その一戸建て住宅は、隣接するマンションの敷地から4~5メートル高い位置に建っていた。住宅の土台に当たる段差の部分は、コンクリートで造られた「擁壁」で補強されていた。   擁壁ができたのは今から57年前の1968年。住宅のある東京都杉並区が異変を察知したのは、1984年、今から41年前のことだ。擁壁に亀裂が入っていた。   杉並区は、所有者に対して文書や対面でたびたび修復を指導していた。ただ、モルタル補修が数回行われただけで、抜本的な対策は取られなかった。亀裂はさらに広がり、いつしかこの擁壁は周辺住民から「危険な場所」と認識されるようになっていた。   今年の9月30日午後7時15分ごろ、警視庁に110番が入った。通報者はこう伝えた。「一戸建てが崩れてくる」(共同通信=鈴木拓野)
▽平日夜の崩落、一戸建てがばらばらに
擁壁が崩落した杉並区の現場。写真右上にあった一戸建て住宅が崩れ、歩道を挟んで左側にあるマンション敷地になだれ込んだ
問題の住宅が建っていたのは、東京メトロ丸ノ内線の方南町駅から西に約300メートル。閑静な住宅街だ。
木造二階建て住宅の下にあった擁壁が崩壊した。住宅はそのままマンション側に倒れ、ばらばらに壊れた住宅の骨組みや壁、家財がマンションの敷地になだれ込んだ。擁壁に内側から圧力がかかり、耐えきれなかったとみられている。   この住宅で暮らしていた男性は家が倒壊しそうな音を聞いて危険を感じ、直前に避難していて無事だった。
マンションの8階に住む女性(83)は当時の状況をこう振り返る。「ものすごく大きな音がした。すぐに消防車がいっぱい来て、何事かと思った」   女性は以前から、擁壁の大きな亀裂に不安を感じていた。「住民同士で『危ないから近づかないようにしよう』と話していた。マンションの自治会でも議論になっていたようだ」と打ち明ける。   幸いにして、マンションや擁壁下の歩道で崩落に巻き込まれた人はいなかった。
▽対応間に合わず崩落
擁壁が崩落した杉並区の現場=10月3日
住民が不安を感じる擁壁。行政や所有者はどう対応していたのか。   杉並区は毎年の現地調査や指導を続けてきた。昨年10月の現地調査で、亀裂が広がっていることが分かった。区が所有者に代わって対応する「行政代執行」は実行されなかった。居住中の家屋で影響が大きいことなどが理由だという。   今年9月24日、所有者から区に「補強工事を行う」と連絡があった。ただ、工事は間に合わず、崩落は起きてしまった。
なぜもっと早く工事ができなかったのか。理由の一つが、擁壁周辺の道路の状況だ。道幅が狭く、作業が難しかったとみられている。さらに所有者は「業者がなかなか見つからなかった」と区に説明した。
▽擁壁崩落事故、過去にも
2021年に住宅が崩落した大阪市西成区の現場
日本は平らな土地が少ない。傾斜のある土地に住宅などを建築する際、擁壁の造築は欠かせない。   ただ、擁壁の倒壊は珍しくない。2021年6月には大阪市西成区の住宅地でも起きている。近年は異常気象で集中豪雨が増えており、水分を多く含んだ土の圧力が擁壁にかかり、ダメージが蓄積している恐れがある。
▽老朽化への対応、専門家の見方は
自分の家や近所にある擁壁は大丈夫なのか。建築構造が専門で数々の特許を持ち、公的機関や企業の技術顧問を務めてきた東京理科大の高橋治教授に話を聞いた。   高橋教授はこう切り出した。「老朽化した擁壁は全国で100万以上あるのではないか。全国的な課題と言える」   老朽化とは、どういうことか。「一般的に擁壁のコンクリートは寿命が30年。高度経済成長期の土地開発で造られたものを中心に、寿命を迎えている擁壁が全国にある」   その上で、特に注意が必要な擁壁を次のように指摘する。「海岸沿いや酸性雨が降りやすい工業地帯の近くではコンクリートの劣化が早い」
▽膨らみ、亀裂に注意
家に異変があれば、住んでいる人が一番早く気付くはず。高橋教授は擁壁を人間の体に例える。「日々、建物の状態を気にかけてほしい。自分の体に無頓着だと、病気が進行してしまうのと同じだ」   亀裂のほか、擁壁が膨らんでいたり、水が漏れていたりしたら、倒壊の予兆の可能性がある。定期的に目視で確認し、数年に1回は1級建築士などの専門家に点検を依頼することが重要だという。   高橋教授は「事故が起こると、命に関わったり、周りに迷惑をかけたりすることになる。少しでも気になることがあったら、自治体の窓口に相談してほしい」と呼びかけた。
▽重い費用負担、自治体は補助金
被害を防ぐためには補修が必要だが、費用は決して安くない。亀裂が幅0・4ミリほどなら、補修は擁壁1平方メートル当たり3万~5万円程度が相場。亀裂が大きいと料金は跳ね上がり、数百万円以上になるケースもある。   資材価格の高騰や人手不足の影響を受け、ここ数年で建設関連の工事費用は値上がりの傾向にある。所有者の負担を少しでも減らすため、自治体によっては費用を助成している。   例えば東京都港区では、費用の3分の2を上限に、土砂災害警戒区域内なら5千万円、区域外は1200万円まで助成するほか、アドバイザーを無料で派遣している。   耐震改修に絡む場合は、国が自治体の補助金を一部肩代わりする仕組みもある。
