〈麻生太郎が語る祖父・吉田茂〉日米安保の調印にこぎつけた吉田茂の“リアリズム”

戦後日本を牽引し、復興の礎を築いた宰相・吉田茂(1878~1967)。孫であり自身も首相を務めた麻生太郎氏が、吉田の政治家としての手腕を率直に評価する。
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リアリストとしての“吉田茂”
吉田茂の何がすごかったか。後世に名を残す理由を改めて考えてみると、真っ先に思い浮かぶのは、彼の決断力ですね。
例えば、1947年の第1次吉田内閣の時の選挙で、自由党(現自民党)は社会党に大敗しています。この時、社会党は自分の党から首相を出すつもりはなく、吉田に首相続投の話を持ちかけた。ただ、吉田は「それは憲政の常道に反する。首相は第一党から出すべきだ」とあくまでも筋を通し、申し出を振り切って下野しているんです。
翌年に昭電疑獄事件で社会党政権が瓦解し、迎えた次の選挙では自由党が勝利。吉田は首相の座に返り咲きました。この時も自由党の過半数獲得は難しいため社会党と連立するとの観測もありましたが、吉田は、少数与党のまま選挙に打って出て大勝したわけです。個人的には、この第3次吉田内閣成立にいたる過程こそ、政治家として彼の決断力が一番光った瞬間だと思っています。
もう一つ、極めて「現実的」だったこと、これも吉田の特徴です。
1951年には、渡米してサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を結んでいますが、とくに後者においては吉田の現実主義的なセンスがもっとも発揮されました。
当時の米国の国務省は、日本を統治下に置いても金ばかりかかるから、早く手放したかった。一方の国防総省はソ連の脅威に備えて、日本の駐留米軍を維持したかった。二つの省庁間で意見が完全に割れていたんです。その事情をいち早く察知して、間隙を突いたのが吉田でした。
「独立の約束を取り付けるかわりに、駐留米軍は認める」という国務省と国防総省のどちらも納得する提案を持ちかけて、日米安全保障条約の調印にこぎつけた。政治家にしては珍しいほどの現実的なバランス感覚の持ち主で、もし吉田に文春の経営を任せたら、案外、上手いことやったかもしれない(笑)。
ただ、日米安保に政治生命を懸けていたのは事実で、その証拠に、サンフランシスコ平和条約には、同行した池田勇人や苫米地義三もサインしていますが、日米安保の方には吉田のサインしかない。米国との交渉にあたった自分が全責任を負うから、他の人間にはサインさせないという思いがあったんでしょう。
「ああ、俺の家は、下手すると焼き討ちに遭うんだな」
当時の記憶で私が覚えていることと言えば、平和条約を結ぶに際して、吉田が凄まじい緊張感の中にあったということです。吉田は、ソ連や中国を外した単独講和の道を模索しました。当然、全面講和を支持する側からは猛烈な批判を受けた。
その時に、吉田が私に言ったのは、小村寿太郎と松岡洋右の話でした。小村は日露戦争後に、決裂の危機も乗り越えて、ポーツマス条約を結んでいます。ただ賠償金は獲得できなかった。不満を抱いた国民から小村は石を投げつけられ、自宅に火をつけられるなどの憂き目に遭いました。一方の松岡は国際連盟で「満州国」が認められず、席を蹴って飛び出し、日本は脱退した。この行動を当時の国民は拍手をもって迎え、町では提灯行列をやるほどの大騒ぎになりました。
その話を聞いて、私はまだ小学5年生でしたが、「ああ、俺の家は、下手すると焼き討ちに遭うんだな」と子供ながらに覚悟したのを覚えています。ただ、吉田は話の最後にこう語ったんです。
「歴史を振り返れば正しかったのは小村だ。その時の世論やマスコミの評価ではなく、政治家にとっては歴史の評価の方が大切なのだよ」
講和会議を目前に控えていた頃は、願をかけたのか珍しく葉巻をやめてしまい、うちのお袋が「あの葉巻好きが、らしくないことやっているわね」と、なかば心配しながら笑っていました。調印を終え、ホテルに帰った吉田が私の父から葉巻を渡され、えらく嬉しそうに吸ったそうです。緊張していたんでしょう。
そんな祖父の気持ちも知らずに、当時の私は「おじいちゃまがママを取るからいつもママがいない」とごねていたそうです(笑)。祖母が早くに亡くなったので、母が秘書代わりに同行することが多かった。それを聞いた祖父は申し訳なさそうに、
「長いことママを取り上げて悪かった。講和会議が終わったら返すから、動物園や寄席に行こう」
と話してくれました。条約の調印を終えたら政治家を辞めるつもりだったんでしょう。結局、次の鳩山一郎が病に倒れて、続投を余儀なくされますが、今の時代にはいない稀有な政治家だったと思いますね。
(麻生 太郎/文藝春秋 2022年新年特別号)