200人以上の政治家に500万円ずつ配った“兜町の風雲児” 稀代の相場師が失墜した理由とは

投資会社社長がアイドルに渡していた“7000万円”もの大金…様々な噂が飛び交った“奇妙な関係”の真相 から続く
自社で発行する証券関連雑誌で「絶対に儲かる」株式売買のテクニックを披露し、巨万の富を築き上げていた投資家の中江滋樹氏。「体を揺すれば大金が出る」とまでいわれるほどの金満ぶりで各界にその名を轟かせていた。元プロ野球選手の金田正一氏、日本マクドナルド創業者の藤田田、政治家の徳田虎雄氏……。その交遊関係は実に幅広い。
ここではジャーナリストの比嘉満広氏が、中江滋樹氏本人へのインタビューを行い、同氏の生涯についてまとめた著書『 兜町の風雲児 中江滋樹 最後の告白 』(新潮新書)を引用。羽振りが良く、豪放磊落だった男の素顔、そして表舞台から姿を消すことになった理由を明らかにする。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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各界に広がる人脈、多彩な交流
お金と情報の集まるところには人も集まるのが世の習いだが、“風雲児”の呼び名が示す通り、相場以外ではいたって天真爛漫な中江の周りには、気がつけば様々な著名人との交遊が広がっていた。以下、ざっと見ていこう。
プロ野球界の重鎮だった金田正一とは丸国証券の役員を介して知り合い、常連だった銀座のクラブ「サード・フロアー」で酒席をともにするようになったという。
「僕を見つけると嬉しそうに席を移動してきて、一緒に飲んでたね。そうなると支払いは僕になるんだけど、400勝投手という偉大なプロ野球人なのに、気さくで楽しい人だったな。金田さんは投資ジャーナルの会員ではなかったから、お金を預かったことはなくて、あくまで個人的な付き合いだった。株のこともしつこく聞かれたけど、適当にはぐらかしてた。僕は金田さんに限らず、個人的に人に銘柄を勧めるような話は一切しなかったからね。
それと一度、『お嬢が会いたいと言っているが、どうする?』と言われて、誰のことだかわからなかったんだけど、『お嬢』とは美空ひばりさんのことだった。芸能界の大御所と呼ばれる女王みたいな人、さすがに怯んで丁重にお断りしたけど、会っておけばよかったと惜しい気持ちもあるよ」
日本マクドナルド創業者からの助言
中江と親交のあった中には外食ビジネスの大成功者もいた。ハンバーガーを日本に定着させた日本マクドナルド創業者の藤田田には、様々なアドバイスを受けたという。藤田は「投資ジャーナル」の会員で幹部に担当を任せていたが、中江に直接会いたいといってきてから月1回ほどの割合で会うようになったという。藤田が行きつけの料亭に中江を誘うこともあれば、中江が「川崎」に招くこともあった。
「藤田社長は僕に株のことを聞きたがっていたけど、何せ相手はカリスマ経営者だから控えめに話していた。『中江君の相場観はすごいな』と言われた時は正直うれしかったね。最初に会った時に藤田さんの著書『ユダヤの商法』を読んで目覚めました、とおべっかを言ったのを覚えてる」
藤田からは様々なことを教えてもらったそうだが、今も忘れられないことがある。
「わが社では年に1~2回、マスコミ対策で関係者を招待してパーティを開いている。後で配る土産も用意して、マスコミとの関係をうまくコントロールしているんだ。君にはそういう発想が足りない。経営者として、世間に対して自分の会社をどのように守っていくかを考えなさい、一度うちのパーティに来てみたらいい」
そう藤田に諭されたという。
相場師としての信念
「残念ながら行く機会はなかったけど、今思うと、藤田社長の教えを生かせなかったから、その後マスコミの袋叩きに遭ってしまったんだよね」
もっとも相手の地位がどうあれ、中江には相場師として信念のようなものがあった。一度、藤田から「投資ジャーナル」で10億円くらい株投資をしてみようか、と言われたが、きっぱり断ったというのだ。
「僕は、実業家に株投資を教えるのはダメだという信念がある。実業家が株で儲けることを覚えてしまうと、儲けを手に入れるなら株のほうが早いと知ってしまうのね。実業家というのは日々の1円、2円の積み重ねで儲けているわけで、株で何百億も入ってきたりすると勘違いする。株に関心が向いて、本来の1円、2円の心が消えていってしまう。だから実業家に株投資を教えてはいけない。たとえ藤田社長であっても10億円は断り、株も勧めなかった」
政界とのつながりも
奄美出身で、医療界の改革を唱え、その後は政治家となった徳田虎雄とも親交があったという。今では国内最大の民間医療グループ・徳洲会を創り上げた立志伝中の人物で、政界スポンサーとして特異な活躍をしたことでも知られる。
1983(昭和58)年暮れに行われた衆院選で奄美群島区に初出馬した徳田は、現職の保岡興治(自民)との間で熾烈な選挙戦を展開、約1000票という僅差で徳田が落選する。島中に現金が飛び交う激しい金権選挙は、「保徳選挙」として語り草になった。
「徳田さんは『川崎』で会った後も話し足らないのか、僕と一緒に宗千代のマンションに毎日のようにやってきては、初めて選挙に出て、徳之島を真っ二つにして大喧嘩をやらかした末に負けた。その悔しさを繰り返し愚痴ってたね。小さな島なんだから、そんなに喧嘩しないで仲良くやればいいじゃないって慰めていた。株についての相談事も多かったけど、個人的に株を勧める気はなかったから、適当に相槌を打ってごまかしていたけどね」
戦後政財界の黒幕、フィクサーなどと呼ばれる一方、社会奉仕活動にも熱心だった日本船舶振興会の笹川良一会長とも意外な交流があった。
「僕からアプローチしたわけじゃなかったけど、笹川会長から会いたいと言われたのが最初。それからは、ちょっと来てくれ、と呼び出されると船舶振興会のビルにある会長室を訪ねるの。でも特に話があるわけでもなくて、いつもとりとめのない雑談をするだけなんだ。相場のことで忙しいのに、いいから遊びに来い、と週に二度も三度も呼び出されたな」
ユリ・ゲラーとの食事
中江の手配でユリ・ゲラーが来日した際には、笹川会長の希望で、ユリを連れて一緒に食事をすることになった。場所は、船舶振興会のレストランにあった会長専用の特別室。笹川会長はユリに、「沈没船ナヒモフ号のことだが、あの船の金塊はどこにあるのか」などと聞いていたそうだ。
食事の最中、ユリがいきなり太いナイフをつかんで笹川会長の目の前に突き出した。するとナイフをこすりもしていないのに、柄の根元からポキンと折れてしまった。あたかもハンダが溶け落ちるかのようだったという。
「刃が落ちた時の、笹川会長の顔が一瞬固まって、いったい何が起きたんだ? という驚きの表情が忘れられないよ。ユリに『何で折れたんだ?』と聞くと、『分子が離れて違う世界に飛んでいったから』だってさ。何を言っているのか理解できなかったね。『スプーンだけでなく、テレビでも今のナイフを折るのをやればいいじゃないか』というと、『テレビでは精神が集中できないからダメだ』と言ってたね」
バラ撒かれるカネ、狂いだす収支勘定
中江の名が政財界に広く知られるきっかけは、やがては“オヤジ”と呼ぶまでに慕ったテレビ朝日専務の三浦甲子二(きねじ)の存在だった。三浦を介して毎晩のように政財界人の会合に呼び出され、名が知られるようになっていく。先述のように、最初こそ「農協遊びの若造」と怒鳴られたが、互いにさっぱりした性格でよく気が合ったという。
中江がいつものように「川崎」で自分の客を接待している。そこへ三浦から「すぐ来い」と呼び出しがかかり、指示された店に行くと、たいてい政治家や官僚、財界人らの会合が終わった直後で、その場で中江を紹介してくれたという。
「オヤジには毎日のように色々な会合に呼んでもらったな。田中先生のいる会合の時もあったし、当時の政党幹部のほとんどと顔を合わせているはず。それまで自民党の副幹事長という人が何人もいるとは知らなかったよ」
ある時呼び出された席に、交友関係の広さで「財界幹事長」と呼ばれた今里広記・経済同友会終身幹事がいた。ヨレヨレの背広に長髪、髭面は中江のトレードマークみたいなものだったが、今里には「髭を剃れ、髭を生やしているやつは信用できない、詐欺師だと角栄が言っているぞ」と言われたこともあった。
1982(昭和57)年、鈴木善幸の突然の退陣を受けて、中曽根が総理の座に就く。「直角内閣」「田中曽根内閣」と揶揄された田中の影響力が強い政権に追い討ちをかけるように83年10月、田中に実刑判決が下された。判決直後の12月の総選挙で自民党は敗北を喫し、中曽根は新自由クラブとの連立でかろうじて政権を維持したが、84年10月の総裁任期満了に伴う中曽根再選をめぐって、田中派と反田中派の駆け引きが活発化していった。
「あの頃、オヤジが色々な会合に顔を出していたのは、親しかった田中先生のために他の派閥の政治家の動きを探っていたのかもしれないな。オヤジはテレ朝近くの金谷マンションに自分の部屋を持っていたから、赤坂の会合後は毎日のように僕の車で送って行った。それからオヤジの部屋で話すことも少なくなかったけど、表社会の裏の部分をよく知っていて、清濁併せ呑む人だったよね」
そんな状況下で、中江はある有名な予言者を日本に招待した。もともと超能力というものに興味があったこともあり、ユリ・ゲラーに次いで来日させたのが、ケネディ暗殺予言で有名になった予言者ジーン・ディクソン女史だった。表向きは日本テレビの番組出演だったが、滞在諸経費はまたも中江が出していた。
来日に際しては、赤坂の料亭「佳境亭」で青年会議所の経営者を集めて食事会が開かれた。その会に出席していた三浦が、ジーンに「中曽根政権はどうなりますか?」と聞くと、彼女は「案外、長く続きます」と返答。それを聞いた三浦は喜び勇んで田中に電話で伝え、「中曽根は続くと言っている、すぐに彼女を会わせるから」と言って、その場からジーンを連れて行ってしまったそうだ。
「オヤジや田中先生は中曽根を続投させるかどうか思案していた時だったから、予言者の言葉がよほど嬉しかったんだろうね。実際、続投でそれから中曽根政権は5年続いたから、彼女の予言通りになったわけだ」
名刺代わりに渡していた500万円
永田町に中江の名が知られるようになった頃、中江は名刺代わりに500万円をくれるらしいという噂が広がっていた。それはほぼ事実だったという。
「オヤジに紹介された政治家に金を差し出すことはなかったし、そんなことしたら怒られるよ。むしろオヤジとは関係のない、若手政治家がよく来るようになったね。
兜町の事務所に訪ねてくると、その場で500万円を渡した。現金で渡すと、みんな驚いて目を剥くのが面白かったんだ。ホテルのレストランで会うこともあったし、封筒に入れて渡したり、目の前で札束を並べてみせたりもした。当時はそんな金ぐらい、相場で100万株を買い増せばいい、どうってことないことだったんだ。
訪ねてくる理由は、選挙に出るのでご支援よろしくお願いします、というのが多かった。色々な政治家が挨拶に来たけど、事件になってからは誰からも何の連絡もない。政治家なんてろくなもんじゃない、つくづくそう思ったよ」
10倍融資の金融業は“白に近い黒”
そうやって名刺代わりに配った総額は「10億円はある」というから、累計200人くらいの政治家に配っていたことになる。そうした名刺代わりの札束から、遊興までを含めた中江の資金力を支えた「10倍融資」、そのスタートからの約2年間が「投資ジャーナル」にとってのピークだったことになる。
「何度でも言うけど、10倍融資の金融業は“白に近い黒”、証取法違反になる前に止めようと何度も思ってはいたのにズルズルいってしまい、止められなかった。
甘かった見通し
あの頃はいつもその日の儲けを見て、どんぶり勘定で計算していた。ところが、客の預かり金と儲け分をざっと計算してみると、預かり金すべてを返金しても5億くらいのプラスと見ていたのが、経理の報告を見ると儲けがやけに少ない。悪くてもプラマイゼロになってないといけないのに、預かり金より10億ほどもマイナスになっているので、プラスにするまで止められないと思っていた。おかしいなと思ったんだ。実は幹部連中がちょろまかして抜いてたんだよ」
会員は増え続け、資金もふんだんに集まってはいたが、中江自身が終始、内心ではビクビクものだった。
「会員が3万人はいて、金融業を始めてからは毎月2億円の宣伝費をかけて広告もバンバン打っていた。心の中では半分危ないと思いながら、政治家とつながっておけば当局の動きを抑えられるだろうと思っていた。だけど逆だったよ。政治家とつながっていたから余計に大きな事件になってしまった……」
相場の読みにかけてはプロでも、前途の暗転まで見通すことはできなかったのだ。
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(比嘉 満広)