◆コロナ新法成立で緊急事態宣言が可能に
3月13日、新型インフルエンザ等対策特別措置法を改正した、いわゆるコロナ新法が成立した。野党が同法の援用で事足りると主張したのに対して、安倍晋三首相はあくまで新法制定(法改正)にこだわった。
コロナ新法では、内閣総理大臣による緊急事態宣言を可能としている。宣言が発せられた場合、外出制限、施設や商店の休業、医療品や食料の確保などについて、実質的な強制力を伴う「要請」「指示」「収用」ができる。2月末に全国の学校の休業を超法規的な形で要請し、また元来、憲法を改正して緊急事態条項を盛り込むことを政治的な悲願としている安倍首相は、このコロナ危機に際し、緊急事態宣言の発動を行いたがっているのだと目されていた。
◆引き延ばされた緊急事態宣言
しかし予想に反して、新法成立以来、緊急事態宣言は3週間以上行われなかった。4月6日現在の報道によれば、7日にも地域を限定した緊急事態宣言が行われるとしている。そもそも同法に基づく政府対策本部が設置されたのが3月26日と遅い。同日には、すでに東京を中心に感染者数の爆発的な増加の兆候が見え始めていた。
4月6日現在で、国内感染者数は4000人を超え、しかも1日の感染者数は日に日に増加している。諸外国の例に倣うなら、ここで思い切った市民生活への支援策と引き換えに、東京や大阪などの主要な都市をロックダウンすることになる。また、今後不足しうる医療資源、とくに人工呼吸器や集中治療室の確保のため、民間企業の協力を得るなどして全力を注ぐ必要もあるだろう。
ところが、こうした目下の問題に対する安倍政権の対応は遅々として進まない。彼らはコロナウイルスの危機から全力で目をそらそうとしているようにみえる。緊急事態宣言が発動したとしても、行動制限については引き続き「自粛」要請をすることしかできないのである。さらに、3月24日までは安倍政権はオリンピックを通常通り開催しようとしており、延期が決まったあとはその日程決定や予算確保に注力している。また、現在苦境に立たされている旅行業や外食産業に対して直接給付するのではなく、いつ収束するのか分からない「コロナ後」の経済政策として、クーポンを配布しようとしている。
旅行業、外食産業、芸能・芸術関係者、その他イベント業者をはじめとして、「自粛」による影響は多大だ。すでに収入のほとんどを絶たれ、失業状態に陥ってしまった人もいる。こうした人々は、当面は既存の貸付制度などを利用するしかないが、今後の見通しもなく借金を増やさせるのは愚策であり、本来は迅速なる生活保障がなされてしかるべきである。3月初めから休校している子供たちの、新学期からの学習をどうするのかも見通しは立っていない。欧米諸国では次々とオンライン授業が実施されているが、そもそもIT化に遅れをとっていた日本において急速な転換は難しい。
幅広い市民層に対する政府の手厚い支援が見込めない中で、口先だけの自粛要請は、一部の業種を除いて徹底化はされていない。都内の大きなターミナル駅では、確かに普段よりは人手は少ない印象はあるものの、なおスーツ姿の会社員や買い物に訪れる人々で賑やかだ。法律上の緊急事態宣言がなされたとしても、政府は通勤に関しては行動制限しないとしており、すぐに変化することはないだろう。人々にはそれぞれの生活があり、個別のニーズを無視した精神論をとなえるだけでは、その活動を止めることはできない。人々の接触を感染拡大の阻止のために必要な通常の2割にまで落とし込みたいなら、「要請」するのではなく、それぞれの生活を保障することを政府が責任をもって約束し、行動の変容を促すしかない。
以上のように、一刻を争う事態に対して、安倍政権は他国にみられるような素早い政策決定が行えているとは言い難い。日本はヨーロッパなどに比べて、コロナウイルスの感染スピードは遅くなっている。したがって政府は生活保障に関してリソースを傾ける余裕があるはずなのだが、それはほぼ行われていない。お肉券やお魚券、マスク二枚配布や、収入が減少した住民税非課税世帯のみ自己申告制(!)で給付金を支給するなど、およそ諸外国では検討すらされないような案が飛び交うばかりである。
以前の記事「新型コロナウイルスによる「緊急事態」の宣言。起こりうる「人権の停止」に抗うために。」で、筆者は安倍政権について「自己拘束なき行政権力」と定義し、緊急事態宣言がもたらす人権の宙吊り状態に対して警告を行った。
命の問題を前面に押し出した「例外状態」ムードの中で、人権の議論がなおざりにされる懸念はますます高まっているといえる。緊急事態宣言を控える中、人々の事情に関わらず、あらゆる日本人は団結して自粛しなければならぬという同調圧力が高まっている。しかし、当の安倍政権はとなると、これまで権力を政府に集中させておきながら、緊急事態に対して、むしろ決断を回避しようとしているようにみえる。
確かに安倍政権はこれまでも、何もしないことによって、消極的に市民を死ぬがままにさせておく権力であった。それは2018年、台風被害の最中であるのに、「赤坂自民亭」を開催したことからもわかる。しかし今回は流石に、たとえパフォーマンスとしてであっても積極的に緊急事態を宣言し、コロナ対策を機にやりたかったはずの専制的権力の行使を実行すると思っていた。まさか、諸外国が最低限行っているようなコロナ対応を「やってる感」すらださないのは、筆者にとっても予想外であった。かつて宇宙ステーションより上空を飛び太平洋の彼方へと落下したDPRKのロケットに対して、けたたましくアラームを鳴り響かせた政権とは思えない。
ここまで政権が、緊急事態宣言も含め、あらゆる決断を遅延させている点については、考察を深める必要がある。
◆決断力なき「君主」
戦間期ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、バロック悲劇について論じた『ドイツ悲劇の根源』において、17世紀ドイツにおけるバロック悲劇の形式を君主劇と定義した。ベンヤミンは、カール・シュミットの「例外状態」理論(前掲記事参照)の影響を受けており、バロックの王侯がもつ強い君主権は、例外事態を排除し安定をもたらすために措定されたものだと理解する。
ところが、実際に君主に与えられた権能の大きさに比べて、一人の人間としての君主の能力は小さい。バロック劇において、君主は歴史的な運命の波に毅然として立ち向かうのではなく、運命に操られ、殉教者のごとく破滅する。ベンヤミンはシュミットを参照しつつ、シュミットに対して大きな提起を投げかけている。つまり、例外状態において決断する権限を一手に握っている主権者(君主)は、実は決断する能力をもたない、ということである。
「支配者に認められた権力と支配の座についた者の支配能力との相反的関係は、バロック悲劇にひとつの、一見日常風俗的ではあるものの、しかしその実固有の特徴を与えることになったのだが、この特徴は(中略)専制君主の決断力のなさ、ということである。」「彼らの内部で突き上げてきているのは(中略)君主権[の絶対性]ではなく、むしろ、いつ豹変するやもしれぬ激情の嵐の予期しえぬ恣意なのである。」(※)
ベンヤミンはここで、ある特定の時代の演劇形式について述べているだけではなく、主権概念についての普遍的な理念を述べているといえよう。それはシュミットの決断主義モデルに対するアンチテーゼとなる。「主権者とは例外状態において決断を下す者のことである」とシュミットは言った。しかし、主権者は「例外状態」について決断する権能を持っていたとしても、「例外状態」において決断することは、彼の人間的弱さ、優柔不断さがゆえにできない。したがって、決断による原状復帰は行われず、ただただ破滅を待つのみなのだ。
安倍政権が緊急事態宣言を出せない事実を、安倍政権が独裁政権ではない(=コントロールが効いている)理由として持ち出す論調がある。しかし実際は、それは逆であると考えるべきだろう。権力が集中しておりコントロールが効かない政権だからこそ、安倍政権は決断力を欠いているのだ。優柔不断な政権の「控えの間」において、様々な「陰謀」はうごめく。お肉券やお魚券。オリンピックに旅行券、あらゆる団体が自分の利権を通すため、非公開の世界で跋扈する。シュミットはこれを「弱い全体国家」と呼んだ。
「弱い全体国家」とは、本来はシュミットによれば、「永遠の討論」の場と化した、決断不能な議会制民主主義の中で生じるはずの現象であった。シュミットは「弱い全体国家」を、国民を代表する決断可能な指導者を「憲法の番人」として設置することで克服しようとした。しかし、ベンヤミンのモデルによれば、権力の集中はむしろ決断不能な指導者を誕生させてしまうのである。彼は「憲法の番人」であるどころか、むしろ法破壊的である。したがって、私利私欲にまみれた利権政治家・利権団体が跋扈する「弱い全体国家」は続いてしまう。
「例外状態」を目の前にして全くの決断力を欠き、現実逃避する首相を持つ我々は現在、バロック的な、破綻した物語の中にいるのだ。世間のマスク不足が明らかになってからおよそ2か月後、「安心感を与えるため」と称し全世帯に布マスクを2枚ずつ配るという方針を決定する首相、コロナ終息後に配布する予定の商品券の名称に悩む首相を映画やドラマの中に登場させたとするならば、それはあまりにもリアリティを欠いているものとして、酷評されてしまうのではないだろうか。しかし今や、それが現実なのである。
◆「緊急事態」に対する人権と法の優越
カール・シュミットはこうしたベンヤミンの提起に対して、応答を行っている。ベンヤミンの悲劇論文に直接言及したのは、1956年に出版された『ハムレットもしくはヘカベ』が初めてなのであるが、間接的な応答だと思われるのは、1942年に出版された『陸と海と』の中にある。シュミットは、バロック悲劇の継承者と目されている劇作家フランツ・グリルパルツァーの『ハプルブルク家の兄弟げんか』の主人公、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世について、おそらくベンヤミンを念頭に、決断能力を欠いた主人公であったと評価したうえで、彼のことをカテコン(抑止する者)であったとみなしている。
カテコンとは、聖書に出てくる概念で、終末を遅らせる者の意である。シュミットはルドルフ2世について、当時のドイツが宗派対立によって引き裂かれる中で、消極的な行動をとり続けるしかなかったが、三十年戦争の勃発を少なくとも10年遅らせた功績はあったと述べている。
「抑止する者」の形象は、皮肉な意味で安倍政権にも当てはまるだろう。安倍政権は検査数を絞り、潜在的な市中感染者を数字の上では出さない方針を取っている。首相が休校要請の際に述べた「正念場たる1~2週間」は永遠に引き延ばされ、収束がもはや絶望的になり、感染者が指数関数的に増加していても、「まだ持ちこたえている」のである。もしかすると破局はすでに訪れているのかもしれない。しかし少なくともこの政権は、その破局を認識することを遅らせ続けている。
1940年代にはシュミットは、既に単純な決断主義モデルの採用をやめている。その代わりに彼が採用するのは、ノモスと呼ばれる、主権者が決断を行う際の基準となりうる法的な空間秩序である。ナチス政権の枢密顧問官であったこの法学者から何かヒントを得ようとするならば、我々は通常状態や緊急事態といった区別に優越する空間秩序を措定しておくことができるということだろう。
思想史的な正確さでいえば、『暴力批判論』によってかかる秩序の措定をベンヤミンが批判している以上、これはベンヤミンに対する解答にはなりえない。だが、これを中国や韓国などの東アジア諸国、あるいはドイツなどのヨーロッパ諸国と日本との比較で考えるならば、問題の本質を説明する思考モデルとしては分かりやすくなる。
つまり、「緊急事態」に効果的に対応できているか否かの違いは、「緊急事態」において柔軟に対応しうる強力な主権者を準備しているかではなく、通常状態において、いかに規範的な思考をクリアに出来ているかの違いであるということだ。中国やシンガポールのような権威主義体制であれ、ドイツをはじめとするヨーロッパの民主国家であれ、いずれにせよ何らかの法的理念のもとで危機に対応していることはわかる。もちろん、法的理念は民主主義的であり、人権を擁護するものであるほうが望ましいのは言うまでもない。
人権や法が緊急事態に優越するところでは、物事の優先順位はクリアになり、最悪の状況の中でも市民の生命と生活を守ろうとする合理的な政治が成立する。人権を欠いている権威主義体制では、その合理性は市民に対して過酷なものとなってしまうかもしれない。
日本は、安倍政権下のここ数年間で、人権を守らねばならぬという意識も、権力は法に従わなければならぬという意識も、両方が失われた。そして権力者と従順な臣民しかいなくなったところでは、決断能力を欠き右往左往し、あるいは「遅らせる者」として、ひたすら現実逃避するだけの無能な政府が残る。
緊急事態宣言は出されるのかもしれない。しかし、たとえ宣言が出されたとしても、それによって我々の生が権力に従属するわけではないし、政府が信頼に足るものになるわけではない。我々はいかに迂遠な道だと思われたとしても、人権や法の理念を再び取り戻さなければいけない。そうでなければ、コロナウイルスにかかって死ぬより、政治によって殺される確率のほうが高いからだ。
(※)ヴァルター・ベンヤミン、浅井健二郎訳『ドイツ悲劇の根源 上』筑摩書房、一九九九年、一三一頁。
<文/北守(藤崎剛人)>
【北守(藤崎剛人)】
ほくしゅ(ふじさきまさと) 非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82