2000票差で初当選…1996年の国政選挙で繰り広げられていた“菅義偉”と“創価学会”の激突とは

「私は雪深い秋田の農家に生まれ、地縁血縁のない横浜で、まさにゼロからのスタートで政治の世界に飛び込みました」と語った所信表明演説で庶民派なイメージを振りまき、多くの国民から支持された菅義偉首相。しかし、その支持率は首相就任から日が経つにつれて下降の一途をたどっているのが現状だ。
ここでは、ノンフィクション作家、森功氏の著書『 菅義偉の正体 』(小学館新書)を引用。菅義偉氏の本当の姿に迫るべく、国政選挙初参戦時の印象的なエピソードを紹介する。(第2回の1回目/ 後編 を読む)
◇◇◇
最初の国政選挙
菅義偉は、衆院に小選挙区制度が導入されて初めての総選挙となった96年10月、神奈川2区から出馬して初当選を果たした。
「もともと神奈川の衆院選挙事情からすると、菅さんが立候補できる余地はほとんどなかった。選挙法が改正され、小選挙区制が敷かれたからこそ、国政に打って出る芽が出てきたんです。そのへんも運の強い人だよ。小此木さんは中選挙区時代、ずっと旧1区で当選を重ねてきました。旧1区にはもう一人、文部大臣になった鈴木恒夫さんがいて、二人で目いっぱい。小此木さんは旧1区で息子の八郎にあとを譲ろうとしていたから、仮に中選挙区のままだったなら、菅さんは出られなかった」
藤代が横浜の選挙事情を詳しく解説してくれた。小此木八郎は93年7月におこなわれた衆院選で、中選挙区時代の旧神奈川1区から出馬し、菅より一足先に当選した。八郎の選挙で菅は選挙事務所の事務長として奔走し、次に備えたと藤代が話す。
「小選挙区制になり、平成8(96)年の選挙で、横浜は1区から8区までに区割りされた。すると、基本的にどこでも出られる。自分にとって、どこがいいか、判断するだけです。それで、菅さんが手をあげた。八ちゃん(小此木八郎)が、神奈川区と鶴見区の3区をとったから、菅さんは2区を選んだ。1区は大蔵事務次官から代議士になった佐藤一郎の長男、佐藤謙一郎が強かったから、菅さんは2区を選んだのだと思います。その棲み分けについては、当人の希望に沿いながら市連で話し合われたはずです」
“菅軍団”という人的ネットワーク
影の市長と呼ばれるだけあって、菅は希望を通しやすかったのかもしれない。もともと菅の立候補した衆院の神奈川2区は、市議時代の選挙区だった西区が含まれる。菅が2区を選んだ理由は、市議時代と同じくここに相鉄グループの本社があるからだろう。もっとも衆院になると、選挙区は南区、港南区が加わりかなり広くもなった。市議時代は西区だけをカバーすればよかったが、そうもいかない。やはり衆院選では苦労もあったようだ。
地元横浜には、菅軍団と呼ばれる市議や県議たちがいる。多くは菅事務所の秘書から政治家に転身している。たいていは菅が衆院選に初めて出馬したころから付き合ってきた。地元における菅の強みは、そうした人的なネットワークを張り巡らせていることである。
菅事務所の秘書から神奈川県議になった横浜出身の加藤元弥もその一人だ。山梨学院大学を卒業後、地元の広告代理店に勤めているときから、菅の選挙を手伝うようになった。
「最初の選挙は厳しい戦いでした」
「会社に入って僕は政治家の先生のところに営業し、仕事をもらっていました。広告代理店ですから、選挙のポスターづくりなどのお手伝いをするわけです。菅先生は選挙ポスターの写真などを撮るときもせっかちで、『ああ、これでいいよ』と頓着しないタイプでした。それで仕事として、どんどん選挙に関わるようになっていったのです。菅先生が2区を選んだのは西区の市会議員だったからでしょう。たしか橋本(龍太郎)総理が応援に入ってこられた。とくに最初の選挙のときは厳しい戦いでした。ここには公明党系の現職がいて、新人の菅先生がそこに挑んだかっこうでしたから」
折しも、菅の初当選した96年の小選挙区制導入総選挙は、日本の政局が目まぐるしく動いていた時期だ。自民党を離党した小沢一郎が93年8月、日本新党の細川護煕らと八党派の連立政権を樹立する。そこから下野した自民党の橋本龍太郎や野中広務たちは94年6月、日本社会党の村山富市を担ぎ上げ、新党さきがけと連立して政権与党に返り咲いた。このとき小沢が公明党や民社党などに非自民の再結集を呼び掛けて結成したのが、新進党だ。そこで公明党はいったん解党し、所属議員たちは新進党への合流組と、地方議員を党に加え、新たに看板をかえて発足した公明への残留組に分かれた。そんな激動のなかで実施されたのが96年の総選挙だったのである。自民党執行部としては、どんな候補者でもいいから衆院の議席を増やしたかった。新人の菅がそこに紛れ込んだ。
秘書から見た菅義偉
20年の長きにわたり、菅の秘書を務めてきた渋谷健は、初当選のときに秘書として選挙区を駆け回った一人だ。現在もなお自民党菅軍団の横浜市議として、菅を支えている。
「もともと私は20代のころ、代議士を目指していた別の方の秘書兼運転手をしていました。その方が3回連続して衆院選に落選し、私自身も民間企業に就職したんですけど、35歳のとき、もう一度政治の道に戻ったらどうか、と菅さんを紹介されたのが出会いでした。いまと同じようにぶっきらぼうに、自分の言いたいことだけを言って、じゃあ頼むって感じ。なるほど、これは面白い人だと思い、いっしょにやらせてもらえるよう頼んだのが、20年前でした」
渋谷がそう当時を振り返った。元横浜市議会議長の藤代と同じような話をするが、少しちがうところもある。
「菅さんは衆院選に出馬する1年半前に市議を辞めていて、苦しい時代でもありました。菅さんの選んだ神奈川2区の西区、南区、港南区のうち、西区はもともと小此木さんの地盤ですけど、南区と港南区は縁のない選挙区だったわけです。だから衆院の出馬はかなり思い切ったチャレンジでもあった。おまけに自民党から飛び出した人たちがつくった民主党(新党さきがけから派生)に佐藤謙一郎がいて、彼が2区から出るものと見られていました。民主党の佐藤謙一郎は非常に選挙に強いので、当時からいえば、菅さんは勝てねえべ、という下馬評でした。そしたら何を思ったのか、その佐藤謙一郎が神奈川1区に逃げちゃった。それで助かったのです」
創価学会との激突
それもラッキーだった。もっとも真の強敵は佐藤ではない。最も手強かった対立候補は、新進党(現・公明党)公認の上田晃弘だった。自民党にとって、新進党との対決選挙のなかで最大のポイントが、旧公明党の選挙組織、創価学会とどう戦うか、である。自民党は宗教法人の政治介入を問題視し、創価学会名誉会長の池田大作の国会喚問を持ち出した。いきおい選挙戦では、自民対創価学会の対決が全国で繰り広げられていったが、なかでも菅の出馬した神奈川2区は激烈な選挙となった。
「上田さんは創価学会の青年部長をやっていて、まさに学会保守本流のど真ん中にいた。学会内で絶対偉くなるといわれていた方です。公明党を母体とする新進党としては、絶対落とせない候補者だから、徹底した組織選挙を展開していました」
神奈川2区には民主党の大出彰も出馬していたが、上田に比べるとまだ楽な相手だ。渋谷がこう続ける。
「当時、自民党は創価学会を目の敵にしていて、亀井静香さんあたりが四月会を結成して池田名誉会長批判を展開していたころです。だからわれわれも学会批判をめちゃくちゃにやったし、向こうも真剣勝負でした。たとえばとつぜん宣伝カーの前に、2~3人が立ちはだかって道をふさいだり。ひどいときは道路に寝転んだり。ある夜、事務所の玄関にバーンと大きな音がするので行ってみると、大きな石が投げ込まれ、車が走り去っていった。僕の家に夜中じゅうファックスを送りつけてきたこともありました。まさかみずから名乗るわけではないので相手の正体はわかりませんが、そんな熾烈な選挙でした。で、大接戦の末、2000票ぐらいの僅差で当選できたのです。いわばあれが運命の岐路でしょう。負けていたら、菅さんはおそらく秋田に帰っていたと思います」
容赦ない池田大作批判
このときの選挙で菅陣営は、人間の仮面をかぶった狼などと書いたビラまで配り、池田大作批判を展開したという。自公が連立政権を組んでいる現在、公明党や創価学会は政権を担うパートナーであり、菅は創価学会との太いパイプを築き、党内きっての調整役にもなっている。
ちなみに小沢の率いた新進党は98年に空中分解し、所属議員の多くが出戻って公明党が再結成された。ここからいまの自公連立政権の道筋ができあがっていく。菅にとって衆議院二期目となった2000年6月の総選挙では、菅本人が創価学会に選挙協力を求めた。
「いまほどじゃないですけど、二回目の選挙のときには、手のひらを返したように、自民党本部が創価学会と手を組んだわけです。で、学会から一度挨拶に来いって言われ、菅さんと二人で、山下公園のところにある創価学会の(神奈川県)本部へ行きました。会ったのは地域トップの方ですけど、『菅さん、あんたこないだの選挙で、池田大作先生のことを何て言った? あんなに批判しておいて気持ちは変わったのか』と一時間ほど、ねちねち延々とやられました。いやあ、すごかったです」
渋谷がこう明かしてくれた。
「こちらも敵の本陣にいるわけですから、突っ張ったって仕方ない。さすがの菅さんも一生懸命言い訳をしていました。それから選挙のたびに毎回向こうへ挨拶に行くようになりました。逆に菅さんが県連会長のときなどは、神奈川県で唯一、公明党が公認を出している6区の上田勇さんを、自民党の神奈川県連として徹底的に支援しました。大変感謝され、そのあとからとくにいいムードになった。三回目、四回目、五回目ぐらいになると、雰囲気ががらりと変わりました。『おい渋谷、最初はほんとに怖かったな』と菅さんも笑っていました。初当選のときはいまとは隔世の感があります。菅さん自身、いまや学会に相当なパイプを持っていますからね」
菅と創価学会副会長の佐藤浩との関係は政界で知られるところだ。変わり身の早さは政治家の常ではあるが、菅はもともと政策にこだわりがないタイプでもある。
地獄の菅軍団
秋田出身の菅は神奈川ではいわば落下傘候補だ。にもかかわらず地元でこれだけ戦えた理由の一つとして、小此木事務所仕込みの秘書の働かせ方を挙げる関係者が少なくない。
「小此木彦三郎事務所では、先生が東京から地元に帰ってくると聞いただけで、秘書が胃潰瘍になってしまうぐらい、厳しかったそうです。菅先生はそこでずっと厳しい秘書時代を過ごしてきているので、東京にいても私たちのやることが手にとるようにわかる。あとから『おまえ、何でこれやってなかったんだ』と叱られることもしょっちゅうでした」
菅派の神奈川県議、加藤(前出)が冗談めかしてこう話した。菅事務所では私設を含めた6~7人ほどの秘書たちが常にフル稼働し、地元を走り回っている。
「たとえば菅先生が地元に帰ってくるときは、支援者を集めて国政報告会を開き、秘書が講演に来る人を集める。町内会単位で講演会を開くのですが、町内会がいくつか集まっているのを連合町内会と呼んでいて、西区だけでも連合町内会が6地区もあります。西、南、港南区すべてのその地区で国政報告会を開き、終わったあとに『なぜ、この人は来なかったのか』と問い詰められる。それほど厳しいので、神奈川県内の他の秘書連中から、菅事務所のことは“地獄の軍団”と呼ばれているほど。他の事務所で秘書を叱るとき、『いっぺん菅事務所で働いて修行してこい』と言われるそうです」
国政報告会では、安全保障法制に賛成か反対か、消費増税について意見はどうか、といった政策テーマを投げかけ、支援者たちの反応を探る目的もあるという。ビラやアンケートを配るのも秘書の務めだから、忙しくて目が回る。地獄の菅軍団の秘書たちが、菅を支えてきたといえる。
鍛え抜かれた秘書たち
そんな秘書たちはやがて地元横浜市議や神奈川県議となり、議会で菅派を形成、後輩秘書たちといっしょに首長を担ぐ。テレビキャスターから神奈川県知事になった黒岩祐治も菅派首長の一人だ。神奈川県議になった加藤が、2011年3月の黒岩知事誕生秘話を明かしてくれた。
「現職だった松沢成文知事が東京都知事選に出馬すると言い出して急に辞め、菅先生が自民党神奈川県連会長をやっていましたので、これは何とかしなきゃいけないと動いたわけなんです。黒岩さんを担ぎ出した知事選では、菅事務所の後輩秘書が手伝いに行きました。僕が菅事務所から抜けたあと、菅先生が地元事務所の責任者にしていた千田勝一郎という秘書です。おかげで知事選に当選した黒岩さんが千田をずい分気に入りましてね。『千田さんを私のところへください』と菅先生に頼んできたらしい」
千田は出身地の岩手県から参議院選に出馬した経験がある政治家志望の秘書だった。そのため当人は菅事務所に残りたい、と黒岩からの申し出を断ったという。
「すると、僕が菅先生から『おまえはどう思うか』と相談を受けました。それで、『彼は将来的に議員をやりたがっています。知事の秘書になれば神奈川中の人脈をつくれるから、彼にとっては滅多にないチャンスだと思います』と言うと、菅先生は『それならおまえが奴を説得しろ』と任せられてしまいました。そうして菅先生を交えて三人でランチしながら、『君の将来のためにも勉強になると思うよ』と口説いたのです。黒岩知事を担いだのは菅先生ですから、先生にも責任がある。黒岩さんを応援したのは自民党だけではなく、民主党さんだとか各党に気を遣わなきゃいけなかったから。千田を出すのは痛いけど仕方なかったんです」
●選挙を“楽勝”に導く太い人脈
菅は秘書たちに指示し、地元の自営業者から大手の鉄道会社、建設や不動産会社などに声をかけ、朝食会などを頻繁にこなしてきた。もとはといえば、小此木彦三郎の秘書時代に築いた人脈だが、その大半がいまや菅の支援企業となっている。渋谷もこう話した。
「横浜には、秘書だけでなく、民間企業の菅軍団もいましてね。市会議員のころから菅さんのことが大好きで、菅さん命、みたいな企業の社長さんや幹部の人たちです。めっぽう選挙に慣れている人たちなので、そこが動けばたいてい大丈夫。菅さん自身の衆議院選挙だってその人たちが仕切ってくれるし、菅派の市会議員の選挙なんかもその人たちのおかげで楽勝なんです。そういう人たちと年に何回か朝食会をやる。あの人たちの偉いところは、われわれに仕事を頼んだりしない。だから付き合いやすい。そういう人脈を30~40年きっちり大事にしています」
「法に則った行為であり…」菅義偉が行っていた“放送”に対する“政治介入”の実態 へ続く
(森 功)

【独自】中国「千人計画」、日本人研究者らに論文ノルマ…「著名な科学誌に2本」要求

海外から優秀な研究者を集める中国の人材招致プロジェクト「千人計画」を巡り、中国側が同計画に参加した日本人研究者らに論文執筆のノルマを課していたことがわかった。特に「ネイチャー」「サイエンス」など世界的に著名な科学誌への掲載を求めていた。そうした論文の掲載数は各国の学術レベルを示す指標の一つとされており、科学技術強国を目指す中国の強い姿勢がうかがえる。(小池和樹、藤原聖大)
点数化

千人計画を巡っては、読売新聞の取材で少なくとも44人の日本人研究者が関与していたことが明らかになっている。このうち複数人が論文発表のノルマなどの実態を証言した。
「著名な科学誌に2本の論文を出すよう求められ、かなりきつい」。2016年頃から中国・浙江省の千人計画に参加し、現在も現地で脳の遺伝子を研究している浙江大教授(43)はそう明かす。
中国の大学では毎年、研究者が発表した論文数などを点数化し、研究実績を審査している。数が多かったり、著名な科学誌に掲載されたりすれば、給与が上がることもあるという。
教授は浙江大に着任した際、優れた論文を集める英国の「ネイチャー」や米国の「サイエンス」、それらの姉妹誌などに在任中に計2本の論文を出すよう求められた。まだ掲載に至っていないため、毎年の審査の席で繰り返し求められているという。
さらに、過去に中国以外で行った研究のデータを使う場合でも、中国の大学名で論文を発表するよう要請されている。教授は「データはまるまる他国での研究で得たものでも、中国の大学名で論文を発表する研究者は多く、中国の論文数の多さに反映されていると思う」と語った。

女性看護助手、病院駐輪場で背後から殴られる…現金入りバッグ奪われる被害

27日午前1時45分頃、川崎市川崎区の市立川崎病院駐輪場で、勤務を終えた東京都大田区の看護助手の女性(70)が背後から男に頭を殴られ、現金約6000円などが入ったバッグを奪われた。女性は後頭部に軽傷を負い、男は自転車で逃走。川崎署が強盗致傷事件として調べている。
発表によると、男は身長約1メートル70。

沖縄、県独自の緊急事態宣言3月1日解除 時短要請も終了へ

沖縄県の玉城(たまき)デニー知事は27日、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて1月20日から県内全域に発令している県独自の緊急事態宣言を予定通り2月末までとし、3月1日に解除すると発表した。県民の不要不急の外出自粛と飲食店などの営業時間短縮の要請も終了する。
玉城知事は記者会見で、「3月、4月は多くの人が移動し、接触する機会が増えるため、決して安心できない」と述べ、引き続き手洗いやマスク着用など感染防止対策の徹底を呼びかけた。また、国の緊急事態宣言が発令されている首都圏1都3県との不要不急の往来は引き続き自粛するよう求めた。
県内の新規感染者数は減少傾向で、感染者用の病床使用率の低下など医療提供体制の逼迫(ひっぱく)度が緩和した。県は宣言期間を当初は2月7日までとしていたが、2月末まで延長していた。【竹内望】

全国で新たに1214人感染 重症者は440人 新型コロナ

新型コロナウイルスの感染者は27日、全国で新たに1214人が確認された。死者は41人増えて7880人となった。重症者(27日午前0時現在)は前日比17人減の440人だった。
東京都では2日ぶりに1日あたりの感染者が300人を超えて337人確認された。神奈川県では過去の感染者が1人取り下げられた。【まとめ・関谷俊介】

栃木・足利の山火事 市長「鎮圧まであと一歩」 発生から1週間

栃木県足利市の山火事は27日で発生から1週間を迎えた。一時は強風で延焼地域が拡大したが、徐々に収まりつつある。同日の記者会見で和泉聡市長は「鎮圧まであと一歩のところまで来ているという感触」と話し、早ければ来月1日にも火の勢いが収束した状態を表す「鎮圧宣言」を出したい考えを示した。【李舜】
会見で和泉市長は「風が弱まり天候条件が良く、しっかりとした消火態勢も構築できており、(鎮圧に向け)いい方向に進んでいる」と述べた。延焼地域が約106ヘクタールで26日と変わらなかったことや、消防隊が地上から現場に入り残火処理にあたったことを踏まえ、「延焼地域を徐々に制御できている。天候次第だが、28日は残火処理をメインにし、翌1日に煙が立ち上らなかった場合、その時点で鎮圧を宣言できたらうれしい」と語った。
避難勧告世帯も305世帯と変わっていない。勧告解除について和泉市長は「基本的には鎮圧段階で解除となるが、長く延焼した地域などもあるので段階的、部分的解除もあり得る」とした。
市によると、発生から7日間で消火にあたった人員は消防と自衛隊合わせて延べ約1900人。ヘリコプターによる上空からの放水は約700回で計1675トンが散水された。また、27日正午ごろ、飛行中の消火ヘリコプターに小型無人機「ドローン」が接近し、ヘリによる消火活動が1~2時間中断したといい、市は「ドローンを飛ばすとヘリコプターの邪魔になるので使用は控えてほしい」と呼びかけた。
住民笑顔「ようやく安心できそう」
26日までは絶えず白煙を上げ続ける両崖(りょうがい)山だったが、27日には数カ所からのみ煙が確認されるなど状況は好転しており、住民からは「日常が戻ってきそうだ」と期待の声が上がった。
23日に避難勧告が出された足利市西宮町の女性(68)は「家の近くに煙が充満しておらず、1週間ぶりに洗濯物を外で干せた。火が着いたり消えたりの毎日で疲れたが、ようやく安心できそう」と笑顔を見せた。
同市本城2の会社員男性(47)も「朝から昼にかけて煙が見えたが、いつの間にか消えていた」と安堵(あんど)した様子。「煙臭さがない日は久しぶり。民家に火が及ぶ心配もなさそうなので、日常がもう少しで帰ってくると思うとうれしい」と話した。
避難勧告は出ていない同市本庄1の女性(72)は「23日には火が家から見えて怖かった。まだ火があるのかもしれないが、ここまで火を消してくれた消防の人たちに感謝したい」と気遣った。

福岡の遺体は9歳男児 虐待疑いで相談も

福岡、鹿児島両県で子ども3人の遺体が見つかった事件で、福岡県警は27日、同県飯塚市の集合住宅で発見された遺体の身元が住人の小学3年田中大翔君(9)と判明したと発表した。死後1週間程度経過し、目立った外傷はなく司法解剖の結果、死因は不詳だった。
16年10月から昨年12月までの間、県警に対し、大翔君への身体的虐待の疑いを含む相談が複数回あったと明らかにした。県警や児童相談所が確認したが、けがなどはなかったという。
鹿児島市内で見つかった遺書は「3人で一緒に死ぬ」という趣旨の内容だったことが判明。県警は父親(41)が無理心中を図ったとみて調べている。

ベビーカー乳児転落し重傷、大津 JR駅員が運ぶ途中

JR西日本は27日、大津市木戸のJR湖西線志賀駅で、男性駅員が乳児を乗せたままベビーカーを持って階段を下っていたところ、乳児が転落して頭部を骨折するなどしたと発表した。乳児は一時入院したが、既に退院しているという。社内規定では階段を使ってベビーカーを運ぶ際は子どもを降ろす決まりだった。
JR西によると、25日午前9時半ごろ、志賀駅で下車した女性客のベビーカーを駅員が持って階段を下りた。当時、乳児はベルトを装着していなかった。駅にエレベーターは設置されていない。
乳児は、26日に病院で受診。頭の骨が折れていたほか、脳内出血も見つかった。

射殺事件発生で避難した男性の部屋に侵入、容疑者自室の隣だった…県警は発見できず

福島県須賀川市で中古車販売店経営者の男性が射殺された現場近くの家に侵入したとして、同市、無職の男(60)が住居侵入容疑で現行犯逮捕された事件で、侵入先はアパート2階にある自室の隣部屋だったことが、捜査関係者への取材で分かった。県警は26日、男を同容疑で福島地検郡山支部に送検。所持していた拳銃のようなものと殺人事件との関連なども調べる方針だ。
捜査関係者によると、男の自宅は、殺人事件があった中古車販売店のガレージから道路を1本挟んだ場所にあるアパート。逮捕された際は侵入先の部屋にいた。両室のベランダを仕切る壁が破られていて、そこから隣のベランダに移動し、ガラスを割って入った可能性があるという。隣室は50歳代男性が住んでいたが、殺人事件があったことから避難し、当時は不在だった。
県警は殺人事件後に周辺の聞き込みを行ったが、男の発見には至らなかった。

署名アルバイトの発注書「返せ」 リコール幹部、広告会社に

愛知県の大村秀章知事のリコール(解職請求)運動を巡る署名偽造問題で、運動事務局の幹部がアルバイトの募集に関わった名古屋市の広告関連会社に対し、契約内容などが記された「発注書」を返すよう求めていたことが27日、関係者への取材で分かった。署名偽造に関与したことを示す物証を回収しようとした可能性がある。県警が詳しい経緯を調べている。
関係者によると、幹部は今月に入り繰り返し要求。広告関連会社は求めに応じず、発注書を県警に提出した。発注書には、幹部の手書きのサインや押印と「署名の代筆は本人の許可を得ている」「個人情報は適正に収集した」という趣旨の記述もあった。