「アクセルとブレーキ踏み間違えた」84歳、73歳女性はね死亡させる

13日午前11時25分頃、茨城県石岡市東光台のスーパー駐車場で、同市中津川、介護職荒野

亀世乃
( きよの ) さん(73)が、同市東田中、農業の男性(84)の乗用車にはねられた。荒野さんは外傷性ショックで搬送先の病院で死亡が確認された。
石岡署の発表によると、男性が駐車しようとした際、前方を歩いていた荒野さんをはねた。さらに車2台にも衝突した。男性は「アクセルとブレーキを踏み間違えた」と話しているという。

「2対1でけんか」と110番、未明の路上で男性に暴行し死なせた男2人逮捕

男性を暴行して死なせたとして、栃木県警は13日、埼玉県行田市若小玉の不動産会社役員、松本真二容疑者(38)を傷害致死容疑で現行犯逮捕した。同日、共謀した同県加須市串作の建設業手伝い、石川和宏容疑者(36)も同容疑で逮捕した。2人とも容疑を否認しているという。
発表によると、両容疑者は13日午前3時35分頃、小山市駅東通りの繁華街の路上で、同市犬塚の飲食業平賀寛満さん(45)に暴行を加え、約1時間後、搬送先の病院で死亡させた疑い。目撃者の男性から「2対1でけんかをしている」と110番があったといい、県警は3人の関係や暴行の詳しい状況を調べている。

「夫人の鼻柱から流れ落ちる血はふけどもふけどもあふれ出た」まき割りで一家5人を惨殺 男が凶器を握りしめた理由

日本の敗戦から間もない時期には、いまでは到底考えられない犯罪が起きた。
今回取り上げるのは、本来華やかな歌舞伎界の大スターが、「食い物の恨み」などから同居していた男に妻子ともども惨殺された事件。当時の食糧難を端的に表した犯罪とされる。被害者と加害者の事情を見ると、空襲による家屋と家族の崩壊、学童疎開、工場動員(徴用)といった、戦時でなければあり得ない条件がそろっており、事件は一面で戦争被害の縮図といえる。
戦争は社会と個人にすさまじい被害をもたらし、その傷痕は深く長く残る。今回のような事件にも影響は顕著で、広い意味でこれも戦争の惨禍だろう。今回も必要上、「差別語」が登場する。
「薪割で5人滅多斬り」!
「仁左衛門一家殺さる」(朝日)、「“仁左”一家惨殺さる 薪割(まき割り)で五人滅多斬(めったぎ)り」(毎日)、「仁左衛門一家五人殺し 金か痴情か 逐電(ちくでん)した同居人」(読売=当時の表記は「読売報知」)。1946年3月17日付各紙はこんな見出しで事件を報じた。
敗戦から7カ月。新聞は朝刊のみ2ページ建ての時代。扱いは3紙とも顔写真入り2面3段だった。比較的分かりやすい毎日を見よう。
〈 16日午前11時ごろ、(東京都)渋谷区千駄ヶ谷3ノ496、歌舞伎俳優・片岡仁左衛門丈=本名・片岡東吉(65)=方に、とし子夫人(26)の母堂、吉田かよ子さん(50)が訪れたところ、八畳の居間で、仁左衛門丈、とし子夫人、次男・三郎君(2)の親子3人のほか、同家の子守り・岸本まき子さん(12)、同女中・榊田はるさん(69)がまき割りで頭部その他をめった切りにされたうえ、5つの死体を一緒にしてその上に布団を掛けてあるのを発見、所轄原宿署に届け出た。現場の八畳に飾られていたひな壇と唐紙も凶行の返り血を浴びて朱に染まっていた。凶行は前夜午前2時ごろ、同家の就寝中に行われたもので、まず八畳間で仁左衛門親子3人を殺し、別室四畳間で岸本、榊田さんを殺したうえ、二人の死体を八畳の間に運び、一緒にして布団を掛けたものである。なお、同家庭先には凶行に使った同家のまき割りが血まみれのまま遺棄されており、室内はかなり物色した形跡や、省線(現JR)寄り四畳半のガラス戸から人の出入りした跡も見られ、一昨日払い出した郵便貯金600円が紛失していることも分かったが、捜査当局は2歳の三郎君まで鏖殺(おうさつ=皆殺し)している残忍さから、原因は怨恨説が有力である。一方、前日までいたといわれる同居人の大阪市浪速区西関尾町71、森田こと飯田利明(22)の姿がないので、当局では同人に事件の手掛かりを求めて追及中である。〉
1946年当時の600円は2019年の貨幣価値に換算すると約2万4000円。事件の筋立てについて、踏み込み方が新聞で違う。最も踏み込んだ読売の記事末尾は――。
「犯人は、同居人の飯田利明(22)が所在不明なので、有力な容疑者として原宿署では指名手配した。同家では前日、近くの郵便局から600円を払い戻しているが見当たらず、痴情関係か物取りの凶行かは不明である」
既に容疑者を断定している。毎日、読売だけでなく、朝日も「飯田利明」と表記しているが、「警視庁史昭和中編(上)」では「飯田昭」になっている。同様に、妻の「とし子」は「登志子」、「岸本まき子」は「岸本マキ子」、「榊田はる」は「榊原はる」になっており、それに従う。
元日活女優の夫人との「痴情の果て」?
読売が見出しも含めて「痴情」の可能性に触れたのは、仁左衛門夫婦の“年の差婚”が主因とみられる。3紙とも記事で触れているが「現夫人登志子さんは芸名小町とし子といった日活の女優」(毎日)。
事件直後に刊行された「週刊朝日」1946年4月14日号も「仁左衛門殺しの分析」の見出しで動機を推理した中で「痴情の果て」を挙げ「これは誰もが考えることだし、また一応は考えたくなる被害者である」と書いた。「もっともこれは関係者一同口をそろえての証言で、登志子夫人にはそうしたうわさも素振りも決してなかったというので、痴情説は打ち切り」と取り消してはいるが。
「それを見た私は、犯行の動機を直感した」
警視庁捜査一課長などを歴任した三宅修一の「捜査課長メモ」は、現場を踏んだときのことを次のように書いている。「凶器は厚刃の刃物で、全員が頭部と顔の上部をやられていた。夫人の鼻柱から流れ落ちる血はふけどもふけどもあふれ出た」「坊やは哀れにも後頭部に深傷があり、誠に酸鼻目を覆わせる惨状であった。発見者のお母さんが、あまりのことに驚き、一時歩けなかったというのも当然と思われた」。
さらに、飯田の部屋では――。「入り口寄りにあった衣装ダンスを見た。その中には飯粒のついた洋皿2枚と、お菜の煮汁の残っている小鉢2個が上下に隠されてあった。洋皿の1枚には、黄ザラ(ザラメ)の砂糖をかけ、飯を食べた跡さえ見られた。それを見た私は、犯行の動機は飯だなと直感した」。
「花の橘屋」の相手役に
片岡仁左衛門は現在も残る歌舞伎の大名跡だが、事件に遭ったのは十二代目。経歴については、「戦後歌舞伎の俳優たち」(2008年刊行)を見よう。
〈 屋号「松嶋屋」。明治15(1882)年9月9日、東京・浅草今戸生まれ。十代目仁左衛門の甥養子で、片岡家代々の芸歴に従い、上方を本拠にしながらしばしば東上。芸域は女形を主、立役(男役)を従にして活躍した。昭和9(1934)年に六代目尾上梅幸が他界すると、相手役を失った十五代目市村羽左衛門に望まれて東京へ移住。立女形の地位を得るようになった。
【芸歴】明治18(1885)年、千歳座の舞台開きの際に本名のまま初舞台。明治28(1895)年5月、弁天座で父の幼名であった片岡土之助の二代目を名乗る。明治34(1901)年4月、大阪・角座の父の七回忌追善興行で「妹背山」の久我之助と橘姫などを務め、四代目片岡我童を襲名。昭和11(1936)年1月、歌舞伎座「三千両初春蔵入(馬切り)」の織田信孝などで十二代目片岡仁左衛門を襲名。長男は十三代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門追贈)、次男は現市村吉五郎(十五代目市村羽左衛門の養子)、三男は現片岡芦燕。〉
十五代目市村羽左衛門は大正から昭和戦前を代表する歌舞伎役者。来日アメリカ人と日本人女性の間に生まれたとされ、その二枚目ぶりから「花の橘屋(屋号)」と呼ばれたが、敗戦の年の1945年5月、疎開先の長野県で死去していた。父と同じ歌舞伎俳優となった仁左衛門の3人の息子は既に独立。また長女照江(5)は登志子の実家に遊びに行っていて難を逃れた。
「小町とし子」時代の登志子については「キネマ旬報増刊日本映画俳優全集・女優編」による。
〈 1921(大正10)年、東京市神田区の生まれ。本名・吉田登志子。父と兄が長唄の名取だったことから、小さいときから長唄を修め、藤間甚四郎に師事して日本舞踊を習い、しばしば公演の舞台に立ち、かたわら声楽も修める。1937(昭和12)年2月、日活多摩川撮影所へ入社。たまたま原節子がヨーロッパへ訪問旅行に出たため、春原政久監督「嫁ぎ行くまで」(1937年)に予定されていた原の代役に起用され、主演女優として幸運なデビューをする。その後「日月と共に」「若しも月給が上ったら」(1937年)に脇役ながら重用されるが伸びきれず、「雲雀」「純情の眸」「今日の船出」(1939年)ほかに助演し、1940(昭和15)年に退社した。〉
同書には写真も載っているが、健康的で明るいタイプに見える。
不倫から始まった二人の関係
夫妻については3月18日付1面で報じた東京の記事に記述がある。
〈 仁左衛門丈と敏子(登志子の誤り)さんの関係は、敏子さんの父が長唄師匠・杵屋彦十郎だった関係上、近づきになり、敏子さんが「小町とし子」の芸名で日活映画女優当時、仁左衛門丈に気に入られ、妾(めかけ)となったものの、その後同丈の本妻が死亡したので本妻になり、現在に至った。これについて、同人と親交のあった故羽左衛門丈は、映画俳優を嫌い、反対したがこれを押し切って結婚したもの。〉
二人の関係は、いまでいう「不倫」から始まった。事件翌年に出版された佃順「芸能実話明眸哀史」は内容にフィクションが入っているようだが、お抱えの自動車で連日のように撮影所を訪れ、登志子を自宅に送る仁左衛門の姿を描いている。同書によれば、1941年、二人の間に子どもができた後、正妻むつが病死。翌年、登志子が正妻として披露された。
3月19日付読売も「仁左衛門丈は梨園の名門で立女形だけに、丈をめぐる女性関係はひどく華やかなもので、6年前、日活のワンサガールで藤間勘齊の芸名を持つ藤間流名取の登志子夫人を見初めて第二号夫人に所望。先夫人はこの恋愛遊戯に気をもんだ揚げ句、食事も医者の薬もろくろくとらず、狂死のような死に方をしたと丈の側近者は語っている」と書いている。
「芸能実話明眸哀史」は「舞台の上で誰よりも大切な亭主役、羽左衛門をはじめ、近親、後援者筋のほとんどがみな口を極めて反対したにもかかわらず、仁左はついに亡妻おむつののち添えとして、小町を正式に松嶋屋へ迎え入れたのだ」とし、二人の結婚に不吉な運命を見ている。
ただ、読売には「おムツまで洗つ(っ)た仁左」の見出し通り「いままで台所などには姿を見せたこともなかった丈が、急に自分から進んで子どものおムツを洗ったり、配給米の米つきをしたりして、若い登志子夫人のご機嫌とりに汲々(きゅうきゅう)とする変わり方だった」ともあり、夫婦関係はよかったようだ。
おはち、米びつを封印
3月18日付朝刊では、朝日「“仁左殺し”同居人か」、毎日「同居人に嫌疑濃厚」と2紙とも報じた。さらに各紙は
1、前夜、近所の人が訪れたときには飯田は在宅していた 2、被害者の1人、岸本マキ子は飯田の実の妹で、逃げ回ったらしく、血痕のついた足跡が点々と八畳間についていた 3、榊原はるは、物音に気づいて起き出ようとしたところを襲われ、傷はまき割りがそれて左頬から耳を切り飛ばされていた 4、登志子だけは、まき割りでめった切りにしたうえ、刃物で2回頸部を切っており、特に恨みが強かったと思われる 5、飯田は犯行後、仁左衛門の国民服に着替えて逃走したとみられる
ことなどを伝えた。朝日は「怨恨説が有力」の見出しの別項で、近所の人の話などからこう書いている。
〈(飯田は)平素から仁左衛門夫妻と食物のことで仲が悪く、飯田、ばあや、子守りの3人は別々に炊事をしていたことは近所の者が皆認めているから、食物の恨みからともみられる節もあり、殺人の日、台所には大根が1つしか残っていなかったから、食生活はあまり豊かではなかったこともうかがわれる。
同家の生活は、近所の人の話によっても、恨みを受け殺害までされるとは考えられぬが、食糧は相当困っていたらしく、食事も同居3人は2食のみ与えられ、副食も夫妻の分は食卓の下に置いて食べていたという。ばあやのはるさんが握り飯を盗んで食べたとき、きつい注意を受け、また、はるさんは近所を回り食べ物の無心をしたこともある。
登志子さんの外出の際には、おはち、米びつを封印。家を空ける際は食事の割り当てをしていたほど、食事に厳格だったようである。〉
飯田の失踪とその結末
その後、飯田の消息は途絶える。「飯田の足どり 依然手掛りなし」(3月19日付朝日)、「怨恨か痴情か、飯田の足どりなほ(お)不明」(読売)、「近くに潜伏か」(同日付東京)、「共謀者探索」(3月20日付朝日)、「関西へ捜査網」(同日付毎日)……。
「捜査課長メモ」はその間の捜査の動向を伝えている。「翌日の夜行われたお通夜の席には、東京はおろか各地から、この悲報を聞いて多くの人々が集まってきた。その1人の弟子から次のような話が出た。『森田(飯田)はこの前、巡業のとき、夫妻から疎開中の妹を迎えにやらせてもらった温泉場はとてもいい所だった。もう一度行ってみたいと話したことがある』。このちょっとした話から、行方の知れぬ森田の追加手配が行われた。腹ごしらえと着替えまでして逃げ出した彼である。絶対自殺はしないとみていたからである」。その読みは当たった。
〈 食と妹の財産の恨み “仁左”殺し飯田捕は(わ)る
“仁左”殺しの有力な容疑者として警視庁捜査一課が全国に指名手配している同居人、片岡一座座付き作者、森田こと飯田利明(22)は20日午後、宮城県玉造郡川渡村、温泉旅館で岩出山署員に逮捕された。21日朝、身柄引き取りのため、捜査一課と原宿署から同地に急行した。同所は、まき子さん(12)が在学していた山谷堀国民学校の疎開先だった所である。23日午後、同人の着京を待って本格的取り調べが行われる。〉
3月23日付朝日は2面3段でこう報道した。「捜査課長メモ」は「手配を受けたその地の警部補派出所員が十数軒の旅館に当たっていた。とある旅館の娘さんから話があったのである。『初めてのお客さまです。昨晩用事で行ったとき、夕刊を見ていたその方が、これは俺がやったんだ、と独り言を言っていました。私はただ、変なことを言うお客さまだなと思っていましたのに』」と書いている。朝日はさらに「仙台発」でこう報じた。
「犯行の一切を自供した」
〈 川渡温泉で逮捕された飯田利明は、岩出山署で警視庁から出張の係官から一応取り調べを受けた結果、犯行の一切を自供した。それによると、飯田は15日午前6時すぎ、凶行を演じたもので、その原因は前夜、妹の財産1万5000円のことで仁左衛門夫妻に嫌味を言われ、カッとなり、妹が子守りばかりさせられ、学校にもやられず、配給のメリケン粉ばかりで米の飯も食わせないではないかと食ってかかり、これらを恨みに思ってやったと言っている。凶行後、いったん自殺を決意したが思い返し、混雑に紛れて常磐線に乗り込み、高飛びしたもの。〉
1万5000円は2019年換算約61万円。戦災保険だったとみられる。同じ日付の東京によると、マキ子は1944年から始まった学童疎開で川渡温泉の旅館に疎開中、「利明は一、二度、同女を訪ねていったことがある」と書いている。しかし、同旅館では「外食券」を持っていないことから断られ、別の旅館に泊まったという。
当時は外食券か米を持っていないと旅館も泊めてくれないことがあった。警視庁に連行された飯田は動機など、犯行のほぼ全てを供述した。代表して3月24日付朝日の記事を見よう。
〈 昨(1945)年9月末、徴用解除となって北海道から帰り、10月1日、新宿第一劇場に仁左衛門を訪れ、亡父が30年も厄介になった関係から松竹で働くことになり、(仁左衛門に)引き取られて同居することになった。座付き作者として一興行100円(2019年換算約4100円)、男衆としての手当が2、30円(同810~1220円)で生活は苦しかった。主人たちは奥八畳間で電気コンロで炊事をやり、自分とばあさんと妹は縁側で炊いた。配給の代金は別々に支払い、米、野菜などは応接間に主人たちのと一緒に入れて、カギは夫人が握り、いちいち夫人がマスで計ってばあやに渡した。ご飯は3日ずつ一度に炊き、3人で三等分する。3日分3人で1升3、4合ずつくれたが、配給分は1升8合はあるはずだ。朝はかゆ、夜は盛り切り、昼は抜き。そのばあさんも、米を渡されたとき、少しずつくすねていたようです。〉
凶器のまき割りは飯田らが縁側で煮炊きするときに使っていたもの。主従の間の格差は歴然で、飯田たちが朝食べていたかゆは、薄くて天井が写ることから当時「天井がゆ」と呼ばれていた。記事は続く。
〈 1月に大阪興行があったきり興行がないので金は1銭も入らず苦しい思いをしたが、そのころ夫人から「腹がすいたと言って近所でもらい食いするなんて外聞が悪い」と叱られた。それ以来、四畳半に自分と寝ていた妹を「おまえのように、妹の財産まで狙うやつは……」と引き離され、妹は主人たちの八畳間で寝ることになった。私は妹の財産や貯金のことなど何も知らなかった。妹もいつか私たちのことを告げ口するようになり、気まずくなった。月の朔日(1日)と15日は芝居では「おめでとう」と言う習慣があり、あの15日、「おめでとう」と言っても返事もしてくれません。何か、私が自分のと妹のご飯を取り替えたと前夜、妹が告げ口したのだそうです。夜11時半ごろ、六畳間で主人から「おまえのような者は家に置けない。あすは出て行け」と宣告され、いままでのうっぷんで、2時間も言い争いました。当たり散らして八畳間に入った後、主人から「4月興行の客引き原稿を書け。その金をやるから、おまえの身の振り方を見つけるのだ」と言われたので、書き上げたところ、主人は「これでも作家か」と投げつけて奥の間に入ってしまいました。〉
まき割りにつまずいて殺意がむらむらと……
いよいよ犯行の場面になる。そこには重要なきっかけがあった。
〈 後片付けを済ませ、四畳半の寝間に入って寝ても寝つかれません。6時半ごろかと思います。寝つかれないまま便所に行くと、廊下にあったまき割りにつまずき、まき割りを見ているうちに殺意がむらむらと湧き、そのまま奥八畳間に侵入し、主人に一撃くれると、うーんと立ち上がったのでめちゃめちゃに打ちつけ、次に奥様を打ちつけ、そのころから夢中になって、あのような惨劇を犯すようになりました。〉
実に陰惨で救いがなく、当時の人々のささくれだった心情が表れている。
二枚目歌舞伎スター一家5人をまき割りで惨殺した男はなぜ死刑を免れたのか へ続く
(小池 新)

被災地 巨大防潮堤に複雑な思い「まるで知らない街のようで…」

東日本大震災から10年、瓦礫の山だった場所は更地になり、街は新しく生まれ変わった。震災でおよそ1800人が亡くなった岩手県陸前高田市は、江戸時代に植林された高田松原の7万本を津波で失った。流されず、そこにとどまった1本が、復興のシンボルとしてメディアでも大きく取り上げられた「奇跡の一本松」だ。
震災後、海水による損傷で枯死したが、保存プロジェクトにより再建された。周辺は、約130ヘクタールという広大な敷地を持つ「高田松原津波復興祈念公園」として、整備されている。高田松原をよく訪れていた佐藤テル子さん(82才)は、津波で48才(当時)の長男を亡くした。
「震災後に入居した仮設住宅の窓から、ちょうど奇跡の一本松が見えました。あの辺りは長男がまだ幼かった頃によく訪れ、祭りのときには綿あめやおみくじをねだられた場所です。いい思い出ばかりだから、一本松が息子のように見えて、『何とか生き残ってほしい』と願っていました。
震災当時は本当に悲しくて苦しかったけど、一本松に救われた思いでした。風景は一変したけれど、コロナ禍が落ち着いたら、ぜひ皆さんに陸前高田に来てほしいですね」(佐藤テル子さん)
10年という時を経て、壊滅状態だった街は瓦礫のひとつも残らず、生まれ変わった。岩手、宮城、福島の被災3県には、総延長395kmに達する防潮堤も建造された。数十年から数百年に1度の津波に耐えられる規格で建造されており、高さは最大15.5mもある。この頼もしい「巨大な壁」に対し、「おかげで景観がすっかり変わってしまった」と語るのは、福島県浪江町西大行政区区長の大倉満さん(71才)。
「この付近は海沿いにでっかい防潮堤ができて、もう昔のように海は見えません。私が小さい頃から知っている街はすっかりなくなってしまった。自分の故郷でありながら、まるで知らない街のようで、本当に気持ち悪い感じがします」(大倉さん)
津波にさらわれた街が新たに防災設備を備えたからといって、「元通り」とはいかない。宮城県気仙沼市の怪談作家・小田イ輔さんも、「この10年で状況は大きく変わった」と語る。
「東京のような大都会は、日々新たな建物が造られては壊され目まぐるしく変化するものですが、東北の田舎の街並みは、いつまでも変わらないと思っていました。津波でほとんど流された街は都市計画に沿ってかさ上げされ、道路の通り方が変わり、それにあわせてコミュニティーは変化し、震災前の面影はほとんどありません。
もとの街は文字通り、地面の下にあります。よく、過去と未来を語るときなんかは、右が未来で左が過去というふうに横方向で描かれるのが常ですが、震災前後の時間軸は、上下の方向なのではないかと感じます」
ある程度の時間をかければ、街は再建される。しかし、目に見えるものだけが犠牲になったのではない。10年分の苦しみ、悲しみ、恐怖、孤独、あらゆる感情が地層のように東北の地と被災者の心に積み上がっている。
※女性セブン2021年3月25日号

逃走中の軽自動車にはねられ、自転車男性が頭部骨折 ひき逃げ事件で捜査

14日午前7時すぎ、京都市伏見区桃山町で、自転車で通行中だった近くのアルバイト男性(74)が軽乗用車にはねられて転倒し、頭部を骨折する重傷を負った。
京都府警伏見署によると、同署のパトカーが現場近くの府道で軽乗用車のスピード違反を確認し、追跡中だった。倒れている男性と軽乗用車を見つけ、署員が男性を介抱している間に軽乗用車が走り去ったといい、ひき逃げ事件として捜査している。

彫刻刀使う授業、素手でロウのかたまり削ったら…児童10人けが

神戸市立こうべ小学校(中央区)で2月中旬以降、彫刻刀を使う5年生の図工の授業で、児童計10人が負傷していたことが市教委への取材でわかった。うち1人は右手親指のけんを縫う大けがをしており、市教委は負傷者が続出した原因を調べている。
市教委によると、彫刻刀でろうのかたまりを削り、作品をつくる授業で、5年生の4クラス計約130人がクラスごとに受けた。
このうち3クラスでけが人が相次ぎ、2月15日に4人、同16日に2人、3月8日に4人が負傷した。8日の授業では1人がけんの縫合手術を受けたほか、別の1人が左手を数針縫った。ほかの8人は軽いけが。
授業はいずれも図工教諭が指導。児童に彫刻刀を使わせる際は軍手を着けさせることが多いが、教諭は「ろうで滑って危険」と判断し、素手で作業をさせていたという。市教委は「児童には申し訳ない。原因を突き止めたい」としている。

ふたり親世帯も支援を=自民・世耕氏

自民党の世耕弘成参院幹事長は14日のNHK番組で、新型コロナウイルス感染拡大で生活が困窮した「ふたり親世帯」への支援の必要性に言及した。「両親がいる世帯も収入が急減しているところは大変困窮している」と指摘。「子どもの人数に応じた支援策を入学シーズン前に決定したい」と語った。
菅義偉首相は、孤独・孤立対策の一環として、ひとり親世帯や非正規労働者への支援策を今週中に策定する意向を示している。
[時事通信社]

「銭湯行けない」深い心の傷 支援団体代表が語る性的DVの実態

その女性は銭湯を前にして言った。「信じてもらえないかもしれないですけど、私は夫と別れてから怖くて裸になれないんです」
配偶者間の性暴力はドメスティックバイオレンス(DV)の中でも表に出づらく、刑事事件になるのは極めてまれだ。認定NPO法人「女性と子ども支援センター ウィメンズネット・こうべ」(神戸市)の代表理事、正井礼子さん(71)は「被害者に深い心の傷を残す性的DVの実態を知ってほしい」と語る。
専業主婦だった正井さんは1992年、ウィメンズネットを結成。95年の阪神大震災後、夫や恋人から心身への暴力を受けている女性たちの悩みを多く聞くようになった。
性暴力の深刻さに気づいたのは約20年前。DV被害者の集いに来ていた、ある女性との出会いがきっかけだった。
女性は、10年近く前に別居した夫から毎晩のように髪をつかまれ、性行為を強要されていた。心身の調子を崩して病院を受診しても「夫婦間のこと」と理解してもらえず、誰にも相談できなかった、と明かした。ある日、相談機関に同行した帰りに銭湯の前を通りかかった。疲れを癒やせればと、正井さんが「お湯にゆっくりつかって帰ったら?」と声をかけると、女性は「裸になれないから」と断った。服を脱ぐと記憶がよみがえるため、入浴は髪を洗う時だけで下着をまとったままシャワーで済ませている、という。
正井さんは「女性は『自分の体が、ここにあるという実感を持てない』と話していました。モノのように扱われ、人間としての尊厳を体ごと奪われている感覚だったのではないでしょうか」と語る。
屋外や子どもの前で性行為を迫られる、求めを拒むと殴られる――。その後もウィメンズネットには、性暴力にまつわる相談が多く寄せられた。「初めは身体的暴力や精神的暴力を訴え、性被害について話さない人がほとんどです」と正井さんは言う。恥ずかしさに加え「結婚したら夫の要求に応じるものだと夫婦とも思い込み、意に沿わない行為が性暴力だと認識していない」からだ。
配偶者間の性暴力は、社会的にも認知されていない。ある女性は夫の暴力的な性行為で大量出血し、運ばれた病院で「それはDVですよ」と看護師に指摘された。裁判所に接近禁止の保護命令を申請したが、裁判官に「妻なら拒否できたはずだ」と却下されたという。
刑事事件化するのも極めてまれだ。2017年の内閣府調査では、無理やり性行為をされたことのある女性は7・8%。相手は「配偶者や元配偶者」が最多の26・2%だった。一方、19年の警察庁の統計によると、強制性交等罪で検挙された1275件のうち配偶者間は13件。支配的な関係の中で継続的に行われるケースが多いため、暴行や脅迫の立証がネックになる。また警察にDVを相談しても、生命の危険性から性暴力より身体的暴力が着目されるという。
法務省では性犯罪に関する刑法改正に向けた議論が大詰めを迎え、被害者や支援者から同意のない性行為を罰する「不同意性交罪」の創設を求める声が上がる。欧州評議会で採択され、ドイツなど30カ国以上が批准するイスタンブール条約(女性に対する暴力及びドメスティックバイオレンスの防止条約・14年発効)では、配偶者間でも不同意性交を処罰する規定を設けるよう義務づけられている。
「日本でも、夫婦や恋人間で同意のない性行為を許さない規定が必要。日常的にレイプが繰り返され、トラウマを負う人たちをこれ以上増やさないために社会で考える時です」。正井さんの願いだ。
刑法改正の論点として議論を
DV被害者を支援するNPO法人「全国女性シェルターネット」(東京都)は2月、性的DVの深刻な実態を明らかにし、被害者を支援する政策を求める声明をホームページで発表した。
「激しい暴力で避妊できず10回中絶した」「性行為の動画を撮られた」「異物を挿入され、医療機関で取り出す治療を受けた」「夫の仕事相手との性交を強要された」――。加盟する約60団体の相談記録や被害者の手記から集めたという被害実態は壮絶だ。
声明では、DV防止法の保護命令の対象に性的DVを含めることや、恋人や夫婦間の支配関係を考慮した犯罪類型の創設、人工妊娠中絶で配偶者の同意を不要とすることなどを提言した。
全国女性シェルターネットの北仲千里共同代表は「性的DVの被害は支援者の間ではよく知られていたが、当事者も語りにくいため、真正面から取り上げられてこなかった。配偶者間の性暴力を禁じる他国の例も参考に、刑法改正の論点として議論してほしい」と話している。【反橋希美】

東京・靖国神社で桜が開花 昨年に並んで最も早い記録に

今日3月14日(日)、東京でソメイヨシノの開花が発表されました。昨年に並んで観測史上最も早い開花です。
昨日の荒天から一転して東京は朝から青空が広がっています。しっかりと日差しが届いて気温も上がり、最高気温は18.1℃を観測しました。東京・靖国神社のソメイヨシノの標本木は、昨日の段階ですでに1輪が咲いており、今日の日差しと暖かさで次々とつぼみが開いて、午後になって発表の目安となる5~6輪の開花が確認されました。東京のソメイヨシノの開花は平年より12日早く、昨年とは同日です。
平年より早い開花は9年連続
桜開花マップ
東京は1月中旬まで気温が平年並みか低く、寒さが続きました。1月下旬以降は寒暖の差こそあったものの、平年を大きく上回り、2月の平均気温は統計開始以来、2番目に高い記録です。冬の寒さで順調に休眠打破が行われた後、記録的な暖かさで開花が早まったと見られます。東京の開花が平年より早いのは、これで9年連続です。今年は平年値の更新が行われます。近年の早咲きの傾向から平年の開花日も早まる見通しです。

終電繰り上げ初日 「ぼうぜん」乗り遅れた人の姿も JR大阪駅

13日からの春のダイヤ改正で、関西の大手鉄道会社ではJR西日本、阪急電鉄、阪神電鉄の終電時刻が繰り上がった。各社が事前周知に努め、新ダイヤによる最初の終電運行となった14日未明も大きな混乱はなかったが、JR大阪駅(大阪市北区)では繰り上げのために乗り遅れた人たちが見られた。それを予想して集まっていたタクシーで帰宅する人や、諦めてビジネスホテルに宿泊する人たちの声を聞いた。
運転は全て終了しました――。その一文が延々と流れる電光掲示板を見上げ、改札前に駆け込んできた人たちはぼうぜんと動きを止めた。14日午前0時20分ごろ、JR大阪駅御堂筋口の周辺。30代くらいの男性は駅員に説明を求め、20代らしき女性はスマートフォンで誰かと話し始めた。
「繰り上げは知っていた。『ダメもと』で駅まで来てみたけど、やっぱり間に合わなかった」とため息をついたのは、アパレル業界に勤めるジャケット姿の男性(25)=京都市南区在住。「関西では緊急事態宣言が解除されたため、仕事後に同僚2人と飲食した」といい、「相手は先輩なので先に帰るのはためらわれた。大阪市内の友人宅に泊めてもらう」と話した。
今回のダイヤ改正で、JR西は近畿エリアの主要路線で最大30分、阪急は同32分、阪神は同14分の繰り上げとなった。JR大阪駅の終電は神戸方面が西明石行きの午前0時4分で24分早まり、京都方面が高槻行きの午前0時10分で21分早まった。この日は特急サンダーバードの大阪駅への到着が遅れたらしく、接続する西明石行きの出発は少し遅らされた。
タクシー帰宅、ホテル宿泊組も
駅周辺の道路には客待ちのタクシーが集まった。「この日に注目していた」と、業界歴30年以上というベテラン運転手(83)が話した。「乗り遅れた人を目当てに、いつも以上のタクシーが集まってきよった」。別の運転手の男性(55)は「さっき乗せたお客さんは『電車、終わってしもうたわ。知らんかった』と言っていた」と語り、「喜ぶのは悪いが、売り上げが厳しい中で助かる」と吐露した。
もっとも、終電に乗り遅れた人たちが頼ったのはタクシーだけではなかった。滋賀県栗東市の自営業の男性(48)は帰宅を断念し、大阪市中央区のビジネスホテルに予約の電話を入れた。「禁煙の部屋で3500円。タクシーよりはるかに安上がりだ」と話し、足早に駅を後にした。
改札口近くで顔を寄せ合い、相談中の男女3人組が残っていた。大阪府高槻市に住む21~22歳の大学3年生。新型コロナウイルスの影響で大学生活がままならない中、久しぶりの楽しい飲食会で「終電繰り上げを忘れてしまった」と苦笑した。
店での話題は就職活動に及んだという。新卒の採用人数を絞る企業は多く、「既に諦めている同級生は多い。将来への不安は大きい」と話す。「それに比べたら、終電に乗り遅れたくらいは何とかなる。大丈夫です」。タクシー代もホテル代ももったいないと言いつつ、笑ってみせた。【高橋昌紀】