祖父・牛島満を語り継ぐ 「軍は民を守らない」孫は授業で訴える

今年も沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎えた23日の沖縄。一般住民を含む20万人もの命が奪われた地上戦の悲劇に人々は思いをはせ、教訓を今に生かそうと誓う。

祖父はなぜ、多くの住民を巻き込むことになった軍の南部撤退を決断したのか――。東京都の元小学校教諭、牛島貞満さん(67)は27年前から沖縄に足を運び、その重い問いへの答えを探してきた。太平洋戦争末期の沖縄戦での約9万4000人(推計)もの一般住民の犠牲は、現地の日本軍第32軍が首里(現・那覇市)にあった司令部を沖縄本島南部に移した後に膨らんだ。その決断を下したのが牛島さんの祖父だった。
「首里城地下の司令部壕(ごう)で牛島満は南部撤退を決裁しました」。6月19日夜、那覇市での勉強会で、牛島さんは会ったことのない祖父の名を挙げた。沖縄戦で第32軍を率いた牛島満司令官。2019年の首里城焼失後、司令部壕跡の存在が改めて注目され、沖縄県が保存・公開に向けた検討を始めたが、牛島さんも「学べる場として保存・公開すべきだ」と考える。
祖父は、牛島さんが生まれる8年前、沖縄本島南部の摩文仁(まぶに)で自ら命を絶った。自決日は45年6月22日と23日の説がある。牛島家では22日を命日とし、牛島さんも幼い頃は両親らに連れられて、祖父をまつる靖国神社(東京都)に参拝。祖母宅には軍服姿の祖父の写真が飾られ、「おじいちゃんは偉い人」と聞いて育った。
沖縄に関心を持ち始めたのは高校生の頃だ。沖縄の日本復帰が政治課題となり、戦後、米国統治下に置かれた沖縄の状況やそのきっかけとなった沖縄戦について知った。だが、祖父のことに深入りするのは避けた。小学校教諭になって平和教育に取り組んでも沖縄を訪れることはなかった。「沖縄で祖父のことを尋ねられた場合、何と答えればいいのか分からなかった」
転機は40歳の時。同僚に誘われ、家族旅行を兼ねて初めて沖縄に。離島を訪れた帰りに沖縄本島南部にある糸満市の平和祈念資料館に足を運んだ。祖父の写真と、自決を前に出した「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」という命令が展示され、「この命令で最後の一兵まで玉砕する終わりのない戦闘になった」との解説文――。衝撃を受けた。命令は知っていたが、「祖父の死後も戦闘が終わらなかった」という事実を突き付けられた気がした。
それ以降、沖縄を定期的に訪れ、沖縄戦の研究者や体験者らに会って話を聞いた。祖父を知る人が語るエピソードからは優しい人柄がうかがい知れた。一方で、「友軍(日本軍)は米軍よりも怖かった」という証言も聞いた。日本軍が本島南部に撤退して持久戦を展開したことで、住民に数々の悲劇が及んでいた。
「祖父は必ず本土決戦があると思っていた。それまでの時間を稼ぐために、自分たちが犠牲になるんだという気持ちが強かった。それはたぶん天皇に対する忠誠心だった」。しかし、その犠牲は無抵抗の住民にまで及んだ。「極めて無計画、無謀な作戦だった。だから、私たちが沖縄戦で学ぶべきは『軍隊は住民を守らない』ということです」
牛島さんは04年ごろから「牛島満と沖縄戦」と題した授業を始めた。退職した現在も、沖縄を修学旅行で訪れる高校などで生徒たちの事前学習として語る。「沖縄で学んだことを子供たちに伝えていくことが自分の責任」との思いからだ。
今、東アジアでは、中国の軍事力強化で緊張が高まる。牛島さんは76年前の教訓は重みを増していると感じる。「沖縄で実際に起きたことに基づいて論議しないといけない。人が住んでいるところで戦闘になれば、日常生活は破壊され、命まで落とすことになるのだから」【遠藤孝康】
ことば「沖縄戦」
太平洋戦争末期、米軍は日本本土への上陸作戦に向けた拠点とするため沖縄の攻略を計画。1945年3月26日に沖縄本島西の慶良間(けらま)諸島に、4月1日に沖縄本島中部の西海岸に上陸した。現地の日本軍第32軍は本土決戦までの時間を稼ぐために持久戦を展開。米軍から「鉄の暴風」と呼ばれる猛烈な砲爆撃が加えられ、多くの住民が約3カ月の地上戦に巻き込まれて犠牲になった。家族らが互いに手をかけ合った「集団自決」や、日本軍による壕(ごう)からの住民の追い出し、殺害などの悲劇も起きた。6月23日に第32軍の牛島満司令官が本島南部の摩文仁(まぶに)で自決し、組織的戦闘が終わったとされる。死者は日本軍9万4136人、米軍1万2520人。さらに推計で約9万4000人の住民が亡くなったとされ、約20万人が犠牲になった。沖縄出身の軍人・軍属を含め、県民の4人に1人が亡くなったとされる。