違反者は無期限で収容できる。人道的配慮から「仮放免」となっても、働いて生活費を稼ぐことは禁じられ、県外への移動にはその都度、許可が必要となる。定期的な出頭も義務づけられ、その場で突如、再収容される可能性もある――。遠い外国の話ではない。現代の日本で、不法滞在の外国人に対して行われている対応だ。30年以上日本に暮らすパキスタン人、モハメド・サディクさん(55)も、そんな扱いを受けてきた仮放免者の一人。8月中旬、国に対し在留特別許可を求める訴えを東京地裁に起こした。彼の人生をたどると、不条理にさえ思える日本の外国人政策が浮かんできた。【東京社会部・金子淳】
入管から届いた強制送還の通知
「残りの人生、妻と一緒に日本で幸せに暮らしたい」。8月19日、東京都内で行った提訴後の記者会見。サディクさんがささやかな願いを口にすると、壇上に並んで座っていた中国人の妻、劉蘊傑さん(59)が嗚咽(おえつ)した。白いハンカチを握りしめる劉さんの右腕は、左腕の倍ぐらい太い。5年前に患ったがんの治療による後遺症で、右腕だけむくんでいるのだ。
サディクさんが帰国を拒む最大の理由は、闘病を続ける劉さんの存在だ。抗がん剤治療は終わったが、再発のリスクを抱えるうえ、後遺症や合併症の治療が続く。今もめまいや発熱が絶えず、主治医からは「何かあれば夜中でもすぐに救急車を呼ぶように」と言われている。そんな中、7月に出入国在留管理庁から「サディクさんを8月第5週ごろに強制送還する」との通知が届いた。
永住権を持つ劉さんは、サディクさんが送還されても、日本で1人暮らしをするしかない。中国やパキスタンで治療を続けるのは難しいからだ。「病気の妻を1人残して帰れない。何かあったら命が危ない」。裁判になれば、強制送還はひとまず中止される可能性が高い。サディクさんが提訴に踏み切ったのは、そんな理由からだった。
1988年、弾圧を逃れ日本へ
サディクさんはパキスタン南部カラチ出身。7人きょうだいの上から5番目で、父は市場で野菜の卸売り、母はアクセサリー作りの内職をして暮らしていた。来日のきっかけは、地元の大学に在学中、野党が組織する反政府デモに参加したことだ。軍の弾圧が強まり、拘束される仲間が相次いだ。「外国へ逃げた方がいい」。家族や友人に勧められ、1988年11月、ビザが免除されていた日本へ飛んだ。
在日パキスタン人の友人を頼り、紹介をたどって塗装会社や建設会社などで働いた。バブル期で人手不足だった日本。仕事はいくらでもあった。出稼ぎ目的の外国人は珍しくなく、「不法就労は当たり前だった」。警察に職務質問を受けたこともあるが、特に問題にはならなかったという。
結婚準備中に摘発
サディクさんは当初、2~3年で帰国するつもりだった。ところが、母国の情勢は悪化し、多数の野党支持者が軍により殺害された。帰国できないまま、日本での暮らしが続いた。
不法残留の容疑で摘発されたのは来日から19年後、2007年7月のことだ。交際相手だった劉さんとの結婚準備を進めている最中だった。摘発後の07年9月、2人は婚姻届を提出し夫婦となる。サディクさんはこのとき、在留特別許可を求めたが、入管から「理由がない」として却下され、国外退去を命じる「退去強制令書」が発付された。
働けないまま過ぎた10年
日本の入管は「全件収容主義」を取る。国外退去を命じられた外国人は原則として帰国するまで収容するとの立場だ。ただ、本人が帰国を拒んだり、母国が受け入れを拒否したりするケースもあるのが現実だ。こうした場合、法的には無期限で収容できるが、個々の事情に応じて仮放免する制度がある。
サディクさんは摘発から約1年半後の09年1月、仮放免となり、神奈川県内で劉さんと同居を始めた。就労を禁じられたサディクさんに代わり、劉さんはスーパーなどで働きながら生活を支えてきた。5年前にがんが見つかってからも状況は変わらなかった。
住居は、以前勤務していた建設会社の社長が無償で貸してくれている。だが、収入は劉さんだけが頼りで、生活は厳しい。サディクさんは日中、食事の足しにするために庭先でトマトなどの野菜を育てている。「奥さんは病気でも夫婦の生活のために働いている。本当は私が奥さんを守らないといけないのに」。もどかしい思いから、おかしくなりそうになることもあるという。
再収容、そして流産も
仮放免者は定期的に入管に出頭し、仮放免の延長を申請しなければならない。このとき、延長が認められなければ、その場で再収容されることもある。入管にとっては本来、収容が前提であり、仮放免はあくまでも例外的な措置にすぎないからだ。
サディクさんも一度、10年4月に再収容されている。当時、劉さんはサディクさんの子を身ごもっていた。約2週間後、面会に来た劉さんが泣き出した。「流産したんだよ」。付き添いの女性からそう告げられた。ショックで何も食べられなくなった。再び仮放免となったのは、翌5月のことだった。
「ビザがないのは確かに悪かった。それでも(摘発までの)約20年間、まじめに働いていただけだよ。他に悪いことはしていないのに、どうしてこんなことになるのか」。サディクさんは取材中、こう語り頭を抱えた。
バブル期の人手不足埋めた外国人
サディクさんの人生は、日本の外国人受け入れ政策に翻弄(ほんろう)されてきたように思える。
日本は長らく、研究職などの専門職を除き、外国人労働者の受け入れを行わない立場を貫いてきた。だが、実際にはこうした建前とは異なり、水面下で外国人が低賃金労働を担ってきた現実がある。
バブル期、人手不足に陥った日本には多くの外国人が出稼ぎに訪れ、建設現場や工場などで不法就労していた。サディクさんが入国したのもこのころだ。法務省の統計によると、不法残留者はピーク時の93年時点で約30万人に上る。取り締まりは現在ほど厳しくなかったと言われ、当時を知る外国人や識者らは「不法滞在は半ば容認されていた」と口をそろえる。
だが、バブル崩壊に前後して外国人の急増による治安悪化への懸念が生まれ、外国人受け入れに関わる制度の整備が進んだ。90年の入管法改正で日系人が無制限で働けるようになり、93年には技能実習制度がスタート。これまで不法滞在者が担ってきた労働現場は、これらの制度で新たに受け入れた外国人たちが埋めていくことになる。サディクさんが摘発された07年時点で、不法残留者数は約17万人に減少していた。
一方で、バブル期に入国し、日本で長く働くうち母国とのつながりが途絶えたり、日本で家族を持ち、帰れなくなったりする外国人も少なくなかった。25歳で来日したサディクさんもそんな一人だ。すでに人生の半分以上を日本で過ごした。「家族を残して帰れるわけがない。こんなことなら、30年前に捕まえてくれればよかった」
「合法化」への道
入管によると、今年1月時点で入管施設に収容されているのは1246人。不法残留者は約7万4000人で、仮放免者は2501人に上る。こうした人たちをどうすべきなのか。
専門家によると、諸外国の中には、不法滞在者に対して一律に在留を認める「アムネスティ(恩赦)」を行う国も多い。だが、アムネスティを行わない日本は不法滞在者に対して、帰国させるか、個別に在留を認めて滞在を「合法化」するしかない。
在留を合法化する主な方法は二つある。難民認定と在留特別許可だ。このうち、難民認定は極めて難しい「狭き門」。昨年1年間の申請者が約1万人だったのに対し、難民認定を受けたのは42人だ。人道的配慮により在留が認められた人を加えても、在留が合法化されたのは82人にとどまった。
一方、在留特別許可は家族の事情などを総合的に勘案し、法相の裁量で与えることができる。国のガイドラインでは、日本人や永住者の外国人と結婚していることや、本人や親族が難病などのため日本での治療や看護を必要としていることなどを積極的に考慮するとされ、17年は1255人に許可された。
問題は、入管側の裁量が大きいことだ。サディクさんは妻が永住者の中国人で、日本での治療を必要としており、ガイドラインに合致している。それにもかかわらず、これまで6回にわたって求めてきた在留特別許可の「再審」が認められていない。サディクさんの代理人で入管行政に詳しい指宿昭一弁護士は「同じような事情で許可をもらっている人もいるのに、なぜサディクさんに許可が出ないのか疑問だ」と話す。
元入管職員も疑問視 厳格化にかじ
「不法滞在者に在留特別許可を出すかどうかは、入管に大きな裁量がある。基準らしきものは、現職のときは見えなかった」。こう語るのは、今年3月まで入管職員だった木下洋一さん(54)だ。
木下さんは06年から3年間、不法滞在者の違反審判を担当した。折しも入管の「不法滞在者5年半減計画」(04~08年)の最中だった。この計画の下、取り締まりの強化と同時に行われたのが、積極的な在留特別許可の付与だったという。木下さんは「一種のアムネスティだった」と表現する。その結果、不法滞在者は5年間で22万人から11万人余りに減った。
木下さんはいったん担当を離れ、16年に同じ部署に戻った。ところが、かつて許可が出ていたようなケースでも不許可になることが相次いだ。「半減計画」が達成され、入管が厳格化にかじを切ったように感じたという。
法務省の統計によると、「半減計画」の最中だった06~08年は、退去強制に異議を申し立てた外国人の約8割が在留を許可されたが、16年は約6割、17年は5割弱に落ち込んでいる。「行政の公平性はどこにあるのか」。木下さんが入管を辞めたのは、そんな疑問が膨らんだからだった。
長く日本に暮らし、母国に帰れなくなった外国人。それでも帰そうとする入管。そして、サディクさんのような仮放免者は長年、制限された不自由な暮らしを続けてきた。木下さんは法整備の不備を指摘する。「入管法は現代のグローバル社会を想定せず、パッチワークのように改正を繰り返してきた。だが、現行制度では出口が見えなくなっている」
弁護士「在留特別許可を認めるべきだ」
政府は4月、新たな在留資格「特定技能」を創設し、外国人労働者の受け入れ制度を整える一方で、不法滞在者の退去を加速させているとみられる。だが、サディクさんの代理人を務める指宿弁護士は「不法滞在者はかつては労働者の供給源の一つだったため、政府があえて放置していた部分もあるはずだ。日本で働くうちに、そのまま定着した外国人も多い」と話し、政府の対応を批判する。
不法残留者は15年以降、増加に転じた。技能実習生や留学生の失踪も問題となっている。結婚や出産、病気、母国の紛争、渡航時の借金返済など、外国人が帰れなくなる事情はさまざまだ。特定技能での受け入れも進む中、今後も帰国できない事情を抱える外国人が増える可能性がある。指宿弁護士は言う。「政策の誤りで(技能実習生など)失踪せざるを得ない人たちもいる。人道的な配慮を必要とする人たちは、ガイドラインに沿って在留特別許可を認めるべきだ」
<かねこ・じゅん 1980年生まれ。2006年入社。北海道報道部、外信部、ニューデリー支局を経て18年4月から東京社会部。現在は遊軍として憲法や在日外国人を巡る問題などを取材している>