道化師学校「クラウンカレッジ」30年のキセキ 11月17日、横浜でフェス

寄稿 サーカス学会会長・大島幹雄さん
平成が終わろうとしていた4月21日、横浜みなとみらい(MM21)の一画で、カラフルな衣装と派手なメークをしたクラウン(道化師)たちが道行く人々に愛嬌(あいきょう)を振りまきながら行進していた。通行人たちとのグリーティング(あいさつ)を終えたあと、特設ステージに上がった20人のクラウンたちは「Hey!」と声を出し、とびきりの笑顔で決めのポーズをとっていた。これは彼らが今から30年前、スマイルとエネルギーを込めて演じるように米国人講師から徹底的にたたきこまれたルーティンだった。ステージの片隅には「クラウンカレッジ30周年」の小さな看板があった。彼らは今はなきクラウンカレッジジャパン(CCJ)の卒業生だった。
バブル崩壊にくじけず、卒業生らが奮闘したキセキ
平成元(1989)年9月、CCJは米国の「リングリングブラザーズ・アンド・バーナム&ベイリーサーカス」付属のクラウン養成学校日本校として東京・品川に開校、自然食品会社ナチュラルグループと三菱商事、TSP太陽の合弁会社が運営した。
当時はバブル最盛期。各地に第三セクター方式のテーマパークが乱立し、市制100周年を迎えた都市では博覧会が華々しく開催されていた。CCJは日本列島がイベントに沸き立っていた時代にアメリカ仕込みのクラウンを育成し、イベントに派遣してもうけようというビジネス戦略のもとに誕生した。3カ月半で約60万円と決して安くない授業料を払って学んだ生徒たちの経歴はさまざまで、サラリーマンや劇団員のほかにもお寺の坊さん、宝塚出身者などもいて、マスコミをにぎわせた。

しかし、イベント時代の寵児(ちょうじ)となるべく、高い月謝を払ってクラウンのノウハウを身につけた若者たちを待っていたのは、バブルの終焉(しゅうえん)に伴うイベントの激減だった。その大波を受けてCCJは93年に解散する。このあと半分近くの卒業生は、エンターテインメントの世界から他の職業に転じたが、クラウンになる夢を捨てられなかった30人ほどは、大道芸や遊園地・デパートの小イベントに出演しながら、なんとかエンターテインメントの世界に踏みとどまった。
今も生きるCCJの精神
飛躍するチャンスを与えたのは大道芸だった。生きのび、自分たちの生きる道を切り開いた。会社が突然なくなり、自立を余儀なくされた時、活路を与えたのは大道芸だった。
CCJが解散する半年前の92年10月、大道芸ワールドカップ・イン静岡がスタートしている。それまでマイナーだった大道芸が日本中に広がってゆく。東京都がいちはやく大道芸免許制(ヘブンアーティスト)を採用し、都内のあちこちで大道芸を見られるようになったほか、全国各地で大道芸フェスティバルが開催されている。
大道芸の主役は当時、達者な日本語を使い、ジャグリングを演じた外国人パフォーマーだった。クラウンたちもCCJで習ったジャグリングや、風船でさまざまな動物をつくるバルーンなどを取り入れたコメディーを演じたが、彼らには太刀打ちできなかった。大道芸で生計を立てていた芸人たちには、日本のクラウンたちはすぐに潰れるだろうと思われていた。しかし彼らはしぶとく生きのび、今や大道芸になくてはならない存在にまで育った。それぞれが自分の流儀で技術を磨いていったこともあるが、なによりも彼らを支えていたのは、CCJの精神というべきものであった。

「All for you, it’s my pleasure」(すべてはあなたのため、それが私の喜びです)
この言葉をいつも胸に抱きながら、彼らは観客と向き合っていた。「心からのおもてなし、クラウンの笑い、愛、まごころが人々の心に灯をともし、新しい文化を育てる」というCCJ創立時に掲げられた理想を、彼らは決して忘れることはなかったのである。
お客さんを楽しませることがクラウンの使命だという思いが、観客に受け入れられていったのだ。人を楽しませること、そしてそれによって自分も楽しむという思いが、彼らの芸を育てていった。彼らは観客の心をつかむようになった。「CCJを出た芸人はお客さんへの対応がとても良い」。ある大道芸フェスティバルのプロデューサーがこう語ったように、CCJ出身者は、みんなが幸福な気持ちになってもらいたい、と笑顔を送り届けようとした。さまざまな経験を積みながら、自分にふさわしい芸風をつくりあげ、彼らは一人前のクラウンへと成長していったのである。
「真に崇高な芸術とは、人々を幸せにするものだ」
大道芸で生きる者、劇場クラウンを目指す者、ミュージシャンになった者、話芸に生きようとしている者、さらにはクラウンの心技を教える者、病院で心のケアに取り組むホスピタルクラウンの道を歩む者もいる。こうして「平成」の時代を生き抜いた出身者は、さらに前に進もうとしている。30年前、全く白紙の段階から始まったクラウンの道、それがCCJの卒業生によって開かれつつあると言ってよいのではないか。

11月17日にはMM21で「クラウンばっかりフェス2019」が催され、CCJ卒業生を中心に30人以上のクラウンが大集合する。CCJの足跡を見て、この道に入った者も数多く参加する。
「真に崇高な芸術とは、人々を幸せにするものだ」。これは日本でも大ヒットした映画「グレイテスト・ショーマン」の最後に流れたP・T・バーナムの言葉だ。人を幸福にするため、観客と笑いと楽しみを共有するため、CCJ出身のクラウンたちは今また、未来に向かって新たな一歩を踏み出そうとしている。
おおしま・みきおさん略歴
1953年、宮城県生まれ。早大露文科卒業後、サーカスのプロモーターとして長年活躍。さまざまな芸術分野の共通言語であるサーカスの魅力をさらに発信するため、今年6月に日本初の「サーカス学会」を設立した。毎月開催する「サーカス学ゼミ」は誰でも参加できる。主な著作に「サーカスと革命 道化師ラザレンコの生涯」「“サーカス学”誕生―曲芸・クラウン・動物芸の文化誌」「サーカスは私の<大学>だった」など。