75年前、広島に落とされた原爆は一瞬にして日常を奪った。あたり一面に散らばる遺体、後遺症に苦しむ人たち。原爆の生き証人の父から、その恐怖を伝えられてきた。被爆2世で滋賀県草津市に暮らす会社員、中村典子さん(62)。6日の平和記念式典に同県代表として参加し黙祷(もくとう)をささげる予定で、「地獄のような光景が実際にあった。原爆の恐ろしさを子供たちへ伝えていくことが私の役目だと思う」と平和への思いを新たにする。(清水更沙)
13年前に80歳で亡くなった父の雪治喜(ゆき・はるき)さんは、当時18歳。爆心地から約1・5キロ離れた学校で陸軍船舶部隊(暁部隊)の通信兵として訓練を受けていたときに被爆した。激しい爆風で校舎が破壊され、雪さんをかばうように覆いかぶさった教官は亡くなった。雪さんは一命を取り留めたが、右足の親指以外の指がすべて吹っ飛び、野戦病院で縫合の緊急手術を受けた。
「父の足の指はあっちこっちに曲がっていて、ずっと不思議だった。後で理由を知り、原爆の恐ろしさを感じた」と中村さん。
右足が完治しないまま、雪さんはすぐに救護活動に駆り出された。周囲は見渡す限り焼け野原。倒壊した建物の壁には吹き飛んだ遺体がこびりついていた。助けようと抱きかかえた子供の体は焼けただれ、野戦病院に着いた頃には亡くなっていた。「水をくれ」と懇願する負傷者らは、やがて息を引き取った。雪さんはその惨状を「地獄絵図だった」と語ったという。
中村さんが雪さんの被爆経験を初めて聞いたのは小学3年のころ。その後、雪さんとともに2度、広島市を訪れて資料館や復興した街並みを見て回った。終戦直後には「今後70年は草木も生えない」と言われた広島。雪さんは活気あふれる広島の街を見ながら「本当によかった。もう二度と繰り返してはならない。原爆の被害はぼくらで十分だ」と涙を流した。
雪さんは原爆の熱風を吸い込んだことによる後遺症で、呼吸器疾患に悩まされた。原爆の影響は、娘である中村さんの身体もむしばんだ。生まれつき呼吸器が悪く、今も通院の日々が続く。出生時には、両手の指が6本ずつあった。「被爆者からは障害のある子供が生まれる」と差別もあった時代。すぐさま手術で指を切断したため、中村さんはそのことを知らずに育ったが、雪さんは「自分のせいで丈夫な子に産むことができなかった」と自身を責め続けた。
「原爆は落とすのは本当に一瞬だが、その苦しみはずっと続いていく。それが核被害の恐ろしさだ」と訴える中村さん。父から聞いた経験は自身の子供にも伝えており、現在小学4年の孫にもやがて話をしたいと思っている。「怖いと思うかもしれないが、これは実際に起きたこと。伝えなければならないと思う」
雪さんは毎年、広島市への訪問と靖国神社への参拝を欠かさなかった。「生涯を通じて、あの戦争で、原爆で犠牲になった人のことを気にかけていた」と話す中村さんは6日の平和記念式典に、父の遺影とともに参加する。父が被爆したという学校跡も訪れ、戦没者を悼みながら平和への祈りをささげたいという。