群馬県立公園「群馬の森」(高崎市)の敷地内にある朝鮮人労働者追悼碑をめぐり、県が設置許可を更新しなかったのは違法だとして、追悼碑を設置した市民団体が不許可処分の取り消しをもとめた訴訟。その控訴審判決が今年8月26日、東京高裁で言い渡された。 原告の市民団体が2014年11月、前橋地裁に訴訟を提起してから、裁判は約7年に渡っている。1審の前橋地裁は、不許可処分を取り消したが、東京高裁の高橋譲裁判長は、原告の請求を棄却し、不許可処分を認める逆転判決を下した。 失意をあらわしながらも、原告側は最高裁まで戦う決意を新たにしている(ライター・碓氷連太郎) ●戦時中の過酷な労働で命を落とした人たち 日中戦争開戦(1937年)ころから第二次世界大戦が終わる(1945年)までの間、群馬県内には、中島飛行機地下工場をはじめ、労務現場が県内全域にあった。どの現場でも、労働力として、中国や朝鮮半島から動員されてきた人たちの姿があったという。 そのことから、過酷な労働で命を落とした人たちを悼む追悼碑を建立しようという動きが、1998年に市民の間で持ち上がった。追悼碑は、墓のようなものではなく、「反省と友好」を表現するための近代的な構造物として作ることを目指した。 市民団体は2000年、県知事に要望書を提出して、翌年には群馬県議会に用地提供をもとめる請願を提出するなど、複数回にわたり県との交渉が重ねた。 当初、追悼碑の文言に「強制連行」という文字があったことから、県は、村山談話や小渕談話の範囲内に表現を変えることをもとめた。 そこで市民団体側は「強制連行」の表現を「労務動員」に変更するなど、県の要望を受け入れるかたちで追悼碑を作り、2004年4月、県立公園「群馬の森」敷地内に設立した。 ●2012年ごろから排外的な団体による抗議があった 現在の追悼碑には、以下の文字が刻まれている。 「20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった」 「21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する」
群馬県立公園「群馬の森」(高崎市)の敷地内にある朝鮮人労働者追悼碑をめぐり、県が設置許可を更新しなかったのは違法だとして、追悼碑を設置した市民団体が不許可処分の取り消しをもとめた訴訟。その控訴審判決が今年8月26日、東京高裁で言い渡された。
原告の市民団体が2014年11月、前橋地裁に訴訟を提起してから、裁判は約7年に渡っている。1審の前橋地裁は、不許可処分を取り消したが、東京高裁の高橋譲裁判長は、原告の請求を棄却し、不許可処分を認める逆転判決を下した。
失意をあらわしながらも、原告側は最高裁まで戦う決意を新たにしている(ライター・碓氷連太郎)
日中戦争開戦(1937年)ころから第二次世界大戦が終わる(1945年)までの間、群馬県内には、中島飛行機地下工場をはじめ、労務現場が県内全域にあった。どの現場でも、労働力として、中国や朝鮮半島から動員されてきた人たちの姿があったという。
そのことから、過酷な労働で命を落とした人たちを悼む追悼碑を建立しようという動きが、1998年に市民の間で持ち上がった。追悼碑は、墓のようなものではなく、「反省と友好」を表現するための近代的な構造物として作ることを目指した。
市民団体は2000年、県知事に要望書を提出して、翌年には群馬県議会に用地提供をもとめる請願を提出するなど、複数回にわたり県との交渉が重ねた。
当初、追悼碑の文言に「強制連行」という文字があったことから、県は、村山談話や小渕談話の範囲内に表現を変えることをもとめた。
そこで市民団体側は「強制連行」の表現を「労務動員」に変更するなど、県の要望を受け入れるかたちで追悼碑を作り、2004年4月、県立公園「群馬の森」敷地内に設立した。
現在の追悼碑には、以下の文字が刻まれている。
「20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった」
「21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する」