※本稿は、建部博『一家心中があった春日部の4DKに家族全員で暮らす』(鉄人社)の一部を再編集したものです。
「お前、怖いもんは別にないって言ってたな」
そもそもは2008年末、鉄人社の入社試験のときから始まっていたようだ。その日、大学中退のヤツなんかが受かるはずないと半ばあきらめつつ面接に訪れたオレに、編集長・佐藤が聞いてきた。
「ところでどうでもいいんだけどさ、キミは何か怖いもんってある?」
何が聞きたいのかよくわからなかったオレは、「別にないっすね」と即答した。後で聞けば、そのとき最終候補として残っていた人間がもう1人いたらしい。慶応卒の彼は、経歴も人となりも申し分ない、まさにエリートと呼べる逸材だったが、先の質問には「わりと怖がりのほうです」と答えたそうだ。
採用されたのはオレのほうだった。むろん、どこをどう評価されたのか、その時点のオレは知らない。ようやく面接の意図がわかったのは、入社後の企画会議のときだ。
「お前、怖いもんは別にないって言ってたな」「はい」「んじゃ、ちょいと幽霊マンションに住んで、何が起きるか連載しろよ」
うなずかないわけにはいかなかった。ここで拒否れば、オレは面接で虚偽の返答をしたことになる。逆に言えば、いま拒めなくするために、佐藤は面接でそれとなく質問してきたのだ。
ただこの提案、オレにとっては渡りに舟でもあった。埼玉の実家から通勤するのは少々億劫(おっくう)だと思っていたのだ。それにオレは幽霊とかオカルトの類はいっさい信じないタチだから、正直そんなに怖くもない。
二つ返事で了承し、すぐに幽霊物件探しが始まった。
都内の不動産屋をめぐること数軒、それらしき物件は3部屋だけ見つかった。
さて、どこに住むべきなのだろう。エピソードだけなら△エグイのだが、自殺があったからといって、この後オレが住んだときに怪奇現象が起きるとは限らない。~海蠅澄となると残るは。この物件に関して不動産屋は、
「自殺などの事実はないですよ。ただ、入居した皆さんが言われるのは、うなされて寝れないとのことです」と言うのみだ。
原因はわからないが、何故かうなされる部屋。ちょっとおもしろいかもしれない。ひとまず内見に向かうとしよう。
有楽町線・要町駅から徒歩4分の場所に、その物件「豊島マンション(仮名)」はあった。
外観は至って普通のマンションだが、今回見にきた205号室だけが相場より2、3万円ほど安い4万円台となっている。言うまでもない、入居者が決まらないためだ。
カンカンと鉄製の外階段を上り、いざ部屋に。流しとユニットバスの付いた、5畳程度のワンルームだ。リフォームを終えた壁は真っ白で、窓は南向き。清潔感にあふれている。
窓の外は静かな住宅街で、スズメの鳴き声がするだけだ。不動産屋も、近くにうるさい住人がいるわけではないと説明する。
(この部屋にしよっかな。ちゃんと眠れそうだし)
晴れて契約を交わしたオレは、引っ越しの日を迎えた。友人に車を出してもらい、実家で荷物を積んでレッツゴー。豊島区に入って池袋を通過すれば、そろそろ要町だ。
しかし間もなくマンション付近というところで、友人が変なことを言いだした。
「あれ? おかしいなぁ」なになに? どうしたの?「ナビが……」「え?」「狂っちゃってるのかな? さっきのとこ右に曲がったはずなのに」
助手席からナビの音量を上げると、無機質な声が何度も同じ文句を繰り返している。
『ルートを外れました。ルートを外れました』
入力した通りに走っているはずなのに。
「こんなこと今までなかったんだけどね」。試しにいったん要町を出ると、ナビは正常に作動した。
「やっぱりマンション付近がダメみたいだな。とにかく向かおうか」
なんとかマンションに到着し、荷物をそそくさと運び入れ終えたころには外が暗くなってきた。電気を点けようか。
ん? おいおい、蛍光灯のカバーが割れてるじゃねーか!
「内装業者がやっちゃったんじゃない?」友人はそう言うが、この部屋、オレが内見にくる数日前に、内装工事や清掃はすべて終わっていた。しかも内見当日に契約する旨を伝えたので、それ以降の侵入者がいるはずない。
念のためその場で管理会社に電話をしたが、やはりオレの後には誰も立ち入っていないという。荷物をぶつけたのかな。
引っ越し疲れのため、少し早いが、22時ごろ床についた。
ここは皆がうなされて出ていくんだよな。てことはこれからオレもうなされちゃうのかな。んなワケねーけどさ。そんなコトを考えていると、急に背中に痛みが走った。ずっしりじわじわと重い痛みだ。重い荷物を運んだせいだろう。こんなことを霊現象にすれば、世界中あちこち霊だらけになってしまう。ふぁ? 寝よ寝よ。
夜中にふと目が覚めた。聞きなれた音が鳴っている。
カン、カン、カン……
オレの地元、埼玉ではこの時期に毎夜聞こえてくる、拍子木の音だ。“火の用心”のかけ声とともに、有志のおっちゃんたちが練り歩くアレだ。
あ、でもここ地元じゃないんだっけ。都内でもこんな古臭いことやってんだな。何気なく時計を見ると、深夜2時を回っていた。……2時? こんな時間にあいつらが歩いてるワケねーだろ!!
しかし確かに音は聞こえる。それもわりと大きめの音で。窓を開けて外を見た。誰もいない。そして音もいつの間にか消えている。
さすがにビビったオレは頭から布団をかぶり、テレビをつけて気をまぎらわせながら朝を待った。
それにしても、この部屋を退去した4人には何が起きたのだろう。4人連続でうなされるなんてどう考えても異常だ。管理会社に電話して、あらためて当時の状況を教えてもらおう。
「もしもし、205号室に入居した建部です。ちょっと聞きたいことがあるのですが」「ハイハイ。どうしました?」「僕が入居する前の話なんですけど、4人が短期間で退去していったとか……」「そうなんですよ。なんか皆さん口をそろえて寝れないとか言っててねぇ」「原因とかはあるんですか?」「それがよくわからないんだよね。なんだか気が滅入ってしまったようなコトらしいんだけども」「気が滅入る? ウツ病みたいな感じなんですかね」「う~ん。そういうことになるのかな。よくわからないね」
それ以上は“わからない”の一点張りだった。もう騒ぎたてるなってことか。ここらでちょっと話を変えてみよう。
「そういえば205号室のポストだけがなぜか無くなっているんですけど、なぜなんですか?」
豊島マンションは1Fに集合ポストが設置されている。しかしどういうわけだか、オレの部屋205号室のポストだけ扉が破壊され使用できなくなっているのだ。
「あのポストね~。1カ月前くらいからああなってるんだよ。誰かがイタズラしたみたいだね~」「前に住んでた人は使ってなかったんですか?」「前の人のときはちゃんとしてたハズだけど。出て行ってすぐ壊れちゃってね」
結局わかったことといえば、
【4人連続で“ウツ”状態になり退去した】【ひと月前までは入居者がいた】【ポストが壊れたのはその人の退去の後】
ぐらいか。もう少し具体的に知りたいところだが。
入居7日目、仕事から帰ったオレは、近くで買った弁当を手に、部屋の鍵を開けた。もう新居にもだいぶん慣れてきた。仕事が忙しいせいかグッタリ疲れ、寝つきもいい。拍子木は聞こえないし、うなされることもない。フツーの快適一人暮らしだ。
弁当を食べた後、風呂に入りパソコンの電源を立ち上げる。仕事の資料を作るためだ。机の上の時計がカチカチと無機質に時を刻んでいる。深夜1時。ああ、眠い。これはダメだ。頭が回らない。タバコでも買いにいくか。
外は静まりかえっていた。近辺は住宅街で、夜中になるとほとんど音がしないのだ。やっぱ拍子木の音なんてありえないのかなぁ。
なんてことを考えながら部屋に帰ると、すぐに異変に気づいた。ゴーゴーという音が響いているのだ。パソコンのファン? ぜんぜん違う。電源を切っても音は止まない。どこで鳴ってるんだ?
部屋の電気を消し、よく耳を澄まして聞いてみる。ギーコギーコギーコ……
なにかをすりこぎですりおろしているような鈍い音だ。なんだよコレ。音の出所はどこだ。ん? 天井? まさか、上の部屋に住むキャバ嬢風の女か。音はとめどなく、ゆっくりと続く。なにか大きく、固い物体を長時間かけてすりおろしているかのような音が。
どうしよう。オレはちょっとビビった。上の女は水商売だか何かで、この時間はいつも不在のはずなのだ。でも明らかに音は上から聞こえてくるし。意を決したオレは、部屋を出て、足音をたてないように階段をのぼり、夜中の冷たい空気が張りつめる305号室の前に立った。
ゆっくりとドアに耳をつけ、聞き耳をたてる。何も鳴っていない。ならば裏にまわって窓を確認しよう。せめて電気がついていれば安心だし。
…………真っ暗だ。305号室の灯りは消えている。彼女はいるのかいないのか。でもさすがにこの時間に訪ねるのは非常識だろう。
自室に戻ると、すりこぎ音は止んでいた。まただ。正体を探ろうとすると、いつも音は消えてしまう。
翌日の昼間、305号室を訪ねた。
「こんにちは、どうしたんですか」「いや、あの、昨晩って部屋にいらっしゃいました?」いたならば、あれは電マオナニーの音だと結論づけ、ひっそり興奮してやろうと思っていた。
「いえ、今朝帰ってきましたけど。どうかしました?」「いえ、別に何もないです。すみません」
背筋が震えた。そして同時にオレは、ウツ病になった4人のことを想像した。彼らも同じように深夜に不思議な音を次々と耳にし、その正体がわからないがためにノイローゼになったのではないか。(続く)
———-建部 博(たてべ・ひろし)編集者/ライター1984年東京都生まれ。『裏モノJAPAN』元編集部員。広告代理店勤務、フリーライターを経て、現職は『月刊MONOQLO』(晋遊舎)デスク。うらぶれたスポットの取材をライフワークとし成人映画館、ストリップ劇場などの「超個人的潜入取材」を続けている。———-
(編集者/ライター 建部 博)