東浩紀「コロナ禍で『リベラル』な知識人は『監視社会』を肯定してしまった」

コロナ禍を経て、「社会活動の多くはオンラインで代替できる」という考え方は市民権を得たようにもみえる。2010年にゲンロンを起業し、雑誌「ゲンロン」をはじめとする出版物の発行、さまざまな話し手を招いたリアルイベントを行うゲンロンカフェの運営などを行ってきた批評家の東浩紀さんは、言論が飛び交う空間としてのインターネットの可能性と限界についてどう考えるのか。近現代史研究者の辻田真佐憲さんが聞きました。(全2回の1回目/ #2 へ続く)
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行動が一貫していることが重要
――東さん、以前はツイッターでも精力的に発信をされていましたけれども、しばらく距離を置いていて、新型コロナウイルスの混乱を前にして、期間限定で復活していますよね。
東 ぼくはテレビにはもう出ていないし、新聞にもあまり出ない。つまり、マスコミと付き合わないというポジションなんです。そう考えたときに、ぼくには今のツイッターもマスコミに見えたのでやめた。今回、コロナで緊急事態ということでまたやっています。
――3月5日のツイートを今読み返すと、すでにその頃から、東さんの考えは一貫していると思います。都知事選を想起させる「ぼくたちは人々の不安に付け込むポピュリストのパフォーマンスには距離をとるべきです」という発信をしていたり、「生きることはリスクとともに暮らすことです」「そもそも不可能な感染拡大の阻止ではなく、重症患者の命を救うことに集中すべきです」といったwithコロナに近いアイディアも。
東 ぼくにとっては、3.11の経験が大きかったんです。原発事故の後、放射能の危険性を巡って専門家も右往左往し、かえって混乱を招きました。しかし間もなく10年を迎えようとする現在から振り返っても、意外と真実は明らかになっていない。どのようにメルトダウンが進んだか、原発事故の責任の所在はどこにあるか、健康被害はどうか。
そういう時に混乱を最小限に抑えるには、まずは行動が一貫していることが重要だと思います。新しい事実が明らかになっていくなかで、方針転換をして最適な行動をとることができるのであれば、むろんそれに越したことはありません。けれども場当たり的な行動にしかならないなら、「もしかしたら現在の行動は間違っているかもしれないけど、とにかく一貫させておく」ことがよいのではないかと。とくに施政者には一貫性が求められますね。
――7月に入って感染者数が増えてくると、再び外出自粛要請が出されるのではないかというムードが高まりました。「『やっぱ危険かも、やっぱ大丈夫かも』の感情に経済が振り回されるのが、ほんとうはいちばん危険です」とツイートされていたのは、まったくその通りだなと思います。
東 感染拡大防止を重視するか、生活や経済を重視するか。「感染拡大は不安、でも自粛で生活が成り立たなくなるのも不安」ってそれはそうでしょう。けれど、新しい情報が入ってくるたびに行動を変えてしまっては、それこそ社会全体が不安定になる。
ぼく個人としては、一律の外出自粛にはあまり効果がないと考えています。しかし同時に世論は科学と関係なく動きますし、それに抵抗しても問題が起きるだけだとも考えています。だから、自分や自分の組織の行動方針は、ウイルスよりも世論を予測して決めるべきだと割り切っています。緊急事態宣言が解除された時も、ゲンロンカフェのリアルイベント再開は見送りました。
右へ左へとすぐに動員される「過剰流動性」
――世界の動向を振り返ると、ステイホームが叫ばれていた時期から、次はBLMデモへと振れ幅が大きかったように思います。どのようにご覧になっていましたか?
東 コロナとデモの関係はわかりませんが、ネット上の情報拡散によって大量の人が右へ左へとすぐに動員されてしまうという「過剰流動性」には問題を感じています。一時期の正義感情に駆動されて、政策を急転させ、過去の蓄積を破壊することが相次いでいる。
――植民地主義や奴隷制に加担していたとされる人物の銅像が、各地で壊されたり、倒されたりする動きもありました。
東 ぼく個人は、銅像を倒すことにあまり意味を感じません。旧ソ連崩壊時にはレーニン像が倒されました。でもロシアではいまもソ連時代の栄光を忘れられない人が多く、むしろスターリンなんか復活しています。大事なのは人の心であって、銅像はシンボルにすぎない。変えていくべきは他のところだと思いますし、それはもっと時間がかかる改革だと思います。
そもそも、「歴史を書く」ことイコール「昔の過ちを正すこと」になってしまうのはよくありません。歴史とは、過去の人々がなにを考えていたのかを記憶する作業であって、「あの頃は間違っていました」と修正する作業ではない。ジェンダーの問題でも、#MeTooを受けてみな「間違っていました」とすぐ謝罪します。でも、同時に間違っていた頃の感覚を覚えておくことも大事です。そもそもそうでなければ反省の意味がない。これは自分のなかに分裂を抱えるということなので、なかなか難しいことではありますが。
いずれにせよ、銅像を倒すというのは分かりやすく、フラストレーションを発散しているだけのように見えます。それ自体が社会を変えるものではないでしょう。そもそも、誰もが気がついていることですけれども、本気で植民地主義を見直すならば大英博物館を解散するべきです。
リアルな動員すら関係ないハッシュタグデモ
――一方で、日本では文化人や知識人と言われている人たちが「#検察庁法改正案に抗議します」をはじめとするハッシュタグデモに熱心だったことを思い出します。ハッシュタグでいかに動員して、ツイッターのトレンド1位になるかを競っているようにも見えました。
東 この10年、日本では、震災以降の反原発国会前抗議に始まり、SEALDsへと「デモの時代」が続きました。政治への参加の敷居をできるだけ低くするのが正義ということになり、その結果ついに、リアルの動員すら関係なく、ネットの情報拡散だけでいいということになった。それがハッシュタグデモです。「ウェブで政治を動かす」の戯画的な一つの帰結ですね。
インターネットで「本音」は語られない
――「#検察庁法改正案に抗議します」で盛り上がっていたかと思うと、「#大村知事リコールを支持します」も登場しました。あいちトリエンナーレ2019を受けての動きです。今や、右も左も動員合戦になっているのかなとも感じます。
東 もともとネットは、市民一人ひとりの自発的な意思が結集する場所だと考えられていました。けれどもSNSによって変わってしまった。今ではむしろマスメディアにコントロールされた、芸能人が力をもつだけの世界になっている。少なくとも日本では、インターネットはオルタナティブメディアとして機能していない。ワイドショーとネットが相互に同じ話題を取り上げて盛り上がり、何百万人もフォロワーがいる人たちだけが影響力をもつ世界です。オモテではいえない「本音」や「真実」が語られる場所ではもはやまったくないと思います。
ただ、そういう幻想だけは残っている。だからネットの動きは過大評価されている。でもそういう幻想も近い将来消えていくでしょう。ハッシュタグで政治が動いたのは、ワイドショーで政治が動いたのとなにも変わらないと思います。
1万人~10万人は、ちゃんとものを考えている
――東さんは、哲学者の梅原猛さんをしのぶ追悼文で、「事実の集積は歴史にならない。ひとは過去を物語に変えてはじめて未来に進める。そしてその物語の創出は哲学者の責務である」「哲学者は自由でいい。大胆でいい」と書いています(「哲学者は自由でいい」『 テーマパーク化する地球 』収載)。今のSNS社会では、大胆な発言ができる評論家や哲学者は、専門家とされる人たちからも非難を浴びやすいように思います。たとえば、政治や社会について大まかなことを語ると、一斉にチェックされ、「この部分が違う」といってアラ探しをされ、場合によっては人格攻撃に発展したりします。
東 万人が納得する誰も傷つけない言葉というのは存在しません。存在したとしても時候の挨拶のようなもので、新しい情報はありません。新しいことを主張し発言するということは、どうしても、ある集団の人たちをギョッとさせ、ある集団の人たちには暴力的に響く可能性をもつ。それをどのくらい許容するかという問題です。出版にしても初期のネットにしても、結局のところは、読者のアクセスが限られていたので大胆な表現が可能だった。いまのSNSは極端な話、小学生でも読むかもしれない。これでは何も言えなくなるのは当然です。裏返せば、この問題の解決は非常にシンプルで、大人が読むメディアを作ることですね。それしかないと思います。
――それは、「専門家がインターネットですばやくファクトチェックすればいい」などとは、まったく違う考え方ですね。自分たちの発信を受け取ってくれる拠り所を別に作るという……。
東 数字は個人的な感覚によるものでしかないですが、どんな時代でも1万人から10万人のあいだくらいは、ちゃんとものを考えている人がいる。まともなメディアはその人たち向けに作るしかない。
これはメンバーの質というよりも、むしろスケールの問題かもしれません。ぼくたちが伝統的に「公共的」と呼んできたような感覚は、そもそも1万から10万くらいのスケールでしか機能しないのではないか。むろん近代国家の人口はそれよりもはるかに大きいですが、公共性とは近代では出版や放送のようなマスメディアがつくるものなので、「情報の送り手」の規模は人口が1億人になってもやはり変わっていなかった。ところがいまは、そういう10万人規模の近代マスメディアの上に、スケールがまったく違う数億人規模のポストモダン・ネットメディアが乗っかるかたちになっている。そして、そちらのほうが資本主義的にはお金も動くし、民主主義的には票も動く。だからほんとうの公共はこっちだろうということになってしまった。
「1000部しか売れない本か、100万部売れる本か」
――適正なスケールというと、たしかルソーも……。 東 ルソーが理想とした都市の人口は3万人くらいですね。ぼくも同じ感覚です。1万~10万のあいだくらいというのが、文化的に高度なことができる市民あるいは観客の数だと思います。
――それは東さんがゲンロンを経営していて体得した数字ですか?
東 ゲンロン以前から考えていました。たとえばはてなダイアリーのコミュニティも、おもしろかった時期はそれくらいのスケールだった。活発な議論がなされていて、それなりに見通しが利き、でもボリュームがあるという数。
ぼく自身、著作が100万部売れたりしたことがないというのも大きいでしょう。よく例に出す話なのですが、むかし浅田彰さんから「結局面白いものというのは1000部しか売れない本か、100万部売れる本かどちらかなんだ」と言われたことがあって、若い頃のぼくは反発しました。それだけじゃないと思いました。
――それよりは、数万に向けて仕事をしたいと。
東 それこそインターネットって、まさに1000か100万かの世界です。周りのフォロワーのため四コマ漫画を描いていたら、いきなり100万人以上が見るようになりましたという世界。たとえば「100日後に死ぬワニ」のような。でもそれって結局、多くの一発屋を生みだすだけだと思います。
加えていうと、「10万を超えると違う世界だ」というのは、90年代にけっこう編集者から聞いた話でもあります。「いい本」を作って手応えがあるのは数万部の規模であって、あるところを超えたら社会現象になる。売れる場合もあるし、売れない場合もあるけど、それはもはや内容と関係がない。だから考えてもしかたないし、そこを狙っても無意味なのだと。
――マネタイズの問題とも密接にかかわってきますよね。5万部の本というとけっこう大きいですが、5万PVでは全然お金にならない。
東 インターネットでマネタイズするためには、100万人、1000万人単位の人に届かないと話にならない。テレビもそうで、どちらも広告モデルです。出版はそれとは違うモデルで、数万の規模でマネタイズできる仕組みを持っている。議論や作品のクオリティを保つためには、この規模でのマネタイズを大切にするべきだというのが、僕がずっと考えていることです。
「社会活動の多くはオンラインで代替できる」は幻想
――東さんは、コロナ時代の「社会活動の多くはオンラインで代替できる」という考え方も幻想だと指摘されていますよね。社会はリアルなインフラがないと回らないし、身体的接触を避ければ避けるほど、接触を担わざるをえない人の負担は増えると。
とはいえ、そういう幻想はまだまだ強い。そんな中で、「観光」はこれまでになく政治的・思想的な意味をもちそうです。いうまでもなく、東哲学において、観光や旅、観光客は重要なキーワードの一つでした。ゲンロンという会社としても、チェルノブイリ・ツアーに取り組んでこられました。
東 3年前に『 観光客の哲学 』という本を書いた時には、グローバリズムの進展の中で観光客というものが必然的に発生し、それがある種、国家と国家の対立関係への安全弁として機能するということを伝えようとしました。ところが、コロナでその安全弁が機能しなくなってしまった。いまや観光客というのはほとんどテロリストのような扱いで、いかにして入国を阻止するかが問題になっている。
行くはずのない場所に行き、出会うはずのないひとに出会い、考えるはずのないことを考えること。その「誤配」こそが観光の本質だということで、ぼくとしてはある意味ではお気楽なものとして提示したつもりだったんですが、いまや観光客の権利や観光客の哲学的な意味が急速にアクチュアルになっている。新しい課題が出てきた感じですね。
「リベラル」が監視社会を肯定してしまった
――今、お気楽なという言葉がありましたけれども、ラフなあそびの要素は豊かさでもあったと思うんです。コロナの非常時でそういったものが許されない雰囲気が一層広がりました。ポリコレもより厳しく問われるようになり、「今、どの価値観が正しいのか」「今、何が社会の役に立つのか」という話が優先される。コロナを長い時間軸で振り返る時、何がポイントになっていくと思われますか?
東 コロナで、今まで対立だと思われていた様々な軸が、実は本当の対立ではなかったことが明らかになりました。たとえばIT社会の行方。一方では欧米型の人権重視の情報社会、他方で中国型の監視重視の情報社会という対立があるということになっていましたが、フタを開けてみれば、感染症対策のため監視テクノロジーをどんどん使いましょうという点ではあまり変わらなかった。
また今回、思想的に「リベラル」と呼ばれる知識人が、国内でも国外でも監視社会を積極的に肯定してしまったことも覚えておくべきでしょう。都市封鎖や外出自粛をめぐる議論のなかで、「保守とリベラル」、「体制と反体制」、「監視と人権」といった従来の対立軸がかなり仕切り直しになったように思います。そのインパクトは、数年たって振り返った時に初めて分かってくるのではないでしょうか。
写真=末永裕樹/文藝春秋
あずま・ひろき/1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。1993年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『 動物化するポストモダン 』『 一般意志2.0 』『 ゲンロン0 観光客の哲学 』『 テーマパーク化する地球 』ほか多数。近著に『 哲学の誤配 』『 新対話篇 』がある。
東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか へ続く
(辻田 真佐憲)