《大阪姉妹殺人事件》16歳で母親を殺害、25歳で死刑執行された山地悠紀夫の最後の手紙「私は生まれてくるべきではなかった」

《母親を撲殺》「出院後はやはり資格取得を…」「やりたい事の1つが自分流の学校勉強」出院後に山地が送った手紙に書かれた“野望” から続く
「蚊も人も俺にとっては変わりない」「私の裁判はね、司法の暴走ですよ。魔女裁判です」。そう語るのは、とある“連続殺人犯”である。
“連続殺人犯”は、なぜ幾度も人を殺害したのか。数多の殺人事件を取材してきたノンフィクションライター・小野一光氏による『 連続殺人犯 』(文春文庫)から一部を抜粋し、“連続殺人犯”の足跡を紹介する。
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CASE2 山地悠紀夫 大阪姉妹殺人事件
最後のプライドが崩れた
それから2カ月後、山地は福岡県福岡市にいた。そこは福岡のゴト師集団が借りていたアパートで、室内には研究用のパチスロ機が並んでいた。山地はこの集団の元締めを知る西田さんの紹介で、体感器と呼ばれる大当たりの周期を知らせる器械を使ってパチスロを打ちに出かける、ゴト師の「打ち子」になっていた。
紹介に至る一連の流れを改めて取材するため、私は山口県内で西田さんを探した。彼は姉妹殺人の法廷でも証言し、数社だがマスコミの取材も受けている。だが、残念なことに西田さんは数年前に不慮の交通事故で亡くなっていたことがわかった。
山地のゴト師仲間を知る人物は、当時の状況を教えてくれた。
体感器をめぐっての攻防
「彼がいた集団の元締めは、みずから体感器を作っていて、その販売もしていました。地方のビジネスホテルなどで実演販売をすることもあり、山地はそこで見本として、体感器を実際に使って見せていた」
この時期、ゴト師とホール(パチンコ店)側は、体感器をめぐっての攻防を繰り広げており、ホールが器械を感知するセンサーを設置し始めるようになると、ゴト師たちはセンサーのない地方を探して遠征するなどしていた。しかし、警察当局もゴト行為に対して窃盗罪を適用するようになるなど、ゴト師を取り巻く状況は厳しくなりつつあった。
そんな折、事件が起きる。ゴト対策の厳しくない地方を狙い、中国地方へ山地ら「打ち子」たちが遠征したときのことだ。05年3月13日、岡山県瀬戸町のホールで、体感器を使っていた新人の山地が店員に取り押さえられ、地元の警察に逮捕されてしまったのである。
逮捕されたのは山地だけで、仲間は全員福岡に引き揚げた。とはいえ、山地が余計なことを口にすれば、今後の活動に影響を与えることは必至だった。しかし彼はしらを切り通し、無事に起訴猶予で釈放されたことで、ふたたび集団に迎えられた。
夏にはホールによる体感器への対策はより強固なものになった。体感器を使用しただけで警告ランプの点灯する店ばかりになったのだ。そうした苦境を打開するため、元締めは大阪にマンションの一室を借り、近畿周辺の遠征での足場にした。それこそが、後に山地が姉妹殺害に及ぶマンションだった。
数人の仲間と大阪での生活
この時期、稼げなくなる「打ち子」が出る一方で、山地は大負けすることもなく、コンスタントに勝ち続けているように周囲の目には映ったという。
そして11月になると、山地は数人の仲間と大阪での生活を始めた。じつは彼は発見されるリスクの高い体感器を使わず、消費者金融で借金したカネをゴト行為での戦利品と偽(いつわ)り、自分の取り分を差し引いて元締めに上納していた。しかし、その借金の総額も100万円近くになり、これ以上は借りられないところにまできていた。前出のゴト師仲間を知る人物は断言する。
「帰る場所のない山地にとっての拠り所は、自分が元締めの右腕だというプライドだけでした。しかし元締めは“稼ぐ”ことのできなくなった山地を怒鳴り散らしていた。それでたまらなくなり、逃げ出したんです」
11日未明に大阪に着いた山地は、13日夜に元締めのもとを飛び出し、14日夕方に戻って「辞めさせてください」と告げると、荷物をまとめて部屋を出た。そして15日にナイフやハンマーを買い、17日未明に姉妹2人を殺(あや)めたのである。
〈今回、私が姉妹2人を殺害した事は間違いありません。それについて、弁解をする気持ちは、ありませんし、出来ません。(中略)
私は少年院の時に、過去の自分について、反省、つまり「省」をしていました。そして、その時に気が付いたのは、小学校2年生の時に私はすでに「警告音」を発していたのだと分かったのです。もし可能ならば、小学の卒業アルバムを見て下さい。そこに「時間」というタイトルの詩があります。(中略)
私が弁護士さんたちだけに唯一言える事、そして他には云えない事があります。それは「真実を話せば、それは真実では無くなる」という事です。私は本当に頑固で、ゆうずうの利かない人間です。しかし、私が選んだ道は、私が選んだモノであり、矯正教育が成功した、しなかったというものではありません。(中略)
内山新吾様 平成17年12月29日
山地悠紀夫〉
山地が書いた「時間」という詩
12月5日の逮捕の24日後に、山地は内山さんへ手紙を出した。そこで彼が語る「警告音」がなんであったかについては、その後も語られることはなかった。ただ、卒業アルバムのなかにある山地が書いた「時間」という詩は読むことができた。
〈1人り1日なにもしなくても
時間はやすまずうごいている
1日いろいろなことをしていると
時間はやくすすんでいる
時間がとまったら
どうなるのだろう〉
06年5月1日に山地の初公判が大阪地裁で開かれ、それから12月13日の判決公判までに13回の審理が行われた。山地は審理の途中から「わかりません」「憶えていません」「黙秘します」と口にすることが増え、傍目にも心を閉ざしていることは明らかだった。内山さんは判決公判を前にした11月27日、大阪拘置所へ出向いて山地と接見しようとした。しかし、本人から「面会拒否」との対応を受ける。
君は、大切な人間です
〈ああ、山地君は、死のうとしているんだな、と思いました。(中略)
私は、山地君に、死んでほしくありません。(中略)
山地君は、いま、「自分はどうなってもいい」と思っていませんか。
でも私には、山地君がどうなってもいい、とはどうしても思えません。
どうか生きることを考えて下さい。亡くなった人へのつぐないも、生きて苦しんでこそ、できるのではありませんか。君は、まだ、お母さんへのつぐないも、すんでいないのではありませんか。(中略)
君は、大切な人間です〉
内山さんは12月9日にまずこの手紙を出し、続いて山地に死刑判決が下ったあとの12月17日にも〈今度、面会に行ったら、会ってもらえませんか〉と記した手紙を書いた。しかしその直後、山地から手紙が届いた。全文を記す。
山地から届いた手紙
〈内山新吾弁護士
先日は接見拒否の為、会う事をいたしませんでした。私は私なりに色々と考えた上での行動です。
手紙に書いてありました「死刑になって欲しくない」、「上訴を取り下げないで欲しい」、これらについての私の考えは、変わりがありません。
「上告・上訴は取り下げます。」
この意志は変える事がありません。
判決が決定されて、あと何ヶ月、何年生きるのか私は知りませんが、私が今思う事はただ一つ、
「私は生まれてくるべきではなかった」
という事です。今回、前回の事件を起こす起こさないではなく、「生」そのものが、あるべきではなかった、と思っております。
この考えは、ある意味「悟り」なのかもしれませんが、私としては、この考えが私自身の気持ちを一番表わしていると思います。
色々とご迷惑をお掛けして申し訳ございません。さようなら。
平成18年12月中旬、山地悠紀夫
追伸 面会及びに着信等におき、拒否願いを提出しました。今後、面会、通信が出来なくなると思います〉
その後、内山さんが山地へ出した手紙は「受取拒否」の印が押されて戻ってくるようになった。
山地は07年5月に控訴を取り下げて死刑が確定。09年7月28日に大阪拘置所で刑が執行された。
内山さんは無念を口にする。
「彼のことを放っておく状態にしてしまった。なんでもっと連絡を取って、連絡が取れないときには捜したり、つきとめたりしなかったのか。さらに言えば、彼にいろんな思いのあった人が、連携してサポートできなかったのか。そうしていれば、第2の事件は起きなかったと思う。その点で悔やまれてならない……」
納骨できない──遺族の10年間
汗ばむ陽気のなか、私は奈良県内にある住宅地を訪ねた。山を切り開いた高台にあるその一軒家のドアベルを押すと、まさに外出しようとしていた年配の女性と出くわした。
坂田千鶴子さん(仮名)。山地に大阪で殺害された有希さんと真美さんの母である。
この記事を書くにあたり、仏前に線香をあげさせて欲しいと願う私を、彼女は家に上げてくれた。愛娘2人の大きな写真が飾られ、供物の置かれた仏壇に手を合わせる。
「今日はお父さんは……」
振り返った私は千鶴子さんに尋ねた。事前に、父の文雄さん(仮名)はあの事件を受けて糖尿病を悪化させ、最近は目がほとんど見えなくなっているようだとの話を聞いていた。
いまはずっと家で寝たきりの状態
「今日は介護の施設に行ってます。事件の精神的なショックから失明し、5年前には脳梗塞で倒れ、その1年後には直腸がんが見つかりました。そのがんが去年9月に転移していることがわかって、いまはずっと家で寝たきりの状態なんです」
聞けば、千鶴子さんも事件から3年間は鬱病を患い、家から出ることができなかったという。しかし、夫が体調を崩したことで、なんとか自分で動けるようにまでなっていた。
「主人が施設に行く週2回だけ、友人に勧められて畑で土いじりをしているんです。いまもそこに行くところでした。そのときだけは無我夢中になって、なにも考えないで済みますから……。それまでは夫婦2人で死ぬことしか考えていませんでした。生きるのなんて考えていない。有希と真美のお骨も、いまだに納骨してないんです。親より先に納骨なんて、むごいことできません。いまは主人があの世に連れて行くと話しています」
いくら言葉に出しても表せない
今年(15年)11月で事件から10年が経つ。しかし坂田家の時間は止まったままだ。目の前の千鶴子さんの憔悴した姿がそのことを物語っている。
「山地の死刑執行は、慰めにはならなかったのでしょうね……」
なんとか言葉を継いだ。千鶴子さんはかぶりを振る。
「死刑執行も頭にありません。聞いたところでどうしようもないです。余計に思い出してしまうから、10年前から新聞もとらなくなりました。この気持ちは、いくら言葉に出しても表せないと思います……」
頭を下げ、家を後にした。歩いて坂を下っていると、ちょうど中学生の下校時間にぶつかった。無邪気にはしゃぐ子供たちを見ても、目を細める気分にはなれなかった。
(小野 一光/文春文庫)