安倍政権「内調ブーム」に騙されるな――「内調」の虚像と実像 #1

内閣情報調査室、いわゆる内調が、最近の出版、映画等のメディア業界の“内調ブーム”も手伝ってか、国民の間に、その虚像が独り歩きを始めている。
特に、今年前半の話題映画『新聞記者』が内調を舞台に、政府内部の裏側を“告発”したことで、エンターテイメント化されたフィクションがあたかも事実として、誤ったメッセージが広く流布したことがその一因であるように思われる。
それでなくとも、内調は時には「機密」のベールに覆われた「日本版CIA」と耳目を集めることもあったが、その“正体”となると、一般にはスパイが暗躍する小説の世界を思い浮かべるのが精一杯かもしれない
しかし、「安倍一強」時代になってから、「官邸官僚」と共に、政治スキャンダルに折あるごとに、顔を出すのが内調である。
“スキャンダル捜し”に動員される内調
一昨年の、安倍内閣を直撃した加計問題を巡って、「行政が歪められた」と公然と安倍首相官邸を批判した文科省の前川喜平元事務次官のスキャンダル捜しに動員されたり、また安倍首相に近いTBS記者の強姦事件捜査に内調トップの内閣情報官まで顔を出すなど、TBS記者時代から長年インテリジェンスを取材してきた筆者には、驚きの連続であった。
筆者の知る、歴代内調トップは、宮澤喜一内閣時の金田雅喬内閣情報調査室長(1962年、警察庁採用)が「生きた情報」を、その金田の薫陶を受けた小泉純一郎内閣時の兼元俊徳内閣情報官(68年)は「ファクト(事実)」と、日本の安全保障に関わる「国家の情報」を極めてストイックに捉え、情報組織としての内調の運営も厳格であった。
これが一転、興信所まがいにまで堕落した最大の要因は、歪に権限が肥大化した内閣情報官というポストの在り様である。
歴史的経緯等の詳細は後述するとして、第二次安倍内閣での突出ぶりは、警察官僚が「政治との距離」を見失ったためである(拙稿「政治の道具と化す警察」『世界』2017年9月号)。
内閣情報官が「安倍・命」を広言
現在の内閣情報官は、北村滋氏(80年)である。筆者は面識がないが、予てから能吏として聞き及んでいた。が、第1次安倍内閣で首相秘書官になって以来、政権交代で民主党政権誕生後は、警察庁外事情報部長、総括審議官から、局長、次長、長官の各ポストを飛び越えて一気に情報官に抜擢された。徳島県警本部長時代から北村氏を高く評価していた、地元選出の仙谷由人官房長官の強い引きがあったと警察庁幹部から聞いた。筆者は、1980年代から90年代半ばまでの間、警察庁と警視庁を3度担当したが、北村氏との接点は1度もなかった。特に彼が警視庁を経験していれば、その後のキャリア人生は違っていたのではないかと推察している。案の定、自民党が政権奪還後も安倍内閣で続投し、官邸内で「安倍・命」を広言して憚らないと聞いた時には、何をか言わんや。「政治への中立」を完全に逸脱していると思った。しかし彼に忠告する先輩諸氏は誰もいなかったようだ。
「政治派」と「中立派」との暗闘の歴史
確かに、戦後の日本警察には、政治に与して警察権力の拡大を図ろうという「政治派」と、捜査の過程で入手した政治情報を政治利用すれば、結局は警察が政権の恣意的な支配下に搦めとられるだけではなく、国民の信頼まで損ねてしまうという「中立派」との暗闘の歴史があった。
警察への介入を当然視した吉田茂首相と真っ向から対立した当時の国家地方警察本部長官・齋藤昇(内務省27年入省、54年初代警察庁長官となる)は、後日回想録『随想十年』の中で、「私は今後の警察は政治情報を取って、内閣に提供すべきものであってはならないと考えていたし、純粋な意味の治安情報は担当大臣に報告すべきものだと考えていたので、私は国家公安委員長に報告するよりも、もっと詳細に敏速に担当大臣に報告することを怠らなかった」と語り、日本の戦後警察に政治との節度を守れという教訓を残した。皮肉にも吉田首相は後日内閣直属の「内調」創設へと動くことになる。
国際政治においては「情報戦争には同盟なし」
北村氏は、歴代トップの中でも、極めてキャラが立つ情報官故か、内閣支持率アップを後押ししてきた官邸主導の「安倍外交」が、ロシア、米国、中国と、その限界を次々と露呈させる中、昨年あろうことか情報官自らが、「禁じ手」である外交交渉に手を染めていたことが露見する。しかもその交渉相手が、拉致事件をはじめ、日本の公安・外事警察が対峙してきた対日工作員を送り込んできた朝鮮労働党幹部だったことは、内調の事実上の実働部隊として屋台骨を支えている彼らからすれば、明らかに背信行為であった。
北村氏からすれば、米韓が情報機関による秘密裡の折衝によって首脳会談実現に漕ぎつけたのに倣って、米中央情報局(CIA)が「カウンターパート(交渉相手)」だった外事情報部長時代の人脈を駆使したと見られているが、事前通告がなかったことに不快感を示した、その米国側に北村氏らの動きを情報リークされたことは皮肉以外の何ものでもない。国際政治では、「国益」主義の立場に立てば、「情報戦争には同盟なし」なのである。
目に余る“ある室長”の行動
内調草創期からその中核を担った志賀民郎氏は、最近の回顧録で、「例えば、ある室長は副長官に昇格しようとしてやった手口は相当なものであった。竹下登を初めてとして、あらゆる手ずるに声を掛け、副長官になろうとした。私は官僚というものは、政治家とは一歩離れて己を持するものであると思っていたから、このような室長の行動は目に余るものがあった。だが、彼は遂に副長官になるのである。そしてしかるべく評価を受け、出世の途を歩んだのである。私は、世の中とはこういうものだと感じたのである」(『内調調査室秘録』、文春新書)
と、かの“権力亡者”たちを唾棄し、戦後一貫して歴代保守内閣を裏側から支えながら、「学徒出陣」世代として、「戦争のない社会」を使命とする「国士型官僚」の矜持を見せている。
米ソ冷戦がもたらした奇妙な「平和の配当」
米国の占領下から独立国家の要諦として、安全保障の根幹をなす「国家の情報」を首相官邸(内閣官房)に一元化する、内調の前身となるインテリジェンス機関が、吉田茂内閣時に構想されたことは先に触れたが、この構想を巡っては、警察官僚に与する旧内務官僚と外務省の主導権争いが大きく影を落とし、呆気なく頓挫。しかもその後の米ソ対立という冷戦の恐怖が作り出した奇妙な「平和の配当」が、インテリジェンス機能(情報の収集・分析・活用)の漂流と「政策の立案・遂行」の為の委託研究へのシフトをもたらすことになった。
先の志賀氏の“ミッション”も、内調の学者人脈の構築から、1960年代の核政策研究をはじめとする、中国問題、沖縄、北方領土等々の多岐にわたる委託研究の充実にあったことが先著からよくわかる。
筆者もその延長線上で、小泉内閣時に、中曽根康弘内閣で内閣安全保障室長を務めた佐々淳行(54年、警察庁)、内政審議室長の的場順三(57年、旧大蔵省)両氏をリーダ格とする、安全保障を中心とするタスクフォースに参画した経験がある。メンバーは、官界から両氏のほかに旧通産、法務・検察、学界からは朝鮮問題が専門の私大教授、マスコミ界からは元NHK解説委員、元大手全国紙記者に、フリーランスの筆者。そして自衛隊制服組OBの多さに何よりも驚いた記憶がある。
月1回の定例会が開催され、筆者も「新脅威時代と情報組織の役割」をテーマにチューターを務めた。また内調全体の勉強会にも講師として参加。その際大手全国紙政治部の編集委員クラスらが講演しているのを散見したり、その内容を側聞したが、メディア懐柔策は勿論、広くは世論対策の意味合いもあるように見えた。
更にこれとは別に、内調からの要望で、内外の中期的な政治情勢の分析等から小泉訪朝と直近の課題まで、30本近いレポートをまとめた。
中でもイラク開戦後、自衛隊の海外派遣が緊喫の課題となり、派遣に反対する自衛官の妻たちが首相官邸に抗議デモに押し掛けるという情報に内調も緊張した。海外のことならいざ知らず、国内のことなら、公安警察に聞けば事足りると思っていたが、なぜか筆者にお鉢が回ってきた。ペロポネソス戦争が長引く中、戦争を止めさせようと、アクロポリスを占拠する女性たちを描いた、アリストパネスのギリシャ喜劇『女の平和』でもあるまいしと、笑い話にもならぬエピソードは数知れず。
デスクワーク中心の「行政マン」と変わらない
内調の現体制は、情報官をトップに、総務、国内、国際、経済の4セクションと、情報集約、衛星情報の2センターが配置され、メンバーはプロパー採用組をはじめ、警察庁、防衛省の出向組や、公安調査庁からの転籍組らが主力で、これに外務、財務、経産等の各省庁からの“寄り合い所帯”の感が強く、杉田和博内閣官房副長官(66年)は、情報官時代に、「CIAの1万6千人組織と、公安調査庁組も含めて2百人の内調組織の違いは歴然としています」(「選択」2001年1月号)と自嘲気味に語っており、人材面でも何らかのオペレーション(作戦)経験のある警察、公調組らは組織としての出番は全くなく、プロパー組に至っては、「情報マン」教育どころか、デスクワーク中心の他省庁の「行政マン」と何ら変わるところがない。
このため、日常業務も公開情報の「オシント」と言えば、新聞、雑誌等のコピー取りから、最近ではネットからのダウンロードまで、また「ヒューミント」となると、マスコミとの飲食が関の山かもしれない。そしてここから作られる「内調情報」を今のマスコミは“後生大事”にするが、元の情報発信源はマスコミ自身かもしれないのである。しかもこの“虚報”が、当局とマスコミの間でキャッチボールをしているうちに「情報」として認知され、結果的に「内調モンスター」という“虚像”化に一役買うことになる。
キャリア官僚の内調への出向組は、2年程度で親元官庁に戻るため、在籍中に一旗揚げようと、“情報”をねつ造して一大スキャンダルをでっち上げようという、不心得ものは一人や二人ではなかったように思う。それを必死で押しとどめようとするノンキャリアたちは、痛々しかった。
ヒトも組織も不十分な「内調」が存在できる理由
こうした内調の数少ない救いは、電波・通信の「シギント」である。現在この任務を担っているのは、防衛省情報本部だが、その前身である陸上幕僚監部調査部第2課別室(通称調別)は、実質的に内調の下部組織で、今もそのトップである電波部長は、警察官僚の指定席である。その威力は1983年のソ連空軍による大韓航空機撃墜事件で遺憾なく発揮されたが、戦後政治にあっては、自衛隊という軍事組織に、いわば情報組織が楔を打ち込んだ、「シビリアンコントロール」の意味合いがあることを忘れてはいけない。
そしてヒトも組織も不十分ながらも、内調が存在足りえているのは、やはり内調活動費も含まれている、内閣官房報償費(官房機密費)という、潤沢なカネがあるからであろう。委託研究は、その一例である。
(川邊 克朗)