―[言論ストロングスタイル]―
◆どの命を救うのか、決めるのは予算の都合だ。どこかで諦めねばらない
医療政策の基本を述べる。どの命を救うかは金次第である。この現実を受け入れられないコドモは、以下の文章を読んでも何も理解できないであろう。
医療従事者は「すべての命を救いたい」との倫理観で仕事に向かうのが建前だ。だが、現実にはすべての命は救えない。あらゆる命は、いつか死ぬ。だから、「命は貴い」は医療政策において、重要性の証明にならない。
たとえば、交通事故に遭った人の命も、インフルエンザで死にそうになっている人の命も、新型コロナウィルスで苦しんでいる人の命も、等しく重要だ。
ではどこで差をつけるのか。カネだ。救急医療に予算を割くのか、クリニックの人件費に財源を回すのか、はたまた隔離病棟に資源を投入するのか。いずれにしても、医療問題を政策として論じる場合、議論の決着は、どこにどれだけの予算を配分するかに収斂される。仮にすべての命を救おうとしよう。国家予算は一日で破綻する。
現実を突きつける。どの命を救うのか、決めるのは予算の都合だ。どこかで諦めねばならない。これを判断するのが大人だ。
◆カネが無ければ命は救えない
では、その予算はどこから発生するのか。経済力である。個人においても寿命はカネで延ばせるし、経済力のある国では救える命の数は増える。では、国家経済そのものを止めればどうなるか。医療そのものが行えない。世の中には「命も経済も」という愚かな議論がある。だが、カネが無ければ命は救えない。この点を無視するから、いつまでたってもコロナ禍は収束しないのだ。
そもそも、新型コロナが国家経済そのものを止めるほどの疫病だと、誰が証明したのか。昨年の緊急事態宣言の際は未知の伝染病との理由は立った。だが、コロナ禍から1年。ペストのような危険な伝染病だとの証拠はあるのか。なければ、経済を止める合理的理由はない。
別にコロナが安全だと言っているのではない。証拠はあるのかと言っているだけだ。経済を止めるのを政府とアドバイザーの専門家と称する連中は軽く考えていないかと言っているだけだ。
名指しする。なぜか神聖不可侵の如く扱われる、誰もが認める政府の助言者である尾身茂氏だ。尾身氏は一貫して新型コロナの危険性を訴えてきた。今回の緊急事態宣言でも主導的役割を果たしたのは日本中の誰もが知っている。
結果、飲食業が狙い撃ちにされて、なけなしの補償金だけが出る仕儀となった。その中で尾身氏は「皆が自粛に耐えられるような補償を」と訴えている。御立派だ。ここだけを取り出したら。
だが、つい最近までGoToキャンペーンをやっていたのは誰か。日本政府ではないか。それが手のひら返しだ。尾身氏にまったく責任はないのか。
◆日ごろ「戦争で殺されても、憲法9条を守れ」と吠えている護憲派は、どこに行ったのか
補償にしてもそうだ。皆が自粛に耐えられるような補償金とは、売り上げの全額補償だ。政府内には「銀座のクラブの売り上げまで全額補償すれば財政支出は青天井になる」との声があり、中途半端な補償に留まっている。
しかし、ペストのような国家経済を止めざるを得ないような疫病ならば、銀座のクラブに全額補償をしてでも自粛させるべきではないのか。財源など、100兆円でも1000兆円でも、国債を刷って借金をすればいいではないか。尾身氏は、それを主張したのか? していないならば、新型コロナとは、その程度の存在なのか?
ここで、「銀座のクラブにも全額補償せよ」を極論と思うだろう。その通り、極論だ。ただし、憲法論では当然の議論である。
日本国憲法第29条は「財産権は、これを侵してはならない。」との原則を示している。ただし第2項で「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」と例外を定める。公共の福祉とは「みんなの為」だ。国民が選挙で選んだ議員が定めた法律によってのみ、国民の権利を制約できると例外を定めている。そして第3項で「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」と条件も定める。
◆正当な補償とは何か
では、正当な補償とは何か。実は通説はない。学説では大きく二つの説がある。一つは全額補償説。みんなの為に個人の神聖な権利である財産権を制約するのだから、市場価格に応じて全額補償すべきであるとの考え方だ。憲法典の条文を素直に読めば、この解釈になる。
もう一つは相当補償説。同じ理由で、補償額が市場価格を上回っても構わないとの考え方だ。これを「本来の相当補償説」と呼ぶ。
だが実務上は、補償額が市場価格を下回っても構わないとの考え方が支配的だ。最高裁判例など実務では、こちらが相当補償説とされる。
ここまでは1億円の売り上げを犠牲にさせる時に、1億円を満額払うか、上回っても構わないか、多少は下回っても構わないかの議論だ。
◆GHQが行った農地改革
ところが、憲法学の教科書には、例外中の例外が載っている。農地改革だ。ダグラス・マッカーサーらGHQが行った農地改革では、土地を奪われ、多くの地主が没落し、身売りや自殺が続発した。1億円の土地を500万円で買い叩かれれば、そうなるのが当然だろう。
しかも連中は補償をしなかった。これを最高裁の判例は「本当は補償が必要だがGHQのやったことなので仕方がない」と述べる。そして、憲法学は「ダグラス・マッカーサーは先例にしてはならない」とばかりに記す。
では、今次コロナ禍の補償は、ダグラス・マッカーサー以来の愚挙ではないのか。
日ごろ「戦争で殺されても憲法9条を守れ」と吠えている護憲派はどこに行ったのか。ならば「コロナとの戦争」でも同じことを言うべきだ。それが過激だと言うなら、せめて29条を守らせるよう、訴えてはどうか。
◆「コロナは危険だが補償金は出さない」は最悪の政策
仮に新型コロナが日本経済を止めねばならないような危険な伝染病だとしたら、自粛する業者に固定費だけでも全額補償する程度の相当補償は不可欠だろう。
憲法は簡単に個人の財産を取り上げる、今回のような損害を与えるようなことを政府に認めないように作られているのだ。
現在の「コロナは危険だが補償金は出さない」は最悪の政策であり何の整合性も無い。だからこそ、基本に戻っては如何か。
【倉山 満】
’73年、香川県生まれ。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務め、’15年まで日本国憲法を教える。現在、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰し、大日本帝国憲法や日本近現代史、政治外交について積極的に言論活動を行っている。ベストセラーになった『嘘だらけシリーズ』のほか、最新著書に『保守とネトウヨの近現代史』がある
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