自民党と日本維新の会による連立政権が10月に発足した。公明党が自民との連立解消を決めたことを受け、自民は新たに維新と連立を組んだ。主張の異なる政党同士が国会で連携する「連立政権」はなぜ必要なのか。
政権運営に「半身」の日本維新の会
連立政権は、複数の政党が連合して政権を運営することだ。日本では衆参両院のどちらかで与党が過半数を失った際に採用されることがほとんどだ。与党が少数の場合、予算案や法案ごとに野党の協力を取り付ける必要があり、政権運営は不安定になる。そうした状況を打開するため、連立を組んで多数を形成する目的がある。
自民と維新は10月20日、政治改革や外交・安全保障といった12分野の政策に関する連立政権合意書を交わして、連立を決めた。維新は閣僚や副大臣、政務官を出さない「閣外協力」にとどめた上で、政府と両党の調整役として、遠藤敬国会対策委員長を首相補佐官に就けている。
中央大の中北浩爾教授(政治学)によれば、学説的には連立政権は「閣内協力」のことを指す。憲法上、内閣は国会に連帯して責任を負うためで、閣僚を出さないことは政権の責任を共有していないと考えられるためだ。中北氏は「維新は政権運営に半身で、普通は連立と呼ばない」と指摘する。
一方、自民、維新両党は合意書で「連立政権を樹立する」と明記しており、連立の形態の一つと位置づけている。実質的には閣外協力だが、政権が不安定な印象を与えるのを避ける狙いがあるとみられる。
転換点、93年の「細川政権」誕生
戦後、日本では1955年の保守合同で自民党が生まれ、社会党と対峙(たいじ)する「55年体制」が確立されると、自民の単独政権が長く続いた。
その転換点となったのは、非自民・非共産勢力の8党派が結集し、日本新党代表の細川護煕氏を首相とする「細川連立政権」が誕生した93年だ。自民は政権奪還のため、94年に社会党と新党さきがけの「自社さ」の連立を組み、社会党の村山富市首相を選出し、与党に復帰した。
次に発足した橋本竜太郎内閣では、社民党(社会党から党名変更)、新党さきがけが閣外協力に転じ、自民は98年参院選で大敗。参院で過半数割れしたため、小渕恵三内閣は99年1月に自由党、10月には両党に公明党を加えた「自自公」の枠組みで政権維持を図った。
2003年からは自公政権となり、自公の連携は野党時代の3年3か月を含め、今年10月まで続いた。09年衆院選で圧勝した民主党も参院では過半数を持たず、社民、国民新両党と連立を組んで政権交代を実現した。
近年、連立が常態化しているのは、自民が衆参両院で単独過半数を得られなくなったことが背景にある。多党化も進んだことで、今後も連立なしで政権を樹立することは難しそうだ。
短命の歴史
93年の細川連立政権、94~96年の自社さ、2009~12年の民主党政権はいずれも短期間で瓦解した。基本政策の違いに加え、二院制の日本では3年ごとの参院選、衆院選と選挙が頻繁に行われることも影響している。
一方、選挙協力が成功した自公政権は長続きした。小選挙区比例代表並立制を導入する衆院選では、自民が小選挙区に候補者を擁立し、公明が支援。自民候補は「比例は公明」と呼びかけることで、互いに票を融通する共闘関係を築いた。
自維政権は候補者調整は行わない方針で、与党同士で議席を争う小選挙区もありそうだ。維新が重視する議員定数削減や副首都構想が停滞すれば、両党関係にきしみが生じ、連立解消につながる可能性もある。