〈 「日本航空123便墜落事故」の陰謀論を元航空自衛官が実名で否定する“明確な論拠”「ないですね。これは即答です」 〉から続く
1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故。事故から40年を経た現在、墜落に自衛隊が関与しているという陰謀論が広がっている。そうした主張の中でも、もっとも大きな影響を及ぼしているのが、元日航客室乗務員の青山透子氏による一連の著作だ。
しかし、青山氏の著作での主張は、様々な専門家から疑問視されている。ここでは、元航空自衛隊関係者から話を伺い、青山氏の主張について検証する。
筆者が次に話を伺ったのは、元航空自衛官で情報専門官として情報畑を歩み、現在は軍事ライターとして特に中国軍事を専門として活躍されている薗田浩毅氏だ。薗田氏には軍事情報の専門家として、またご自身の経験から青山氏の主張について、さらには自衛隊と情報について伺った。
「草むらかき分けたら生首が…」
薗田浩毅氏(以下、薗田) 航空自衛隊に入隊して、熊谷基地の教育部隊からそのまま熊谷基地の第4術科学校に入ったんですけど、周りの班長クラスや熊谷勤務が長い幹部は、ほぼ全員が御巣鷹に派遣されていました。空自の部隊で御巣鷹の現場に一番近いですからね。みんなおしなべて口が重いんですよ。新兵の僕らも、彼らが行ったということはなんとなく分かるんですが、聞きにくい雰囲気があって話題にするのは避けていました。
ある夜、演習で教場の建物を警備してたんですが、警備体制が下がって休憩みたいになり、僕の課程の若い教官と御巣鷹の話になりました。事故の日は夏休暇に入ったばかりで、静岡のご実家に帰る最中に上野でお店か何かのテレビで臨時ニュースのテロップを見て、これはやばいと部隊に戻ったそうなんです。戻ると熊谷基地は大騒ぎで、上からまだ指示来てないけど、現場へ進出の命令が来るんじゃないかと、基地司令も全部かかれと災害派遣に必要な機材を車両に載せるなどの態勢を整えてました。
現地に着いたら、陸自が先に入っていて、道がないので啓開して獣道のようなものを作っていたんですが、航空自衛官なので陸自の1.5倍から2倍くらいかかって現場に入ったと言ってました。空自さんはそこやってくださいと言われたんですが遺体がないんです。ないじゃんと思って草むらかき分けたら生首が。見える所は片付けられてたけど、実はそこらじゅうにバラバラ遺体だらけで、ハッと気づいて木の上を見たら、枝に遺体の一部が引っかかっているとか、そんな状況だったそうです。
その教官はそこから話さなくなって、新兵に聞かせる内容じゃないと思ったのかもしれませんが、泣いていましたね。人づてに聞いた話ですが、派遣中の食事で米の缶詰と副食で肉類のおかずが出るんですが、肉が遺体の一部に見えたりとか、米粒が蛆虫に見えて食べられなかった隊員がいっぱいいたそうです。
当時の熊谷基地って、隊員の自殺がたびたびあったんですが、あの事故が影響していたのかと今になって思うことがあります。たぶんメンタルケアって言葉も無かった時代ですから、あの凄惨な現場に行った隊員に影響していたと思うんです。話してくれた教官の目に涙が溜まっていくところは、今でもよく覚えています。
――先ほど、教官が墜落の日に夏季休暇だったとおっしゃいましたね。青山氏はこの日にミサイル試験が行われたとしていますが、もう盆の前日ですよね。こんな時期に試験なんてやるんでしょうか?
薗田 そこで試験やる場合、とんでもなく遅れてたとかでしょうけど、それでも12日はやらないですよ。
――メーカーの休暇もありますしね。
薗田 航空総隊隷下の戦闘機部隊とかは休暇を前段後段とかに分けて取らせてますけど、24時間態勢とる必要のない技術系の部隊とか試験やってる部隊なんかはスッパリ休んじゃいますよ。休める時休めが空自の文化ですから。
――事故の際、墜落現場の位置特定が二転三転した問題で、米軍との情報共有について「防衛庁と米軍でやりとりがあったのだろう」という中曽根康弘総理の回顧録の記述を、青山氏は防衛組織図の指揮系統を根拠に「防衛庁と米軍が総理を飛び越えてやりとりした」として、「防衛庁長官と幕僚長の首が飛ぶ事態」と批判しています。緊急時の日米の情報共有は普通のことと思いますが、どうでしょうか?
薗田 特に空軍の組織は上意下達よりも、機能が違う多くの組織を繋げて使うので、統制・調整系統が大事なんです。横田(米軍基地)には昔から航空総隊の連絡幹部がいて、それは横の系統なんです。青山さんは多分、その横の系統というのを全く理解していないんですよ。
通常の飛行運用をやる中で、事故マターは当然やっています。当時いたかは分かりませんが、横田空域の調整をやるために英語に堪能な航空管制官が横田に派遣されていました。いわゆる横田空域は米軍の占有みたいな事を言う人もいますが、何のために日本人がそこに行くかというと、調整という名で日本の主張を通すためです。
「民航機をターゲットになんかやらないですよ」
――災害時にはそれが横の繋がりとして機能するわけですよね。
薗田 そうです。そして、当時の技術を考えれば事故現場の特定は二転三転して当たり前で、レーダーで追っててもロストしてからどのくらい飛行機が動いたとか、バラバラになっている可能性もあるわけです。実際、残骸が広範囲に散らばってましたしね。自分がどこを飛んでいるのかも数マイルの誤差込みじゃないと分からない時代なんですよ。
――航空支援集団にいたこともあるそうですが、試験開発の支援のご経験はありますか? 青山氏はミサイル試験で日航機を標的に見立てたと推測していますがどう思われますか?
薗田 試験に関わったこともありますけど、民航機をターゲットになんかやらないですよ。なんでかというと、試験で撃つとしてターゲットはどういう動きで最大の成果が得られるとか、どういうターゲットに対する効果が欲しいのかを考えると、民航機をターゲットにする意図が分かりませんね。なんでそんな発想になるの? って。目的を達成するために、必要な要素がないんですよね。方面隊幕僚として色んな戦闘演習も見てきましたけど、見たことないですね。
――青山氏は自衛隊か米軍が火炎放射器で証拠隠滅した可能性を主張しています。仮にこういう秘密作戦を行ったとして、漏洩を防ぐのは可能でしょうか?
薗田 さっき言ったみたいに墜落地特定すら怪しい中で、どうやって探して降りて証拠隠滅するのとか、どうやって到着するのとか。そうなると、疑われるのはいちばん最初に入った陸自になると思うんだけど、武器払い出し手続きや点検とかどうするのか。
百歩譲って員数外の装備を持っている部隊がいるとして、でもその部隊の存在を隠し通せるんですかと。かつて、陸幕2部別班という組織がありましたけど、これが知られているのだって、国会答弁で名前が出たからですよ。
愚痴めいた話になるんですが、自衛隊って自分たちの記録を残すのが本当に苦手なんですよね。部内誌とかに書かれても後世の人間がそれを集めるのは大変なんです。
今、Webにある情報で一番少ないのが80年代だと思うんですよ。それ以前のものは歴史になっているし、90年代の後半からWebが普及し始めて、そこから先はデジタルアーカイブになっている。要は80年代、90年代は歴史になってない。でも80年代はWebがない。ヒストリカルなデータをデジタル化するのは、80年代が後回しになってしまう。
僕は123便の陰謀論が流布されるのはそれが背景にあると思ってて、デジタルアーカイブにアクセスしにくい時期だったのも大きいんじゃないかと。これは半分自衛隊に対する批判だけど、その時の運用記録を残せないんですよね。お役所だから大量に文書はあるけど、保管できない、保管する規則がなかったんで、どんどん廃棄されるんです。
「自衛隊や防衛庁が活動を詳細に総括したものを残していたらここまで陰謀論が跋扈することはなかった」
国民の自衛隊、のはずなんですよね。故に納税者に対して、いいことも悪いことも記録を残さなければいけないと思うんです。何もなかったことも残さないといけない。それは自衛官となった国民の姿が残されているからです。
中東に派遣されていた時、基地内の移動で乗った車に、米軍のヒストリアン・セルに大学から派遣されているおじいさんが乗っていました。ヒストリアン・セルは総務担当の士官と大学から予備役が来てて、司令部の活動を秘密も含めて毎日記録しているんです。そのおじいさんは「司令部の秘密も含めてすべて記録に残すし、それはいつ公開されるか分からないけど大事な仕組みだ。これがないと次の戦争に勝てないからだ」と言っていました。
123便に限らないですけど、自衛隊や防衛庁が活動を詳細に総括したものを残していたらここまで陰謀論が跋扈することはなかったと思いますよ。活動を総括するのは日本人は苦手だと思うんですけど、それをしないと禍根を後世に残すことになるのではないでしょうか。
(石動 竜仁)