火砕流にあった“とっちゃん”「息子の門出、見守って」 祈る妻

あの惨劇を忘れない――。当時としては戦後最悪の火山災害となった雲仙・普賢岳の大火砕流から30年。ふもとの長崎県島原市で3日、犠牲となった消防団員や住民、報道関係者ら43人をしのぶ追悼式が催された。遺族らはあの日と同じく雨にかすむ普賢岳を見上げ、志半ばで亡くなった家族や友人に思いを寄せた。
「息子が島原を離れ、新しい仕事に就きます。見守ってあげてくださいね」。消防団員として警戒中に命を落とした佐原俊秀さん(当時26歳)の妻次子(つぎこ)さん(56)は犠牲者追悼式典で、1カ月後に転職先の長崎市で新たな人生をスタートさせる長男圭祐さん(30)の門出を亡き夫に報告した。
1991年6月3日。生後2カ月の圭祐さんを連れ、実家に避難していた次子さんは、夕方のテレビニュースで夫が大火砕流に巻き込まれたと知った。島原市内の病院に駆けつけると、俊秀さんは全身にやけどを負っていた。次子さんを見て、小さくうなずいた俊秀さん。だが、深夜には意識不明になり、長崎市の大学病院に搬送された。
その日から、病院内の家族部屋に泊まり込んだ。面会は、集中治療室に入れる1日10分間に限られた。「少しでも良くなって」と祈り続けたが、意識は戻らなかった。3カ月後、俊秀さんの最期を家族でみとった。
普賢岳の裾野にあった自宅と家業の葉タバコ畑は大火砕流に焼かれ、避難生活が始まった。次子さんは看護師の仕事に復帰し、昼休みには必ず夫が眠る近くの寺を訪ね、墓前で「とっちゃん」と話しかけた。消防団仲間の間で呼ばれていた夫の愛称だった。
「消防団の仕事が終わったら、その足で息子と嫁に会いに行く」。大火砕流の少し前、俊秀さんが楽しそうにそう話していたと消防団の仲間が教えてくれた。誰よりも家族を愛していただけに夫の無念さを痛いほど感じ、数年間は普賢岳に目を向けられなかった。
圭祐さんは祖父母にかわいがられ、優しい性格のまま成長した。専門学校で柔道整復師の資格を取り、地元の医院で今春まで働いた。昨年、医院を訪れた俊秀さんの知人の男性患者からこんな話を聞かされた。「あんたの父さんは偉かった。火砕流でやけどした仲間に水を掛け、助けようとして逃げ遅れたんだ」
勇敢に振る舞う父の姿を想像した。「やるなあ、おやじ」。父の人生に照らして自分の今後についても考えた。「父のようにはできないが、自分も思い切ってやってみよう」。30歳を機に、畑違いの道に進むと決めた。人材派遣会社の営業職として、7月から新たな挑戦を始める。「おやじ、応援してくれ」
次子さんの目には、自分の人生を切り開く圭祐さんがたくましく映る。これまで6月3日は、仕事の都合で圭祐さんが慰霊に来られないことも多かったが、今年は2人で足を運び、追悼式の会場に建つ「犠牲者追悼之碑」に手を合わせた。「とっちゃん、これからも息子の成長を楽しみにしていこうね」。2人の中で、俊秀さんは今も、生き続けている。【近藤聡司】
犠牲者祈り続けた元島原市長「今日は涙雨」
「今日は涙雨。30年間、犠牲者を祈り続けてきた」。大火砕流発生当時、長崎県島原市長として災害対応の陣頭指揮を執った鐘ケ江管一さん(90)は3日、時折強い雨が降りつける中、島原市内の「消防殉職者慰霊碑」前に設置された献花所に足を運んだ。
鐘ケ江さんは発生4日後の1991年6月7日、当時の高田勇知事(故人)とともに、人が住む地域としては全国で初めて警戒区域を設定し、区域内への立ち入りを禁止した。翌8日夜、再び大火砕流が発生したが犠牲者は出なかった。「住民の生活も守らなければならず、警戒区域設定は苦渋の決断だった」と振り返る。
「ひげの市長」と呼ばれ親しまれた鐘ケ江さんは、92年に市長を退任してからも防災意識を高めてもらおうと全国各地を飛び回り、講演行脚は1000回を超えた。「この世を去るまで大火砕流の犠牲者の十字架を背負う」と心に誓い、今も毎朝、自宅で冥福を祈り手を合わせている。
この日、犠牲者追悼式にも参列した鐘ケ江さんは「皆さんお気の毒だった。この災害を後世に伝えるのは難しいが、供養は節目でずっとやっていかないといけない。みんな忘れてしまうから」と話した。【松村真友】
亡き父へ鎮魂の鐘「ここまで大きくなったよ」
30年前の大火砕流時に消防団員の詰め所だった長崎県島原市の「北上木場(きたかみこば)農業研修所」跡では、火砕流の発生時刻の午後4時8分に合わせ、地元消防団の分団長として警戒に当たっていた父、山下日出雄(ひじお)さん(当時37歳)を亡くした次男の優樹さん(42)=福岡市=が鎮魂の鐘を鳴らした。
当時小学6年の優樹さんは「ここまで大きくなったよ」と父に報告した。この日は「お父さんの大事な日だから」と初めて8歳の息子も連れてきた。「人に慕われ、仕事に一生懸命だった父にはまだ及ばないが、いつかは追いつきたい」
同じく消防団員だった兄の岩崎丈平さん(当時36歳)を失った治男さん(62)=北九州市=は「6月3日は毎年来ている。93歳になる母は5、6年前から体力がなくなり来られなくなった。母の代わりにこれからも来続ける」と誓った。
遺族らはその後、報道関係者の取材拠点「定点」付近に移動し、2021年3月、報道車両などを掘り起こして新たに整備した災害遺構のモニュメント前でも手を合わせた。日本テレビのカメラマンだった小村幸司さん(当時26歳)を亡くした兄の哲也さん(58)=和歌山市=は「弟はカメラ越しに山をのぞいていて危険が分からなくなっていたのだろう。仕事を最後まで全うしたことを誇りに思うが、今後は仕事で命を落とす人がいなくなるよう祈った」と語った。【今野悠貴、長岡健太郎】