「オリンピックが開催できる状況ではない。その決定的理由とは」公衆衛生の第一人者が断言《渋谷健司氏緊急寄稿》

《IOCバッハ「犠牲」発言の波紋》渋谷健司氏緊急寄稿「日本は東京五輪を中止し、疲弊した医療を変革すべき」 から続く
開幕まで約2カ月と迫った東京オリンピック・パラリンピック。はたして日本はIOCの判断に身を委ねていいのか。公衆衛生の第一人者で現在相馬市新型コロナウイルスワクチン接種メディカルセンター長の渋谷健司氏は、「ワクチン接種も今のペースでは、到底間に合わない。逼迫している医療体制は、これ以上の感染拡大に対応することは難しい。五輪は中止すべきだ」と断言する。必読の緊急寄稿。(前後編の 後編 )

コロナで一気に噴出した医療界「積年の矛盾」
筆者が2017~19年に厚労省に設置された「医師の働き方改革に関する検討会」の副座長を務めたときに、特に、大学病院や急性期病院で働く医師の想像を絶する過酷な労働環境をなんとか変えようと多くの方々と努力を続けた。当時の日本医師会、各種団体、そして、厚労省も前向きに全力で頑張ってくれた。
働き方改革の機運も高まり、地域における病院機能の「選択と集中」による非効率性の是正、労務管理、臓器別でない総合診療医の育成、医師の仕事を看護師に委ねる“タスクシフト”、医療需要の是正、などの具体策を提案した。これらは働き方改革の観点から提案されたものであるが、今になってみればコロナ対応における我が国の医療体制の弱点を補正するものであったともいえる。
しかし、この具体策の実現の前に、コロナ禍で一気に積年の矛盾が噴き出し、医療供給体制は一気に瓦解してしまった。しかも、「医師の働き方改革は先送りすべき」といった改革に逆行するような意見が、一部の政治家や日本医師会関係者から出ているという話を聞く。これは、日本の医療供給体制に死刑宣告をするようなものだ。
薬剤師にワクチンを打たせない「医療行為のタブー」
ワクチン接種で、今最も必要なのはワクチンの打ち手の確保だ。新型コロナワクチンを打つための筋肉注射は、最低限の医学的知識は必要であろうが、少し訓練すれば医師でなくても対応可能な技術だ。では、なぜ、英国では日常的に行われているように、薬剤師はワクチンを接種することができないのだろうか。
注射の経験のない薬剤師でも、簡易な講習を受ければ十分に対応可能と考えられる。英国では当たり前のように以前から行われているし、我が国の薬剤師関係者の方に伺っても「講習での指導があれば対応できる」と言う方が多い。街の薬局で気軽にワクチンを打つことができればどんなに楽なことだろうか。かかりつけ医にとっても、通常の診療に加えてワクチン接種の希望者が押し寄せたら大変だ。
しかし、医師法を盾にした日本医師会の反対でこうした医師以外の職種が医療行為を行うことはタブーとされてきたし、今も薬剤師はワクチンを打つことはできない。だが、今は有事だ。このような平時の発想では、国家的危機を乗り切ることは難しい。医師会は、政府や国民に様々な要望・要請を行うだけでなく、率先してこうした改革を政府や国民に提案すべきではないか。
差が出た「日英の病院」決定的な違いとは?
感染者数が多く被害も甚大であった英国だが、医療崩壊を防ぐことができたのは、有事の医療供給体制を迅速に準備できたからだ。1週間程度の短期間で、国内の医療体制をコロナ対応へとシフトさせ、コロナ専用病床の確保、ICUの増床、さらに、コロナ専用仮設病院を全国に設けた。
これは、英国の病院が慈善団体や教会などから発展していった歴史があるために、その9割以上が公的病院であり、トップダウンで組織を動かすことができるからだ。日本は、逆に、多くを民間病院が占めており、また、「広く、薄い」非効率的な供給体制のため、民間病院に有事での協力を強制する法律が整備されない限り、有事対応がそもそもできないのだ。
しかし、こうした課題は当然認識されていた。昨年7月には厚労省はコロナ患者数の予測に基づく医療体制の確保のための計画を公表し、また、8月には自民党の行革本部(塩崎恭久本部長)やガバナンス小委員会(武見敬三委員長)は、感染症法の改正を提案した。具体的には、厚労大臣と知事に重症患者等の受け入れ要請・命令権限等を司令塔として付与し、広域調整可能な体制の構築、重症患者受け入れなどの情報を積極的に公開するような画期的な制度が盛り込まれていた。
筆者も検査の拡大と医療提供体制の再構築の必要性について繰り返し発信してきたが、当時は緊急事態宣言も解除され、秋冬に向けた本格的なコロナ禍に対して準備をする絶好の機会であった。しかし、「日本モデルの成功」、「ファクターX」、「コロナは風邪」などの根拠なき楽観論が広がり、経済優先の対応が行われ、日本のコロナ禍への本格的な備えはほとんど進まなかったことが悔やまれる。
特に、感染症法の改正は、これまでの感染症研究所を中心とした体制に変革を迫るものであり、既得の権限の見直しを嫌った厚労省や感染症研究所関係者によって骨抜きにされてしまったと聞いている。
英ジョンソン首相は支持率回復。人々の表情も明るく
英国の場合、日本よりも強力なロックダウンができるが、逆に、制限を緩めるとすぐに人が密集し、マスクをしないなど、人々の行動のコントロールは難しい。感染経路の遮断を目的とした「国民の我慢」に頼る対策のみでは限界があることは明らかであった。
英国ではワクチン接種と検査の拡大を軸とした「正常化への道」、そして、ロックダウンからの出口戦略(ロードマップ)が国民に明確に示されることで、国民は安心を得ることができており、日に日に人々の表情も明るくなっているのが印象的だ。そして、感染抑制効果が明らかになるにつれて、昨年11月には34%と低迷していたジョンソン首相の支持率も、5月10日の世論調査では48%と大きく回復している。
日本では英国的なロックダウンはできないが、3密回避などの行動制限やマスク、手指消毒など感染経路の遮断を目的とした人々の自主的努力や飲食店への休業要請、そして、症状のある感染者のクラスター対策を軸とした対応を行ってきた。しかし、結局、自粛と緊急事態宣言を繰り返す結果となり、検査拡大と水際対策による「ゼロ・コロナ」戦略を取ったニュージーランド、豪州、台湾、中国、ベトナムのような成果を上げることはできなかった。
日本政府は「ロードマップ」を示せ
特に、これまでの対応の限界や医療提供体制の構造的課題が、感染力の高い変異株による第4波で露呈した。緊急事態宣言を発令しても、国民の側が「今回も効果はない」と不安を募らせ、我慢しているのに報われないため、自粛疲れや不満が強まっており、国民の自主的努力に頼る政策の効果はより限定的になっている。また最前線で戦う医療関係者の皆さんも限界に来ていることだろう。
何よりも、自粛と緊急事態宣言を繰り返すことで社会経済が疲弊している。こうした時こそ、政府は「ロードマップ」のような形で先の展望を示すことが重要であり、ワクチンの迅速な接種や検査拡大など、国民の自主的な努力のみに頼らない積極的な政策を推進すべきだ。構造的な弱点を抱えていた我が国では、こうした有事対応の将来スケジュールを詳細に設定するのには様々なハードルはあると思うが、今からでも是非トライしてもらいたい。
今や日本は人口当たりの「新規感染者数」で英国を上回った
新型コロナの感染者は日本は欧米に比べて桁違いに少ないといわれていたが、今や人口当たりの新規感染者数では英国を上回っており、また、欧州の主要国に比して、陽性率(全検査数に占める検査陽性者の割合)が高い状況が続いている。ワクチン接種や検査拡大が遅れに遅れている状況の中、東京五輪の開催の是非に関する議論がますます盛んになっている。
筆者らは4月に英国医学会雑誌(BMJ)に「東京五輪を再考すべき時」という論考を発表した。それは、イデオロギーや感情的議論ではなく、科学的かつ現実的な議論を今こそ行うべきという考えからであった。だからこそ、どのような条件であれば国際的な大人数のマルチスポーツイベントが開催できるのか、そして、今の日本や世界がその条件を満たすことができるかどうか、ということを冷静にかつオープンに議論し開催の可否を判断すべきだ。
しかし、いまだに、こうしたオープンな議論はなされずに、開催まで残り10週間を切り、なし崩し的に開催に向けて進んでいるようにも見えてしまう。恐らく政府をはじめとする関係者は、アスリートの雄姿を世界中の方々が楽しむ場を残すことができないかとギリギリまで見極めをしようとしているのではないかと思うが、開催するかしないかの感情的な対立は全く生産的ではない。何よりも、オープンな議論ができない状況は日本にとってもマイナスだ。
「五輪は開催できない」と言わざるを得ない決定的理由
「無観客ではどうか?」「選手団の行動を制限してはどうか?」等、関係者の皆さんは、なんとか開催に向けた条件整備に尽力されていることとは思うが、残念ながら、現在の状況をつぶさに分析すると、五輪を開催できる状況にはないと言わざるをえない。
まず、世界的な変異株の蔓延で、多くの国々ではコロナ禍が収束していない。既に海外からの観客は受け入れないことになっており、大会期間中、選手団への頻回検査が検討されている。選手や関係者へのワクチン接種も発表されたが、ワクチンは感染を完全にコントロールできるものではなく、また、全ての選手や関係者がワクチンを打つとは限らない。ワクチン接種が進んでいる先進国はその恩恵を被ることができているが、大多数の国々では選手を含めた国民の多くにワクチンが行き渡るには相当な時間がかかる。
昨年から行うべきだった「検査と隔離」「水際対策」
高齢者やエッセンシャルワーカーよりもアスリートを優先することの倫理的な問題や選手へのワクチン接種に関する透明性や接種証明などの課題は、オリンピックに参加する全ての国々も視野に入れると非常にハードルが高いのではないか。10万人近い海外からの選手や関係者を、隔離もなく、不完全なワクチン接種で感染を予防することは残念ながら限界があるだろう。
日本が五輪開催を目指すのであれば、昨年から、検査と隔離、そして、水際対策を徹底し、ワクチンも早期から確保・接種することでコロナを徹底的に抑え込むことが、五輪開催の必要条件であったはずだ。しかし、それは、いまだに実現していない。ワクチン接種も今のペースでは、到底間に合わない。逼迫している医療体制は、これ以上の感染拡大に対応することは難しい。
コロナ禍でワクチンや医療供給体制を始め、我が国が長年にわたり抱え続けてきた多くの社会システムの限界が露呈した。五輪を中止し、コロナを収束させたうえで、将来の日本と世界のために社会システムの再構築に全力を傾けるのが我が国の目指すべき道ではないだろうか。
世界中の人がワクチンを受けるまで「コロナ禍は終わらない」
菅総理は6月2日にワクチン・サミットを共催する予定という。コロナ禍を終わらせることが国際社会の最優先課題であり、先進国だけがコロナワクチンを受ければそれで済む話ではない。日本はG7伊勢志摩サミットで感染症危機管理の重要性を説き、国際組織「感染症流行対策イノベーション連合(CEPI)」の創設に大きな役割を果たした。
CEPIは、市場原理が働きにくいパンデミック・ワクチンの研究開発を促進するための官民連携の組織であり、その投資先は新型コロナワクチンの開発に成功したモデルナやオックスフォード大学も含まれている。
日本はこのようなグローバルヘルス(地球規模の保健課題)においては、先導的な役割を果たしてきた実績があり、国際的にも高く評価されている。日本の総理自らが「世界中の人がワクチンを受けられるようになるまではコロナ禍は終わらない」という重要認識を世界に示すことは素晴らしいことだ。
世界はこうしたリーダーシップを日本に期待している。立谷秀清福島県相馬市長から新型コロナウイルスワクチン接種メディカルセンター長を拝命し、一日でも早くワクチン接種を進めるために現場で働かせていただく機会を頂いた。ワクチン接種を進め、コロナ禍を克服することこそが今の日本にとって最も大切な課題だと信じ、微力ながら様々な関係者の方々と連携を進め、「相馬モデル」を広めていければと考えている。
(渋谷 健司/Webオリジナル(特集班))