍民入り乱れての地上戦の地獄を話すには時間も、精神的負荷も大きくかかり、90代を超える本人がよくても家族が止めることもあるのだという。あらためて戦後80年が経過したことを痛感する。
そうした状況下、電話でひとしきり質問のやりとりをしたあと、翁長さんは、
「ごめんね、厳しいことを言って。……では、いつ会いましょうか」
最終的に取材を受けてくださった。後日、指定された那覇・栄町市場内にある「ひめゆりピースホール」に筆者は向かった。前述の2校は、戦火で焼け落ちてしまったが戦後再建されず、同じ場所にひめゆり同窓会館が建てられ、2階がこのホールとなっている。2校出身の同窓生が今も集い、コーラスを楽しんでいた。
取材の場には、元隊員で、ひめゆり平和祈念資料館館長もつとめた女性を含め、90代女性6名が同席してくれた。翁長さんは記憶鮮明。彼女の近年の証言、昭和50年代に聞き取られた証言と、今回取材の内容を後日照合してみたが、ほぼ同じで矛盾はなかった。以後、ウェブ記事として読むには少々長いが、ぜひお目通しいただきたい。
15歳で永岡隊に入隊し、激戦地にいた翁長さん
――時間を80年前に巻き戻す。
昭和20年3月17日、硫黄島の日本軍守備隊は全滅した。米軍はついに太平洋に展開していた戦力を沖縄へ向ける。26日には那覇市西方に浮かぶ慶良間(けらま)諸島に上陸を開始。沖縄戦がここに開始された。
当時一高女の2年生、15歳だった翁長さんは、3年生以上の生徒で構成されたひめゆり学徒隊に入隊するには若すぎたが、地元沖縄の人々で構成された郷土部隊、通称「永岡隊」(特設警備第223中隊。中隊長・永岡敬淳大尉)に志願し、入隊した。
永岡隊長は、那覇にある安国寺という寺の住職でもあった。一高女は勤勉な女性たちが通った名門校。それは当時の教育をしっかり身に着けていたということ。「はい、軍国少女でした」翁長さんは頷く。
3月末に入隊して、以後3か月に渡って従軍、炊事と看護の要員として南部の激戦地を転戦していった翁長さんの歩みは、沖縄戦の推移とほとんど一致している。そのため以後は、両者を平行して記していこうと思うが、こう書いていても、最前線、これほどの激戦地にいた翁長さんが現在ご健在でおられることが、改めて奇跡のように思われてくる。
米軍との、勝利の見込みのない絶望の戦い
米軍は18万を超える地上兵力、およそ1500隻の艦船など圧倒的軍事力をもって沖縄に挑み、「鉄の暴風」と言われた猛烈な艦砲射撃や空襲を繰り返し、美しい沖縄の山野を激変させていった。迎え撃つ日本軍の総兵力は約10万と劣勢で装備も劣る上、3分の1は防衛隊や学徒隊など沖縄の人々を現地召集した補助的戦力に過ぎなかった。翁長さんはそこに加わったわけである。
4月1日、沖縄本島中部の読谷村(よみたんそん)に上陸した米軍は南北に分かれて進撃、日本軍は地下壕の陣地に立てこもって持久戦法をとった。本土決戦の準備のため時間稼ぎをし、少しでも米軍の戦力を削ぐことが目的の、勝利の見込みのない絶望の戦いだった。人の暮らす街や村がそのまま戦場となり、米軍は日本軍守備隊・第32軍の司令部が置かれた首里城を目指し南進していった。
沖縄の少女たちが夜間に聞いた「悲しい音」の正体
そのころ、翁長さんは「悲しい音」を何度も聞いている。
取材時、同席していたひめゆり同窓会の与儀毬子(よぎまりこ)さんも同じ体験を持っていて、「あの音は忘れられないね」という。翁長さんら永岡隊は那覇・識名に配置されていた。
「識名は湧き水があって綺麗なところで西海岸が一望に見下ろせる丘がありました。那覇の町、慶良間諸島、浦添(うらそえ)まで全部見渡せます。4月の上旬でした。(米艦隊は)しょっちゅう照明弾を打ち上げていますし、サーチライトもね、もうあの軍艦からもこの軍艦からも照射するんですよ。結局は、蜘蛛の巣にかかった蚊みたいに、撃ち落されて。すごいうなり声を出すの。軍艦に突っ込むどころか、海にですよ、うーーん、という、悲しい音。もう、あれを見た時にね。どうしてもね、涙が止まらなかった」
与儀さんも目をうるませた。「悲しい音。サーチライトがね、十字に重なってね、その真ん中に飛行機が入ったらもう、だめ」
夜間、米軍の攻撃が休止したときを狙って、九州から決死の思いで飛来してきた特攻機だった。多くは米艦隊に近づく前に、空気を裂くようなエンジン音を立てながら暗い海に落ちていった。若い青年が次々に亡くなっていく光景を、沖縄の少女たちは息をひそめて見守っていた。
翁長さんも米軍のグラマンに機銃掃射された
翁長さんも米軍のグラマンに機銃掃射されたり、砲弾と銃弾をさけながら命がけで水や食料を運び続ける。だが日本軍はじりじりと押され、永岡隊も今帰仁森(なきじんむい)の陣地壕(久保田山壕)に移る。そこで1年生のときの担任と偶然再会する。教師は、戦場に留まる少女を不憫に思い、隊長の永岡大尉に紹介した。
じつは隊長にも一高女に通う娘がおり、翁長さんと同学年だったこともこのとき分かった。娘はすでに九州に疎開していた。以来永岡は翁長さんを娘のように思い、その姿が見えなくなると、「安子はどこへいった」と気に掛けるようになった。
翁長さんが同じ日本人に殺されそうになった理由
しかしこの壕付近で、翁長さんはあるとき、突如殺されそうになった。殺意を向けてきたのは、同じ日本人だった。
数時間壕を出て戻ってくると、突如「誰だ」と声をかけられ尋問されてしまう。浦添方面から南下してきたと思しき日本兵だった。翁長さんは永岡隊長の名を答えたことでなんとか解放される。――だが、すぐそばで同じように尋問されていた男性は何も答えられずにいた。沖縄人の風貌をした彼が聴覚障害者らしいとすぐ気づき、兵士らに伝えたが頑として聞き入れない。「スパイだ」。おそらく彼は、あのあと殺されただろう、という。
このころ、たとえ受け答えができても標準語で話さないと危険だった。当時、沖縄方言の使用は厳しく禁じられ、「沖縄語を以て談話しある者は間諜(スパイ)とみなし処分す」とされていた。
同じ国の者同士なのに、守るのではなく疑い、場合によっては簡単に殺害する。日本軍が沖縄の人々をどうみていたかが、この一例からも伝わってくる。
ひめゆり同窓会の与儀毬子さんの父も、スパイを疑われ惨殺された
取材時、翁長さんの横で静かに話を聞いていたひめゆり同窓会の与儀毬子さんの表情がここで一変した。北部で校長をしていた父は軍に協力したにもかかわらず特殊潜航艇の部隊だった海軍軍人たちにスパイと疑われ、惨殺されていたのだった。聴力が弱かったために質問に答えられなかったためのよう。
「満州、中国でやったやり方と同じ。同じ日本人だという意識がないの。すぐにスパイとみてね。どうして父がスパイなんかするの。戦後、私の家族もお酒を飲んだりすると、『スパイといったやつは出てこい』と大通りを馬に乗っていったりきたり、大声で叫んだこともありました」
「戦車砲がボーンと1発飛んできた」翁長さんを襲った惨劇
戦中、戦後すぐの遺族の心も荒れ果てていたころを思い出し、与儀さんの目は怒りと悲しみで急にうるんだ。翁長さんもうなずく。
「植民地と一緒だったね」
翁長さんら永岡隊がたてこもった久保田山壕からは日々、兵士たちが斬りこみに出ていったが、昭和20年5月に入ると、首里防衛の戦いは苛烈さを増し、米軍は20万発もの砲撃を加えたと言われている。シュガーローフヒルと呼ばれた丘(日本側名称・安里52高地)を巡る攻防戦は沖縄戦でもっとも激しい戦いとなり、日本軍はもとより、米軍にも大きな被害が出ている。
16日ごろ、永岡隊は、隊長が住職をつとめる安国寺の壕へ移る。現在の首里高校付近にあった壕である。32軍司令部のおかれた首里城からたった400~500メートルしか離れていない。ここで翁長さんは惨劇に遭う。
「29日の朝4時頃。水汲みに行って戻ってきたら、ゴーと戦車の音がしたんですよね。そしたらトンボ(米軍偵察機)も飛んできた。いつも朝6時頃しかトンボは飛ばないのにおかしいなって思ったら、戦車砲がボーンと1発飛んできた。しばらくしたらまた2発目が飛んできたんですよ。何分も経たないうちに、そしてすぐ火炎放射器」
「何もかも、人間とも思えないように焼かれていく」
奥行き20メートルほどの壕内には兵士や翁長さんら女性たち20数名がいたが、土嚢や枠材が燃え上がり煙が充満、追い討ちをかけて黄燐弾(おうりんだん)が投げ込まれ息もできない。奥にいた翁長さんの着ていた雨合羽にも火がついたが、永岡隊長が軍刀でたたき消し、「防毒面(ガスマスク)をかぶれ!」の命令に従い煙のなかで息をひそめた。しかし、壕入口付近にいた兵士たちはひとたまりもなかった。
「何もかも、人間とも思えないように焼かれていくわけ。もう、のたうち回って。でもどうにも手もつけられない」
熱い、熱い、と兵士たちが叫ぶ声が壕内にこだましたあと、今度は壕の天井からギリギリという音が響いてきた。やがて轟音とともに岩が崩落。壕内に立てこもる日本軍を掃討するため、米軍は壕の上部に穴を開けてガソリンや爆弾を投下したり、火炎放射器で焼き払う戦術をとった。これを「馬乗り攻撃」といった。
手足がちぎれ飛び、血の海で足元が滑るなか脱出したが…
実はこの2日前、27日には32軍は南部へ撤退を決定して、この29日には牛島満軍司令官以下司令部は摩文仁(まぶに)の新司令部にすでに退いていた。「郷土部隊(永岡隊)は首里城を死守せよ」という命令を受け、翁長さんらは置き去りにされていたのだった。
翁長さんは煙の充満する暗い壕内でいっとき片目が見えなくなり、永岡隊長は自決をしようとしていたが、周囲が説得。司令部を追うように南部へ撤退することになった。手足がちぎれ飛び、血の海で足元が滑るなか、隊長は少女に自分のベルトを掴ませ、転ばないように脱出をはじめた。
ところが壕を出たところで翁長さんは遺体を踏んで崖から転落してしまう。さらに、物音を聞いた米兵に自動小銃を乱射され、弾丸はリュックサックを貫通して翁長さんの背中をえぐった。リュックには預かった兵士の遺書などが入っていたが、失ってしまった。
おびただしい遺体のなか、南へと歩き続けた
ひとりになった翁長さんは、それでも隊に追いつこうと、おびただしい遺体のなかで自分も死んだふりをして息をひそめながら、南へと歩いていった。血が流れ出る背中の負傷を自分で止血し、遺体の浮く水たまりの水を飲み、爆弾で合羽に火がつくこともあったが脱ぎ捨てて、ひたすら歩き続けた。
上がり続ける照明弾の下、何千の遺体の山を見ながら、激しい死臭をこらえながら進んだ。識名に抜ける坂のあたりまできたとき、橋が落とされているのが分かった。周りは死体ばかりで生きている者はいない。大声で泣き叫んだ。
「お父さん、お母さん、助けに来て。私ここにいるけど、死にたくない」
15歳の子どもである。それでも進むと、溝のなかから声がかかる。「女学生さん、助けてくれ」。負傷した人のようだが、自分自身大怪我をしていて、歩くのもやっと。ごめんなさいごめんなさいと謝りながら通り過ぎるしかなかった。この道すがらでも兵士にスパイを疑われたが、隊長や他の兵士たちの名を言うことで解放されている。
〈 「人間の首から上が木にぶら下がり…」「海の波打ち際にも遺体が」15歳で“地獄の沖縄戦”に参加した女性(96)が語る、激戦地で見た“忘れられない光景” 〉へ続く
(フリート横田)