東日本大震災からあす11日で10年。総務省消防庁によると、岩手、宮城、福島3県では、避難誘導や水門閉鎖などに当たっていた消防団員254人が津波で命を落とした。被災後は行方不明者の捜索などで多くの団員が活動した。
現在、沿岸市町村では、津波到達の前には危険地域から退避することなどを定めたマニュアルが策定され、安全対策が図られている。
多大な犠牲から教訓を学び取り、変わっていく事柄がある一方、10年になる今も、遺族の思いは変わらない。
岩手県陸前高田市では、津波で亡くなった高田分団第1部の団員11人の鎮魂碑が設置され、10日、法要が営まれた。同市消防団は市町村で最も多い51人が死亡している。当時36歳の息子を亡くした石川はつ子さん(72)は話す。「残った消防団のコートを胸に抱えることしかできなかった。生きているうちに何度でも抱きしめてあげれば良かった」
◇
東日本大震災の津波で、消防団員だった息子を亡くした岩手県陸前高田市の夫婦は、出動を止められなかったことを、今も悔やんでいる。建てられた鎮魂碑の前で10日、法要が執り行われ、夫婦は思いをかみしめた。「生きていてほしかった。一緒に酒を飲んで語り合いたかった」(盛岡支局 西村魁)
夫婦は、石川恭介さん(76)と、はつ子さん(72)。同市消防団員だった長男
恭隆
( きょうたか ) さん(当時36歳)を津波で失った。恭隆さん一家とは、2世帯住宅で一緒に暮らしていた。その自宅も津波で全壊した。
震災当日、大きな揺れに襲われてすぐ、恭隆さんは家に戻った。はつ子さんは、スーツから
半纏
( はんてん ) に着替えて消防団の屯所に向かう恭隆さんを見送った。避難所設置を手伝い、外で住民を誘導している間、海方面に向かったと思われる息子が気がかりで仕方なかった。
海側から戻ってきた消防車に乗った団員らを見て、ほっとしたのもつかの間、そこに息子の姿はなかった。いよいよ携帯電話にかけようか迷って間もなく、津波で巻き上がった土煙に気づいた。恭隆さんの息子、当時3歳の孫を抱えて高台に走って逃げた。
5日後、遺体安置所で恭隆さんのなきがらと対面した。「あの時、電話で『こっちに戻ってこい』と伝えてあげていれば」。はつ子さんの後悔は尽きない。