「マグロはすべて捨てろ」、終わらない核の脅威突きつけた「第五福竜丸事件」…実験での「ヒバクシャ」は世界各地に

被爆<下>

米国の水爆実験で船員らが被曝(ひばく)した1954年の「第五福竜丸事件」は、終わらない核の脅威を突きつけた。「再び被爆者を作らない」との機運を高めたが、核実験による「ヒバクシャ」は世界各地にいる。

54年10月、高知県のマグロ漁船「第11冨佐丸」が東京・築地の港で水揚げしようとした時のことだ。「マグロはすべて捨てろ」。突然、白い服を着た検査官4~5人がやってきて、廃棄するよう指示した。
機関長だった横山幸吉さん(95)(高知県土佐清水市)は、船員たちと1日がかりで約100トンのマグロを沖合に戻した。
米国は54年3~5月、太平洋ビキニ環礁周辺で6回の水爆実験を行った。3月1日の実験では操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝し、23人が高放射能の「死の灰」を浴びた。
第11冨佐丸もこの頃、1500キロ以上離れた太平洋上で数か月かけて操業していた。横山さんらは、毎日釣り上げた魚を船上で刺し身にして食べていた。帰港したのは、第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さん(当時40歳)が急性放射能症で死亡した翌月だ。
「また広島と長崎のようなことがあったのか」。横山さんは衝撃を受けた。
横山さんは44年から長崎市の三菱兵器製作所のトンネル工場で、旋盤工として魚雷の部品を作っていた。45年8月9日。工場内の電気が突然消え、トンネル内に吹き込んだ爆風で吹き飛ばされた。外に出ると、辺り一面、火の海だった。
翌日から飲まず食わずで、やけどで皮がめくれた瀕死(ひんし)の人を板に乗せて何人も運搬した。「このままでは自分も死んでしまう」と数日後に汽車に飛び乗り、故郷の高知を目指した。
その途上、車窓から広島の街が見えた。一面の焼け野原に広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)がぽつんとたたずんでいた。「破壊された街を二度も目にするとは」。停車した広島駅ではタンクから漏れ出る水をむさぼるように飲んだ。
終戦の報は、故郷にたどり着く直前に聞いた。
54年に第11冨佐丸に一緒に乗っていた仲間ら9人は相次いでがんで死亡。被曝の影響を疑った。2016年に高知県の元船員らがビキニ環礁周辺での水爆実験を巡って起こした国家賠償請求訴訟に原告として加わる。損害賠償は得られなかったが、被曝は認められた。すでに90歳となっていた。
同じ頃、53歳だった一人娘の浩子さんががんで死去した。被爆による2世への遺伝的影響は明確に証明されていない。しかし、自身のせいかもしれないとの思いが湧き、「すまない」と心の中でわびた。地元の高校生に体験を話し始めた。
横山さんは「同じように苦しむ人が二度と現れてほしくない」と願う。

冷戦下で核開発競争が進み、世界で2000回を超える核実験が行われた。米国は、ネバダ州だけで1951~62年に93回の大気圏内核実験を実施。周辺地域で放射性降下物が飛散し、6万~10万人の「風下住民」が被曝したとされる。
実験場の北東にあるユタ州ソルトレークシティーで生まれ育ったメアリー・ディクソンさん(70)もその一人だ。同級生ががんで次々と亡くなり、自身も20歳代で甲状腺がんを患った。1歳上の姉は46歳の時、免疫疾患で亡くなり、妹もがんで闘病中だ。
風下住民は、政府の補償を求め、90年に放射線被曝補償法が成立。今年、対象地区が拡大された。
ディクソンさんは、核実験の被害を伝えるため、世界中で講演し、広島や長崎の被爆者とも連帯して核廃絶を訴えている。「原爆が爆発した時から人間の犠牲が始まり、今も続いている。被爆者も含め、私たちの語る言葉は今こそ重要になっている」と話す。