私は、約40年間、麻薬取締部(通称「マトリ」)で、薬物犯罪の捜査を続け、違法薬物の撲滅を目指してきた。約300人の「マトリ」や関係捜査機関が全国で摘発や捜査を展開しているが、それでも薬物犯罪は後を絶たない。
日本国内で、大麻事犯の検挙者数は年間3,700人を超え、覚醒剤事犯のそれは1万人を超えている(2018年度統計)。潜在的にはさらに広がっているだろう。こうした違法薬物の拡散には、今や、ネットやSNSが頻繁に使われている。
今や、サイトやSNSなどを通じた結婚は、3人に1人と増えているというアメリカでの調査統計もある。
しかも、ITの上では相手を一方的に信じ込み、自分の情報を与えやすいという事情がある。そこにつけ入ってくるのである。
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薬物犯罪は、「時代を映す鏡」という特性があるのだ。
密輸組織や密売人たちは、特に、女性の恋心を利用することが多い。ネットやSNSを通じて日本人女性と知り合い、言葉巧みに「恋人気分」に浸らせ、薬物を隠匿した国際荷物(郵便・宅配便)を受け取らせて、女性を知らぬ間に「運び屋」を仕立てるのである。
マトリでは、この手法を「ラブコネクション」と呼び、捜査を展開している。ネットやSNSにはこの魔の手がはびこっているのだ。
次に、私が実際に捜査した「ラブコネクション」を挙げてみよう。
2016年夏、27歳だったアキ(仮名)という日本人女性は、インターネットの海外婚活サイトでアメリカ人を自称するジョンと知り合った。
〈12月には日本に行く。君とクリスマス・イブを過ごしたいんだ。君に会いたい〉
などと、ジョンは甘い言葉を繰り返しメールで送ってきた。アキは未だ見ぬジョンに淡い恋心を抱くようになった。
ある日、ジョンから、
〈アジアを旅行中のマイクという親友が、来週、東京へ行くんだ。彼に荷物を送りたいんだけど、バックパッカーで安宿を転々としているから受け取れない。悪いけど代わりに受け取って、渡してくれないか。彼が最寄りの駅まで取りに行くから〉
この時、すでにジョンを信じ切っていたアキは、〈ええ、いいわ〉と、二つ返事で引き受けてしまった。
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まもなく、マトリに情報が寄せられた。関係機関から通報が入ったのは11月初旬。タイ国からの国際スピード郵便(EMS)の中に、菓子箱などに分散して覚醒剤が隠匿されていたのだ。総量は1キロと大量で、末端価格は6,000万円を下らない。個人が使用する量の手配ではなく、明らかに大規模な密輸組織が関与していることが推測できた。
私たちは「泳がせ捜査」、なかでも中身を無害物にすり替えて追跡する「CCD(クリーン・コントロールド・デリバリー)捜査」に踏み切ることにした。
捜査員はまず名宛人である「アキ」の周辺捜査を進めた。判明したのは、アキがごく普通のOLということだった。前科の類はなく、住居はさいたま市内の小ぎれいなワンルームマンション。地域の環境も良く、暴力団や半グレ集団のような連中との付き合いもない。
「彼女は単なる受け取り役として、組織に利用されている可能性が高いでしょう」
ベテラン捜査課長はそう見立てた。つまり「ラブコネクション」である。
ほどなくして、アキのマンションに、中身をすり替えた荷物が配送された。捜査員はマンションを24時間体制で監視し、その荷物を密輸組織の構成員に手渡す、または、構成員が受け取りに来たところを捕捉する方針を決めていた。
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ところが――。それから1週間が過ぎても全く動きがないのだ。
アキは朝7時半に自宅から職場に出勤し、午後8時には帰宅するという規則正しい生活を送っていた。同僚と夕食を摂る以外には特別な行動もない。休日に友人が訪ねて来ることもない。質素な外見や派手さのない日常生活から判断するに、極めて真面目で、薬物とは無縁の健康的な女性に思えた。
しかし、動きのない日々の監視に、捜査員の間にも苛立ちが募ってきた。
「おそらく彼女はまだ『荷物』を開けておらず、相手からの連絡を待っているのでしょう。裏の事情を知らない可能性が高い。密輸組織は『CD捜査』を警戒して、当分は彼女に保管させたままにするかもしれない。ここで進展させましょう」
と担当課長。
私は、この英断を了承した。
すぐに、アキのマンションを麻薬取締官が訪ねた。
「えっ! どういうこと?」
アキは驚愕の表情を見せた。
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捜査員が事情を説明すると、アキは部屋の奥から荷物を取り出して来た。予想通り、荷物は開被されていない。自宅には関係証拠品も一切ない。
アキは捜査員の説得に応じて、ジョンとの交際の経過を詳しく明かしてくれた。ジョンのフリーメールのアドレスに「荷物を受け取った」と連絡した、とも。
さらに、ジョンに言われるがまま、携帯電話の番号と、自宅から最寄りの駅まで教えていた。その際に、ジョンはこう伝えてきたという。
〈ありがとう。今週中にマイク(親友)から電話が行く。荷物を渡してほしい〉
これまでの捜査に鑑み、この時点で私たちは、本件をアフリカ組織による「ラブコネクション事件」と判断した。
アキは覚醒剤の受け取り役に仕立てられたことを理解し、捜査員の前で号泣。「なぜ? 信じられない……」と肩を震わせ、力なくうなだれてしまった。
私たちは、次の一手を打つことにした。
〈利用されたアキに代わって、女性の麻薬取締官を投入する〉ことである。
抜擢したのは、冷静な性格で、突発的な事態にも臨機応変に対処できる中堅のJ取締官である。私が信頼を置く優秀な女性取締官だ。
そして、11月末、ついにアキの携帯電話に着信が入った。マイクと名乗る男だ。通話口からは、たどたどしい日本語交じりの、強い癖のある英語。とてもネイティブとは思えない。
何度かの交信後、翌々日の午後1時にJR高崎線のK駅で荷物を受け渡すことになった。
当日は十数名の麻薬取締官がK駅構内外に潜んだ。J取締官は荷物を持って改札口の外で待機。午後1時過ぎ、ホームで張り込み中の捜査員から無線が入った。
「黒人男1名を確認。付近を警戒している。目標の可能性あり。携帯電話を手に改札口に向かっています」
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現場に緊張が走る。それと同時に、アキの携帯電話にも着信が入った。片言の日本語だ。
「K駅、いる。どこどこ?」「マイクさんですか?」「そうそう、マイク」「改札口、ticket gateにいます」「はい、OK」
すぐに、屈強な黒人男が改札口に向かって歩いてきた。ときに振り返り周辺を警戒する様は、とてもバックパッカーには見えない。六本木のクラブの用心棒といった風貌だ。
荷物を手にしたJが改札口に近づく。それに気づいた男は「アキさん!」と声をかけてくる。これにJは頷きながら「ハイ! マイクさん」と返すと、男は「はいはい」と答えた。Jと男は改札口の脇に回り、フェンス越しに接近。この段階でも笑顔を絶やさない辺り、Jはさすがに捜査のプロである。
男は「Thank you!」と言いながら手を差し出してくる。Jは「ジョンによろしく」と伝えながら荷物を手渡した。男は和やかに「Thank you! はい、ジョンね」と応え、荷物を手にする。Jは微笑みながら「Bye」と手を振って踵を返した。
これを合図に、周辺で待機していた捜査員が男を一斉に取り囲む。男はとっさに荷物を捨て、捜査員に体当たりして逃げようとする。機敏な捜査員たちが身体を張ってブロック。無事に男の身柄を押さえることに成功した。私たちは、男を麻薬特例法違反で逮捕。覚醒剤の代替物を所持した容疑である。
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「マトリ」が予想した通り、男はやはりナイジェリア国籍で、バックパッカーなどではなく「都内在住の無職」だった。
取調べでは、最後まで「知らない女から荷物を預かっただけ。何もわからない」と強く否認。しかし、周辺捜査から判明した組織のアジトへの捜索で、覚醒剤の関係証拠品を発見。男は否認を貫いたまま起訴され、有罪となった。
この男が、アフリカ系密輸組織の一員であることはまちがいない。だが、男は下っ端であり、組織の全体像は未だにつかめていない。
この事件の後、アキはさいたま市から転居し、携帯番号もパソコンのメールアドレスも変えて生活している。
だが、「ラブコネクション」に陥れられたというショックから完全に立ち直ってはいない。心の傷を癒やすには、長い時間がかかるだろう。一日も早く癒えることを心から願っている。
ネットを使い、身元を偽り、巧みに交信しながら、真面目に暮らしていたアキの心に入り込み、特別な関係をつくり、知らぬ間に薬物の「運び屋」に仕立てようとしたこの手口は、アフリカ系薬物密輸組織の常套手段だ。
彼らは日本人をはじめアジア人の女性に、カナダやアメリカ国籍と偽って近づく。日本人女性は外国人には用心深いが、ひとたび心を許すと、お願いされた通り、真面目に動いてしまう。
この心模様を逆手にとって、密輸という犯罪の片棒を担がせるのだ。彼らは狡猾で警戒心が強く、なかなか尻尾をつかませない。受取人を何人も介することも頻繁である。
「ラブコネクション」で利用されている女性が、日本中に、いや、世界中にいったいどれだけいるだろう……。
ネットやSNSが隆盛している今だからこそ、特に女性の読者は、極力、注意してもらいたい。あなたは大丈夫だろうか。
「ラブコネクション」はその後も、新潟在住の女性が同様に騙される事件をはじめ、後を絶たない。
現代ならではの密輸の手口なのである。
私はこのような薬物犯罪の実態と、約40年間の麻薬取締官としての捜査秘録を中心に、キャリアを詳しくまとめた著書『マトリ 厚生省麻薬取締官』を上梓した。
前述の「ラブコネクション」は、薬物犯罪と捜査のひとつのケースに過ぎない。取締官としての長い年月では、時代に即して、様々な薬物犯罪があり、手口を変えて、今も増殖中である。
著書には、薬物への警鐘を鳴らし続けるため、さらに、薬物撲滅への思いを込めた。そして、一般には知られていない薬物犯罪捜査専門機関「マトリ」という組織も詳述した。薬物は身体も心も破滅に導く。
その危険と恐怖を、多くの方々にぜひとも知って頂きたいのである。