平成史のカセットテープを、「逆向きに再生」するような形で、高市早苗氏が初の女性首相に就いた。
高市氏の初当選は、自民党を下野させたことで歴史に残る1993年の衆院選。当時は無所属で、リベラルを名乗っていた。同じ選挙でのデビュー組には、後に平成の政治を動かす人が多く、首相も安倍晋三・野田佳彦(初当選時は日本新党)・岸田文雄に続く4人目になる。
実はこの総選挙、宮澤喜一首相の自民党は必ずしも「負けて」おらず、公示前からむしろ1議席増やしてさえいた。それでも政権を失うことになったのは、新生党・新党さきがけの2つの新党が、選挙前に分離してしまったためだ。
後に総理大臣になる小泉純一郎は、結果を見てすぐ、日本新党を率いる細川護熙を「自民が首相に推す」形の連立を思いついた。細川がもとは自民党の参院議員だったためだが、このときは新生党の小沢一郎の手腕がまさり、細川は「非自民連立」の首班となる。
今回も、公明党が連立を離脱したことで自民党が窮地に立ち、一時は「立憲・国民・維新」(ないしさらに公明)での非自民政権の噂が立った。実現すれば選挙を挟まないだけで、まさしく1993年の再来だった。
しかし高市自民党はあっさり日本維新の会を取り込み、新たな連立での政権維持を決めた。その意味で令和の政治はこれから、「平成」とは逆の向きに走り出すことになる。
なぜ今回、細川政権のような形で「非自民」は手を組めなかったか。大義名分がなかったからだ。1993年には「政治改革」、つまり選挙制度の抜本改正が、どの勢力でも乗れる時代のムードになっていたが、それに相当するものがない。
当時、自民党にも「政治改革」の支持者は多く、下野した後に離党して非自民政権に駆け込む人が続出した。高市氏が後に夫となる山本拓氏らの離党組と組んで、自由党(柿澤自由党)を作ったのは1994年4月だ。
だがせっかく参画した羽田孜内閣は2カ月の短命で、自民党が想定外の形で政権を取り戻し(自社さ連立)、彼らは野党になってしまう。別のルートで自民党を離れ、「改革の会」として羽田政権に加わっていた石破茂氏も、同じ運命を味わった。
柿澤自由党で高市氏と同僚だった議員に、新井将敬がいる。もとは自民党きっての「若手改革派」として知られ、TVの政治番組の常連として視聴者の人気を得ていた。やがて石破・高市の両氏も、総理の座を狙って占めることになるポジションを、先取りした人だった。
奇しくも総裁選と同じ今月4日に、その新井の軌跡をTBSが記事にしている(「平成事件史の舞台裏(28)」)。新井は自民党復党後の1998年2月、金銭問題での逮捕を前に自殺した。当時の政界としては小さな汚職だったが、しかし「クリーンな改革派」のキャラで売ってきた自分には、致命傷になると思いつめてのことかもしれなかった。
TBSの記事は、生前の新井との思い出をふり返る、石破前首相のブログ(2010年4月)を引用している。
新井・石破・高市の3人は、小沢一郎が結成した新進党(1994~97年)で自民党打倒をめざすも、小沢氏と対立しむしろ自民党に戻った点で共通する。自社さ連立と対峙した新進党は、社会党と組み出した自民党よりも「タカ派」な姿勢を看板にしていた。ちょうどいまの日本保守党みたいなノリだ。
世襲でもなく、アメリカ帰りの若くモダンな女性として政界入りした高市氏が、「超保守派の女傑」として名を上げだすのは、まさにこの新進党時代。戦後50年だった1995年3月16日の衆院外務委員会では、駐米大使が戦争の反省を語り継ぐ必要を説いた穏当な会見まで槍玉にあげ、国会での不戦決議に反対した。
自民党に移った当初は、変節への批判も多く、2003年の衆院選に落選する。ところが2005年の郵政解散では、かつてと別の選挙区から「刺客」に立って脚光を浴び、返り咲く。
当時の小泉純一郎首相は「毎年」の靖国神社参拝(日にちは年により異なる)で、世論を二分していたが、続く安倍晋三内閣(第1次)で初入閣すると、2007年の終戦記念日には安倍氏らが自重したにもかかわらず、閣僚で唯一参拝。
この頃から熱烈なファンがつき、「右」の看板を下ろそうにも、にわかに下ろせない政治家になる。自民党の中でも、石破氏に「安倍にモノ申す政治家」のキャラが立ち始めるのと、同じ時期だった。
官邸を去る前首相の石破氏の心に刻まれた、平成前半の盟友・新井将敬の「遺言」。いまいっそう強く、同じものを思い出すのは、新たに宰相となる高市氏かもしれない。
長く続いた第2次以降の「安倍時代」(2012~20年)の下で、党内野党として奮闘する石破氏をマスコミは持ち上げた。しかしその分、24年に首相になってからのハンデは大きい。
かつての安倍ファンには裏切り者と謗られ、一方で「結局は古い自民党だ」と見切ったリベラル層も去り、孤立無援で執政した1年間だった。
公明党から連立離脱を告げられた際、高市氏は思わず、「総裁が私でなかったら」違うのかと問いかけたという(10月10日付、毎日新聞)。右翼で超タカ派、昭和の戦争も反省しない。そんな自分のキャラがネックになったかと、気にせずにはいられなかったのだ。
公明側は「誰が選ばれていても同じだ」と否定したが、文字どおりに取る国民は少ない。だが同党代表の斉藤鉄夫氏は、実は高市氏と同じ「1993年デビュー組」。
決裂をいじるワイドショーでも、斉藤氏はむしろ往時を懐かしみ、配慮を見せた。
「私、高市さんとは実は三十数年前、あの方は元々新進党にいらっしゃって、私も新進党」とかつては同じ党に所属していたことを紹介。そして「もちろん携帯番号の交換をして時々お話しをしております。個人的には大変尊敬している方です。信念のある方です」と明かした。
さらに「私と信条が違うところはもちろんあります。それは政党も違うし政治が違う。ですから当然のこととして、そういうことを率直に話し合える仲」と加えた。(10月12日付「スポーツ報知」)
劇的な非自民連立で始まり、TVを追いかけてSNSやYouTubeも政治の主役になった平成は、「メディアで見せる顔」が文字どおりアドバルーンのように、広告用の虚像となって膨らむ時代だった。それは世論どころか、やがて本人さえも、振りまわし始める。
総裁選で高市氏を推し上げた、誰よりも「安倍晋三を継ぐ女」のイメージは、たしかに岩盤の支持層を連れてくる。だが、同じものがアンチも生み出すし、なにより今後のハードルを上げる。
いまは「これがウケる」といったステレオタイプに合わせて、あるときメディアに持ち上げられると、時代が動いてもその仮面を剥がせない。10月17日、新進党時代に彼女が激しく攻撃した、村山富市元首相(社民党)の逝去を受けての高市氏のコメントには、そんな素顔も少しにじむ。
市場での公正な競争をうたい、利権化した「古い自民党」を批判して伸びた維新の原点は、往年の新進党にも近い。裏金疑惑の追及をおざなりにして、自民との連立にひた走る姿に「変わった」と失望の声があるのと同様、高市氏もあの頃から大きく変わっている。
政治家の裁量が大きい積極財政で、政府がどんどん産業を丸抱えして育てるのが「強い国家」だ――。アベノミクスをより財政依存にして受け継いだ、令和の高市氏が醸すオーラは、平成初頭に彼女が憧れた「小さな政府」のサッチャー英首相とは、正反対の場所まで来てしまった。
誰しも覚えのあることだが、一度「このキャラで行く」とベットした(賭けた)イメージを、自力で動かすのはかなり難しい。他人の目線が怖くてイメチェンできないか、場の空気に釣られるグダグダなキャラ変になるかで、終わりがちだ。
だから多くの人は、進学や転職といった「周りにいる人が入れ替わる」タイミングまで、新たなキャラでの再デビューを待つ。唯一そういかないのが政治家で、新党づくりや政界再編でリセットを繰り返しても、有権者に刻まれたイメージはついて回る。
むしろ互いの違いを前提に、率直にたしなめあえる相手がいるときにこそ、「友人に言われまして」として適切にキャラを動かせる。そうした一目置きあう関係がどれほどあるかが、政党や連立も含めて、地に足のついた組織の強さを決める。
メディアがポピュリズムを煽り立て、ぶれの大きい漂流の時代になったとされる平成。ちょうどその「逆再生」のように発足する高市政権を、虚像が暴走しないよう現実につなぎとめる同僚は、はたして彼女の周りにいまいるのだろうか。
見送りの歓声のなか、霧のような不安に包まれて、女船長の下で出航する令和政治の船出である。
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(評論家 與那覇 潤)