旧日本海軍が編成した「神風特別攻撃隊」初の攻撃から75年となった25日、敵艦への体当たり攻撃などで命を落とした愛媛県内出身の将兵ら約90人の追悼式典が25日、同県西条市大町の楢本神社であった。遺族や自衛隊関係者ら約250人が黙とうをささげ、平和への思いを新たにした。
同神社にある神風特攻記念館の資料などによると、初の攻撃となった「敷島隊」は、隊長で西条市出身の関行男大尉(当時23歳)=没後、中佐に▽愛媛県川滝村(現、四国中央市)出身の大黒繁男上等飛行兵曹(同19歳)=没後、少尉に=ら19~23歳の5人・5機で編成され、1944(昭和19)年10月25日、フィリピン・レイテ湾で護衛空母などに体当たり攻撃し、沈没させた。
記念館では写真や遺品などに加え、「お父さんお母さんの子として、立派に死んでいきます」という「最後の書簡」、遺書の内容なども紹介している。境内には1975年に関隊長の慰霊碑が建てられ、同年から命日に追悼式を開いている。
式では、海上自衛隊第24航空隊による慰霊の弔銃発射や、地元の女性らによる大正琴の演奏などが行われた。兄が戦死した曽我部勲さん(89)=西条市中野=が遺族を代表し、「年々歳々、厳粛に追悼式が執り行われていることに喜びを感じ、心の安らぎを受ける」と謝辞を述べ、取材に「戦争は一つも利益がない。してはいけない」と語った。
生還を期さない「十死零生」の特攻は建前は志願制だが、断るのは難しかったとされる。陸軍もすぐに加わり、航空機のほか人間魚雷、ボートなどの水中、水上特攻などで終戦までに多くの若者が戦死した。【花澤葵】