埼玉・三芳で住宅全焼、1人の遺体発見…84歳住人と連絡取れず

4日午後4時30分頃、埼玉県三芳町北永井、小池和年さん(84)方から火が出ていると110番があった。火は約1時間半後にほぼ消し止められたが、木造2階住宅を全焼し、焼け跡から性別不明の1人の遺体が見つかった。東入間署によると、小池さんと連絡が取れていないという。同居する80歳代の妻は避難し、50歳代の長男は外出中で無事だった。同署は遺体の身元と出火原因を調べている。

建築家の原広司さん死去、88歳…JR京都駅ビルや梅田スカイビルを手がける

建築家で東大名誉教授の原広司(はら・ひろし)さんが3日、老衰で死去した。88歳。葬儀は近親者で営む。喪主は妻、若菜さん。
川崎市生まれ。東大大学院修了。1970年代に行った世界の集落調査の知見から、谷間のような空間を持つ自邸やJR京都駅ビルなどを設計。古代遺跡にイメージを得た空中庭園で知られる大阪駅前の梅田スカイビル(大阪市)はテレビCMなどで話題を集めた。
「田崎美術館」(長野県)で日本建築学会賞、「ヤマトインターナショナル」(東京・平和島)で村野藤吾賞。他に作家で友人だった大江健三郎さんの生地、愛媛県内子町に設計した町立大瀬中学校などがある。
建築家の山本理顕さん、隈研吾さんらの師としても知られた。著書「空間〈機能から様相へ〉」でサントリー学芸賞。他の著書に「集落の教え 100」など。

住宅に親族の男女3人の遺体 現場に血のついたハンマーなど 神戸市

2日夕方、神戸市内の住宅で男女3人の遺体が見つかりました。3人は親族で、警察が詳しい状況を調べています。
警察によりますと、2日午後6時15分ごろ、神戸市西区竹の台の住宅で、この家に住む64歳の男性が階段の踊り場で首をつった状態で、死亡しているのが見つかりました。
また、1階の和室では、男性の義理の姉と甥の2人が頭から血を流して死亡していて、そばには血のついたハンマーなどが落ちていたということです。
この1時間ほど前には、男性の兄から、「弟の家で話し合いをしているはずの妻と息子と連絡がとれない」と警察に通報があり、駆け付けた警察官が3人を発見しました。
玄関は施錠されていて、和室には争ったような形跡があったということで、警察は殺人事件の可能性も視野に捜査しています。

今夜遅く「しぶんぎ座流星群」のピークに 三大流星群のひとつ

毎年お正月の空を彩る「しぶんぎ座流星群」。今年は、今日1月3日(金)深夜~明日4日(土)明け方にかけて、一番の見頃を迎えます。
三大流星群のひとつに数えられる流星群で、今年は月明かりが観測の邪魔にならないため好条件です。見える時間帯や個数、方向などを解説します。
気になる今夜の天気は
今夜は西高東低の冬型の気圧配置で、日本海側の地域は寒気の影響で雲が広がりやすく、天体観測には不向きな天気のところが多くなりそうです。雲に切れ間のできるタイミングはあるかもしれませんが、流星を発見するのは難しそうです。
また、関東や東北南部の太平洋側も夕方以降に雲が増えてくる予想です。東の沖合に雲が連なる見通しで、首都圏はこの雲の動向次第といえそうです。明け方には解消してくる可能性があります。
沖縄や奄美も湿った空気の影響で雲の多い空となりそうです。
その他の、北海道の道東太平洋側や、東海以西の太平洋側の各地は晴れる所が多く、流星観測に問題のない天気になりそうです。
晴れる地域では特に冷え込みが厳しくなる予想です。屋外でじっとしていると想像以上にすぐに身体が冷えますので、観測の際は最大限の防寒で臨んでください。
期待できる流星数は?
しぶんぎ座流星群の流星は、放射点(※)が昇ってくる深夜以降に流れはじめ、日付が変わったあと放射点が高く昇るほど流れやすくなります。東の空が明るくなってくる直前までがチャンスです。
今年のしぶんぎ座流星群の活動の極大は4日(土)0時頃(今夜)と予想されています。ただ日本ではその時間帯よりも、放射点の高さが上がる明日の明け方のほうが流れる流星の数が多くなる見通しです。国立天文台によると、空の暗い場所では1時間あたり30個程度の出現が期待できるとのことです。
流星は放射点の方向から流れますが、放射点の付近だけでなく全天のどこにでも出現します。なるべく空の広い範囲を見渡すようにして、観測するのがおすすめです。
また、前後の日にも同じような時間帯に流星が流れやすくなります。※放射点:流れ星(群流星)が飛び出してくるように見える天球上の点のこと
しぶんぎ座流星群の特徴 活動が活発な期間は短い
流星の元となる塵(イメージ)
流星群は、彗星が残した塵の帯の中を地球が通過することによって、毎年同じような時期にあらわれる現象です。
流星群によって地球の軌道との位置関係は様々で、しぶんぎ座流星群のもととなる塵の帯は、地球の公転面と直角に近い角度で交差するため、地球は塵の帯を短期間で抜けてしまいます。
このためしぶんぎ座流星群の活動は、ふたご座流星群やペルセウス座流星群など他の流星群に比べて、活発な期間(流れ星を多く観測できる期間)が短いという特徴があります。
「しぶんぎ座」は現存しない!?
「しぶんぎ座」という星座に聞き覚えのない方もいるかもしれません。実はこちら、現在では存在しない「壁面四分儀(へきめんしぶんぎ)座」という星座に由来しています。現在の星座でいうと、うしかい座とりゅう座の境界あたりにありました。
かつてあった「へきめんしぶんぎ座」の方向から流星が流れたように見えることから、「しぶんぎ座流星群」と名付けられています。

住宅に侵入、鉢合わせで体当たり 茨城、何も取らずに4人が逃走

2日午後11時半ごろ、茨城県鉾田市の無職男性(44)から「家の中に男が4人いた」と鉾田署に通報があった。署によると、平屋建ての住宅内で男性が物音に気付いて廊下に出ると、1人と鉢合わせになり、体当たりされた。けがはなかった。侵入したのは計4人で、何も取らずに逃走。署は事後強盗未遂事件として捜査している。
署によると、男性は寝室に向かおうとしており、午後11時25分ごろに4人と出くわした。廊下に置かれた、靴の入った箱が物色されていた。3人は玄関から、1人は割られた窓から逃げた。4人の背格好は不明としている。

住宅の「耐震補強」阪神大震災も能登地震も生存に直結 対策遅れる地方、都市との格差拡大 備えあれ②耐震力

平成7年の阪神大震災後、建築を学ぶ一人の神戸大生が、千人超の犠牲者遺族にアンケートを実施した。犠牲者が出た建物のうち、耐震性の不十分な建築基準法の旧基準は9割超だった。「耐震補強こそ地震対策の要」。1年前の元日、能登半島の古い家屋が次々に倒壊し、その思いが再び頭をもたげた。
平成7年1月17日早朝、神戸大工学部建築学科の学生だった藤江徹(いたる)(52)は、下宿先で就寝中、「洗濯機の中に放り込まれた」ような揺れで飛び起きた。周囲の建物は軒並み倒れ、「日本が滅びた」と感じた。
兵庫県によると、阪神大震災の直接死5483人のうち72%が家屋の下敷きになった窒息・圧死とされる。「被災地の学生として震災に向き合う義務がある」。藤江は卒論に向け犠牲者が出た家屋を調べようと決断。犠牲者3651人の遺族にアンケートを送り、1218人から回答を得た。
結果に驚愕(きょうがく)した。全半壊家屋の98・1%が昭和56年の建築基準法改正より前に建った旧基準だったのだ。震度6強まで耐えるとされる新基準の全半壊はわずか1・9%。犠牲者も旧基準が782人に対し、新基準は15人にとどまった。「耐震化は生存に直結する」と藤江は確信した。
国も平成12年の建築基準法改正で木造住宅にさらに厳しい「新新基準」を設けた。国土交通省によると、平成30年の新基準レベルの耐震化率は全国平均で87%。令和12年にはおおむね100%とするのを目標に掲げる。
だが昨年1月の能登半島では、30年前の神戸と同じ光景が広がった。直接死は228人に及んだが、被害が甚大だった石川県輪島市の耐震化率は46%(4年度末時点)、珠洲(すず)市も51%(平成30年時点)と、全国平均を大きく下回っていたのだ。
地震後の昨年3月、日本建築学会北陸支部は両市などの被災家屋約5700棟を目視で調査した。旧基準とみられる古い建物は5割以上が全半壊した一方、新新基準とみられる建物の全半壊は1割程度にとどまった。
調査を担当した金沢大助教(地震防災工学)の村田晶(53)は「都市と地方の『耐震化格差』が被害を拡大させたのは明らかだ」と指摘。被害低減や早期復興には耐震化の推進が最も効果的だとし、耐震化が遅れがちな地方に「犠牲者が増えると過疎化が進み、故郷の維持さえ難しくなる」と警鐘を鳴らした。
家屋密集、高まる火災リスク
住宅にとって地震への備えで重要なことは、耐震性の強化だけではない。木造家屋が密集する市街地などでは、もう一つの脅威も考慮する必要がある。それが火災だ。
1年前の能登半島地震では、石川県輪島市の「朝市通り」一帯で大規模火災が起きた。総務省消防庁などによると、240棟約4万9千平方メートルが焼失し、10人以上が犠牲となった。電気配線が地震で傷つき、出火した可能性があるという。
「被災地には独特のにおいがある。能登も同じにおいがしたと思う」。阪神大震災当時、神戸大の学生だった藤江徹(いたる)は、輪島の大規模火災の映像を見て、つらい記憶がよみがえった。
30年前の地震直後、神戸市灘区の下宿先から友人のアパートへ駆けつけた。友人は無事だったが、同じ大学の男子学生が建物の下敷きになって助けを求めていた。
「俺、助かるかな」
学生の力ない声に、藤江は「絶対、助けたる」と声をかけたが、目前に火の手が迫る。断水で消火する方法もない。「逃げろ」との呼び声に離れた直後、炎がアパートを包み込んだ-。
古い家屋が並ぶ地域は倒壊に加え、火災拡大のリスクも高い。国は平成24年、古い木造家屋がひしめき、地震で被害拡大が懸念される「著しく危険な密集市街地」が17都府県に計5745ヘクタールあると公表した。解消を進めるが、現在も10都府県に計1662ヘクタールが残る。
まずはハード対策進めるべきだ
大阪公立大教授(居住安全工学)の生田英輔(48)は、地震に伴う火災が密集市街地で起きた場合、「同時多発的に火災が起き、地域の消防力を上回り激甚化しやすい。まずは耐震化や不燃化などハード対策を進めるべきだ」と強調する。
ただ、高齢住民が多い地方などでは、年齢や資金的な面から耐震化を諦めるケースが多い。輪島市によると、朝市通り周辺も耐震改修の補助制度などを利用する人は少なかった。生田は、もし耐震改修などが進まない場合、「感震ブレーカーを設置するなど、火災自体が発生しにくくする工夫が有効」とも指摘する。
現在、大気汚染で疲弊した大阪市西淀川区の再生に取り組む公益財団法人「公害地域再生センター」の事務局長を務める藤江。小中学校で防災教育にも力を入れ、耐震化の重要性も訴えている。
「記憶の風化は地震対策の必要性さえ失わせる。何度も伝えることが自分の使命なんです」(敬称略)

女子に学歴は必要ない?いまだに残る地域格差。女性の進学を阻む偏見と教育環境

東京大4年の川崎莉音さんは「なぜ女子より男子が保護者に難関大合格を期待されるのか」と疑問を抱いてきた。川崎さんは、地方に住む女子生徒の進学の選択肢を広げる「#Your Choice Project」代表を務めている。 2024年度の東大の女子学生比率は約2割。地方出身者はより少ない。「女子は周囲から浪人を反対されたり、地元に残ることを期待されたりしている。自己評価が低い傾向もあり、自分なんかが大学に行けるのかと考える人もいる」 日本社会にはいまだに「女子に学歴は必要ない」との考えが強く残る。共同通信は10月、「地域からジェンダー平等を2024 都道府県版ジェンダー・ギャップ指数をてこに」と題したシンポジウムを開いた。有識者や現役学生が女性の直面する地域格差、男女格差について議論を交わした。(共同通信=松本智恵)
▽東北と九州では大学に行く女性が少ない
東京都渋谷区で開かれたシンポジウム「地域からジェンダー平等を」
ジェンダー研究の第一人者、上智大の三浦まり教授はシンポジウムに寄せたビデオメッセージで「格差は自己責任で放置すべきものではない」と強調した。 三浦教授らでつくる「地域からジェンダー平等研究会」のデータからは、明らかな地域格差が読み取れる。 昨春時点での都道府県別の女子の四年制大学進学率は、東京が最も高い76・5%。京都70・1%、山梨62・3%と続く。一方、東北や九州の8県では30%台で、女子が男子より上回ったのは徳島県だけだった。 ほぼ全ての都道府県で男子より女子の進学率が低い状況となっている。
▽地域間の「選択の格差」

教育をジェンダー視点で分析する九州大の河野銀子教授は「戦後、女子の進学率は上昇してきたが、現在も男子より約6%低く、大学在学者に占める割合も半数に満たない」と現状を説明した。進学は個人の自由意思によると考えがちだが、「地域の産業構造や教育環境が大きく関係している」と話す。 例えば、1次や2次産業の従事者が多い地域では、農業、工業など専門高校の比率が都市部より高いが、大学入試には不利になるケースがある。「普通科に進もうと思っても近くになければ下宿をしないといけない。地域間でこうした『選択の格差』が生まれている」と訴える。 その上でこう強調した。「自分が住んでいる地域にある男女格差などに当事者が気がつくのは難しい」
▽ジェンダー平等の基盤は自己決定権
NPO法人「Gender Action Platform」理事の大崎麻子さん
シンポジウムでは参加者から「教育は人生の選択肢を広げ、自己決定に不可欠なものだ」との声が上がった。 NPO法人「Gender Action Platform」理事の大崎麻子さんは「ジェンダー平等とは、男女が等しく権利と機会を得て、責任を分かち合い、意思決定に参画できる状態」と説明した。 その基盤は女性が自己決定しながら生きる力だという。大崎さんは「性と生殖に関する健康や男女対等な人間関係などを人権の観点から学ぶ包括的性教育が必要。日本でも導入するべきだ」と教育の重要性に言及した。
▽東京でのキャリア、地元では浮く?
食品製造「デリカウイング」の細川志織さん
食品製造「デリカウイング」(広島県廿日市市)の細川志織さんは、自らの学びの選択がキャリアに生きたと話す。 3歳から広島で育ち、中学生で英語のスピーチコンテストと出会い上智大学に進んだ。卒業後、より英語実務を通じてマネジメントを学びたいと外資系金融大手のJPモルガン証券に入社した。 リーダー職から部長職に至るまで、マネジメント経験を10年以上積み、同郷の夫と結婚。広島へUターンした。夫の家業の製造業で社員研修を担当したことをきっかけに、現在は大学での非常勤講師や女性起業家支援に携わる。女性社員が長期的に働けるよう、キャリア形成のワークショップや、関心が高い子育てや介護などをテーマとしたお茶会を開催している。 地元に戻った当初は「もしかしたら私、浮いてしまうかも」という怖さもあった。しかし「諦めずに活動していると、どんどん仲間が増えていった」。東京での学びや経験が地元に戻って生きているという。
▽女子生徒の選択肢、広がる
山田進太郎D&I財団の石倉秀明さん
理系分野の女子学生比率を上げようと取り組む山田進太郎D&I財団では、理系を選択した女子高校生への奨学金の支給や、中高生が理系の大学や職場で活躍する女性を訪問する事業を行う。 財団の石倉秀明さんは「ジェンダードイノベーション」に期待を寄せる。大学に女子学生が増えれば、「女子トイレが少ない」「徹夜でやるような実験は体力的に厳しい」といった、新たな視点が生まれるという。どれも男子中心の環境では気づかないことだ。 この考えは企業にも当てはまる。例えば自動車事故。女性の負傷者が多いが、長年メーカーの耐久テストでは男性のマネキンが使われていた。そこに女性技術者が加わると、大きな変化があった。「女性サイズでやらないのか」との疑問を投げかけられた。それをきっかけにテストの方法は改善された。 石倉さんは「日本は15歳女子の科学の成績は高いのに、理系分野の大学進学は低いという特殊な国だ」と指摘する。「理系を選ぶ選択を応援している人がいることや、勉強がどう仕事に結びつくか知ってもらう必要がある。理系分野に進む女性を増やしていきたい」と力を込めた。
▽ギャップを可視化、考えるきっかけに

シンポジウムのタイトルにもある「都道府県版ジェンダー・ギャップ指数(GGI)」は、都道府県ごとの男女平等の度合いを政治、行政、教育、経済の4分野で算出したもの。2024年のグッドデザイン賞を受賞。「都道府県版ジェンダー・ギャップ指数」のサイトで見ることができる。 × × × シンポジウムの様子は、動画投稿サイトのユーチューブチャンネル「共同通信 地域からジェンダー平等を」で公開しています。

「お金をください」未明のコンビニで連続強盗未遂 愛媛・松山市で57歳の女を逮捕

きょう未明、松山市のコンビニエンスストアで店長を包丁で脅し金を奪おうとしたとして、強盗未遂の疑いで女が逮捕されました。
その直前にも松前町のコンビニで同様の強盗未遂事件が発生していて、女は関与をほのめかしているということです。
強盗未遂の疑いで逮捕されたのは松山市西垣生町の自称介護士・石丸寛子容疑者(57)です。
警察によりますと石丸容疑者はきょう午前3時過ぎ、松山市西垣生町のファミリーマート西垣生店に押し入り、店長の男性(62)に「お金をください」と包丁を突き付け、現金を奪い取ろうとした疑いがもたれています。
石丸容疑者は店長が警備会社へ通報する様子を見て逃走を図りましたが、駐車場で店長に取り押さえられ、私人逮捕されたということです。
またそのおよそ45分前の午前2時半頃、松前町筒井のセブンイレブン松前町松前公園前店でも女が店員を刃物のようなもので脅し、金を奪い取ろうとした強盗未遂事件が発生しています。
逮捕された女は松前町の強盗未遂事件への関与もほのめかしているほか、防犯カメラに映る犯人の特徴も似ているということで、警察が余罪や動機を調べています。

「薬の飲み方をめぐって口論になった」80歳母親の口元にテープ巻きつけ殺害しようとしたか…56歳娘を逮捕 母親はその後死亡

口論の末、80歳の母親の口元にテープを巻きつけて殺害しようとしたとして、娘が逮捕されました。母親はその後、死亡しました。
殺人未遂の疑いで逮捕されたのは、奈良県斑鳩町に住む無職の井上恭子容疑者(56)です。警察によりますと井上容疑者は、1月1日午後11時ごろ、自宅で80歳の母親の口元に粘着テープを巻きつけて、殺害しようとした疑いがもたれています。
翌朝に井上容疑者の夫が倒れている母親を発見し、その後、病院で死亡が確認されました。
母親は普段、ケアハウスに入所していて、年越しのために一時帰宅していて、井上容疑者は取り調べに対し「薬の飲み方をめぐって口論になった。殺害しようと思ってしたことではない」と容疑を一部否認しています。

「今でも会いたい…元気な息子返して」23年前『集団登校』狙いワゴン車が列に突っ込んだ うずくまる児童の傍に散らばるランドセル 7歳息子を亡くした父親20年以上経っても変わらない悲しみ

「裕介を亡くして22年がたちますが、無性に会いたくなることが今でもあります。どこかで待っているんじゃないか…ふと、そう思う時があります」時折、目を潤ませながら丁寧に話すのは、湯浅惠介さん(60)。2002年、最愛の息子・裕介さん(当時7)を事件で亡くしました。今も、忘れることのできない悲しみや苦しみなどを語りました。湯浅さんは去年8月、京都府警の警察官ら40人を前に講演の中で「話していると、事件の日の朝に引き戻されてしまうような…」などと話しました。それでもなお、湯浅さんが事件について語り続ける“思い”とは・・・。
集団登校中の小学生の列に車突っ込む…児童ら12人が死傷

2002年1月21日午前7時40分頃、京都府綾部市の市道でワゴン車が集団登校の列に時速30~40kmで突っ込み、児童らを次々に跳ね飛ばし、11人が重軽傷を負い、当時小学校2年生だった湯浅裕介さん(7)が全身を強く打ち、死亡しました。
車を運転していた男は好意を寄せていた女性から交際を断られた腹いせに、女性の子どもがいる集団登校の列を狙い犯行に及んだということです。
男は傷害致死などの罪に問われ、2004年に京都地裁舞鶴支部は男に懲役18年を言い渡しました。男は控訴していましたが、大阪高裁から棄却され、2006年に判決が確定しました。

事件があった当日の朝、湯浅さんはいつもと変わらず登校前に裕介さんを抱き上げ、元気に出ていく様子を見送ったと話します。
(湯浅さん)「月曜日、小雨が降って本当に冷えこむ朝でした。我が家の朝は、裕介のほうが先に学校に出るので、私はいつも裕介を抱え上げて『今日も元気いっぱい行っておいで』と言って、ぎゅっとして送り出していました。その日も彼は『行ってきます!』と元気よく長靴を履くか履かんかぐらいで慌てて走って出ていきました。いつもと本当に変わらない朝でした」
裕介さんが家を出てしばらくした後、友達のお母さんが慌てて家に飛び込んできました。
「『ゆうちゃんが大変や、はよ行って!』と友達のお母さんが家に駆け込んできました。元気な子でしたから、飛び出しかなんかして、車にはねられたのか何かに当たったのかと、慌てて現場の方へいきました」
「痛い、痛い」うずくまる子どもたちと散らばるランドセル

湯浅さんが、現場に駆けつけると、道幅4~5メートルの坂道に、複数の子どもたちがワゴン車にはねられ、何人もの子どもたちが泣き叫んでいました。
(湯浅さん)「大きなバンが横側に向いているのがわかりました。そのワゴン車は12人の子の登校の列に突っ込んで止まっていました。私が現場に着いた時は、子どもが被っていた黄色い帽子とか長靴、ランドセルがあちこちに飛び散っていました。冷たい雨が降る中で、ずぶ濡れになって子どもたちが泣きながら『痛い、痛い』と道路脇でうずくまっていました」

子どもたちが苦しんでいる中、車を運転していた男はまだ車の中にいたといいます。
(湯浅さん)「目を疑いましたが、そのワゴン車には運転手が乗っていました。乗ったままタオルを頭にかけて、運転席に頭を突っ伏して身動きをしていませんでした。ドアはロックして開けないようにして、周りで大人たちから『出てこい!何してんねや!』と怒号があがっていましたが、子供を助けようとせず、ずっと突っ伏したままでした」
湯浅さんが目にしたのは、家を出るまで元気だった裕介さんの変わり果てた姿でした…。救急車で運ばれている裕介さんに何度も何度も声をかけたといいます。
(湯浅さん)「全然意識もなく、身動き一つしない。手を握っても何をしても返事をしてくれません。身体も冷たくなってきて一心不乱に妻と一緒に身体をさすって、呼びかけましたけど、一言も返事はありませんでした。病院に着いても冷たくなった手をさすりながら名前を呼び続けて。何時間も何時間もそうしましたが、とうとう裕介は一言も返事をしてくれることなく、天国へ逝ってしまいました・・・。わずか7歳です」「頭の前頭部には10センチほどのぱっくり割れた傷がありました。裕介の小さなかわいい顔や身体には、たくさんの青いあざや、傷がありました。背負っていたランドセルの肩ひもはちぎれて、黄色い傘はぐちゃぐちゃになっていました」
どうしてあの時・・・「何度も自分を責める」

湯浅さんは何度も涙をぬぐいながら、事件前に裕介さんと十分に遊ぶことができなかったことへの悔しさを語りました。
(湯浅さん)「(事件前日は)休みだったので、午前中、私とキャッチボールをして、昼は妻にホットケーキを作ってもらって、おいしい、おいしいって食べていました。昼からも『お父さんキャッチボールしよう』と言われたんですが、ちょうどそのころ資格の試験があって『試験勉強あるから遊んでられへんわ、一人で遊んでおいで』と、そういって冷たく、断りました。なんで無理してでも遊んでやらんかったんだ、なんでそれができなかったんだ、自分を責めることしかできません、いまでも遊んでやれなかったことを悔やまれます」
実は事件の少し前から、付近では不審者情報があり、保護者が登下校に付き添う対応がとられていました。しかし直接的な被害がなかったことから付き添いを中断していたといいます。
(湯浅さん)「あの時、登校の付き添いをやめなかったら、もし集合場所に遅れてもいいんやで、と言ってやっていたら、あの事件に遭わずに裕介は死ぬことはなかったんじゃないか・・・、そう思って自分を何度も何度も責めました。22年経った今でも裕介があのままの姿で、真っ赤なほっぺをして『ただいま!』と帰ってきてくれるような気がして」

この事件では児童ら12人が巻き込まれ、そのうち4人が重傷、7人が軽傷でした。しかし、亡くなったのは、裕介さん一人。お参りに来てくれた人の、何気ない一言にも傷ついてしまう…苦しい日々もありました。例えば『よう我慢しとるな、俺やったら許されへんわ、復讐しに行ってるわ』という言葉を聞くと…。
(湯浅さん)「そんなん当然そう思っています、我慢・・・しないと仕方がないじゃないですか。子どもを守れなかったとすごく自分を責めているのに、その上『俺やったらするけどお前はようせーへんのか、大切な子どもをそういうふうにされて…』そういうふうに聞こえました。『笑えるんや、よかった』この何気ない言葉ですが、心の底から笑うことはできませんし、元気なわけがありません」
2年にわたる裁判 傍聴席に座り続けるも・・・「ずっと蚊帳の外」

事件から約10か月後。児童ら12人を死傷させた傷害致死の罪に問われた男の初公判が開かれました。男は裁判の冒頭、「弁護人の退任をお願いしたい」などと興奮して申し立て、一時休廷する事態になりました。
その後も男は「わざと轢いたのではない」などと一貫して起訴内容を否認し続け、遺族や被害者家族らを愚弄するような言動や裁判所の制止も聞かずに法廷で大声を上げるなどの言動を繰り返しました。好き勝手な言動をする男を前に、湯浅さんは感情を押し殺すしかなかったといいます。
(湯浅さん)「私が事件にあったときは、本当にもう蚊帳の外だったんですね、ずっと。今は意見を法廷内で色々と言わせてもらったり、参加型みたいな形になっていると聞きますけど、被害者の親というのは第三者という見方しかその時はなかったので、傍聴席で何も言うことができません」
裁判開始から約2年間。湯浅さんは傍聴席に座り続けましたが、加害者からは罪に対する反省を一切聞くことなく、判決の日を迎えました。
京都地方裁判所舞鶴支部が下したのは、懲役18年の実刑判決。最愛の息子の命を思うと、あまりに軽すぎる判決でした。
(湯浅さん)「殺人罪で僕はやっぱり起訴してほしかったです。ただ、(事件当時乗っていたのが)車なので、車は本当に殺そうと思ってやりましたって言わないと認められない。(懲役)18年でしたかね…。短い…。裕介が亡くなったことに比べたらやっぱり短いと思うんですよ」
突然知らされた男の「獄中死」 怒りのやり場を失う

裁判の結果や加害者が刑務所でどう過ごしているか、出所時期など、被害者や遺族が検察庁から情報提供を受けられる「被害者等通知制度」。制度導入から間もない事件当時、知らされたのは“獄中で死亡”という、あまりにも突然で信じ難い事実でした。
(湯浅さん)「弁護士を通じて、どういう経緯でなぜ亡くなったのかとか、どういう生活をしていたのか、反省していたのかとかいうことを聞いてもらったんですが、一切それは(伝えられず)。死亡の事実しか伝えられません、怒りを全部犯人の方に向けていましたので、それが急になくなって、じゃあこの怒りをどこへ、という・・・すごい消化するのに気持ちの整理がつかないような状況でした。こういう風にして亡くなりましたということを教えてもらったりできたら、ちょっと明るくなるんじゃないかなと思ったりしたんですが、それも叶わずだった」
苦しむ遺族を救った”愛情” 「裕介、成人式行くで」

悲しみや憎しみ、そして怒り。月日を経るごとに込み上げてくる様々な感情に、悩み苦しんだ湯浅さん。そんな中、周囲の人の想いに救われる出来事があったといいます。その1つが、裕介さんが20歳を迎える年の「成人の日」でした。
(湯浅さん)「(みんな)仲良しで。この子が20歳になるときに『裕介、成人式行くで』って。みんな友達連れてきてくれて。そのあとの二次会にも連れていくって。(裕介の写真を)持って行ってもらって、それがその写真かな」
同い年のいとこや同級生らと成人式、その後二次会まで一緒に過ごした裕介さん。小学校卒業を迎える年には、担任の先生から裕介さんの名前が入った卒業証書をもらいました。当時も今も変わらず、裕介さんへ愛情を注いでくれる周りの人たちに、湯浅さんは助けられ、支えられたと話します。
誰もが犯罪被害者となりえる社会 20年以上経ても“願う”「会いたい、元気な裕介を返して・・・」

「物にも人にもすべてに恵まれるように、豊かに暮らせるように」そんな思いで名づけられた裕介さん。小学校の授業では「将来、大工さんになってお父さん、お母さんに家を建てる」と話していたといいます。生きていたら、30歳。
湯浅さんは、『講演すると、事件の朝に引きずり戻された気がする』といい、講演中、時に涙し、言葉を詰まらせながら必死で思いを伝えているように見えました。それでも講演するのは、亡くなった裕介さんのためにも犯罪を起こさないような社会を作っていく必要がある、という強い思いからでした。
(湯浅さん)「この事件が起こるまで私たち家族は犯罪被害に全く無縁でした、つゆほども自分の身に起こるなんて思ったことがありませんでした。社会に生きる誰もが犯罪被害者となりえる社会です。もし不幸にして皆様の周りに犯罪被害者がでるようなことがあれば、傍にそっと寄り添って、末永く心の支えとなっていただければありがたいと思います」
記者からの質問に、そう話し続けた湯浅さん。
それでもやっぱり・・・湯浅さんが今、一番願うのは。
(湯浅さん)「裕介に会いたい、元気な裕介を返して欲しい・・・」
事件から23年が経とうとしていますが、今もこの願いは変わりません。