八ッ場ダムと生きる 老舗旅館、養子15代目の覚悟

民主党政権下で「コンクリートから人へ」の象徴として工事が一時ストップした八ッ場ダム(群馬県長野原町)が今春、稼働する。計画から68年。地元住民は国策に翻弄(ほんろう)されてきた。かつてにぎわいをみせた旧川原湯温泉街はダム湖に沈み、やむなく古里を離れた人も少なくない。そんな中で、代替地に移った創業360年の老舗旅館に養子に入り、「15代目」として新たなスタートを切った青年の姿を追った。【西銘研志郎】
そそり立つ巨大なコンクリートの壁にせき止められたダム湖が青々とした水をたたえている。八ッ場ダムは今、4月の稼働に向け、最後の試験湛水(たんすい)の段階に入っている。
それを見下ろす高台の造成地には新築の旅館がぽつぽつと建つ。旧川原湯温泉街は移転前、最盛期には20軒ほどの旅館が軒を連ねたが、新天地で営業を続けるのは現在5軒しかない。
その一つ「山木館」は、創業が江戸時代の寛文年間(1661~73年)と伝わる。その跡取りとして5年前、養子に入ったのが樋田勇人さん(25)だ。「かつてダムで町が分断したのは知っているが、それは昔の話。今の人はダムを受け入れて生きていくことを真剣に考えていかないといけない」と語る。
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八ッ場ダムの歴史を振り返ってみたい。
「ここにダムを造ります」。長野原町にやってきた建設省(当時)幹部が住民たちにこう宣言したのは1952(昭和27)年5月16日のことだった。その5年前の47年に猛威を振るったカスリーン台風は関東1都5県で死者1100人を出した。建設省の計画は、治水・利水のために町を流れる吾妻川をせき止めてダムを造るというものだった。
当然のようにわき起こった水没地区の住民たちの反対闘争は、やがて「絶対反対」と「条件付き賛成」に二分され、住民の分断を生んだ。80年、群馬県が町に対し、代替地で同じような街をつくる「生活再建案」を示し、5年後、町は案を受け入れてダム建設が決まった。しかし、住民の土地や建物に関する補償交渉が難航する。86年に発表された基本計画ではダムの完成は2000年度とされたが、延長された。
その後も迷走した。09年に自民党から政権を奪取した民主党は「コンクリートから人へ」のスローガンを打ち出し、当時の前原誠司国土交通相が八ッ場ダムの建設中止を表明し、工事はストップした。その後、国交省が事業の適否を検証した結果「工事継続が妥当」と結論づけたこともあり、11年に建設継続が決定する。自民党の政権復帰後の15年、ダム本体の建設工事の起工式が行われた。
水没地区ではこの間に、暮らしの安定を求めて多くの住民が古里を離れた。結局、代替地に移転した住民は3分の1ほどだった。
営業継続か廃館か。川原湯温泉の旅館も選択を迫られた。山木館の14代目、樋田洋二さん(72)と妻文子さん(71)は営業を続けることを決めた。13年、代替地で新たなスタートを切ったが、夫婦には一つ気がかりなことがあった。それは子どもがいないことだった。
「後継ぎがいないから養子にならない?」。勇人さんが父親のいとこの文子さんから声をかけられたのは高校3年の夏だった。即答はできなかった。「旅館の後継ぎか……」。漠然とした思いは次第に変わっていく。テレビのニュースで川原湯温泉がダムに沈むことを知ったのもその頃だ。親戚の集まりはいつも山木館だった。楽しい思い出がよみがえる。このままでは大好きな山木館が無くなってしまう――。大学3年生の時、養子になることを決意した。
湯の町担い手 増やしたい
<15代目です>。作務衣(さむえ)の胸のネームプレートにはサインペンでこう書かれている。
八ッ場ダム建設に伴い代替地に移転した群馬県長野原町の川原湯温泉で、創業360年を誇る老舗旅館「山木館」。樋田勇人さん(25)が跡取りとして働き始めたのは大学卒業後の2017年春だ。いつも明るく仕事をこなすその姿は、まさに「好青年」という言葉が似合う。だが、取材して何度目のころだろうか、突然、記者にこう打ち明けた。「実は俺、高校生のころ引きこもっていたんですよ」
樋田さんは高校まで前橋市で過ごした。父は会社員、母は専業主婦。中学生のころは勉強が得意で、親からは医者になることを期待されていた。だが高校で県内有数の進学校に入った後、勉強でつまずき、卓球部でもけがをして挫折を味わう。親の期待をプレッシャーと感じるようになり、毎晩部屋で泣く日が続いた。次第に学校からも足が遠のいていった。アルバイトをしよう。そう思い立った時に声をかけたのが父親のいとこで山木館の女将(おかみ)の文子さんだった。「うちでやってみない?」。夏休みの間、山木館で働くようになり、大学3年生だった16年1月、養子になった。
樋田さんはいわば外から来た人間だ。「川原湯で生きていくからには」と積極的に地域に溶け込もうと地元の行事や集まりには進んで参加する。毎年大寒の日に湯かけ祭りが行われる。起源は400年余り前にさかのぼる。温泉の湯が突然かれた際、鶏を奉納して祈ると再び温泉が湧き出した。「お湯湧いた、お湯湧いた」。そのうち「お祝いだ、お祝いだ」と湯をかけ合い出した――。
4年前、山木館に養子に入ってから初めて祭りに参加した。まだ日も昇らない午前5時。肌を刺すような寒さの中で、ふんどし1枚の姿でお湯をかけ合った。「寒さを分かち合えて地区の住人になれた気がした」
長野原町は八ッ場ダム稼働を機に新しいまちづくりを模索している。町の面積の8割が山林という自然を生かした観光業に力を入れ、年間90万人が町を訪れる。だが、過疎や少子高齢化の波が押し寄せる。人口5500人弱の37%を65歳以上が占める。
樋田さんは、町全体の振興なくして川原湯の活性化はないと考えている。昨年5月に結婚した。「町としての魅力が発揮されるからこそ宿に人が来てくれる。ここに住むと決めた自分の家庭のためにも、どうにかしなければならない」と危機感を持つ。
樋田さんが重視するのが「関係人口」だ。実際に暮らす「定住人口」でも、観光目的の「交流人口」でもなく、さまざまな分野でその地域に関わる人のことを指す。実際にそこに暮らしていなくても、地域の担い手となれる存在だ。
さまざまな手は打っている。ダムを生かした活性化策を目指し地元住民や町職員らは「チームやんば」をつくり、樋田さんもその一員として、国土交通省認定のダムのガイド「コンシェルジュ」になり、観光客を相手に案内役も務めた。国交省が主催するダムのファンクラブの会員は約800人。この春で解散予定だが、樋田さんはこのファンたちを関係人口として取り入れられないか考えるべきだと思っている。
町のビジョンはまだ明確ではない。それでも「ダムを受け入れて生活していかなければならない」と樋田さんは言う。「ダムが動き始めたら地元は自立していかないといけない。どうやって町を維持していくか、生存戦略を考えないと」。その目は町の未来をしっかりと見据えている。【西銘研志郎】
ことば「八ッ場ダム」
国が群馬県長野原町の吾妻川に建設した多目的ダム。旧建設省が1952年に現地調査に着手。地元住民が反対運動を繰り広げたが、生活再建を前提に85年に建設を受け入れた。堤頂長約290メートル、堤体積約100万立方メートル。群馬県の生活再建事業などを含まない国の総事業費は5320億円。