熊本の繁華街で泥酔者に関する通報が頻発…「深酒を控えることも災害支援に」県警が異例の呼びかけ 担当者に発信の意図を聞いた

熊本県警は5日、公式Xを更新。熊本中央署管内で泥酔者に関する通報が頻発しているとして呼びかけを行った。令和8年熊本地震が発生し、県内では警察も消防も災害対応に一丸となって取り組んでいる中での異例の投稿。同署の担当者がオリコンニュースの取材に対し、発信の意図を語った。【X投稿】「深酒を控えることも災害支援」熊本県警が呼びかけた全文 Xの投稿では「【熊本中央警察署からのお願い】」と書き出し「熊本中央警察署管内では、泥酔者に関する通報が頻発しています」と報告。「今まさに、県民一丸となり災害復興が進められています」と訴え「周囲に悪影響を及ぼす深酒を控えていただくことは警戒力や医療資源を確保する災害支援につながります。皆様のご協力をお願いいたします」と呼びかけた。 県警によると、熊本中央署は熊本市の繁華街を所管する警察署で、平時でも泥酔者に関する通報は多いという。7月28日に県内で最大震度7を観測した地震が発生した後も通報は頻発しており、今回Xを通して呼びかけることにした。 同署の担当者はオリコンニュースの取材に応じ、「お酒を飲むことは個人の判断で自由だ。ただ、泥酔状態になると、場合によっては人に迷惑を掛けることになる」と指摘。「傷を負うことになれば、救急隊も出動することになり、業務に影響が出る。県民一丸となって災害復興を進めている中で深酒を控えることも災害支援の一つになることを伝えたい」と話していた。

ドン・キホーテ露店「うなぎのかば焼き」で食中毒 男女14人が発熱や腹痛など訴え…サルモネラ属の菌検出

兵庫県姫路市の「ドン・キホーテ」の露店で販売されたうなぎで食中毒が発生しました。
姫路市によりますと、土用の丑の日だった先月26日、「MEGAドン・キホーテ姫路広畑店」の露店で販売されていたうなぎのかば焼きを食べた3歳から75歳の男女14人が発熱や腹痛などの症状を訴えました。
14人のうち、70代の男性と30代の女性の2人が入院していますが、命に別条はないということです。
患者からはサルモネラ属の菌が検出されたということで、市は食中毒が発生したと断定し、6日と7日の2日間、露店の営業停止命令を出しました。
露店は先月27日以降、営業していないということです。

れいわ新選組「いのちの党」へ党名変更 略称は「いのち」

れいわ新選組が新たな党名を発表しました。
【映像】れいわ新選組の新たな党名
「れいわ新選組プレスリリース『いのちの党』への党名変更について(2026年8月6日)
報道関係者各位
表題のとおり、れいわ新選組は、2026年8月6日に党所属構成員・職員スタッフ懇談会における協議を経て、臨時総会において綱領を改正するとともに、臨時役員会において規約を改正し、党名変更に必要な手続きを行いました。
新たな党名は『いのちの党』とし、略称は『いのち』といたします。
今後、総務省に対し、党名変更に係る届け出を速やかに行う予定です。
新たなロゴおよびブランドデザインにつきましては、8月下旬に記者会見を開催し、発表する予定です」
(『ABEMA NEWS』より)

「イオンモール熊本」にLPガス提供会社、爆発事故「重く受け止める」…安全装置の作動「調査中」

7人が犠牲となった「イオンモール熊本」(熊本県嘉島町)で起きた爆発事故を巡り、施設に液化石油ガス(LPガス)を提供していたガス会社「福岡酸素」(福岡県久留米市)は6日、事故について「重く受け止めている」とのコメントをホームページで公表した。
同社によると、施設では、一定規模の地震の際にガス供給を自動的に遮断する安全装置が設置されていた。装置の作動状況などについて同社は「調査中」と説明。経済産業省などの調査に全面的に協力するとした。
同省によると、LPガスは主に施設に入居する飲食店の調理や給湯器で使われていた。

寄付や義援金、43億円突破=知事「熱い思いに感謝」―熊本地震

最大震度7の地震で大きな被害が出ている熊本県は6日、国内外から寄せられた義援金やふるさと納税の総額が計43億2130万円に達したと発表した。木村敬知事は、「熊本を応援する熱い思いに心から感謝したい。被災者支援や熊本の復旧復興に大切に使わせていただく」と述べた。
県によると、被災者に直接分配される義援金の総額は、5日現在で36億3542万円。個人や法人からのふるさと納税が3億5214万円(2万5125件)、自治体の地方創生事業に寄付した企業が税優遇を受けられる「企業版ふるさと納税」が3億3374万円(98件)となっている。 [時事通信社]

事業者から「公開してはいけない情報が…」市が工事入札の募集資料に誤って“機密情報” 入札を中止しやり直す方針

名古屋市は中学校の工事入札において、募集資料に機密情報の積算金額などを誤って掲載していたと発表しました。 名古屋市住宅都市局によりますと、先月30日に行った中学校2校の運動場整備工事の入札公告で、誤って積算金額とその内訳を記載したデータファイルを掲載したということです。 4日午後4時半ごろ、募集資料を見た事業者から「公開してはいけない情報が公開されている」と指摘があり発覚しました。 名古屋市はこの工事入札を直ちに中止し、改めて入札をやり直す方針です。 名古屋市は「今後は資料を添付する際に複数人でチェックを行い、機密情報が記載されることがないよう徹底する」としています。

【熊本地震】現地で支援の輪が広がる 10年前の地震で被災した高校生「昔たくさんの人が支えてくれたから、今ここに立てている」姉妹でボランティア参加【震度7観測の熊本・宇城市】

熊本で最大震度7を観測する地震の発生から1週間。被災した家屋の多くが未だ手つかずのまま残されています。
熊本県内では8月3日時点で、災害関連死の疑いがある人などを含めて38人が死亡。住宅への被害は1万2276棟に上り、8222人が避難を余儀なくされています。
一方、被災者の生活を支えようと、支援の輪も広がり始めています。
熊本・宇城市でボランティア活動開始 朝から約50人集まる
震度7を観測した宇城市では、2日にボランティアの受け付けが始まっていて、4日も朝からボランティアが集まっていました。
(熊本市内から参加)「近くなので他人とは思えないですし、なにかできることがあれば」
(熊本市内から参加の高校生)

「いま元気な人が元気じゃない人を助けるべきだなと思って」

「体力があると思うのでそれをいかしてボランティアできたらなと」
4日に集まったのは、熊本県を中心に、兵庫県や広島県などから50人程度。混乱を避けるため現在は事前に登録を済ませた人だけを受け付けています。
中には、こんな思いを持つ人も…。
「自分も昔被災したので人のために動きたい」災害ボランティア初参加の高校生
(高校2年生 倉田真歩さん)「益城町から来ました。自分たちも昔被災していたので、人のために動ければいいなと思って来ました」
10年前に熊本を襲った地震のとき益城町で被災した、高校2年生と中学2年生の倉田さん姉妹。今回、初めて災害ボランティアに参加しました。
4日に行われたのは市から要請を受けた場所での活動で、倉田さんたちのチームは支援物資の仕分けなどを担当することに。
全国各地の自治体や企業などから届いた水やおむつ、肌着などが文字通り山積みにされています。
(高校2年生 倉田真歩さん)「荷物がすごく大きいので、それを運ぶのが大変だし、それを開けて仕分けするという作業もずっと同じことをするので」
「人が何人いても困らないくらい」市の担当者が語る現状
こうした支援物資を宇城市内の避難所へ運ぶため仕分けをしていくのですが、市の担当者だけでは人手が足りていなかったといいます。
(宇城市・企画振興部企画課 溝上敬浩さん)「(地震後)最初の2日3日は市の職員だけでしていました。(Q人手は?)全然足りなかったです。1000ケースくらいの水が来たんです。それを10人いないくらいでここから奥に運んだので、腕がパンパンになるような感じで。人が何人いても困らないくらい。マンパワーなのでありがたいですね」
ボランティアに参加して改めて気付く“支援のありがたさ”
10年前、小学1年生で被災した真歩さん。今回ボランティアに参加したことで、支援のありがたさに改めて気が付きました。
(高校2年生 倉田真歩さん)「すごく忙しくて、地震や災害の裏ではこんなにも頑張っている人がいるんだなと。自分が被災したときも、たくさんの人が支えてくれたことで自分がいまここに立てているのかなと思いました」
8月2日にボランティアの派遣を始めた宇城市では、3日間ですでに300件ほどボランティアに来て欲しいという依頼があるといいます。
(宇城市・社会福祉協議会 宮川典子さん)「いち早く被災された方へという思いで、すぐに立ち上がり動き始めた。ボランティアが多く来てもらえればそれなりに対応ができるので、皆さんのお越しをお待ちしているところです」
(2026年8月4日放送 MBSテレビ「よんチャンTV」より)

「まるで高市早苗のプロモビデオ」BGM付き被災地視察動画に批判殺到、“強烈な違和感”と不必要な謎の演出

8月3日、高市早苗首相が熊本地震の被災地である熊本県を視察した。7月28日の地震発生から6日後に現地入りし、ヘリなどから被災状況を自ら確認。視察の様子を首相官邸が公式SNSに投稿したのだが、その内容に強い批判が殺到している。
「災害を利用してPV」BGM付き動画が物議
視察では、地震後に爆発が起きたことで多くの犠牲者が出た「イオンモール熊本」のほか、煙突が倒壊するなどして被害者が出た「日本製紙八代工場」などを自衛隊ヘリで上空から確認。氷川町にある避難所では被災者らと面会し、励ましの言葉をかけた。
高市首相は視察後、記者団に対して「政府一丸となって震災対応や生活・なりわいの再建支援に取り組む」と述べ、熊本地震を「激甚災害」に指定する方針を表明した。
「さらに、対象地域を特定しない“本激”を適用するとし、200億円を超える規模の予備費の使用を4日に閣議決定しました。激甚災害に指定されると、インフラや農業関連施設の復旧に対する国の財政支援が手厚くなります。
能登半島地震などに比べて被害規模が限定的であることなどから、政府内では慎重論も出ていたそうですが、“やれることはすべてやる”と前のめりな姿勢を見せる首相はスピード重視で一気に判断を進める考えのようです」(全国紙政治部記者)
しかし、一方で物議を醸しているのが、官邸の公式アカウントで公開された“BGM動画”だ。今回の被災地視察をまとめた1分53秒の動画で、X(旧ツイッター)やインスタグラム、YouTubeなどで一斉にアップされた。
「防災服を着た首相が自衛隊機に乗り込むところから始まるその映像には、まるでドキュメンタリー番組かのようなしっとりとしたピアノ曲がBGMとして流れています。動画の最後は、被災者の1人が首相に“全部が全部ありがたかったです”と言う場面で締めくくられており、まるで首相が主人公の作品に。
この内容に対して、“なんで高市早苗のプロモビデオになってるの?被災者を自己アピールのネタにして人として恥ずかしくないですか?”“被災地まで利用してまでやってる感の露骨なアピール、主役はサナ”“このBGMはなんでしょうか?災害を利用してPV作ってるのかとびっくりしました”“映える動画意識してるのか、このような編集に強烈な違和感を覚える”など、疑問の声が多数寄せられています」(同・政治部記者)
動画を確認すると、かなり手の込んだ作りであることが分かる。さまざまなアングルから撮影された映像に加え、一部にはスローモーションのような演出も。視察当日の午後11時台にアップされたことを考えると、「ずいぶん準備がいいな」と受け止められるのも無理はない。
迅速な被災地視察のはずが、思わぬ形で“迅速な演出動画”として注目を集める結果となったようだ。
週刊女性PRIME

わいせつ処分歴ある保育士の情報データベース、活用進まず…全国6010施設が利用登録せず

子どもへのわいせつ行為で処分歴のある保育士の情報を蓄積した国のデータベース(DB)を巡り、こども家庭庁は4日、全国の保育所や認定こども園など6010施設が今年1月1日時点で利用登録していなかったと発表した。
DBは児童らへの性暴力などを理由に保育士登録を取り消された人の氏名や生年月日などが登録され、2024年4月に運用が始まった。今年4月時点で117人が登録され、保育所などは保育士を雇用する際にDBでの確認が義務付けられている。
同庁が今年1月に全国の保育所など約11万施設の活用状況を調べたところ、回答した3万6423施設のうち6010施設(16・5%)が利用登録していなかった。登録している施設でも、「全く活用していない」としたのは5064施設(13・9%)に上った。
同庁は4日、全国の自治体を通じて施設に活用の徹底を促す文書を発出した。

「沖縄と戦争」見つめる旅に終わりはない 写真家・松村久美さん

今年4月13日~6月3日、米軍のベトナム戦争出撃拠点であった1970年代の沖縄を舞台とした写真展が、東京工芸大学の写大ギャラリー(東京都中野区)で開催された。撮影者は、カメラマンとして一貫して沖縄を見つめてきた松村久美さん(79)。松村さんの目に映った、当時の沖縄にはどんな戦争の影があったのか、また写真展を通して伝えたいことを取材した。【青山学院大・米田麗美(キャンパる編集部)】
爆撃機墜落で知る「戦場」の現実
松村さんは47年に生まれ、東京写真大学(現・東京工芸大学)で報道写真について学び、68年に卒業した。松村さんが初めて沖縄に足を運んだのは、大学卒業後の68年11月だ。「八重山諸島の祭事に興味があり、見てみたいという単純な気持ちから2週間の沖縄旅行を決めた」と松村さんは振り返る。
沖縄に着いた次の日の同月19日、観光バスに乗った時だった。ちょうど嘉手納基地の近くを通りかかった時に、カーラジオから速報が流れた。「今朝、嘉手納を飛び立とうとしたB52が離陸に失敗し、墜落炎上して……」。本土から来た観光客は皆、事の重大さを理解しておらず、松村さんも例外ではなかった。「へー、と思って終わった」
観光を楽しんでホテルに帰ると、ロビーにはラジオが伝えた墜落事故を報じる地元紙の写真入りの号外が散らばっていた。写真を見て、超大型の戦略爆撃機であるB52の墜落によって多くの被害が出たのだと理解した。記事を読み、「基地のフェンスのすぐ近くの住宅街にまで墜落機の破片が飛んだ」「ものすごい音がして、住民は戦争かと思い跳び起きた」という内容に衝撃を受けた。「あまりにも沖縄のことを知らなかった、ここはまるで戦場じゃないか」
沖縄移住を決意
太平洋戦争で日本が敗れた後、米国施政下に置かれた沖縄には嘉手納基地などの米軍基地が置かれた。「住民の土地は強制的に接収され、広々とした基地になった」と松村さんは語る。そして米国が本格的にベトナム戦争に参戦した65年以降、沖縄は米国のベトナム攻撃の拠点となり、特に墜落事故が起きた68年の2月からは嘉手納基地にB52が常駐を始め、ベトナムをじゅうたん爆撃するため連日出撃していた。松村さんは、「ベトナムでは、沖縄は『悪魔の島』と呼ばれていた」と語る。
沖縄旅行のさなかに起きた、この予期せぬ墜落事故をきっかけに、沖縄に対する関心が一気に強まった。「自分はあまりにも沖縄を知らない。沖縄の現状を知らなきゃいけない」。大学時代に所属していた報道写真研究室の恩師に相談した。「沖縄に移住して、写真を撮ろうと思います」。恩師の紹介で毎日新聞社のグラフ誌「毎日グラフ」の仕事を確保し、69年には沖縄に移住した。
「圧政」が生む憎悪と国境を超えた親近感
70年12月、松村さんに強烈な印象を残す事件が起きた。コザ市(現沖縄市)で起きた「コザ騒動」だ。米兵が住民を車ではねたが、米軍の軍律維持を担う米憲兵(MP)は事故処理を巡り、騒然とする群衆に威嚇発砲を行った。この行為に地元住民の不満が爆発し、数千人の群衆が米軍車両を約80台焼く事態へと発展したのだ。
コザ騒動の10日ほど前にも、飲酒運転で主婦をひき殺した米兵が無罪を言い渡される事件があった。米国施政下の沖縄では当時、米軍人や軍属による犯罪が多発したが、警察による十分な捜査や司法手続きが行われず、住民が泣き寝入りする事態が多発していた。コザ騒動について松村さんは「米国による圧政への不満が一気に噴き出した」と説明する。
コザ騒動を報じる新聞記事に「黒人街で黒人兵百人がMPの車2台を燃やす」という記述があった。この記事を見た松村さんは「黒人街って何だろう」という思いで、アフリカ系の米兵らが集まるコザ市照屋の「黒人街」と呼ばれるエリアに、カメラ片手に足を運ぶようになった。
当時、アメリカでは黒人差別に抗議し、黒人の権利を主張する公民権運動に火がついていた。これに呼応し、沖縄でも基地内で黒人のアイデンティティーを主張する動きがあった。松村さんの写真展の展示作品の中にも「BLACK IS BEAUTIFUL」(黒は美しい)、「BLACK AND PROUD」(黒人であることに誇りを持とう)と書かれたジャケットを着て歩く黒人の集団が写されている。
松村さんによると、沖縄住民は、そんな彼らに対してある種の「親近感」があったという。「黒人の立場と沖縄の人々の立場が非常にクロスしていた。人種差別と人権無視の中で生きてきた黒人たちと、米軍圧政の中で暮らす沖縄の人たちという、同じ圧政を受けた民族というつながりが親近感を生んでいた」と語る。
松村さんによると、コザ騒動の時、「住民は黒人兵の車を逃がした」という証言があったそうだ。その頃基地内では、ベトナム戦争に反対した兵士による反軍運動や兵役拒否、海兵隊兵士による脱走など、米兵の反乱が相次いで起きていた。
黒人街では、出撃前の兵士の送別会が行われていた。ベトナムに初めて出撃する兵士たちは「二度と沖縄には帰れない」という気持ちで、手持ちのドルを使い尽くす。出撃を待つ兵士たちは「刹那(せつな)的に生きるしかなかった」と松村さんは語る。
自分を見つめ続けて
長い年月をかけて、沖縄にこだわり続けている松村さん。黒人街以外でも、反基地闘争や米軍基地労働者のストライキ、自衛隊の訓練など政治や軍事に関連するものから、ハンセン病療養所である沖縄愛楽園、離島の暮らしや祭事、風俗まで、幅広く沖縄を撮影している。78年には中南米の沖縄移民たちを訪ね歩いた。
まだ女性の写真家がほとんどいなかった時代、「ヤマトンチュ(本土出身者)」であることの葛藤を抱えながら、膨大な写真を撮影した。83年にはエッセー集「片想いのシャッター 私の沖縄10年の記録」(現代書館)を出版するものの、その後一時、沖縄や写真から遠のく。そして2006年から撮影を再開し、今に至る。
沖縄に対する見方は一貫して変わらないという。松村さんにとって沖縄を撮ることは「自分を見つめること」でもあるそうだ。今回、東京で実施した写真展のタイトルは「沖縄から<沖縄>へ 1969-79」。同タイトルには、「沖縄から離れたり戻ったり、沖縄から沖縄への旅に終わりはない」という松村さんの気持ちが込められている。
こだわりが凝縮された写真集
松村さんは、写真展の開催と同時並行で、沖縄での撮影成果を収めた初の写真集「この先の島じまへ 1969―1980 沖縄」(月曜社)を4月に出版した。「沖縄に魅入られて五十余年、なぜこれほどまでにひかれるのか」という思いを、「一つの形にして残したい、と思うようになった」という。4万枚に及ぶフィルムカットの中から写真を選び、撮影年月や場所の確認などに3年の時間を費やした。
松村さんと知己があり、同じく本土出身者として沖縄に関する資料保全・展示活動を続ける、東京都狛江市にある「狛江の小さな沖縄資料館」館長の高山正樹さん。その高山さんは、松村さんを「稀有(けう)な存在」と評する。「本土出身の写真家にとって沖縄は、たとえ大きな要素だったとしても、あくまでも本人の作品の中の一部であることが多い。一方で、松村さんは徹底して沖縄にこだわり、沖縄を撮り続けている」。数十年にわたり沖縄に向き合ってきた松村さんが今、初めて写真集を出すことを高山さんは「松村さんの、沖縄に対する真摯(しんし)な姿勢が表れている」と捉える。
今も戦争に向き合う沖縄
若い世代に向け、松村さんは「写真展や写真集を見ることで、70年代の沖縄をわずかではあるが知ることができる。当時の基地はベトナム戦争に利用されていたが、基地や米軍の存在は沖縄では変わっていない。今現在、石垣島、宮古島、与那国島には自衛隊のミサイル基地などが置かれ、要塞(ようさい)化が進んでいる。昔も今も本土防衛の『捨て石』的な存在であることに変わりはない」と指摘する。
その上で「いつでも戦争の危機は訪れる。70年代の沖縄における戦争を、遠い過去のこととして捉えるのではなく、戦争は今も続いていることだと認識してほしい。若い人たちにも、戦争をひとごとではなく、自分のこととして捉えてほしい」と語った。