徳島市教委は7日、県内最大規模の山城とされる県史跡「一宮城跡」(徳島市一宮町)の曲輪「明神丸(みょうじんまる)」で、建物の土台となる礎石を複数確認したと発表した。「阿波九城」の一つに数えられた蜂須賀時代に造営された建物の可能性が高い。眺望の良い「縁側」の前には、玉石を敷いて丸石も飛び石状に配した「庭」もあり、専門家は「近世初頭の山城でこうした建物が検出された事例はなく、極めて貴重な発見だ」と評価している。【松山文音】
国史跡指定を目指す市教委が、2017年度から5年計画で発掘や文献調査などを進めている。今回は、昨夏に礎石の存在が明らかになった本丸の東北東にある明神丸の約140平方メートルを調査した。
その結果、地表から約5~20センチの地点で、約80センチ四方の礎石17個が見つかった。城の北側を流れる鮎喰川などふもとから運び上げられたとみられる礎石は東西と南北に各4間(約8メートル)にわたって並び、32畳程度の建物跡とみられる。北側には、縁側と考えられる半間(約1メートル)の間隔でやや小ぶりの礎石も配置され、前からは角のとれた玉石が多数見つかった。さらに、丸石が飛び石のように配置されており、庭のようなわび的空間を持つ建物だったとみられる。
付近からは、土師器(はじき)皿や中国産陶磁器など16世紀から17世紀前半に作られた破片が出土しており、市教委は豊臣秀吉の四国平定後に徳島藩の蜂須賀家政(1558~1639年)が入城した1585年から一国一城令を受けて廃城(1615年)となった約30年間に造られた建物と推定しているが、周辺からは瓦片が全く見つかっておらず、本丸にあったと見られる建物同様、板ぶき屋根の建物だった可能性が高い。
滋賀県立大学の中井均教授(日本城郭史)は「本丸が主殿的な建物であるのに対し、今回検出された建物は北端で半間の礎石が検出されていることより、縁を持つ建物であったとみられ、明神丸よりの眺望を意識した会所的な建物であったと考えられる」と話す。
また、市教委担当者も「本丸だけでなく、明神丸でも人が滞在できる建築物のあったことが確認できた。一宮城の価値をさらに高めるものだ」と意義を強調している。
一宮城は1338年に小笠原長宗が築き、一宮氏や長宗我部氏らが居城とした。