「保守派」の高市首相は絶対に口にしない…「先の大戦の戦没軍人230万人」を祀る靖国神社の不都合な真実

※本稿は、山崎雅弘『戦争を甘く見る空気』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
先の戦争で命を落とした日本軍人の中でも、とりわけ悲壮な物語として語られるのが、いわゆる「特攻(諸外国では「カミカゼ」)」で死んだ兵士の最期です。
戦争末期、通常の戦い方では戦局を挽回できないとの認識が日本軍の内部で広まると、上層部は破れかぶれのような形で、爆弾を搭載した飛行機や船で敵の軍艦に体当たりさせるという、常軌を逸した戦法を組織として命令するようになりました。
当時の日本軍は、この戦法を「特別攻撃(特攻)」と呼び、海軍は「神風(しんぷう)特攻隊」という名称で、体当たり攻撃の航空隊を継続的に出撃させました。この戦法が、新聞で大きく報じられて国内で反響を呼ぶと、陸軍航空隊も同様の「特攻隊」を組織して繰り返し発進させ、日本の近海に展開する敵艦へと向かわせました。
鹿児島県には、戦争中に多くの日本軍の航空基地が置かれており、知覧(ちらん)と万世(ばんせい)には、特攻隊員を偲ぶ平和祈念館があります。また、海上自衛隊の鹿屋(かのや)航空基地内にある「鹿屋航空基地史料館」でも、特攻作戦と特攻隊に関する展示物が公開されています。
各館内には、亡くなった特攻隊員の遺影や遺書が数多く展示されていて、見学者の中には、遺書の内容を読んで涙を流す人も少なくありません。
特攻隊員の書き残した遺書には、「笑って突込んで行く覚悟です」「私が死んでも、どうか悲しまずに大君(天皇)の為に よくぞ死んだ天晴(あっぱ)れな最後だったとほめてやってください」「お父上様、母上様この栄の心境を察し下さい 栄は飛んで喜んで行きました」など、自らの死を覚悟した若い兵士の「純真な」心情が綴られているからです。
けれども、後世に生きる我々がこうした「遺書」を読む時、気をつけなくてはいけないことがあります。それは、「どういう境遇でこれが書かれたのか」という点です。
当時の日本社会には、軍人が戦争で死ぬことを「避けるべきこと」や「悲しいこと」と見なすことを許さない「空気」が充満していました。それどころか、靖国神社宮司の言葉にあるような「戦死した人を褒めてあげなさい」という態度が、表向きは国民に求められていました。
特攻で出撃する兵士の遺書も、遺された家族が周囲のいじめなどで理不尽な目に遭わないようにするためには、当時の日本社会を支配した「空気」に合う内容の言葉を書くしかありませんでした。「僕は本当は死にたくない」とか「特攻を命令した上官が憎い」と、本心では思っていたとしても、それを遺書に書くことは事実上不可能でした。
もしそんな言葉を書いたなら、軍の検閲に引っかかって廃棄されたり、受け取った遺族が「卑怯者の家族」や「非国民の家族」と罵られる可能性が高かったからです。逆に、当時の日本社会の世界観や死生観に合致した遺書を書いておけば、残された家族は「英霊の家」として称えられ、地域社会で良い待遇を得られることもありました。
もちろん、個々の特攻隊員がどんな心情で遺書をしたためたのか、実際のところはご本人にしかわかりません。当時の価値観に適応し、遺書に書き記したような気持ちを胸に抱いて出撃した隊員も、少なからず存在したのだろうとは思います。
しかし、現代に生きる我々が、こうした遺書を「悲しい美談」と理解して感情的に「消費」することには、やはり問題があるように思います。彼らをそんな境遇へと追いやった上官や軍隊組織、そして社会の「空気」に対する批判的な視点が消失するからです。
特攻とは、実際の状況をストレートに表現すれば、「体当たり自殺攻撃」になります。
このような表現では、亡くなった人が不憫だということで、婉曲な表現である「特攻」という言葉が使われてきましたが、我々がまず考えないといけないのは、こんな戦い方はきわめて非人道的で、第二次大戦中に組織として繰り返し兵士に行わせた国は、日本以外にはなかったという現実です。
兵士が死ぬことを前提とした戦法は、人を人として扱わない、冷酷な行いです。
過去の戦争では、甚大な損害が出ることを想定した上でなされる「敵陣への突撃」が、しばしば行われてきました。けれども、それらは基本的に「生き残った兵が敵陣を占領する」ことが目標であり、突撃した全員を死なせる「死の強制」ではありませんでした。
そしてもう一つ、現代の我々が留意すべき重要な点は、もし靖国神社が存在しなかったなら、特攻という「体当たり自殺攻撃」も存在しなかったであろうということです。
靖国神社は、「戦死した軍人の肉体が滅びても、魂は九段の靖国神社へと向かい、そこで戦友と再会できる」という宗教的な物語を、日本軍人に信じさせていました。この物語に疑いを差し挟むことは、当時の日本社会では許されず、また軍人自身も「死の恐怖」から逃れるために、この物語を自発的に受け入れていたようにも見えます。
部下に「体当たり自殺攻撃」を命じた上官や司令官が、それによってその部下を死なせても罪悪感を感じず、罪の意識を軽減できたのも、「肉体は滅んでも魂は靖国に向かう」という物語が存在したからでした。軍人の死を「嘆きや悲しみの対象」ではなく「至高の栄誉」と顕彰する靖国神社がなければ、特攻という戦法は成立し得ませんでした。
軍人が戦場で死ぬことを「避けるべきこと」や「悲しいこと」と見なさず、むしろ「喜ぶべきこと」と捉える、多くの兵士を余計に死なせた遠因ともなった異様な「空気」は、1937年7月に日中戦争が始まった直後から、日本社会に広がっていました。
8月2日付大阪朝日新聞朝刊には、戦死した日本軍人を遺族が讃える記事が掲載されましたが、紙面に並んでいたのは、次のような言葉でした。
「“戦死は男子の本懐”健気に語る老ゆる母」

「“よく死んだ”戦死を褒める両親」

「よく死んでくれました、家門の名誉これに過ぎるものはありません」
8月5日付の同紙朝刊13面でも、「戦死の報にも毅然 天晴れ! 殉国の覚悟」という見出しで、次のような遺族の談話が、紙面の約3分の2を埋めていました。
「よくやってくれました。私は明治三十八年兵でちょうど日露戦役の済んだあとで、惜しくも従軍出来なかったですが、こんど息子が天晴れ戦死をとげてくれまして、一家の名誉これにすぎるものはありません」
「よくやってくれました。手紙がくるたびに、どうか潔くお国のために働いてくれればよいがと念じていましたが、これで私たちも大いに肩身が広いというものです」
「お役に立ってくれて、一門の名誉だと喜んでいます。白木の箱に入って凱旋せよと激励してやりましたが、それを実現してくれた」
「四日朝、戦死の電報を受け取りました。主人を早く亡くして娘二人はありますが、専造(戦死した一等兵)は私にとってただ一人の息子ですが、立派にお国に御奉公したのですから満足しています」
「お国のため立派に死んでくれたことを嬉しいと思います。二十八日、元気で活動しているから安心して下さいとの便りが来ましたが、これが最後の手紙となりました。千人針を送っておきましたが、着かなかったかもしれません」
最後のコメントにある「千人針」とは、千人の女性に一針ずつ赤い糸で白い布に結び目を縫ってもらい、それを敵弾除けと武運長久のお守りとして戦場の兵士に送る、民間信仰の一種です。そこには、相手の無事を祈る、切実な気持ちが込められていました。
息子を戦地に送り出した母親の多くは、おそらく本心では息子の生還を願っていたはずです。しかし、軍人の戦死を「悲しんではいけない」、「むしろ名誉なことだと喜ばなくてはいけない」という当時の日本社会の「空気」は、そうした本心を母親や妻、子どもが口にすることを許しませんでした。
新聞もまた、こうした「戦死を美談として物語化する記事」を書くことによって、人命を軽んじる「空気」の強化に加担していました。
戦地に赴いた軍人の「死」は、当人がある程度は覚悟していた最期だとしても、本来なら「可能な限り避けるべき結果」であるはずです。
ところが、先の戦争における日本では、こうした常識が壊れていました。
立派な大義に酔って「戦争を甘く見る空気」に浸り、出征した日本軍人の死を「喜んでいます」などと肯定する風潮が社会に広まると、やがて「軍人が戦地で死ぬこと」自体が目的化するという、本末転倒の考え方が社会に広まっていくことになります。
なぜ、そのようなグロテスクとも言える人命軽視の「空気」が日本社会に広がり、多くの人が抗(あらが)わずにそれに同調したのか。
1935年以降に先鋭化した「国体」思想の副産物として、日本人の思考形態が、論理性や合理性ではなく、主観や願望を投影した情緒的な物語(ナラティブ)に大きく偏向していったという面が大きいように思います。
現実をありのままに直視するのでなく、こうであって欲しい、こうであるはずだ、などの願望でまず結論を定め、そこから逆算する形で、人の心を揺り動かすような物語を構築していく。そうした手法が、新聞や雑誌で多く使われ、人々の心にも浸透しました。
国民の側でも、日々の苦しい現実から目を逸(そら)したいとの思いから、麻薬のような効果を持つ情緒的な物語に救いを求め、やがてそれを手放せない状態になっていきました。
軍の上層部から見捨てられて南方のジャングルで孤立した日本兵が、食糧も飲み水もなく空腹でやせ細り、衰弱し、誰にも看取られぬまま、植物が枯れるように餓死した。
こんな風に、事実を淡々と書いても、情緒的に人の心を捉える物語にはなりません。
若くて誠実な日本兵が、満足な食糧もないまま敵の追撃を逃れ、故郷に残した恋人から贈られたお守りを握り締める。周囲を敵に囲まれた南国のジャングルで彼女の幸せを祈りながら、敵の降伏勧告を敢然と拒否し、最期の突撃に向かう覚悟を固める。
そして、弾を撃ち尽くした銃を捨てて、肉弾戦でしか効果を発揮しない銃剣を血まみれの手で握り締め、もう二度と顔を見ることもできない最愛の恋人の名を叫びながら敵の陣地に突撃し、機銃弾を全身に浴びて鉄条網に倒れ込み、名誉の戦死を遂げた。
このような文章で情緒的な物語に仕立てれば、読む人の心にさまざまな感情の高まりを呼び起こし、兵士の死が「美しい最期」であったかのような印象すら受けるでしょう。実際、この種の物語に特攻隊員の若者を当てはめた小説や映画がいくつも世に出され、大衆的な人気を博しています。
これが、戦争を情緒的な物語に当てはめて語ることの恐さです。
高市早苗が2012年8月15日、公式ブログに掲載した靖国神社参拝時のコメントは、情緒的な物語を事実であるかのように語った内容です。そこで使われる「散華(さんげ)された」という言葉は、軍人が戦場で命を落とすという凄惨な状況を、情緒的な美談として物語化する時の常套句(じょうとうく)です。
「今年は、例年通り、午前中に靖国神社に参拝し、その後、日本武道館で挙行された全国戦没者追悼式典に参列致しました。

靖国神社では、国策に殉じ尊い生命を捧げられたご英霊に、尊崇の念をもって感謝の誠を捧げてまいりました。

いつも本殿前まで歩を進めますと、胸が締め付けられるように苦しくなり、涙が滲んできます。

祖国の存続を願い、愛するご家族や故郷への深い思いを残して散華された方々。悲しみを堪えて歯を食いしばって戦後の混乱期を生き抜いてこられた多くのご遺族たち。

『そのご労苦に応えなければ』『美しく強く繁栄を続ける国家を築いていかなければ…』

という使命感と焦燥感に、押しつぶされてしまいそうになるのです」
靖国神社を参拝して「英霊に感謝」という言葉を口にする「保守派」の政治家たちは、地獄のような戦場の実相ではなく、美辞麗句で飾り立てた情緒的な物語を好みます。
彼らは誰一人として、靖国神社を参拝する時に、先の戦争で命を落とした日本の軍人と軍属の6割、約140万人が「餓死者だった」とは言いません。戦没軍人約230万人の全員が「敵と戦って散華した」かのように語ります。
この政治家の行為は、一見すると先の戦争で亡くなった日本の軍人と軍属に寄り添っているように見えて、実は正反対で、軍人と軍属の命を著しく軽んじています。
なぜなら、彼らを死なせた「原因」を批判的に検証したり、彼らを死に追いやった「責任者」を批判的に追及するそぶりを、一切見せていないからです。
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(戦史・紛争史研究家 山崎 雅弘)

支持率急落の高市政権がV字回復画策 内閣改造でクビ切り不可避な“ポンコツ”5大臣の名前

特別国会が先週閉会し、永田町では早速、内閣改造の人事話がささやかれている。高市政権は、消費税減税の議論がもつれているほか、強引な国会運営で支持率が急落。V字回復を図る一手として、内閣改造にかける期待感は大きい。
永田町では「若手の登用で刷新感を打ち出すつもりだ」「女性を大量入閣させるに違いない」などとささやかれている。ただ、一方で「ポンコツの現職は容赦なく切られる」ともっぱら。目下、5大臣のクビが危ういとみられている。
■首相側近、不倫スキャンダル、おこめ券大臣…
“クビ濃厚”の筆頭は、黄川田仁志こども担当相だ。
「黄川田さんは国会や会見での不安定な受け答えが目立ち、大臣としての能力そのものが疑問視されています。3月16日の国会答弁では、高市首相が法制化を目指す『旧姓の通称使用拡大』についての立憲民主党・蓮舫参院議員の質問に対し、グダグダ答弁を披露。わずか18分間で、3回も審議がストップするダメダメっぷりを発揮しました」(政界関係者)
黄川田氏は高市首相の側近でもあり、昨年の総裁選出馬会見では司会を務めた。しかしそこでも、質疑で記者を指名する際に「顔が濃い方」「逆に顔が白い、濃くない方」と外見の特徴を挙げて指名し、炎上。永田町では「空気が読めない人」ともっぱらで、続投は絶望的だ。
松本洋平文科相は、不倫相手の女性と国会事務所内での性行為疑惑が週刊誌で報じられた。そもそも「あのスキャンダルでクビが飛ばなかったのが奇跡」(大手紙政治部記者)で、今回はさすがに生き残れないだろう。
鈴木憲和農相も危ない。昨年には米価高騰対策として、「おこめ券」配布を打ち出した。しかし、「出来の悪いバラマキ政策だ」と激しい批判にさらされ、ミソを付けた。
さらに鈴木大臣は、昨年に放出された政府備蓄米の買い戻しをめぐって、官邸と対立している。
「鈴木さんは米価の暴落を防ぐため、備蓄米の早期買い戻しを官邸に申し入れました。一方、官邸幹部は『物価高対策に逆行してしまう』と難色を示し、強く反対したようです。両者の間に溝が生じています」(農水省担当記者)
■記者の質問にろくに答えず度々炎上
平口洋法相も、すこぶる評判が悪い。先の特別国会では、再審法改正をめぐり、自民党内で議論が紛糾。検察との対立も激化した。しかし、平口大臣は仲裁に入ることもせず、自民党内からは「法相として何もしてくれなかった」と、恨み節が聞かれる。存在感も薄く、退任は不可避とみられている。
小野田紀美経済安保相は参院議員2期目と経験が浅く、「入閣は早かった」との声が少なくない。会見では自身のメディア嫌いを隠すことなく、「記者の質問にすぐ『所管外です』などと突き放し、ろくに答えず度々炎上。内閣のイメージを低下させている」(官邸事情通)。
こうしてみると、高市内閣はトンデモ大臣のオンパレード。人を見る目がない高市首相が人事をいじって、支持率が上がるとは思えない。
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高市内閣の不祥事、スキャンダルについては、関連記事【もっと読む】【さらに読む】などでも詳しく報じている。

「男性1人がおぼれている」海水浴場でベトナム人技能実習生(20)が死亡 友人2人と遊泳中に行方不明に【香川】

きょう(1日)夕方、香川県観音寺市有明町の有明浜海水浴場で、「男性1人がおぼれている、20歳ぐらいの外国人です」と、付近にいた女性から警察に通報がありました。
海中で男性を発見
警察と消防が捜索したところ、約1時間後に現場近くの海中で、消防隊員が心肺停止状態の男性を発見。男性は病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。
死亡したのは、観音寺市に住むベトナム国籍の技能実習生の男性(20)です。
警察によりますと、男性はきょう午後6時半ごろ、知人のベトナム人男性2人と海で泳いでいたということです。
警察が、死因や事故当時の状況を調べています。

熊本で震度5弱の地震 先月28日の震度7以降、震度1以上の地震が300回以上 今後も強い揺れに注意~気象庁

1日午後10時前、熊本県で震度5弱を観測する強い地震がありました。熊本県では、先月28日に震度7を観測する地震が起きて以降、1日までに震度1以上の地震が300回以上起きていて、気象庁は、地震活動が活発な状況が続いているとして、今後も強い揺れに注意するよう呼びかけています。
気象庁によりますと、1日午後9時47分ごろ、熊本県宇城市で最大震度5弱を観測する強い地震がありました。
震源は熊本地方で深さは10キロ、地震の規模を示すマグニチュードは、4.7と推定されています。
熊本県では、先月28日に震度7を観測する地震が起きて以降、1日午後3時までに震度1以上の体に感じる地震が335回発生しています。
気象庁は、「依然として地震活動が活発な状況が続いている」として、震度7の地震が起きた先月28日から1週間となる4日(火)頃までは、最大震度7程度の地震に注意するよう呼びかけています。

イオンモール熊本の捜索終了、新たな被災者いないと判断…県は避難所の環境改善や生活再建に注力へ

熊本県で最大震度7を観測した地震で、県災害対策本部は1日、地震後に爆発が起きて7人が犠牲となった商業施設「イオンモール熊本」(嘉島町)の捜索・救助活動を終えたと発表した。県は県内の大規模なこれらの活動は終了したとし、避難生活の改善や猛暑対策などを進め、被災者の健康維持、生活再建を目指す。住宅被害は前日(1526棟)から倍以上に増え、3649棟に上った。
県によると、イオンモール熊本では1日正午、捜索・救助活動を終了。警察や自衛隊、消防が複数にわたって確認し、新たな救助者はいないと判断した。災害対策本部会議後、木村敬知事は記者団に「大規模な救助活動が終了し、一つの区切りを迎えた」と述べた。
災害対策本部の発表では、死者は前日と変わらず、36人(災害との関連調査中の2人を含む)。住宅被害の増加は、熊本市などで被害が判明した。震度6強を観測した八代市などでは調査が進んでおらず、更に増える見込み。避難所には9045人が身を寄せている。
会議では災害ごみについて、仮置き場の設置を予定していた12市町村の全てで3日までに受け入れが始まることが報告された。このほか、震度6強を観測した益城町(ましきまち)では1日、県内で初めてボランティアの受け入れを始めた。
35度以上の猛暑日を記録するなど厳しい暑さが続く被災地では、熱中症やその疑いで搬送される人が相次いでいる。3日には40度以上の酷暑日も予想され、被災者の健康リスクが高まっている。
震度6強以上を観測した自治体を管轄する4消防への読売新聞の取材では、地震発生の7月28日から8月1日までの5日間で少なくとも計80人を搬送した。自宅の片付けや車中泊をしている際に体調を崩す事例が目立つ。八代市と震度7を観測した氷川町は救助対応などで集計できていない日があり、実際の搬送人数は更に多いとみられる。
氷川町で自宅が倒壊した会社員(33)は、母親(67)と敷地内でテントを張り避難している。「猛烈な暑さの中で片付けをし、心身に疲れがたまっている。体調が心配だ」と話す。宇城市の避難所で健康観察を行った泉川病院(長崎県)の泉川卓也院長は、熱中症疑いの被災者約40人に処置を行った。「いつも以上に水分摂取を徹底してほしい」と呼びかけた。
熊本県は避難所のスポットクーラーの配備などを進めている。国土交通省は1日、ホテルなど73の宿泊施設を確保したと明らかにした。2200人規模を収容できるという。

【速報】熊本・宇城市で震度5弱 津波の心配なし

気象庁によると、1日午後9時47分ごろ、地震があった。震源地は熊本県熊本地方。震源の深さは10キロ。地震の規模を示すマグニチュードは4.7と推定。この地震による津波の心配なし。
震度5弱を観測したのは、宇城市。
震度4を観測したのは、熊本西区、熊本南区、八代市、宇土市、熊本美里町、西原村、御船町、嘉島町、益城町、甲佐町、氷川町。
震度3を観測したのは、みやま市、熊本中央区、熊本東区、熊本北区、玉名市、山鹿市、菊池市、上天草市、阿蘇市、合志市、玉東町、和水町、大津町、菊陽町、熊本高森町、南阿蘇村、山都町。

愛子さま三重県入り、式年遷宮で使う木材の加工現場ご訪問…水族館ではジュゴンやラッコに「癒やされますね」と笑顔

天皇、皇后両陛下の長女愛子さまは1日、三重県伊勢市の伊勢神宮の社殿を20年ごとに建て替えてご神体を移す式年遷宮(2033年)の関連行事などを視察するため、同県入りされた。
東京駅から新幹線と特急を乗り継いで同県に入った愛子さまは同日午後、式年遷宮で使われる木材の加工などを担う「山田工作場」(伊勢市)を訪問された。
愛子さまは、ヒノキの丸太を製材するために線を引く「墨掛け」の工程や、社殿のかやぶき屋根に使うススキの保管小屋などを見学し、案内役に「(技術が)次の方に引き継がれるんですか」などと熱心に質問された。
夜には、同県鳥羽市の鳥羽水族館を訪れ、国内で唯一飼育されているジュゴンやラッコの水槽を見学し、「癒やされますね」と笑顔を見せられた。
愛子さまは2日、伊勢神宮を参拝した後、式年遷宮に使う木材を神域に運び入れる伝統行事「お木曳(きひき)」を視察し、同日午後に帰京される。

「塀から男性が地面に落ちた」72歳が4メートル下に転落し死亡 住宅の外壁塗装作業中 鹿児島

西之表市で1日、住宅の外壁塗装をしていた男性が道路に転落し、死亡しました。
種子島警察署によりますと1日午前11時半ごろ、西之表市西之表の住宅で外壁塗装をしていた作業員の男性が、およそ4メートル下の道路に転落しました。
転落したのは作業員の竹平秀行さん(72)で、頭などを強くうち意識不明の状態で病院へ搬送されましたが、およそ3時間後に死亡しました。当時、1人で作業をしていたということで、ヘルメットはかぶっていませんでした。
通行人が「コンクリートの塀から男性が地面に落ちた」と119番通報しました。警察が、転落の原因や安全管理に問題がなかったかなどを調べています。

ベトナム実習生、子と会えず犠牲 熊本県甲佐町の工場で

熊本県甲佐町の工場で技能実習生として働いていたベトナム人のチャン・バン・ソンさんは来日から数カ月で熊本地震に遭い、職場で犠牲となった。息子が生まれたばかりで、故郷に家を建てるのが夢だった。駆けつけた兄は、仕事熱心で家族思いだったと惜しみ「まだ息子の顔を直接見られていないのに」と嘆いた。
ソンさんはベトナム北部ニンビン省の出身。昔から朗らかな性格で、魚釣りが趣味だった。妻と結婚後、家族に良い生活をさせたいとの思いで技能実習生としての来日を決意し、日本語の勉強に注力。単身で渡航した。
日本では甲佐町の金属加工場で働いた。同じく来日し、兵庫県で働く兄のティエンさんには「日本での仕事は大変なこともある」と打ち明け、当初は、異国の地での生活に戸惑う様子も見せていた。
素直で優しい人柄。最近、ベトナムで妻が出産し「子どもの将来のために働くことが目標になった」と口にしていた。
1日には熊本市内の教会で、葬儀ミサが開かれ、同僚ら約200人が参列。ベトナム語と日本語で祈りがささげられ、参列者が献花した。

マンションで爆発、2人ケガ きのうガス漏れがあったとの情報も 千葉・市川市

1日朝、千葉県市川市のマンションで爆発があり、2人がケガをしました。このマンションでは先月31日、ガス漏れがあったという情報もあるということです。
警察や消防によりますと1日午前6時半ごろから市川市福栄で「爆発音が聞こえた」と通報が相次ぎました。
3階建てのマンションの1階部分で爆発があったとみられ、消防隊員や警察官が駆け付けたところ、火災は確認できなかったものの、周辺の建物を含め多数の窓ガラスが割れるなどの被害が出ているということです。
マンションの隣に住む人「就寝中になります。大きな爆発音と同時にガラスが割れる音がして飛び起きた。ばんっというような音。だいぶカーテンで防がれていたが、飛び散ったガラスが全体をかぶさるような感じ」
この爆発で2人が病院に搬送され、住人とみられる50代の男性が全身をやけどする重傷を負ったほか、60代の男性が割れたガラスで軽いケガをしました。
捜査関係者によりますと、このマンションで先月31日、ガス漏れがあったという情報があり、京葉ガスによりますと、入居者からの「ガス臭い」という連絡で午前1時半ごろ作業員が現地に行ったということです。警察などは爆発の原因について調べています。