朝食中にパッと黄色く光り「ドガーン」、町は火の海に…無数の遺体を火葬する日々に

兵役に就いた直後に被爆し、遺体処理に追われて敗戦。わずか2週間の出来事だった。
島根師範学校本科2年生だった1945年の夏、学徒動員で島根県江津町(現江津市)にあった陸軍の薬きょう工場で働いていた。18歳になったばかり。7月20日、召集令状が届いた。工兵隊に入隊したのは8月2日、原爆投下の4日前。広島駅に着いて、翌日から祇園(広島市安佐南区)の三菱工場隣にあった小学校の講堂で寝起きした。
8月6日朝は全員、講堂にいた。前日、形見にしてもらうために故郷に送る制服や靴を広島駅まで荷車で運び、戻ったのは深夜。上官が起床ラッパを30分遅らせてくれ、普段なら外へ出ていた時間だった。
講堂での朝食中、窓の外がパッと黄色く光った瞬間、「ドガーン」と天が裂けるような爆音がした。あわてて外へ出て田園を縫って山へ逃げた。町は火の海。河原では、やけどを負った無数の遺体が目に入った。
近くの竹やぶで野営し、数日後に講堂に戻ると、「曹長のカバン持ちをしろ」と命じられた。陸軍中国軍管区司令部があった広島城に向かうと、城は崩れ落ち、一帯は燃え盛り、壊滅状態。無数の遺体からひどい悪臭が漂っていた。猛暑の中、頭に手ぬぐいを巻いて、遺体を軍用トラックに乗せて川まで運んだ。廃材に油をかけ、毎日火葬した。
8月15日の終戦で遺体処理もなくなった。大半の兵隊は復員したが、工兵隊だけは残された。「米国へ連れて行かれるのか」と疑心暗鬼になり、脱走すら頭をよぎった。結局何事もなく、9月中旬に除隊となった。
復学後、中学教員になった。勉強どころではなく、校庭作りから始めた。芋畑になっていた校庭を元に戻すため、男子は土を運び、女子は地をならした。テニスやバスケットのコートも作った。最近でも同窓会で会うと、教え子たちはみんな「楽しかった」と言う。一から始めるという固い絆で結ばれ、振り返れば貴い経験に思える。
2年前、工兵隊の兵舎があった場所を訪れた。学校は残っていたが、隣の三菱工場跡には大きなショッピングセンターができていた。当時の面影はなかった。
遺体処理に当たった仲間は戦後、次々亡くなった。一瞬で無数の命を奪った原爆のむごさを伝えられるのは、もう自分しかいないという使命感がある。仲間も「おまえ、最後まで頑張れ」と言っている気がする。