「今年の春節の特徴について調べているのですが、最近では日本の田舎を楽しんだり、アニメの聖地巡礼をしたり、アイドルのコンサートなどに行っているそうですね。今年ならではの傾向はあるのでしょうか?」
まだ武漢の新型肺炎がこれほどの騒ぎになる前の1月中旬、私のもとにこんなメールが届いた。某メディアからの問い合わせだ。メールにはこんな質問もある。
「日本旅行の際、中国人女性が美容院に行くのが流行っていると聞いたのですが、実際にそうですか? やはり、中国の美容院はあまりよくないからですか?」
「はい」や「いいえ」で簡単に回答できず、私にとっては少し考え込んでしまうような質問である。電話ならまだいいのだが、メールの場合、どう回答するのがいちばんいいのかわからなくて困惑してしまう。
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自分なりに、できるだけ正直に本当のことを書こうとすれば、かなりの長文になってしまう上、ちょっと嫌味な表現になってしまいそうだからだが(なぜ、見ず知らずのメディアからの唐突な質問に、時間をかけて答えてあげなければいけないのか、という自分への疑問もある)、かといって、相手を傷つけないように、やんわりと回答してあげようとすると、相手に自分が言いたいことが伝わらなかったり、誤解されたりする可能性もある。
現に、ここ数年、私がいいたいことはなかなか日本のメディアには伝わらず、モヤモヤしたり、憤ったり、違和感を覚えたりしたことが何度もあった。
そして、ちょっと大げさないい方かもしれないが、中国人観光客についての日本のメディアの取り上げ方を通じて、報道とは何か、を考えさせられることが多くなった。
相手が私に求めているのは、「今年の春節の傾向」についての単純化された情報だ。中国人は春節休みを使って日本のどこに行き、何をするのか? 爆買いはもうしないのか? モノ消費ではなくコト消費なら、“今年”は一体、何を体験したいのか――?
これらについて、明確な回答が欲しい。ただ、それだけである。
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これまで私がたまたま「爆買い」やインバウンド関係の取材をしてきたことをどこかで知り、問い合わせしてきたのだが、彼らが欲しいのは、まどろっこしい説明ではない。
もし私が「2022年の北京冬季オリンピックも近いので、今年は日本にきてスキーをする人が多い」などと適当なことをいえば(そういう人ももちろんいるので、嘘ではない)納得してもらえるのかもしれないが、そういったら「今年の中国人観光客のトレンドは日本でスキー!」と、まるで全員スキーに行っているかのように、極端な受け止められ方をしてしまう。これは冗談ではなく、本当だ。
そして非常に多くの場合は、上記のような「今年は何をするのか?」について数十分間の電話でのやり取りのあと、結局、最後に私が「〇〇にも行っているし、〇〇も食べています。中国人はいろいろですから! 毎年流行色がコロコロ変わるように、『今年の春節の傾向これ。ここに行って、これを食べて、こんな体験が流行っている』なんて、一言でいえるものではありませんよ!」と本音をいってしまうというパターンで、会話がジ・エンドとなる。
自分もメディア側の一員だから、今日中に素材を集めなければならない彼らの切羽詰まった気持ちはよく理解できるし、普段はきっと中国に興味がないけれど、こういう取材をせざるを得ないのだろうな、ということも想像できる。そういう「大人」な姿勢が必要なことも理解はできるし、「視聴者側も裏側はわかってるよ」という意見もあるだろう。でもさぁ……と、私は深いため息をついてしまうのである。
私はもう30年近く中国について取材しているが、こうした傾向が見られるようになったのはここ5年ほどのことだと思う。その頃から、中国人観光客–ひいては中国人を「同質なもの」として報じる姿勢が強まっているように感じられるのだ。なぜ、このようなことが起こるのか?
多くの方がお気づきかと思うが、きっかけとなったのは5年前の「爆買いブーム」だったのではないかと、個人的には考えている。2015年の流行語大賞も受賞した「爆買い」は日本人に強烈なインパクトを与えた。
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その頃から、メディアから私への「中国人は日本で何を買っているんですか?」という、まるで判で押したかのような、まったく同じ質問が急激に増えた。
むろん、日本政府観光局のデータや、インバウンド企業などのアンケート調査などもあるので、ある程度、その情報を探し出したり、分析したりすることはできるが、私はメディアが「あまりにも同じ質問」を繰り返すこと自体に驚き、唖然としてしまった。
「一口に中国人といっても14億人もいるんです。14億人! 日本にきているのはそのうち1000万人にも満たないほどですが、でも、たとえ1000万人でも、彼らは同質ではなく、千差万別で、バラバラなんです。出身地も、所得も、社会的な階層も、方言も、食べ物も、学歴も、趣味も全然違う人たちなんです」
「中国人の幅は日本人が想像する以上に、ものすごく広い。だから、皆が皆、同じものを買っているわけではないし、同じお店に殺到しているわけではありません!」
口から泡を飛ばしながらこう説明しても、なかなか理解してもらえないこともあった。「わかった上であえて聞いている」のではなく、本当に理解できていないと思しきケースも少なくなかった。
それどころか、彼ら(中国人)が日本で実際に何を買っているのか、私がよく取材していないから、ちゃんと取材に答えられないのだろう、とさえ思われたこともあった。そのウラには「中国人観光客は同じ行動を取るものだ」「中国人というのはだいたい似たようなものだ」という考え方が透けて見えるようだった。
一部で「爆買いは終わった」という報道が行われるようになってからも、しばらくの間、彼らからは同じ質問が続いた。そして、「モノ消費ではなくコト消費に移行した」という情報が定着してくると、今度はメディアからの質問が「今はコト消費なんですよね。日本でどんなコトを体験しているのですか?」というものに変わった。
目に見える中国人観光客の行動は少し変わったが、「爆買い」で一度定着してしまった、「中国人観光客は同質な行動をする」「同じ場所に殺到する」という日本のメディアの発想は変わっていなかった。相変わらず「中国人は一枚岩だ」という発想を引きずってしまっているように見えるのだ。
しかしそもそも指摘しておくべきは、「爆買い」という言葉自体が、あくまで「日本人の解釈」であり、中国にとっての実感とは相当異なるのではないか、ということだ。「爆買い」ブームの1年後くらいから私はそう感じるようになった。
日本は人口1億人強の小さな国だ。その国に暮らす人々の目から見ると、中国人が大挙して家電量販店などに押し寄せ、大量に商品を買って帰ったことは驚くべき行為であり、「爆買い」という「黒船来航」的なニュアンスの新語がピッタリ当てはまったのだろう。
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だが、中国人の側に立ってみると、あんなものは「爆買い」でも何でもないのだ。
人口が多い中国では、国内で毎日のように(日本人の目からすれば)「爆買い」「爆食」「爆渋滞」「爆行列」を繰り広げている。だからこそ、中国は弱肉強食で、厳しい競争社会だといわれる。しかし、日本人の基準でいう「爆」は、中国人から見たら「爆」の部類には入らないほど小さなものだ。
私はよく、日本人に中国を実感してもらうためにラーメン屋のたとえ話をする。日本ではラーメン屋の前に50人並んでいたら「わぁ~、すごい」と思うが、中国ではラーメン屋の前にいつも500人くらい並んでいて、それを見ても、中国人は「いつものことだ」と感じるという話だ。実際はそんなことは起きていないが、このように話すことで、日本人は中国人の多さをリアルにイメージしやすくなる。
同じ「爆」でも、日本人がイメージする「爆」と中国人がイメージする「爆」は異なっていて、スケール感がまったく違うのだ。
私は爆買いの取材を通じて、「爆〇〇」は日本人にとっては非日常だが、中国人にとっては日常茶飯事である、という極めて当たり前のことを、そのときあらためて痛感したのである。
そして前述した通り、「爆買い」報道以降、メディアは、「今年の春節、中国人の間では〇〇が流行っている!」とステレオタイプで物事を決めつけたがる方へ向かっているように見える。しかしそもそも、あの多種多様な中国人を一括りにし、十把一絡げで語ることなど、とてもできない。
メディア側の事情は理解できるが、「今年はこれ」と決めてかかり、物事を単純化して報道することに、一体何の意味があるのだろうか?
少し意地悪な見方をすれば、それは、急激に膨張し、日本の地位を脅かしているように見える中国という国の不穏さを「なんとか一枚岩に理解できるものとして処理したい」という思いの裏返しなのかもしれない。
しかし、どんな事柄でも同じだと思うが、物事を「こちら側」の目線だけで見ていたのでは、気がつかないことがたくさんある。とくに日本はこれから東京オリンピックがあり、外国人労働者を増やす方向に向かっている。
東アジアの国々との交流もさらに活発になるだろうし、国のなかの多様性も増していくだろう。「あちら側」の視点を持つことはどんどん重要になっていくはずだ。それを考えると、これでいいのだろうかという懸念は、あながち間違ったものではないと思う。
中国人の中でも、一部の人々はどんどん成熟化し、多様化、進化しているが、その中国人を見る私たちの目は変わらず、むしろ「爆買い」のような出来事の影響を受け、どんどん単純化され、内向的になり、ズレた方向へと進んでいってしまっているのではないだろうか。
春節を迎え、街で大勢の中国人観光客の姿を目にするたびに、私はそんな気がしてしまうのである。