群馬県桐生市の自宅で父親を殺害したとして、殺人の疑いで中学3年の少年(15)が逮捕された事件で、父親の首や腹などに数十カ所の刺し傷や切り傷があったことが16日、県警への取材で分かった。少年が強い殺意を持っていたとみて慎重に捜査を進める。
県警は、直前に父親との間に何らかのトラブルがあったとみている。捜査関係者によると、過去にも家庭内のトラブルで警察官が自宅に駆け付けたことがあったという。
司法解剖の結果、死因は出血性ショックだった。事件は14日夜、少年がJR桐生駅前の交番に自首して発覚。父親を13日に包丁で刺し、殺害した疑いで逮捕された。少年は16日、前橋地検へ送検された。
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新幹線の発煙は床下機器から JR東海、2時間後に消火
JR東海は16日、東海道新幹線の米原(滋賀県)―岐阜羽島(岐阜県)間を走行していたこだま764号での発煙は、9号車の床下の機器から生じたと明らかにした。地元消防などによると、岐阜羽島駅に停車して点検したところ火が見え、約2時間後に消し止めた。同社が原因を調べている。乗客は約250人で、1人が頭痛を訴えた。
764号は運行を取りやめ、15日は上り4本に最大52分の遅れが出て約3800人に影響した。車両は岐阜羽島駅構内の普段あまり使われない線路に止まっており、16日は上下線ともに始発から通常通り運行した。
764号は同社が所有する16両編成の最新型車両「N700S」で、新大阪発静岡行き。モーターの出力を制御する床下の「主変換装置」から煙が出た。発煙が確認された列車は、6月に導入したばかりだった。
JR東海によると、15日午後9時45分ごろ煙が出た。巡回していた車掌が焦げ臭いにおいに気付き、岐阜羽島駅に停車後、乗客に避難を呼びかけた。頭痛を訴えた乗客は、乗り換えた後続列車で名古屋駅に到着後、帰宅した。
大阪や名古屋で猛暑日予想 関東も強い日差しで厳しい暑さに
今日15日(木)も太平洋高気圧が西日本方面を覆うため気温が上昇して、大阪市や名古屋市など猛暑日となる予想です。東京都心など関東南部では強い日差しが届き、厳しい暑さとなります。
こまめな休憩や水分補給、屋内ではエアコンを使用するなど、熱中症予防を心がけてください。
関東は昨日より暑く感じそう
西日本を中心に太平洋高気圧に覆われ、上空1500m付近には+18℃以上という暖かい空気が居座っています。一時的に雲の広がることはあるものの強い日差しが照りつけて、今日も気温が上昇する見込みです。
名古屋市や京都市、大阪市では最高気温が35℃と猛暑日になる予想です。その他、山口市や佐賀市、熊本市では36℃まで上がるとみています。8月はじめのように40℃前後まで上昇することはないものの、厳しい残暑となる見込みです。
また、関東では昨日よりも日差しの届く時間が増え、風も南寄りの風に変わります。気温の数字は昨日から大きく上昇するわけではありませんが、昨日よりも暑く感じられそうです。最高気温は前橋市やさいたま市で34℃、東京都心では33℃を予想しています。
<今日の各地の予想最高気温>
36℃:山口、佐賀、熊本
35℃:名古屋、岐阜、京都、大阪、高松
34℃:前橋、さいたま、 甲府、大津、奈良、和歌山、鳥取、岡山、広島、松山、大分、長崎、鹿児島 など
しっかりと熱中症予防を
お盆期間ということで、屋外で活動する機会も多くなります。屋外では炎天下で長時間活動することは避けて、こまめに日陰などで休憩をするようにしてください。屋内でもエアコンを使用して室内を適切な温度に保ち、意識的に水分補給をするなど、熱中症対策をしっかりと行ってください。
今日は熱中症警戒アラートが西日本や東海を中心に22県に対して発表されています。熱中症予防を心がけながらお過ごしください。
小泉農水大臣が靖国神社を参拝 石破総理は私費で玉串料奉納 高市氏・萩生田氏らも参拝 参政党・神谷代表が参拝
小泉進次郎農水大臣が午前8時前、終戦の日に合わせて靖国神社を参拝しました。
小泉大臣は参拝後、記者からの問いかけに答えませんでしたが、その後行われた閣議後の会見で「不戦の誓いと、どの国であっても、国家のために命を捧げた方に対する礼を忘れないこと、このことは重要なことだと考えている」と話しました。
また関係者によりますと、午後には加藤財務大臣も靖国神社を参拝したということです。
石破総理は参拝せず、自民党総裁として私費で玉串料を奉納したということです。
また去年の総裁選に出馬した高市早苗前経済安保担当大臣、小林鷹之元経済安保担当大臣も参拝をしました。
高市氏は参拝後、記者団の取材に対し、「たくさんの方が国策に殉じられました。尊崇の念をもって哀悼の誠を捧げて参りました」と話しました。
また小林氏は、「愛する家族やふるさとに思いをはせながら、尊い犠牲になられたご英霊に対しまして、心から哀悼の誠を捧げてまいりました」と話しています。
また旧安倍派の萩生田光一元文部科学大臣や稲田朋美元防衛大臣が参拝したほか、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の国会議員52人が一斉に参拝しました。
さらに野党からは、▼日本保守党の百田代表や▼参政党の神谷代表ら所属国会議員18人が参拝しました。
参政党はきょう、「今こそ私たちは明治維新からの160年、大東亜戦争終結からの80年を総括しなければならない」などとした「終戦80年談話」を発表しています。
神谷代表は参拝後、「戦後80年の節目であります。二度と日本に戦争を起こさないために、みんなで平和の祈念をしてまいりました」と話しています。
全国戦没者追悼式、遺族3400人参列へ 戦後生まれが半数超す
80回目の終戦の日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇、皇后両陛下や石破茂首相らが参列し、日中戦争や第二次世界大戦で犠牲になった約310万人を悼む。戦後生まれの参列者が初めて半数を超え、世代交代が進む中での開催となる。
式では首相の式辞に続いて、正午の時報に合わせて参列者が1分間の黙とうをささげる。その後、天皇陛下がおことばを述べられる。
遺族を代表しての追悼の辞は、朝鮮海峡で陸軍兵士だった父を亡くした埼玉県川越市の江田肇さん(82)が述べる。
厚生労働省によると、付き添いを除く参列予定の遺族は3432人。新型コロナウイルス禍を経て5年ぶりに従来並みの規模となった前年より約200人増えたものの、4989人が参列したコロナ禍前の2019年よりも少なくなった。
参列遺族も高齢化が進み、戦没者の配偶者は4年ぶりにゼロとなった。おいやめい、孫といった戦後生まれの割合は年々増加。今回は約53%で過去最高となる。
遺族の最年長は98歳の戦没者の弟。きょうだいは86人が参列する予定。
日中戦争と第二次世界大戦では軍人・軍属230万人、民間人80万人が犠牲になった。海外での戦没者のうち半数近い112万人分の遺骨を今も収容できていない。厚労省は今年5月、約1000体の集団埋葬地が確認されたパラオ・ペリリュー島での遺骨収容について、現地政府から協力を得ることで合意するなど取り組みを続けている。【肥沼直寛】
マンションのゴミ集積場の扉付近に「ペンで暗証番号」…ゴミ収集業者「開閉時の手間を省こうと」
川崎市は13日、市内のマンションのゴミ集積所計30か所で、紙資源ゴミ収集業者の従業員が、集積所を開ける暗証番号を扉付近にペンなどで記載していたと発表した。市はこの事業者に対し、再発防止策を講じるよう文書で指導した。
発表によると、同市高津区二子のマンション管理人から今年6月、「集積所の扉に暗証番号が記載されており、業者ではないか」と市に問い合わせがあった。市が調べたところ、高津、宮前区の家庭から出される紙資源ゴミの収集運搬業務を委託している富士電物流(宮前区)の60歳代の男性従業員が記載していたことが判明。この従業員が担当するナンバーロック式の集積所108か所中、30か所で記載があった。
集積所の開閉時に暗証番号を確認する手間を省こうと、同5月頃から始めたと説明しているという。市によると、ゴミ集積所に第三者が侵入するなどの被害は、これまでのところ確認されていないという。
クマに襲われ行方不明 20代男性の捜索再開 山にはまだ登山者が 警察が救助方法を検討 北海道・羅臼岳
北海道斜里町の羅臼岳で、14日から行方不明となっている20代の男性の捜索が15日朝、再開されました。
永山友菜記者:「午前5時半です。いま山岳救助隊らが、山の中へと捜索に入っていきます」。
14日午前11時すぎ、斜里町の羅臼岳で友人と登山をしていた20代の男性が下山していたところ、クマに襲われました。男性は太ももから出血し、登山道脇の林の中へ引きずりこまれていったということです。警察などは、羅臼岳にいた70人ほどの登山者をヘリコプターなどで救助しました。
襲われた20代の男性は見つかっておらず、15日午前5時半に警察やハンターなど18人態勢で捜索を再開しました。警察によりますと、14日救助された人以外にも羅臼岳にはまだ登山者が残っていることから、救助の方法について検討を進めているということです。
「日本百名山」羅臼岳でヒグマ襲撃、登山者ら驚きと恐怖…専門家「いつか起きると」
「日本百名山」の一つである北海道知床の名峰が恐怖に包まれた。登山シーズン真っ盛りの羅臼岳(1660メートル)で14日午前、下山中の男性がヒグマに襲われ安否不明となった人身被害。麓の斜里町では、羅臼岳に取り残された登山者の救助や、安否不明者の捜索準備で騒然となり、知床五湖など周辺の観光スポットの多くは閉鎖が決まった。道は、出没情報を事前に確認する重要性を呼びかけている。
「こんな事故が起きたと聞いて驚いている」。午前7時過ぎに羅臼岳に1人で入山した長野県松本市の男性(33)は、そう語った。下山後に騒ぎを聞いて登山者の被害を知ったといい、「ヒグマに気をつけなくてはと思っていたが、それにしても怖い」と話した。
今回の人身被害を受け、羅臼岳を含む知床連山の各登山道のほか、登山者救助活動のヘリポートとなった知床五湖の駐車場、カムイワッカ湯の滝も閉鎖が決まった。知床五湖を堪能するつもりだったという札幌市白石区の男性(68)は「渓流や海での釣りが大好きだが、こんな事故が起きると恐ろしくて森や渓流には入れない」と困惑した表情を浮かべた。
17年間にわたって、知床のヒグマ対策に取り組んできた「野生動物被害対策クリニック北海道」(札幌市)代表の石名坂豪さん(52)は「ヒヤリハットは昔からあった。いつか起きると思っていた」と語る。知床連山では荷物を一時置いて頂上を目指す登山者の姿がよく見られるといい、「登山者の荷物を荒らして居着いたことが考えられる」と推測する。「ゴミではなく、人間そのものを襲うヒグマであるとしたら大変なことだ。登山、アウトドアにはヒグマよけスプレーを常時携帯することが必要だ」と訴える。
また、道ヒグマ対策室は、クマとの接触を避けるために「複数人で会話しながら行動したり、鈴や笛を使ったりして、自らの存在をクマに知らせることが大切」とし、「正確なヒグマの出没情報を事前に確認し、出没が相次いでいる場所を避けることも検討してほしい」と呼びかけている。
人身被害、1962年以降に160件…60人死亡・122人負傷
ヒグマによる人身被害は、道に記録が残る1962年以降、160件あり、60人が死亡、122人が負傷した。登山中の被害は13日時点で計6件と少なく、このうち6人が死亡、4人が負傷した。
道の資料によると、直近では2023年10~11月、福島町の大千軒岳で登山者計3人が相次いで襲われたケースがあり、単独で登っていた20歳代男性が死亡した。同じクマは、登山道で休憩中だった別の40歳代の男性2人を襲ってけがを負わせたが、ナイフで反撃され、その傷が致命傷となって後に死骸で発見された。
19年7月には中札内村のカムイエクウチカウシ山頂付近で、それぞれ単独登山をしていた40歳代と60歳代の男性が襲われ、軽傷を負った。
斜里町と羅臼町での人身被害はこれまで計8件あり、クマを狩ったり捕獲したりする際に2人が死亡した。24年7月には斜里町でクマの駆除をしていた60歳代男性が襲われ、負傷している。
逮捕の教諭「カメラ自作」 20台以上、盗撮繰り返しか
勤務先の栃木県立高校の女子更衣室に小型カメラを設置し、着替える女性を盗撮した疑いで逮捕された高校教諭古口大輔容疑者(38)=宇都宮市=が「カメラを自作した」と供述していることが15日、県警への取材で分かった。天井の点検口など十数カ所に20台以上設置されており、県警は自作のカメラで盗撮を繰り返していたとみて調べている。同日、送検した。
県警によると、容疑者は、インターネットで部品を購入。カメラは、天井の点検口に目立たないように設置されていたという。
5日に学校のトイレを利用した女性がカメラに気づいた。学校側から通報を受けた県警がカメラを解析し、容疑者の関与が浮上した。13日に逮捕された。
54人の同期「残ったのは4人だけじゃ」 生き地獄見た97歳元兵士
日中戦争と太平洋戦争では日本の軍人と軍属計約230万人、民間人約80万人が命を落とした。大分県の男性は10代の時、弾が飛び交う前線に立たされ、仲間が次々と無残に殺されるのを見た。終戦から15日で80年。体に残る米軍の手投げ弾の破片が今もうずく中、元兵士があの日を語った。
目の前で息絶えた友人、渡された小指
「54人のうち生き残ったのは4人だけじゃ」。8月上旬、大分県国東市の自宅で山下和明さん(97)は手書きの名簿を広げた。第二次世界大戦末期、日米の激しい地上戦となった沖縄に送られた佐世保海兵団の同期54人。生きて帰った4人のうち3人は鬼籍に入り、今も健在なのは山下さんだけになった。
1944年12月、長崎県の佐世保から鹿児島を経由して沖縄本島に船で送られた。当時17歳。海軍航空隊の小禄派遣隊に配属されたが、使える戦闘機は数機しかなかった。
45年4月に米軍が沖縄本島へ上陸した。その頃、首里(現・那覇市)近くの陸軍の陣地に行くよう命じられた。十分な火器もなく、倉庫から戦闘機用の機銃を持ち出したが、弾を発射するとすぐに銃身が熱くなり使い物にならなかった。
やがて米軍は約200メートル先に迫り、「キューン、キューン」という音を立てて銃弾が飛んできた。海と空からも激しい砲爆撃が加えられ、仲間たちは体の原形をとどめることなく次々と死んでいった。
同郷の友人も背中に砲弾を受け、目の前で息絶えた。死の直前、自らかみちぎった左手の小指の先を渡された。「故郷に持ち帰ってくれ」ということだと思い、軍服のポケットにしまった。
敗戦も「当然の帰結」
山下さんも足首を撃たれ、戦うのを諦めた。爆弾の破裂音で鼓膜が破れたのか、耳も遠くなった。軍刀をつえ代わりにして、無数の遺体を乗り越え、仲間の一人とともに、はうようにして南へ逃げた。
たどり着いた本島南部の海岸では追い詰められて崖から身を投げる人も見た。身を隠したガマ(自然壕=ごう)では米軍が投げ入れた手投げ弾が爆発し、尻やひじなどに破片が刺さった。
45年8月15日。山下さんは米軍の収容所にいた。上着には、捕虜を意味する「PW」のアルファベット文字が大きく書かれた。「日本は負けた」。そう聞かされても、何も感じなかった。当然の帰結だと思った。
沖縄に派遣される前、佐世保海軍工廠(こうしょう)で特攻艇「震洋」などの製造に携わった。兵士の死を前提とした攻撃をせざるを得ない日本軍の状況に「これは悪いところに来た」と感じた。実際、沖縄では兵力も兵器の質や量も、米軍との間に圧倒的な差があった。
体に残る手投げ弾の破片、今も痛み
故郷の大分に戻ったのは終戦から約1年2カ月後。真っ先に、小指を託された友人の実家を訪れた。友人の父親は既に息子の死を知っており、「形見」の帰還に感謝した。
戦後は農家を継いだが、けがの後遺症で力仕事は難しく、諦めてトラックの運転手になった。尻は手投げ弾の破片が残って痛み、今も柔らかい椅子にしか座れない。左足に残っていた破片は80代になって内出血を起こし、摘出手術をした。
地元の小学校からは戦争の体験を児童たちに語ってほしいと請われたが、固辞し続けた。山下さんが暮らす地域には、戦地で父や子を失った遺族もいる。「生き残った自分が人前で語ることは許されない」と思った。それでも戦後50年を過ぎた頃からは小中学校などで体験を語り始めた。戦地で起きたことを伝えるのが生き残った自分の使命だと考えるようになった。
「戦争がなかったら…」
戦後長く、沖縄の地を訪れることはなかった。「仲間たちは沖縄の土になった。その上を歩いて回るようなことはできん」と思ったからだ。2007年に日本傷痍(しょうい)軍人会(13年に解散)が主催した全国大会が沖縄であり、長寿祝いを受けるために一度だけ訪れた。「夜は戦友を思い出して寝付けなかった」
沖縄戦では兵士だけでなく住民も多く犠牲になった。その教訓として「軍隊は住民を守らない」と言われてきた。そう伝えると、山下さんは語気を強めて、繰り返した。「守れるものか。自分たちが生き延びることさえできないのに。死体を踏まないと進めないほどの生き地獄じゃ。守りたくても、守れるわけがない」
戦後に3人の子どもに恵まれ、やしゃごもできた。命が軽く扱われた80年前の戦争を、山下さんは「何のために人を殺さなならんか。よかったことは何もねぇ」と言い、10代で命を落とした仲間たちの名簿に改めて目を落とした。「遺骨もないんじゃ。戦争がなかったらどんなふうに生きたんじゃろうな」【平川昌範】
1000人切った軍人恩給の受給者
戦後80年となる中、太平洋戦争で日本軍の兵士として戦地などを経験した人はわずかとなった。
総務省などによると、存命する元兵士の人数を網羅したデータはないが、公的年金「軍人恩給」を受給する元軍人は2024年度時点で792人。戦後の廃止を経て、制度が再開された1953年以降初めて1000人を下回った。23年度に比べて4割超減り、ピークの約139万人(73年度)の0・05%。年齢別では100歳以上が645人で全体の8割超を占める。