【伊藤 博敏】許永中が大阪の暴力団世界をのし上がり「戦後最大の黒幕」になるまで イトマン事件から28年、男の実像

3000億円が闇に消えた戦後最大の経済事件――。
こう呼ばれたイトマン事件から28年が経過、その主役のひとりである許永中氏が、『海峡に立つ 泥と血の我が半生 許永中』と題する自叙伝を、8月28日、小学館から上梓した。
帯に「戦後最大の黒幕」と書かれ、黒幕にフィクサーのルビが振られている。
当時、許氏にはいろいろな異名がつけられた。「在日韓国人実業家」というのは最も穏当で、「黒幕」「フィクサー」はもちろん、「闇社会の帝王」「企業舎弟」「仕事師」「事件屋」というものもあった。
共通するのは、「表社会」と「裏社会」の狭間に生息、両社をつなぐ役回りで、そうした自分の立場を自覚して、許氏は決して表に立たなかった。
それが虚像を膨らませ、おどろおどろしさとなって、「許永中とは何者か」が、様々な方向から語られた。

私もそのひとりであり、19年前、同じ小学館から『許永中「追跡15年」全データ』と題する書き下ろし文庫を上梓した。
本人にとっては、そうした評伝のすべてが“片腹痛い”ものだったろう。
お前らに俺の何がわかる――。
その通りである。反社会的勢力に足場を置きながら、何百億、何千億円のカネを投下するようなビッグプロジェクトに、政財界を巻込んで、「許永中旋風」と呼ばれる騒動を引き起こせたのはなぜなのか。
回答は、許氏の人生に隠されており、それは本人でなければ語れない。「昭和」という時代を映す自叙伝の意味はそこにある。
47年2月、第2次世界大戦の終結から1年半後に生まれた許氏は、戦後復興とその後の高度経済成長とともにあり、バブル経済事件史に刻まれるイトマン事件によって、91年7月、大阪地検特捜部に逮捕された。
平成3年となっていたが、“仕込み”は昭和の時代になされており、許氏は戦後の混乱と貧困のなかに生まれ、差別のなか在日朝鮮人というハンデを暴力で乗り越え、類いまれな人心掌握術で足場を築いてポジションを得た「昭和の人」であった。

自叙伝は、<差別される者同士が共棲する場所>だという、大阪市北区中津での出生時の暮らしから書き起こされてる。
1階が6畳と台所、2階が4畳半と3畳という狭さのなか、親子7人が暮らし、日が昇ると母親は、毎日、6畳間の布団を上げてゴザを敷き、ドブロク作りを続け、それが生活の糧となった。
大阪で「悪ガキ」を意味する「ごんたくれ」だった許氏が、大学中退後、被差別部落出身者や在日朝鮮人が多かった大阪の暴力団世界を、巧みに利用しながら顔を売り、のし上がっていく様は、一級の悪漢小説を読んでいるような緊迫感とスピード感がある。
ここに許氏の原点があった。
会った人が、等しく口にするのは、許氏の語り口のうまさである。話題も語彙も豊富。まず自ら腹を割り、相手にも腹を割らせて本音の会話に持ち込む。初対面の人間も引き込む「許永中マジック」である。
だが、ビジネスが絡み、カネが絡むと、暴力装置を背景にした駆け引きの場になり、そこではどんな巧みな話術も通用せず、モノをいうのは度胸である。

許氏が、何十人も配下が潜む暴力団事務所に単身、乗り込みエレベーターで、同乗した“敵”に背中を向けるシーンがある。
<背中に先ほどの鋭い視線とは違う、鋭角の苦々しげな視線を感じる。敵に無防備な姿を見せているのは、私からの挑発でもあった>
この時、許氏は、後頭部を割られても仕方がないと度胸を固めている。後ろ楯となってくれている暴力団組長には、<もし、殺されてもうたら、それはそれだけの男やったということです>と、語っている。
ここに許氏が、“一流”の「黒幕」「仕事師」となることが出来た理由がある。
人脈や話術だけなら同等の人間は少なくない。そこに許氏の場合は修羅場を何度も経験した人間だけが持つ度胸が加わる。さらに、「在日」の暴力団人脈を使うだけでなく、「在日」としての誇りを持ち、同胞の貧困状態を解消、韓国・北朝鮮との架橋になりたいという「夢」を持つ。
許氏が、在日韓国人実業家としてデビューしたのは、86年3月、大阪で行なわれた大阪国際フェリーの就航記念パーティの席上、「社主」として紹介されてからだった。
暴力団社会にも足場を置くという自覚から表に出なかったため、39歳の「社主」は、一般には無名で、「謎の背年実業家」として報じられた。この事業は、「日本と韓国を結びたい」という「夢」の実現でもあった。
イトマン事件はこの3年後であり、自叙伝では、前述のようなグレーゾーンでのひりひりするような掛け合いの数々を書きながら、「昭和のフィクサー」である大谷貴義、画商で政界パイプの太い福本邦雄、実業界への足掛かりを築いてくれた東邦生命の太田清蔵など「表社会」の人脈も明らかにして行く。

「裏」があるから「表」は許氏を利用でき、「表」があるから「裏」は許氏の跳梁を許した。
その怪しい交流が、経済事件の温床となるのは確かだが、一方で許氏がもうひとりの主役である伊藤寿永光氏とともに、商社・イトマンを足場にメインバンクの旧住友銀行に駆け上がろうとする過程は、壮大な人間ドラマを生んだ。
その「昭和」のダイナミズムに郷愁を感じたとしても、イトマン事件、石橋産業事件など実刑判決を受けた事件に関し、冤罪を主張する許氏の姿勢には、異論も納得できない面もあろう。
ただ、本書で読み取るべきは、暴対法や暴排条例に縛られることなく、監視カメラやSNSで衆人環視されることがなく、グレーゾーン領域が認められ、肉体的言語が通用した時代の「歴史の検証」であり、その時代を国家に断罪されながら生き抜いた在日朝鮮人の「生き様」なのである。