「呼吸にも気を遣わなければ…」福島第一原発の“決死隊”に命じられた想像を絶する作業の実態

2011年3月11日に起こった東日本大震災は、日本の歴史に暗く影を落とす悲惨な原子力事故を招いた。格納容器内の圧力が高まり続け、刻一刻とメルトダウンが進む福島第一原子力発電所。極限状況下で、当時の現場所員は何を思い、どのように仕事に臨んでいたのか。
ここでは、船橋洋一氏を中心とした調査委員会による綿密な取材で明らかになった新事実を『 フクシマ戦記 上 10年後の「カウントダウン・メルトダウン」 』より引用。生々しい当時の様子を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)
◇◇◇
決死隊
8時すぎ、吉田(編集部注:東京電力福島第一原子力発電所所長)は菅直人と別れたあと、緊対室に戻った。
「9時を目標に、ベント(編集部注:放射性物質を含む気体の一部を外部に排出させて圧力を下げる緊急措置)を実施する」
吉田は、そう指示した。
ベントに必要な弁を開けるためには、放射線量上昇のため入れなくなっていた1号機の原子炉建屋内に入らなければならない。電源がないため遠隔操作の電動駆動弁(MO弁)と空気作動弁(AO弁)が動かない。マニュアル(手動)で格納容器のベント弁(MO弁)とS/C(サプレッション・チェンバー)のベント弁(AO弁)を開くしかない。
S/C(サプレッション・チェンバー)は、D/W(ドライウェル)とベント管で繋がっている格納容器下部のドーナッツ型の容器。1号機で1750トン、2~4号機で2980トンという大量の水を蓄えている。配管破断などの事故時やSR弁(主蒸気逃がし弁)が開いて高温の蒸気が入ってきたとき、蒸気はこの水で冷やされ液体の水に戻り、格納容器全体の圧力上昇が抑えられる。
ベントを行うために最も重要なバルブはS/C(サプレッション・チェンバー)上部に備えられている空気作動弁(AO弁)である。AO弁は「大弁」と呼ばれるメインのバルブと「小弁」と呼ばれる予備のバルブが、ベントラインに並行に備え付けられている。
AO弁は通常、ハンドルがついていないため、運転員が現場で開けることはできないが、唯一の例外があった。それは1号機のAO弁「小弁」だった。緊対室の復旧班員がそのことを図面で把握した。
吉田は、発電所対策本部発電班を通じて、当直に要請した。
「相当程度の被ばくの恐れがある。しかし、ここは現場に行ってマニュアルで開操作を実施してもらいたい」
要するに、「決死隊」として突っ込んでほしいという要請である。
当直は了承した。
「ベントの操作をやってくれ」
午前9時2分。東京電力は、発電所周辺の住民の避難を確認した。
その2分後、緊急対策室はベントの指示をした。それを受けて、当直長の伊沢郁夫が命令した。
「緊対(緊急時対策室)から指示が出た。ベントの操作をやってくれ」
すでに午前零時ごろには緊対室から「ベントをやれるようにメンバーを決めておいてくれ」との指令が来ていた。
決死隊のメンバーたち
決死隊は、2名1組の3班態勢である。3つの班が同時に現場に行ってしまうと、中央制御室と連絡が取れなくなるし、緊急避難時の救出ができなくなる恐れがある。そこで、1班ずつ現場に行き、その班が作業終了後に中央制御室に戻ってから、次の班が出発することにした。
それでも、相当量の被ばくを覚悟しなければならない。そのため、若手の当直ははずし、各班とも、当直長と副長クラスの運転員で構成した。
東電の原発は、協力企業と呼ばれる下請け企業群の従業員で成り立っている。しかし、中央制御室での運転は、東電が協力企業に依存していない唯一の領域だった。ここだけは、運転員たちが互いにプロとしての自負と固い絆を確かめ合う聖域でもある。
「お前は残って指揮を執ってくれ」
午前3時頃、伊沢は中操(中央操作室=中央制御室のこと)の運転員たちを前に言った。
「緊対からゴーサインが出た場合には、ベントに行く。そのメンバーを選びたいと思う」
「申し訳ないけど、若い人には行かせられない。そのうえで自分は行けると言う人は、まず手を挙げてくれ」
誰も言葉を発しない。みな、伊沢の顔を見ている。視線をそらすものはいない。誰もが言葉を探しているようだった。
5秒、10秒……沈黙の時間が流れた。
沈黙を破ったのは伊沢だった。
「オレがまず現場に行く。一緒に行ってくれる人間はいるか」
その時、伊沢の後ろに立っていた大友喜久夫(55)が口を開いた。
「現場には私が行く。伊沢君、君はここにいなきゃダメだよ」
大友は発電部の作業管理グループ長である。作業管理グループは、原子炉の運転や定期検査の際の作業の段取りを決めたり、機器、設備を隔離するための安全チェックを行う。大友は伊沢の2年先輩、運転員上がりである。いまは作業管理グループに所属しているが、地震直後、1/2号機中操に駆けつけてきた。
やはり後ろにいた平野勝昭(55)が続いた。
「そうだ。お前は残って指揮を執ってくれ。私が行く」
平野も伊沢の先輩である。本来は、平野がこの日の1/2号機の当番当直長のはずだったが、病院の精密検査のため伊沢に交代してもらった。平野はこの日午後、地震のあと、必死になって福島第一原発に戻り、伊沢のチームに加わっていた。
2人の先輩当直長がそう言った瞬間、若手が声を上げた。
「ボクが行きます」
「私も行きます」
伊沢は、涙が溢れそうになるのを感じた。そして、それを見られまいとするかのように、ホワイトボードの方を向いた。
やはりその日、応援に駆けつけた遠藤英由当直長(51)がホワイトボードに、10人ほどの名前を一つ一つ、年齢順に書きだした。伊沢はその中から、当直長4人、副長2人の計6人にしぼり、2名1組の3班をつくった。
伊沢郁夫という男
伊沢郁夫は、地元・双葉町の農家の長男として生まれた。
少年時代、自転車に乗って、福島第一原発のところまで来て、友達と遊んだ。30メートルの断崖の上にある広大な敷地だった。
そこから太平洋を眺めるのが好きだった。いつ来ても海の色は暗く、水平線の彼方は白く光っている。
太平洋戦争末期、陸軍の航空訓練基地である「磐城陸軍飛行場」の跡地だった。ここで、特攻の飛行訓練が行われた。そこから若いパイロットたちが南方に死地を求めて、飛び立っていった。その飛行場のひび割れた、だだっぴろいコンクリートの跡が広がっている。
小学校高学年になったとき、ここで突如、建設工事が始まった。林の中に何十棟という平屋の家が忽然と、姿を現した。東電の最初の原発である福島第一原子力発電所の1号機の建設のため米本土からやってきたゼネラル・エレクトリック社の“ビレッジ”だった。米国人たちは、飛行場跡のコンクリの空き地をテニスコートにして、打ち興じた。
ビレッジには小さな公園や集会場もあった。伊沢たちはビレッジの米国人の子どもたちと友達になった。彼らが持っていたラジコンが珍しかった。彼らにメンコやビー玉を教え、彼らからラジコン遊びを教えてもらった。
伊沢はその中の一人のラジコン少年となぜか気があった。言葉は英語も日本語も片言だったが、気持ちは通じる。「家においでよ」と言うので、一緒に行くと、金髪のきれいなお母さんがニコニコしながらチョコレートやジュースを振る舞ってくれた。
クリスマスパーティーに招いてもらったこともある。父親が近くの山で切り出した立派なモミの木のクリスマスツリーがそびえ立っていた。母親がつくったクリスマスケーキがおいしかった。
1968年6月、1号機の格納容器建設が終わった後、シンデレラが消えるように彼らは立ち去っていった。
その後、伊沢は地元の工業高校を出て、東京電力に就職。福島第一原発の1/2号機の運転員として長年、経験を積んだ。そうして、2009年、福島原発第一1/2号機の当直長となった。
鎧のような耐火服をまとって原子炉建屋へ
伊沢は前日、夜勤明けだった。その日の朝、やはり1/2号機の同じD班で働く運転員の井戸川隆太(27)らとゴルフパークで練習をした。福島原発第一発電所の40周年記念パーティを近く開く。そのアトラクションの一つがゴルフパーク競技だった。この日は休日のはずだったが、本番の当直長の平野勝昭が病院の精密検査で来られなくなったため代わりに当直長勤務に就いていた。
6班体制のローテーションで働く中央制御室の運転員たちの昼夜の勤務交代は午後10時である。午後9時、夜の番の交代要員がほとんど何もなかったかのように姿を見せた。6班のうち5班までの当直長がやってきた。地震と津波で天地がひっくり返る状況の中、家族を置いて、皆が逆方向に逃げるのに逆らいながら、漆黒の夜、発電所までただひたすら歩いてたどり着いたのだった。伊沢は制御室に入ってくる彼らの姿を見て胸が熱くなった。
〈百万の援軍だ〉
仲間として、彼らを誇りに思った。
第1班は大友と大井川努(47)のチームである。2人とも応援のE班副長である。
2人は、防護服の上に鎧のような耐火服をまとい、長靴を履き、マスクをつけ、黄色いヘルメットを被った。その上に大きな空気ボンベを背負う。APD(警報付きポケット線量計)を胸ポケットに入れた。APDは、80ミリシーベルトで警報がなるようにセットされている。2人とも手に懐中電灯を持った。先を歩く大井川が、放射線を測るために重さが1キログラムもある箱形のポータブル線量計(サーベイメーター)をぶら下げて、1号機原子炉建屋に入った。
原子炉建屋内の様子
温度は40度を超えた。真っ暗である。水蒸気が噴き出ている。線量は高い。
15分以内に作戦を終わらせなければならない。
2人は、懐中電灯の明かりを頼りに、2階の原子炉格納容器ベント弁のあるところまで行った。
格納容器外側の弁のバルブのハンドルを大井川が手で回し始めた。ハンドルは20センチメートルほどだが、ずっしりと重い。バルブの横についている開度計は、5パーセント刻みである。大井川が回すたびに、開度計の針が、5パーセント、10パーセント、15パーセントと度数を増していく。大友の持つ懐中電灯がそれを照らし出していた。
1分ほど経っただろうか。
「開度を確認してください」
大井川が大友に言った。
大友が再度、確認した。
たしかに25パーセントを指し示している。
「OK!」
大友が叫んだ。大井川が大きくうなずいた。
2人は、圧力容器と格納容器の圧力を現場の計器で確認しようとした。バッテリーをつないで中操で見る圧力の数値が実際の数値とあっているのかどうか、を確かめようとしたのである。
圧力は思った以上に高かった。
呼吸にも気を遣わなければ……
午前9時15分、2人は中央制御室に戻った。
大友は戻るなり、非常用の保存水をガッと飲んだかと思うと、それを床にペッと吐き出した。見るからに苦しそうだった。
もっとも伊沢は、2人が思ったより早く戻ってきたので意を強くした。
午前9時24分頃、第2班が建屋に入った。圧力抑制室まで行かなければならない。
応援のE班当直長、遠藤英由とC班当直長のコンビである。遠藤は、自ら手を挙げて志願したのだった。彼らが向かったのは格納容器下部の圧力抑制室の上にあるベント弁小弁である。先頭の遠藤が1000ミリシーベルトまで測れる線量計を首から下げた。
酸素の消費量を減らさないようにしなければならない。
〈呼吸にも気を遣わなければ〉
頭ではそう考えて出かけたが、1号機建屋に入る頃には小走りになっていた。
福島第一原発で最初に「100ミリシーベルト」を超えた所員
「ヨシ!」
二重扉の前に立った時、気合を入れた。扉の向こうがどういう状況になっているのか皆目見当がつかない。懐中電灯頼りにトーラス室途中まで行き、キャットウォークへ続く階段のところで線量計を見ると、毎時90~100ミリシーベルトの間を行ったり来たりしていた。トーラス室とは、圧力抑制室を収納するトーラス形状の部屋、キャットウォークとはトーラス室上部の点検通路である。そこから圧力抑制室を回り込む形で30メートルほど進まなければならない。しかし、線量計の針は毎時100ミリシーベルトを超え、振り切れていた。80ミリシーベルトにセットされているAPDの警報が鳴った。もはや戻るしかない。
第2班は、中央制御室に引き返した。この時遠藤とC班当直長が浴びた線量は、それぞれ89ミリシーベルトと95ミリシーベルトだった。伊沢は、2人をただちに免震重要棟に退避させた。彼らはその後、緊急時対策室で仕事をしたが、2人とも福島第一原発で最初に「100ミリシーベルト」を超えた所員となった。
「水素爆発はしないって言ったじゃないですか」東電が官邸に出していた原発事故“隠蔽”の要請とは へ続く
(船橋 洋一/ノンフィクション出版)

東浩紀「“自由”を制限してもウイルスは消えない…長期的ヴィジョンなき罰則強化は現実逃避だ」

この記事が公開される頃には、発売されているが私は「ニューズウィーク日本版」(2月23日発売号)の企画で今年1月から2月の中頃にかけて、「医療崩壊」をテーマにした取材をしていた。そこで、私が書いたのは医療崩壊について語っている「現場の声」のSNSやインターネット上で語られていることはほんの一部にすぎないということだった。
地道に実践を重ねて準備している人々はいる
大学病院、地域の基幹病院、クラスター支援に入る看護師、新型コロナ患者を診察する街のクリニック、そして訪問医療……。様々な現場に通い、声を集めてみて初めて見えることがある。一部の声をあたかもすべての「代表」であるかのように受け取ることは、「現場」を見誤る。「現場」は広範に広がっており、最前線はいくつも存在しているからだ。
インターネット上でさほど注目を集めないが、あるいはメディアを動かすような提言はしないが、しかし、地道に実践を重ね、「医療崩壊」を起こさないよう準備している人々はいる。
感染者が減らないことを前提に対策を取るべき
こんなことを考えたのは、東浩紀さんのインタビュー記事「『自由』」を制限してもウイルスは消えない」(「文藝春秋」3月号掲載)を取材・構成したことが大きい。東さんのインタビューは『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』(中公新書ラクレ)以来だったが、洞察の視点はまったくブレがない。
記事で東さんが強調しているのは、「長期的な戦略として感染者が減らなかったらどうするか、という視点」だ。外出自粛や、接触を減らすこと、飲食店の時短営業で感染者が減ればいい。最後のカードとして緊急事態宣言を出し、感染者が減るのならばそれに越したことはない。だが、これで減らなければどうするか。減らないことを前提に対策を取ることを優先すべきであって、私権制限ばかり議論されるのは「感染症に対する恐怖に駆られ、『長期的に感染者は増える』という現実から目を逸らしているようにも見えます」という。
黙っておくのが正解という空間
東さんのSNSには、時にこうした発言に対して「現場を見てから言ってくれ」といった批判がやってくる。「医療現場に精通している」というポジションから、「現場を知らない知識人」を批判することで、前者には賞賛も集まり、後者は「机上の空論」というレッテルを貼られる。
ここ数年はその傾向が強まり、「部外者」は黙って、物事をよく知る専門家の言うことを聞けばいいという空気が強くなっている。派手な発言や提言をする専門家の周囲には、専門家の「代弁者」のような人たちも群がり、一種のファンコミュニティも出来上がる。彼らを刺激する発言は、耐えず批判にさらされる。その結果、生まれるのは、よほどの強者ではない限り、黙っておくのが正解という空間だ。
当然ながら「現場」も一枚岩ではない。ファンコミュニティの弊害は、多様な現場の声も言いづらいものにしてしまう空気の醸成にある。その一例を示そう。
「つくづく、日本は運がいい。第1波と同じで、医療体制を大きく変えなくてもいいと思うんじゃないですかね。社会への脅しみたいな訴えでは限界があるのに……」と語ったのは、まさに新型コロナ患者をずっと相手にしてきた、「現場」の最前線にいる医師だった。
「日本は運がいい」の根底にある強い使命感
これは東さんの考え方と共鳴する発言である。目の前の感染者抑制と、最前線の治療、平常時ではない私はコロナ禍を「災害」と捉えたほうがいいと考えている医療体制整備は両立する課題だ。
「日本は運がいい」の根底にあるのは、現場から見ていても現状の医療体制には限界がある以上、今の段階で早く議論を進めて、第4波、ひいては次のパンデミックに備え、長期的に患者数増加に耐えられる体制づくりの方向性を示さないといけないという強い使命感だったように思える。
みなを「ホーム」に閉じ込めてもコロナは消えない
「長期ヴィジョンがない罰則強化の導入は、『罰則強化をやれば目の前の数字が下がる、数字が下がればコロナについて考えなくてすむ』という思考停止に戻ることでしかありません」(「『自由』を制限してもウイルスは消えない」より)
「新型コロナ禍で明らかになったのは、今の日本社会には長期的に考えることが欠如しているという現実です。短期的に感染者数を抑えることだけに捉われてしまっている。私権を制限し、みなを『ホーム』に閉じ込めても、それだけではコロナは消えません。むしろ格差が広がるだけです」(同)
振り返れば、この1年間、メディア上の議論の主役は常に「感染者数」にあった。感染者数が増えればこぞって「このままいけば医療が崩壊する」と社会に訴え、メディアもそれに乗っかり、「国民がメッセージを誤解して夜の会食を注意したら、昼から飲みに行っている」などと社会の同調圧力を高め、行動変容を説いて回るような記事を出している。
こうした記事を読むたびに、今、ここで考えないといけないのは、一体なんのための緊急事態宣言だったのか、というそもそもの問いではないのか、と私は考え込んでしまう。東さんは「ステイホーム」が格差を拡大させるのではないかという問題を記事の中で提起しているが、知識人までインターネット上で、感染者数に一喜一憂するだけで、長期的に緊急事態宣言の弊害を捉えようとしていない。「ホーム」にいない人々を攻撃するような凡庸な発言もあいかわらず目立っている。
日々忘れないようにしたい警句
これも当たり前のことだが、パンデミックはやがて終わる。そして、多くの人々は辛い経験をしたとしても、それ以後の日常を生きていかねばならない。例えば2011年3月11日以後と同じように、である。だからこそ、この警句を日々忘れないようにしたいと思う。
「パンデミックが終わった後に、大切なものを失ったと気づいたとしても、取り戻すことはできないのです」(同)
(石戸 諭/文藝春秋 digital)

ベトナム人窃盗団が「食物」を狙うようになった食欲ではない“意外な理由”《ナシ5000個、豚と牛は生きたまま》

収穫期直前のナシが忽然と消えた。警察当局が窃盗の疑いで逮捕したのはベトナム人窃盗団だった。新型コロナウイルスの感染拡大で困窮が広がっているともされる在日外国人。
だが、ナシを食べても飢えがしのげるとは思えない。最近は豚肉を解体した疑いでも別のベトナム人グループが逮捕されている。なぜ、ベトナム人窃盗団は食物を追い求めるのか。
ナシは5000個以上、豚など家畜は数千万円以上
群馬県警の警察官のお手柄だったと言っていいだろう。
すでにナシなどの果物の盗難被害が相次いでいた昨年10月、県警のパトカーが周囲の果樹園を巡回していたところ、突然、近くにいた男が逃走し始めたことから追跡。パスポートを携帯していなかった入管法違反容疑で逮捕したところ、果物窃盗に関与していたことが判明したという。
その後の捜査で窃盗の共犯者や、ナシを転売していた関係者も浮上。県警は今年2月17日、関係先の家宅捜索に踏み切り、盗まれたナシだと知りながら転売した盗品等処分あっせん容疑で、ベトナム国籍のグエン・トゥアン・アイン容疑者(38)を逮捕。ナシを買った埼玉県内のベトナム人夫妻も逮捕した。グエン容疑者は容疑を否認しているという。
県警の捜査では、ナシはSNSを通じて転売されていたとみられ、窃盗の実行犯と転売先の夫妻とは面識がなかったとみられる。
群馬県内だけでも昨年1年間だけで約5600個(約113万円相当)のナシの盗難の被害届が出ている。昨年には埼玉県警がスイカ窃盗の疑いで別のベトナム人を逮捕。昨年は豚や牛などの家畜が生きたまま盗まれる被害も相次いでおり、北関東全体でその被害は数千万円におよぶとみられている。
中国人を抜き検挙トップ 外国人万引きの6割
ベトナム人による犯罪は、数年前から警察当局を悩ませてきた。2017年には、これまで検挙件数でトップを独走していた中国人を抜き、トップに。20年上半期では外国人の検挙件数のうち3割以上をベトナム人が占めた。
厚生労働省が発表した20年10月末現在の外国人雇用の届出状況をみると、ベトナム国籍の労働者は中国籍を抜いてトップに立っており、在留数の増加に伴って犯罪が急増していることがうかがえる。
ベトナム系犯罪者で特に目立つのは窃盗だ。外国人による窃盗事件の3割はベトナム国籍の犯罪者によるもの。万引きに至っては実に6割以上がベトナム国籍の犯罪者による。
捜査関係者は「ベトナム人犯罪グループはもともと集団で万引きした商品を海外に密輸して転売する手口を得意としてきた」と話す。特に万引きのターゲットにされてきたのが化粧品だ。
日数が経っても品質が下がらず、軽量・小型でしかも比較的高価。海外では日本製というだけで化粧品はかなり高額で売れる。
海外に持ち出すルートも確立されていた。千葉県警や警視庁などが検挙した過去の事件では、国内で万引きされた化粧品は仲介者を通じてベトナムの航空会社の乗組員などの内部協力者に送られていた。
乗組員らは一般客と違って持ち込み荷物の規制が緩い。化粧品を持ち込むだけなら軽いし、マージンを取ればいい小遣い稼ぎになる。こうして、盗まれた化粧品はひっそりと大量にベトナムに持ち込まれて転売されてきた。
断たれた万引き化粧品密輸ルート
これまで捜査関係者の間では「ベトナム人犯罪グループといえば商品の万引き」が相場だった。逆に、果物や豚肉の泥棒は昨年まであまり目立たなかった。なぜ、昨年になって突然、食物の窃盗が急増したのか。
決して新型コロナウイルスによる困窮だけが理由ではない。困窮だけが原因ならむしろ、従来通り化粧品を盗んでいた方が割にあう。
ここまで来れば、推理を働かせるのも許されるだろう。
新型コロナウイルスの世界的な拡大は世界中の航空便の往来を激減させている。つまり、従来通り化粧品を日本国内で盗んでも、転売できる国外に運び出す手段が途絶えてしまっているのだ。
ひるがえって、ナシや豚肉などの食物はどうか。いずれも在日ベトナム人SNSを通じ、国内で売買が完結する。しかも、日本国内に住むベトナム人が増えたことで、一定の需要も見込める。新型コロナウイルスに左右されない「手堅い」犯罪なのだ。
新たな「金脈」を掘り当てたともいえる不良ベトナム人グループ。警察当局が捜査を拡充し、金脈の先に牢獄を用意しない限り、当面は続きそうだ。
(末家 覚三/Webオリジナル(特集班))

「水素爆発はしないって言ったじゃないですか」東電が官邸に出していた原発事故“隠蔽”の要請とは

「呼吸にも気を遣わなければ…」福島第一原発の“決死隊”に命じられた想像を絶する作業の実態 から続く
所員の決死の作業によってベントに成功し、格納容器の破損を免れた福島第一原発1号機。しかし、それからおよそ1時間後には水素爆発が起こり、建屋の上部が吹き飛んでしまう事態に見舞われる。当然のことながら、現場にいた作業員の間では爆発の直後、大きな動揺が走ったという。ここにいてどうなるのか、ここにいたら全員が死ぬ……。極限状況下に追いやられる所員、そして、東電と官邸は、その瞬間、どのような対応に走ったのか。
ここでは、船橋洋一氏を中心とした調査委員会による綿密な取材をまとめた書籍『 フクシマ戦記 上 10年後の「カウントダウン・メルトダウン」 』を引用。当時の様子を子細に紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
◇◇◇
「頼む。頼むからここに残ってくれ」
12日午後3時36分。福島第一原発の1号機の建屋の上部が轟音とともに吹き飛んだ。
中央制御室(1/2号機)は、ドシャーンと上下に揺れた。天井のルーパーや蛍光灯が外れ、宙ぶらりんとなった。白いダストが部屋を覆った。その直後、蛍光灯に点っていたほのかな明かりも消え、真っ暗になった。
〈あっ、格納容器が爆発した〉
〈死ぬのか、ここで〉
運転員たちの脳裏をそうした恐怖がよぎった。
その時、伊沢は、当直長の椅子に座っていた。直撃爆弾を受けたような感じがした。
〈中操(中央操作室=中央制御室のこと)そのものが壊れたのか〉
そんな思いが脳裏を横切ったが、口は叫んでいた。
「マスク! マスクをかけろ」
その声で全員、マスクをきっちりと着用しているかどうかを確認した。
誰かがとっさに線量計をかざし指示値を確認した。
「あれっ。上がっていない」
「大丈夫かな」
「中操の天井はそんなに頑丈にできていないよな」
「早く非常扉を閉めて、外気が入らないように」
免震重要棟とのホットラインは生きている。
若い運転員たちの間に広がる動揺
真っ暗闇の1、2号機中操では、若い運転員たちの間に動揺が広がった。
そのうちの一人に運転員の井戸川隆太がいた。27歳である。井戸川は入社後8年。双葉町の出身である。前年の7月、補機操作員から主機操作員に昇格したばかりだった。先に述べたように、伊沢と同じD班に所属、11日朝、発電所にかけつけた。
地震が起きたとき、井戸川は双葉町の実家にいた。父も母も職場に行っていた。地鳴りが聞こえてきた。危険を感じ、部屋から出てカーナビでテレビを見た。津波警報が出ていた。
〈中操はてんやわんやしているだろうな。行けば何か役立つだろう〉
中越沖地震のとき、柏崎刈羽原発の現場がいかに大変だったかという事後報告を読んだ。何はともあれ駆けつけよう。ただ、その前に両親の安否確認だけはしなければならない。両親の働いている会社に行って、互いの無事を確認した後、また実家に戻った。
〈ジョンに何かあったらいけない〉
オスのビーグル犬である。首輪を外し、放した。
それから福島第一原発の独身寮まで車を走らせた。自分の部屋に寄って外に出ようとすると、後輩たちがたむろしていた。
「オレはいまから会社行くけど、お前ら行くか」
「行きます」と声を上げた一人を乗せて、海沿いの道を通って発電所に向かった。到着すると 津波が来たことを知らされた。
「津波が来たんだ。海の下まで全部、水が引いた底が見えたよ」
それを聞いて、ジョンのことが心配になった。
〈あいつ、どっちへ逃げたのか。無事だろうか〉
井戸川はこの日の夕方から2号機の運転員として勤務した。ただ、同期の主機操作員がこの日は本番の運転員席に着いた。井戸川は主に圧力や水位を測る仕事に就いた。
「このままここにいたら、全員死にますよ」
翌12日午後、ボーンという音と運転員たちのけたたましい叫び声でガバッと身を起した。何かが爆発したようだ。隣を見ると、先輩運転員はまだぐっすり寝ていた。
〈この人ちょっと格が違うな〉
同時に、井戸川は恐怖心に囚われた。このままでは死んでしまう。逃げたい。ベントをやったからには後、ここにいて何が出来るのか。もう、炉は溶けているにきまっている。すべて手遅れだったし、ことごとくダメだった。なるようにしかならなかった。井戸川はきわめて冷静だった。
しかし実際は、いかにしてここから逃げるか、さまざまな考えが頭の中をぐるぐると回った。
〈年齢の若い順に避難させるべきだ。研修生の子たちをまず避難させる。もしかしたら、その次には自分たちも避難できるかもしれない〉
後に井戸川は「出られなかったから、あそこにいたというのが真実だ」と告白したものである。
爆発の衝撃がまだおさまらない中、井戸川の声が響いた。
「ここにいてどうにかなるんですか」
「このままここにいたら、全員死にますよ」
そこには副主任の米桝充もいた。井戸川より10歳ほど年上である。柏崎刈羽原発でも運転員をした経験を持つ。自分が言いたくても言えないことを井戸川が言ってくれている。
〈井戸川さん、勇気がある〉
米枡はそう思った。
そうした若い運転員の気持ちを察知していたのがベテラン運転員の高橋静夫だった。柏崎刈羽原発の6/7号機の運転員からこの一月、1/2号機の運転員に代わったばかりである。
高橋は、12日の昼前、免震棟に入った。その後、他の6人の副長とともに中操にやってきた。
〈若い連中というのはほったらかしにすると何もしなくなっちゃう〉
高橋は個々の任務分担を明確にし、どうしてもいなければならない者以外の若い従業員は免震棟に避難させるべきだと考えていた。
「オレたちがここにいる意味があるんでしょうか」
高橋が発言した。
「ある程度の人間は一時的にもここから逃すべきです。全員死んだらこのあと何もできなくて、本当に手がつけられなくなる」
伊沢は黙ったままである。しばし、沈黙が流れた。その時、助っ人に来ていた運転管理部作業管理グループの金山将訓(かねやままさのり)副主任(43)が立って、伊沢の名前を呼んで、直接問いただした。
「伊沢さん、オレたちがここにいる意味があるんでしょうか」
「操作もできず、手も足もでないのに、我々全員がここにいる必要はないじゃないですか」
「こんなことならもっと人数、少なくてもいいんじゃないですか」
大友喜久夫が声を上げた。
「いま、ここから出ても、安全に免震棟にいける保証はない。爆発はあったが、ここはいま大丈夫なんだから、ここにいたほうがいい」
「ベントもしてるのだから、線量が高い。いま外に出て大丈夫なわけないだろう」
金山は言い返した。
「いや、線量を測りながら低いところを走りながらいけば、そこはいいんじゃないですか」
金山は補機指導職という肩書を持ち、入社して間もない若い運転員を指導する立場にあった。爆発後、彼らがパネルの前の床に座ったまままったくモノを言わなくなってしまったことに気づいた。家族のだれよりも長い時間を一緒に過ごしている運転員仲間だ。常日頃、冗談口が絶えない。その彼らがみんな震えている。
〈ここは自分が直接、伊沢に言った方がいいだろう〉
と金山はあえて発言したのだった。
井戸川は「金山さん、よく言ってくれた」と心の中で感謝した。他の運転員たちが座ったまま小さくうなずいている。
「世界中がここを見ているんだ」
しばし沈黙が続いた。
伊沢は当直長席から立って、みんなの方に歩み寄った。
「われわれが……」
伊沢は言葉を探したが、出てこない。
ひと呼吸して、伊沢は言った。
「われわれが……ここから退避するということは、もうこの発電所の地域、まわりのみんなを見放すことになる」
「世界中がここを見ているんだ。だから、俺はここを出るわけにはいかない。君たちを危険なところに行かせはしない。そういう状況になったら、俺の判断で君たちを避難させる」
「頼む。それまでは頼むからここに残ってくれ」
伊沢は、そういうと頭を下げた。
大友と平野も伊沢の前に出て、無言のまま頭を下げた。
みな50代である。その3人が、そろって頭を下げた。
それから伊沢が、口を開いた。
「副主任以下は免震棟に移動して待機してくれ。いいな」
運転員たちはうなずいた。
高橋は、伊沢の言った「世界中がここを見ているんだ」という言葉に心を動かされた。
〈こんな言葉を吐ける伊沢さんは偉い。伊沢さんは、冷静だ、決してパニくらない。そして、先を見た行動ができる〉
金山が20人近くを率いる形で免震重要棟に向かうことになった。金山は残ることになった主任の一人に「すみません」とだけ言い、中操を出た。外はまだ明るかった。1号機の建屋が無残な姿をさらしている。金山は若い運転員の一人にそこを撮影し、免震棟に着いたら発電グループと情報を共有するように指示した。全員、競歩のように足早に坂を上った。
「班目さん、アレは何なんですか」
その時、菅直人首相は、首相官邸4階の大会議室で、与野党党首会談を行っていた。11日夕方に次いで、二度目の与野党党首会談である。与党は来年度予算案と関連法案の年度内成立の後、来年度補正予算を早急に編成したい。それに対して野党は、通常国会をいったん休会し、今年度補正予算の早期成立を図るべきだと主張、対立していた。
党首会談の席上、菅は、その日の朝、視察した福島第一原発の状況を野党党首たちにブリーフした。
水素爆発などありえない、と菅は自信たっぷりだった。
福島第一原発に行くヘリの機中、班目春樹原子力安全委員会委員長と話した際、班目が菅に言った言葉を鮮明に覚えていたからである。
「2号機以降はRCIC(原子炉隔離時冷却系)というのがついているが、1号機はIC(非常用復水器)ですよね。それは何でなのか。出力が違うからなのか」
「炉心では被覆管と水が反応してどうなるんだ」
「その反応で水素ができます」
「じゃあ、水素を放出したら水素爆発が起こるんじゃないか」
「いいえ、圧力容器で水素ができているわけですけども、それをまず格納容器に逃します。格納容器の中は、これは窒素で全部置換されていますから、酸素がないから水素は爆発しません。ベントで煙突のてっぺんから外に放出すればそこで燃えるわけですから、水素爆発は起こりません」
班目は明確にそう言い切った。
菅は帰京すると「水素爆発は起きない」と秘書官たちに言って回った。
野党の党首たちにも、原子力に関する「土地勘」の冴えを大いに披露した。
錯綜する情報
午後4時過ぎ。党首会談を終え、菅は首相執務室に戻ってきた。
福山哲郎官房副長官と班目が部屋で待っていた。
菅が戻るとすぐに、伊藤哲朗内閣危機管理監が地下1階の危機管理センターから上がってきた。
「福島第一原発で爆発音がしました。煙が出ています」
爆発から5分後、たまたま近くを通りかかった警官が「ドーンという音を聞いた。それから1号機から白煙のようなものを目で見た」という目撃談を報告してきたという。
「白煙って何ですか」と菅は班目に尋ねた。
「火事ではないですか。おそらく揮発性のものが燃えているのではないですか」
武黒一郎東電フェローも呼び込まれ、聞かれたが、「聞いていません」「本店に聞いてみます」との答えしか返ってこない。
武黒は、いったん外に出て、東電本店に電話をした。
「そんな話は聞いていないとのことです」
「あなたは水素爆発はしないって言ったじゃないですか」
戻ってきてそう報告したところで、寺田学首相補佐官が首相執務室のドアを開けて飛び込んできた。
「総理、1号機の建屋が爆発しています。すぐ、テレビをつけてください」
そう言いながら、寺田はリモコンを操作しながら、自分でテレビのチャンネルを変えた。
日本テレビが臨時ニュースを流していた。
「福島からお伝えします。原発に関するニュースをお伝えします」
「ご覧頂いているのは、ほぼ3時36分の福島第一原発の映像です。水蒸気と思われるものが、福島第一原発から、ポンと噴き出しました。水蒸気と思われるものが出たのは、福島第一原発1号機付近とみられます」
1号機の建屋が四方に吹っ飛び、白い煙が上空にもうもうと沸き上がっている。
斑目は、それを見て、頭を両手で抱えながらテーブルにこすりつけ、「あちゃー」とうなった。
菅は、声を張り上げた。
「こりゃ、何だ。爆発じゃないのか」
「これは爆発ですね」
武黒が応じた。
菅は努めて冷静に言った。
「班目さん、アレは何なんですか」
斑目は絶句した。頭の中がクルクルまわって、言葉が出てこない。
「水素爆発じゃないんですか。あなたは水素爆発はしないって言ったじゃないですか」
福山が声を荒げた。
身の毛がよだつ思い
「あれはチェルノブイリ型の爆発ですか。チェルノブイリと同じことが起こったのですか」
班目は直接、福山の質問には答えず、やっとのことで言葉を絞り出した。
「私が申し上げたのはあくまで格納容器の話であります」
水素爆発の可能性は格納容器について述べたのであって、建屋の水素爆発は想像だにしなかったと言おうとしたのである。
菅は秘書官に強い口調で命じた。
「あんな爆発だったら、現地の人間はすぐに分かるはずだろう。なぜ報告が上がってこないんだ。早く情報を上げてくれ!」
班目同様、武黒もまともに答えられなかった。
後に、武黒は、「タービン発電機の冷却用の水素なのか……などとりとめもない考えが浮かぶだけで、身の毛がよだつ思いがした」と告白している。
菅は、この後、隣の首相応接室へのドアを開け、そこにいた海江田たちに大声で叫んだ。
「1号機が爆発した。どうなっているのだ!」
海江田たちは、そのとき、海水注入の話をしており、テレビをつけていなかった。
玄葉光一郎国家戦略担当・内閣府特命担当相は、そのときたまたま地下1階の危機管理センター中2階の小部屋にいた。
部屋のテレビに爆発シーンが映っている。その場に居合わせた東電リエゾンに質したが、分からない。電話で本店に連絡したが、分からない。窮した揚げ句、彼は答えた。
「地震で粉塵の類が建屋に積もっており、大きな余震でそれが舞い上がったのではないでしょうか」
政府が手にした唯一の情報は、日本テレビが放映した爆発映像だけだった。
この映像は、同テレビ系列の福島中央テレビ(FCT)が撮った映像だった。
福島中央テレビはJCO臨界事故後、福島第一原発から17キロメートル離れた富岡町の山中にSDカメラを設置した。それ以後、一日も一秒も休むことなく福島第一と第二原発を撮り続けて来た。
そのカメラが、その瞬間をとらえたのである。この間、映像はBBCのネットをはじめインターネットのサイトにアップされ、爆発そのものの映像はまたたくまに広まった。
「原発が爆発していないことを国として国民に説明してほしい」
しかし、その映像は何を意味しているのか?
日本テレビは、最初の映像放映の後、スタジオに有冨正憲東京工業大学原子炉工学研究所所長(原子力安全委員会専門委員)を招き、解説させた。
アナウンサー「いま、映像が流れましたけれども、何か爆発のような……、煙のようなものが……」
有冨「爆破弁を使って……先ほどの絵では、水蒸気が出てきましたね」
アナウンサー「これは爆破弁というものを使って、意図的に出したものですね」
有冨「はい、意図的なものだと思います」
原子炉が爆発したのか。それとも、別の何かが爆発したのか。ポイントはその点に尽きた。
唯一の情報は、テレビに映った爆発の映像だった。その映像から見る限り、「原子炉建屋の上がない」。東電はそれ以外、何一つ確かな情報を保安院にも官邸にも報告して来ない。
何が起こったかは知らせない。ただ、何が起こらなかったかは熱心に伝えようとした。
「17:34 原発が爆発していないことを国として国民に説明してほしいと東京電力から要請あり」
保安院の「内部メモ」(2011年3月12日午後5時34分)にはそう書かれている。

(船橋 洋一/ノンフィクション出版)

上野公園で片側通行規制に「逆にショッピングモールに人集まる」利用者は不満顔

東京都は23日、新型コロナウイルス感染防止のため上野公園(台東区)と葛西臨海公園(江戸川区)の一部通路を片側通行とし、混雑を緩和する対策を始めた。
例年花見シーズンに多くの人が訪れる上野公園さくら通りでは、23日から緊急事態宣言期限の来月7日まで通路中央にコーン標識などが約500メートルにわたり設置される。マスク姿の利用客が右側一方通行で歩行する中、一部開花した桜を撮影するため立ち止まる人や、逆行してジョギングする人の姿もあった。
この日、同公園を家族4人で訪れた台東区在住30代男性は「片側通行は人とすれ違う時に接触する危険が少なそうで安心できる。子供を少し遊ばせたら帰るつもりです」と話した。文京区在住60代女性は「屋外だしマスクをして散歩する分には問題ないと思う。公園まで規制すると逆にショッピングモールとかに人が集まりそうで、あまり共感できない」と不満を漏らした。
都は、23日から都立公園駐車場の利用を3時間以内とするよう要請し、27日からは全都立公園の駐車場や野球場などの運動施設利用を中止する。また、時短営業を行わない飲食店に要請に応じるよう書面で通達するなどして対策を強化する。

父親が障害のある娘を誘拐し殺害、無理心中未遂に祖父が懺悔「私がすべて悪い」

「朝の6時ころから夜9時過ぎまで一生懸命働いていた。週1日の休みの日にも、下の2人の子どもの学校や幼稚園の送り迎えをしていた家庭的な人だったのに……」
と容疑者の普段の様子を話すのは、近所の住人たち。
2月12日の午後2時50分ごろ、奈良県宇陀(うだ)市の調理師・徳谷(とくたに)和彦容疑者(36)は長女・奈那子ちゃん(享年10)が通っている特別支援学校まで行って、
「おばあちゃんたちに会わせに連れていってあげたいから、迎えにきました」
と教師に告げて、奈那子ちゃんを軽自家用車に乗せた。
知的障害と身体障害をもつ奈那子ちゃんは車イスが必要で、普段の送り迎えは、妻かデイサービスが行っていたという。
その後、行方不明になり、心配した妻が警察に捜索願いを出したところ、翌日未明に学校から約30キロ離れた「おおたき龍神湖」の道の駅の駐車場で、徳谷容疑者がひとり車に乗っていたところを発見された。
「ずぶ濡れ状態で、放心状態でうずくまっていました。そして、無理心中をほのめかしたのです」(捜査関係者)
徳谷容疑者はこう供述しているという。
「前日、父親と口ゲンカになって……。仕事が忙しくて、たびたび父親に叱られ、モメていた。この生活から逃れるために自殺しよう、死のうと思った。それで妻が介護で大変だったので、長女を道連れにしようとした。2人で湖に入ったが、自分だけが死にきれずに、崖によじ登って助かってしまった……」
言葉どおりに、奈那子ちゃんは午前7時前に湖で心拍停止の状態で見つかり、死因は溺死だった。
容疑者の直接の逮捕容疑は、生命身体加害誘拐の疑いだが、離婚や別居していない父親が、娘を誘拐とはどういうことなのかーー。
「たとえ身内、親子であっても、加害目的のために連れ出したということです。あくまでこれは逮捕の入り口であって当然ながら殺人容疑も視野に入っています(22日に同容疑で再逮捕)」(捜査関係者)
県教育委員会は記者会見で、
「家庭内のトラブルや相談は学校にはなく、容疑者や長女に不審な様子もなかった」
と困惑するばかりだったが、容疑者一家に何があったのかーー。
雪がぱらぱらと舞う、冷え込みが厳しい奈良北東部の自然豊かな集落に、徳谷容疑者が妻と3人の子どもと暮らしていた家がある。
自宅の敷地内にある和食店で働いていた容疑者は、近隣に住む父親、母親と2人の従業員で店を切り盛りしていた。
「容疑者の祖父も父親も料理人で、30年前にここに店を構え、父親を尊敬する容疑者が店を手伝っていたんです。普段の食事以外にも宴会や冠婚葬祭のときの食事、仕出し料理、出前もしているし、地域になくてはならない店」(近所の住民)
容疑者の妻は店では働かず、3人の子育てに専念していたようだ。
徳谷容疑者の中学校の同級生は、とても事件を起こすような人ではないと、こう話す。
「おとなしくて、優しくて、まじめで、まあまあイケメン。地味で、女子にモテてるということはなかったけど、陸上部の短距離で、部活に燃えているという感じやった」
別の近所の住人も、事件が信じられないと語る。
「若いのに、町内会の集まりにも積極的に参加しとった。神社の祭りの準備のときも、おとなしいけど、気さくで素直やね。近所のお祝いの宴を彼の店でやると、“おめでとうございます。今後も頑張ってください”などと手紙を添えた花輪をくれる、心遣いができる人やよ」
そんな好人物が悲惨な事件を起こしてしまった理由を、
「はっきり言って、父親のパワハラ」
と容疑者の父親を名指しするのは、一家を知る関係者。
「徳谷さんの父親は、昔気質の職人肌で仕事に厳しすぎる。特に身内にはね。さらに、最近は酒を飲みながら仕事をして、徳谷さんをお客さんの前で叱ったりしていました。
この1年はコロナ禍で宴会や葬儀や、お客さんも減っている。いい時代を知っとるから、その葛藤もあるんだろうけど」
この関係者は、最近の容疑者の異変に気がついていたという。
「今までは、父親に怒られると、素直に“はい! はい!”と姿勢を正していたけど、近ごろは反抗ぎみだった。ストレスがたまっていたのか、顔色もよくなかった」
奈那子ちゃんの不幸な生い立ちを悲観していたのでは、と別の関係者。
「実は奈那子ちゃんの障害は先天的なものではなく、食中毒が原因という噂があってね。4歳になる直前に、店の残りものを家族で食べたら、あたって、高熱を出した……という話で。
奈那子ちゃんは、その前にも、家の風呂場で溺れたり、地域でお伊勢さん詣でをしたときに迷子になったりしたことがあった。
たった10年しかない人生なのに最後までかわいそうな子やった。湖の水はどんなに冷たかったやろうし、怖かったやろうなぁ」
障害のある娘を育てる苦労のうえに、父親の態度にいたたまれなくなった容疑者の心情は推して知るべしーー。
その父親(奈那子ちゃんの祖父)に話を聞くことができた。
「孫の奈那子が死んでしまったのも、息子が逮捕されてしまったのも、私がすべて悪かった……。反省というか、後悔しています……。奈那子を道連れにして、無理心中するところまで、あいつを追い込んでしまったとは、まったくわからなかった……。
確かに仕事も忙しかったやろうし、家に戻っても休まることがなかったんやろうな。そこまで思いつかなかった私が、悪かったんです」
そう涙ぐむ父親は、短髪に白髪が目立ち、マスクに前掛け、白いゴム長靴姿。事件でしばらく休んでいた店を、再開しようと準備をしていたときだった。
奈那子ちゃんの生い立ちについては、
「奈那子が食中毒で障害者になったのは違う。誰がそんなこと言うとるんですか? ある日、突然、高熱を出して急いで病院に連れて行ったら、難病やったんです」
その後遺症で障害に……と再び涙を見せた。祖父がいくら悔やんでも孫が帰ってくることはなく、息子もすぐに戻ってくることはないかもしれない。
《勝手ながらしばらくお休みさせていただきます》
という店先の貼り紙が取れるのはいつになるのかーー。

【独自】不安高まる若者の「望まない孤独」…過去最多の自殺、コロナ禍で政府が対策強化

政府が3月末の決定を目指す「子供・若者育成支援推進大綱」の改定案が明らかになった。新型コロナウイルス感染拡大の長期化を踏まえ、孤独や孤立問題への対応を強化する方針を明記した。増加する自殺についても「最重要課題」と位置づけた。政府は、改定する大綱に基づき、関係省庁間での連携を密にし、対策を急ぐ考えだ。
改定案では、新型コロナを受けて、「多くの子ども・若者は不安を高め、『望まない孤独』の問題が顕在化している」と指摘した。子どもや若者の自殺に関しては、「コロナ禍の影響も懸念され、極めて重大な問題」とし、対応が急務だとした。
具体的な対策としては、SNSなどを活用した相談体制の充実やSOSの出し方に関する教育の推進、孤立を防ぐための居場所づくりなどを盛り込んだ。
文部科学省によると、昨年1年間に自殺した小中高校生は479人で、前年の339人から140人増えて過去最多だった。自殺の原因は、「学業不振」や「その他進路に関する悩み」、「親子関係の不和」などが多かった。
厚生労働省の「自殺対策白書」(2020年版)では、15~39歳の死因の1位が自殺だと報告している。

宣言解除、首相と閣僚で対応協議へ…26日に専門家の意見聞いて最終判断

政府が新型コロナウイルス対策として10都府県に発令している緊急事態宣言について、大阪、京都、兵庫3府県の知事は23日、西村経済再生相とオンラインで会談し、今月末での解除を要請した。愛知県の大村秀章知事も同日、電話で西村氏に同様の申し入れを行った。
大阪府の吉村洋文知事は会談後、記者団に「京阪神は人の流れに一体性があり、3府県はコロナ対策で共同歩調をとっていく」と述べた。大村氏は記者団に「緊急事態宣言を解除し、県独自の規制を行って、段階を踏んで感染防止対策を行うことが適当と判断した」と語った。
一方、西村氏は記者団に「(感染状況の)数字を分析し、専門家の意見を聞いて、適切なタイミングで政府として判断していきたい」と述べた。
政府は各知事の意向を尊重する構えで、24日にも菅首相と関係閣僚で対応を協議し、解除の方針が固まれば26日に専門家の意見を聞いて最終判断する。岐阜県については、愛知県と一体と捉えて判断する予定だ。
残る5都県のうち、福岡県に関して、西村氏は、病床使用率が感染状況の指標で最も深刻な「ステージ4」となっていることから、「よく分析をして、専門家の意見を聞いて判断したい」と述べるにとどめた。
政府は、東京都など4都県について、解除の前倒しを検討せず、3月7日の期限まで宣言を続ける方針だ。

元ヤクルト投手の会田照夫さん虚血性心不全で死去 巨人・会田有志コーチと史上初の親子1軍勝利

巨人は23日、会田有志巡回投手コーチ兼トレーニング統括の実父で元ヤクルト投手の会田照夫(あいだ・てるお)さんが22日午後6時19分、虚血性心不全のため、埼玉県春日部市内の病院で死去したと発表した。73歳だった。

葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は妻由美子(ゆみこ)さん。供花・香典などは辞退する。

会田照夫さんは右の下手投げで、埼玉・上尾高から東洋大、三協精機を経て71年にドラフト8位でヤクルトに入団。76年には10(9敗)を挙げ、78年には、20日に胃がんで死去した安田猛さんらとともに戦い、29試合に登板。球団史上初のリーグ優勝、日本一に貢献した。80年に現役引退。10年間で通算273試合に登板し、29勝45敗3セーブ、防御率4・34だった。

三男の会田有志コーチも現役時代は下手投げで、巨人では07年に3勝を挙げ、日本プロ野球史上初となる父子での1軍勝利投手となった。

東京・青梅で2軒全焼 300メートル先の寺院にも飛び火か

23日午後1時20分ごろ、東京都青梅市沢井2の木造2階建て住宅から出火、近くの空き家を含め2軒が全焼した。約20分後には北西に約300メートル離れた寺院「雲慶院」からも火が出て本堂など約500平方メートルを焼き、近くの山林も一部が燃えた。出火当時、現場は強い風が吹いており、飛び火した可能性がある。
警視庁青梅署などによると、住宅に暮らす60代男性が病院に搬送され、のどに軽いやけどを負った。この男性は住宅の敷地内でたき火をしていたといい、同署は火災との関連を調べている。
火災の影響でJR青梅線の青梅―奥多摩駅間の上下線で一時運転を見合わせ約300人の乗客に影響が出た。【柿崎誠】