陸上自衛隊は18日、大分県の日出生台(ひじゅうだい)演習場で、訓練中の20代の3等陸曹2人と連絡が取れなくなり、18日午前0時過ぎに演習場内で2人とも心肺停止の状態で発見されたと発表した。消防に病院への搬送を要請したが、発見から約1時間後に2人の死亡が確認された。陸自によると、いずれも外傷はなく、司法解剖をして死因や詳しい経緯を調べる。
陸自によると、2人は大分県の玖珠(くす)駐屯地に拠点を置く西部方面戦車隊に所属し、日出生台演習場で偵察小隊による潜入訓練に参加していた。2人1組で実施し、死亡した2人は一緒の組。戦車には乗っておらず、発見時は演習場内西側の高台で2人一緒に倒れていた。訓練は17日午後1時ごろ始まり、連絡が取れなくなった時間や、2人が銃を携行していたかどうかについては確認中という。
2人は隊の先輩後輩の関係で、トラブルの有無などは分からないとしている。【中里顕、宮崎隆】
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「当時の精神状態に戦慄する」捕虜8名が犠牲になった“実験手術”、“人肉食疑惑”まで報じられ…医師たちを異常行為へと踏み込ませたものとは
〈 「血液の代わりに海水を注射」アメリカ軍捕虜に“人体実験”が行われ…帝大医師らが起こした“事件”の真相とは 〉から続く
80年前、日本の敗北で終わったあの戦争の間、日本の軍人や医師による生体解剖が行われた。公になったのは戦争犯罪として裁かれたわずかなケースだが、実際にはほかにも知られていないいくつかの例があったといわれる。
どのような状況で、どのような人々がどのような思いで手を下したのか。そこから見えるものは何なのか。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。人名は適宜実名を外した。軍人の肩書きは戦後「元」が付くが、煩雑なので新聞の見出し以外は現職の肩書きで記す。(全3回の3回目/ 最初から読む )
◇◇◇
「九大生体解剖事件」首謀者の1人・石山教授が遺書に綴ったこと
逮捕の4日後に獄中で自ら命を絶った九州帝国大学(当時/以下九大)医学部の石山福二郎教授は、数通の遺書を残していた。
法廷に提出された1通は妻への感謝を述べた後、「米捕虜に手当てを加える事に誠意をつくしたが、我(が)心を諒解さす事が出来ぬ。我(が)子ははづかしがる事はない」と記述。「医師達に対して」として「萬(万)人の死に値する馬鹿の医師の死を許せ。研究は終りまで続けよ」とした。
さらに「隣室(隣の房)の軍人は罪をのがれる会話をして居る。何と耐え難い事か」と批判している。別の1通には「一切軍ノ命令ナリ 責任ハ余二アリ」とした後、「手術」に参加した4人の名前を挙げ「余ノ命令二テ動ク 希(ねがわ)クバ速(すみやか)二 釋(釈)放サレタシ 十二時 平光君*スマヌ」と詫びている。*平光吾一=当時の九大医学部の教授(解剖学)で、解剖室の責任者だった。のちに事件を記した自伝的小説『戦争医学の汚辱にふれて』(1957年)を発表
九大医学部出身の丸山マサ美『バイオエシックス―その継承と発展』(2018年)は生命倫理がテーマだが、巻末にアメリカ公文書館で発見した、次のような石山教授の自筆資料を載せている(※文中カタカナをひらがなに変換。適宜句点を入れるなどした)。
「昨年6月16~17日ごろ、西部軍小森軍医より電話にて、今すぐ外国軍人の重傷者につき相談ありしも、従来外国軍人取り扱いで規定なきゆえ断りしに、注射薬の相談ありしゆえ、その時研究中の海水稀釈液の注射を教ゆ。その後3時間ほどで死亡の通知あり。よって外科へ連れ来るも無益なりと言いしに、解剖へ連れ来る。その時さらに注射を行いしも、ついに効なし。よって解剖す。その後、6月19日、福岡空襲あり、小森負傷す。足部切断せしも、破傷風を起こして死す。その際、何人の命令にて外国軍人を扱いしか明らかにせず」
口供書と内容が重なることから、取り調べ段階で書いた経過説明の上申書のようなものかもしれない。事件の日付を1カ月以上、後にずらしたうえ、捕虜は1人で解剖は死後だったと主張。生体解剖を否定する一方、捕虜の扱いが誰の命令だったか、空襲で重傷を負った小森見習士官に問いただしたが答えが得られなかったとしている。やはり不安もあったのだろう。
「胃や肝臓を切り取った」次々現れる生々しい証言
裁判が始まって間もなく、3月19日付朝日1面コラム「天声人語」は事件を取り上げた。「目下、横浜法廷で裁判中の九大の『生体解剖』事件ほど、人の心を痛ましめるものはない。これがはたして事実なら、大学の名誉を汚辱すること、これより甚だしくはなく、その罪の憎むべきこと、帝銀犯人に劣らぬ」と、帝銀事件と同列に論じ、医学者の倫理の欠如を嘆いた。
その後の法廷では生体解剖を裏付ける生々しい証言が次々現れた。西部軍法務担当の大尉が「アメリカ軍捕虜は収容中、空襲で全員爆死した」と西部軍司令官から陸軍大臣にウソの報告書を提出したと告白(3月19日)、「私も胃や肝臓を切り取った」との元九大助教授の口供書朗読(4月28日)、「カギ穴から『手術』を見た」と九大用務員が証言(5月18日)……。
8月16日の最終弁論では、「生体解剖は軍の威圧の下に石山、小森らによって計画、実行されたもので、九大関係被告は直接の責任はない」「強要による口供書などは証拠にならず、被告らの『食肉』証言は強要による以外の何物でもない」などと主張した。対して検事側は、いずれについても証拠は十分とし、「食肉」の5被告には死刑を求刑。「横山西部軍司令官も責任を負うべきだ」とした。
8月27日、判決を朝日は号外で報じた。「横山(元西部軍司令官)ら五名絞首 生軆(体)解剖に判決 食肉関係全員無罪」の見出し。記事の内容は同紙の翌28日付1面トップを見よう。
〈【横浜発】横浜裁判中最大の事件として世界の視線を集めた元西部軍司令部と九州大学関係の「生体解剖」公判の被告30人は27日午前9時10分、第1号法廷で軍法委員長ジョイス大佐から判決が言い渡された。横山中将と佐藤大佐および九大の助教授2人と講師の計3人が絞首刑。ほかは終身刑4人、重労働14人、無罪7人だが、肝臓試食関係は証拠不十分のため全員無罪となった。〉
福岡の地元紙・西日本は1面に被告30人全員の顔写真を添えて大きく報じたほか、社会面でも雑観記事を大きく扱い、記者の興奮を伝えた。
〈 この日午前9時、MP(米軍憲兵)に護衛された全被告は緊張の面持ちで被告席に着き、傍聴席の家族たちと感慨深い目礼を交わす。続いて検事、弁護団が入廷して待機する中に、軍法委員長ジョイス大佐以下9人が法廷正面に着席。同15分、ジョイス委員長が開廷を宣すれば一瞬、ホール上部に特設された30の大型電球が一斉に輝き、この日の光景を世界に伝えようと待ち構えていた総司令部、第8軍報道班、パラマウントニュース映画、内外記者団のたく数十のフラッシュがひらめく。運命の審判はついに下るのだ。〉
朝日の記事は「佐藤参謀が解剖許可」の中見出しを挟み、「審理の経過は次の通り」として続く。判決の解説のような内容だ。
「食肉」は調査員の思い込みからでっち上げられた
〈 3月11日の初公判から5カ月余り、審理は107日にわたり、出廷証人は133人(検事側99人、弁護側34人)、提出された証拠書類は285通(検事側261、弁護側24)に達した。横浜裁判で最大多数、最長日時を要した。最も重要な点は生体解剖を計画し、これを許可した責任者を解明することだった。
九大石山教授(自殺)が首謀者となり、同大出身の小森見習士官(軍医、福岡空襲で死亡)が橋渡し役を担い、「アメリカ捕虜は生かさぬ」と訓示していた横山司令官(絞首)の許可を得るため、参謀の佐藤(絞首)と他の大佐と中佐(いずれも終身)らに意見を具申し、成功した。この事情に何ら関係しなかったのは軍医部長と副官部長(いずれも無罪)だけで、ほかは捕虜取り扱いの責任を負っている。
捕虜を受け取った九大医学部では第一外科の助教授2人と講師(いずれも絞首)が石山、小森を補佐するため医員を指揮して生体解剖を行い、医務局長、助手(いずれも終身)は海水注射、血液・肺の摘出などに協力した。(弁護側は)捕虜8人の解剖の事実を認めたが、石山、小森だけの責任で、軍の許可は佐藤参謀が命令を勘違いしたため重大な結果を生じた。その他は全員ただ軍の命令を信じて行動したのみと主張したが、それは当時手術を拒否した九大医員の「命令とは信じない」との証言で反証された。
人肉試食事件は5被告ともに「検事側口供書は調査官の強要によりサインさせられたもので、肝を食った事実はない」と証言。検事側証人でさえ「食肉」を否認し、「証拠不十分」と認定された。〉
結局、「食肉」は調査官の思い込みからでっち上げられた架空の物語で、暴力的・強圧的な追及に「お坊ちゃん医者」(看護婦の証言)たちがはめられたのが実情のようだ。調査官はその後、アメリカに召喚されたともいわれる。無罪判決には、「天地神明に誓ってわれわれは肝など食していない」という偕行社病院関係者の法廷での絶叫が決定的だったともいわれる。
天声人語は「当時の日本人の精神状態に戦慄を感ずる」と…
8月29日の「天声人語」は書いた。「科学の名において行われた生体解剖事件が、いま科学を超えた人道の名で裁かれるのを見て、いまさらのように、当時の日本人の精神状態に戦慄を感ずるのだ。人肉試食事件の被告が証拠不十分として無罪になったのは、せめてもの慰めというべきか」。これが国民大多数の感想だっただろう。
BC級戦犯裁判に上訴はないが、司令官命令による再審理のシステムがあった。この事件も判決から2年余り後の1950年10月、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の命令で横山中将以下絞首刑の5人は全員減刑。結局、この事件での死刑はなかった。4カ月前、朝鮮戦争が始まっており、その影響だったことは明らかだが、石山、小森という中心人物が死亡していた影響も大きかった。被告はその後、順次釈放された。
海軍、七三一、『九研』、陸軍病院でも
実は生体解剖は九大で行われただけではなかった。一部で知られているのは「海軍生体解剖事件」。1944年1~7月、日本海軍の拠点が置かれていた西太平洋トラック島で、海軍病院や警備隊で軍医が、拿捕されたアメリカ潜水艦の乗員らを4回にわたって生体実験した。1つの実験で生き残った捕虜をダイナマイトの爆風実験に使い、なお生きていたので絞殺したというすさまじさ。戦後のBC級戦犯グアム法廷で裁かれ、病院長と警備隊司令ら計3人が絞首刑。22人に終身刑と重労働10~20年が言い渡された。
細菌戦で知られる七三一部隊(関東軍防疫給水部)では、ペスト菌の人体実験と生体解剖をしたことを元少年隊員が証言しているほか、凍傷実験や炭疽菌、流行性出血熱などの人体実験に付随して生体解剖が行われたという。
1980年、筆者が所属していた共同通信社会部で帝銀事件の洗い直し取材をした際、“絶対秘密の研究所”とされた第九陸軍技術研究所(九研、通称・登戸研究所)の元研究員は「中国・南京で中国人捕虜にチフス菌、コレラ菌、炭疽菌を飲ませる実験をしたが、うまくいかず、青酸カリを飲ませたらうまくいった」と証言した。その際、生死に関わらず解剖し、標本にしたという。他の日本軍特殊部隊や特殊機関、さらに日本が旧満州(中国東北部)に設立した満洲医大や各地の陸軍病院でも人体実験と生体解剖が行われたとされる。
「『戦争と医の倫理』の検証を進める会」の『パネル集―戦争と医の倫理』(2012年)によれば、湯浅謙・元軍医は中国・山西省の陸軍病院で「手術演習」と称した人体実験を行ったことを証言している。1987年7月7日付朝日朝刊で湯浅・元軍医は「7回にわたり14人の生体解剖をした。生体解剖は至る所で行われていた」と証言。「看護婦も笑いながら手伝っていた。もし悲壮な感情を表わそうものなら、非国民の烙印を押された」と語っている。
元憲兵の宮崎清隆『軍法会議』(1953年)は、重傷を負った中国側「工作員」の処遇を次のように書いている。
「中には確かに生きていて、病院の解剖台の上に載せられ、軍医の執刀の下に頭の先からメスを入れられ、下腹部まで切開されて、軍医のゴム手袋で種々内臓器官が取り出され、致命傷となった傷跡や、体内に残った弾薬の種類などが調べられる」
「それは医学研究という目的の下で行われるもので、虐殺とか惨殺という考えはみじんもないのだが、後にこれが日本軍の生体解剖とされ、絞首の刑に処された者も多い」
七三一部隊長の石井四郎陸軍軍医中将の人体実験を使った「研究成果」は各方面に影響を与えたといわれる。「海軍生体解剖事件」は陸軍への対抗意識が一因になったとされ、「九大生体解剖事件」は、京都帝大出身の石井中将に対する、京都帝大福岡医科大学から始まった九大医学部側のコンプレックスも人体実験・生体解剖に走らせた要因の1つとされる。
さらに、事件には、日本政府の捕虜への向き合い方が深く関係していた。『東京裁判ハンドブック』によれば、第1次世界大戦を経て「俘虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約)が締結されたのは1929(昭和4)年。日本政府も調印したが、軍部の反対で批准はせず、太平洋戦争開戦直後の1942年1月、連合国側の問合せに「規定を準用する」と回答した。
軍部が「日本軍は降伏しない」とし、自国兵士が捕虜になることを厳禁していたからで、それは1941年1月に、陸軍大臣訓令として出され「生きて虜囚の辱めを受けず」で知られる「戦陣訓」に体現された。自国兵の捕虜を認めない国が敵国兵の捕虜を人道的に扱うだろうか。捕虜問題を重視する風土が日本にはなかったと言わざるを得ない。捕獲した敵兵は軍律会議を経て正式に捕虜と認定するが、そうした手続きが煩わしいとして「捕虜は適当に処置する」ことが現場の部隊では常識化していたとみられる。
事件当時激化していたB29の市民に対する無差別爆撃などを戦争犯罪とする見方は根強く、捕獲乗員を捕虜ではなく戦犯とみる傾向が国民の間にあったことが事件にも影響したと考えられる。さらに、東京裁判やBC級裁判の内容には客観的に不当とみられる点があり、「勝者の復讐裁判」という指摘はいまも根強い。
彼らを踏み込ませたものは何だったのか?
「九大生体解剖事件」を振り返る時、そこに帝大医学部のヒエラルキーの上に立った石山教授と、それを利用した小森見習軍医の医学者としての探求心と自負、それと背中合わせの功名心があったことは否めないだろう。それでも捕虜に対する人体実験・生体解剖という異常行為に抵抗を感じない人間はいない。石山教授にそれを越えて踏み込ませたもの、そして、「手術」に携わった大多数が「こんなことがあってはならない」と思いつつも、異議を表明することを妨げたものは何だったのか。確かに「医と倫理」の問題だが、それだけではないはずだ。
石山教授は平光吾一教授(解剖学)に解剖室の使用を依頼する際、事情を聴き返されると、「時がそうさせるんです」と答えた。この言葉は一面の本質を衝いている。刻々と悪化していく戦況、日に日に迫る空襲の恐怖、食料欠乏の不安、その中で募る敵への憎悪。「戦争の時代の流れには逆らえない」という気持ちは当時の国民が等しく抱いていただろう。そうした環境で、平常なら医の倫理から「手を出してはいけない」とされる行為も「軍陣医学研究」を名目に堂々と認められる。それが「軍の命令」を言い訳にして禁断の「実験手術」に踏み切らせた最大の動機だろう。
「実験手術」に携わった人たちにとっても「時」が重かった。それに対して、自分の身を守ることと両立させながらでも「おかしいものはおかしい」と、はたして言えるのだろうか。いつの時代のどの場所でも問われる問題のような気がする。
【参考文献】
▽上坂冬子『生体解剖―九州大学医学部事件』(毎日新聞社、1979年)
▽『九州大学五十年史』(1967年)
▽東野利夫『真相―最後の目撃証人の実証記録』(文藝春秋企画出版部、2019年)
▽『東京裁判ハンドブック』(青木書店、1989年)
▽半藤一利・秦郁彦・保阪正康・井上亮『「BC級裁判」を読む』(日本経済新聞社、2010年)
▽水谷鋼一・織田三乗『日本列島空襲戦災誌』(中日新聞東京本社、1975年)
▽丸山マサ美『バイオエシックス―その継承と発展』(川島書店、2018年)
▽『戦争と医の倫理』の検証を進める会『パネル集―戦争と医の倫理』(2012年)
▽宮崎清隆『軍法会議』(富士書房、1953年)
(小池 新)
「いつまでも与党にいても埒が明かない」揺れる石破政権、自民党内から噴出する「下野論」の真意
参院選では敗北したものの、石破首相は続投を表明。しかし、それは石破首相にとって取るべき道だったのか。永田町のインサイド情報を、月刊文藝春秋の名物政治コラム「 赤坂太郎 」から一部を紹介します。
◆◆◆
森山幹事長の入れ知恵
投開票日の翌日、石破茂首相は「比較第一党としての責任」「明日にも起きるかもしれない首都直下型地震」と手前みその屁理屈を並べて、続投を正当化した。「比較第一党」は幹事長の森山裕の入れ知恵で、石破は「そんな言い方もできるのですね」とすぐに飛びついた。「首都直下型地震」は防災に熱心な石破が自分で付け加えた。ピント外れの開き直りは、その思惑とは裏腹に、自らへの往復ビンタとなって返ってきた。
国民の反発を買ったばかりか、全国の自民党県連から辞任を求める声が相次いだ。だが、昨年の総裁選で争った茂木敏充や高市早苗の息のかかった県連が辞任を要求してきたため、石破は態度を硬化させた。
かくして、関税交渉の妥結後も、振り上げた続投のこぶしを降ろせなくなり、辞意表明のタイミングを完全に見失ってしまったのだ。
振り返れば、参院選で石破は誤算の連続だった。
物価対策の一律給付金に、石破はバラマキだと批判されると危惧していた。だが、公明党・創価学会の強い意向を受けた自民党選対委員長の木原誠二が譲らなかった。国民1人2万円に、子どもや住民税非課税世帯には2万円を追加して、「バラマキではない」と強弁したところで、その迷走ぶりは明らかだった。
野党は一斉に消費税減税を訴え、「日本人ファースト」を掲げてナショナリズムを扇動する参政党が自民党の支持層を削って足元を揺さぶる。そんな挟撃される展開も、想像さえしていなかった。
過半数維持への秘策
「48議席に届けば、(過半数を維持できる)50までは何とか埋められるかもしれません」
参院選での自公過半数割れが現実味を帯びてくると、森山は石破にこう囁いた。残る2議席をどう埋めるのか。
それは参院静岡選挙区選出で非改選の無所属、平山佐知子と、今回和歌山選挙区から無所属で出馬した望月良男の2人だった。
平山は民主党だったが、今は自民党に移った細野豪志と行動を共にして、民進党を経て無所属に。細野の引きで自民党会派に引き込めるとの感触を得ていた。望月は自民党公認の二階伸康に対抗し、世耕弘成の支援で立候補して当選した。
だが結果は自公合わせて47。1議席足りない。そこで比例代表で1議席を得た「チームみらい」党首のAIエンジニア、安野貴博に触手を伸ばしたが、一顧だにされなかった。
「いつまでも与党にいても、埒が明かない。ケジメをつけて、自民党は下野すべきだ」
「一度、野党にやってもらおうじゃないか」
参院選惨敗から2日後の7月22日正午過ぎ、首相官邸裏手のザ・キャピトルホテル東急の中国料理店「星ヶ岡」の個室に「六人組」が集まった。自民党の佐藤勉、古川禎久、木原(この日は欠席)、齋藤健、御法川信英、萩生田光一だ。それぞれ旧派閥やグループなどで要となる面々で、党内の大半を意見集約できる立場にある。小泉進次郎もメンバーだったが、農水大臣に就任したため、一時的に外れている。「比較第一党としての責任」などと勝手にハードルを下げて居座る石破への非難では収まらず、下野論まで話は及んだ。
だが、この下野論は野党への牽制が主眼である。総理の座を失えば、自民党は自壊する。首班指名選挙で野党が結束できない以上、次の自民党総裁が首相となる。しかし、野党の言い分を聞かざるをえない少数与党。にもかかわらず、国民の批判の矛先は自民党だ。ならば、日本維新の会であれ、国民民主党であれ、野党の方から自民党に協力を求めてくるべし、と野党にボールを投げ込んだのだ。
この会合の直後、佐藤が自民党本部の幹事長室に森山を訪ねて、石破は無論、執行部もケジメをつけて下野することを要求した。
「私もケジメをつけたいとの思いはありましたが、自分の口からは言えなかったのです……」
森山は下野論には答えず、自らの進退について、こう漏らした。だが、額面通りには受け取れない。石破は常々「私は森山さんに助けられている」と言って憚らない。自分が幹事長として支えなければ政権がもたない現実を誰よりも知っている。その本音は「石破が私を切れるわけがない」だろう。
ただ、石破にせよ、森山にせよ、いつまでも続投できると考えていたわけではない。
※本記事の全文(約5000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」と「文藝春秋」2025年9月号に掲載されています(「 ポスト石破は『三次方程式』で決まる〈赤坂太郎 特別編〉 」)。
(赤坂 太郎/文藝春秋 2025年9月号)
「血液の代わりに海水を注射」アメリカ軍捕虜に“人体実験”が行われ…帝大医師らが起こした“事件”の真相とは
〈 アメリカ兵8名が手術後に死亡、「野蛮極まる虐殺」と…名門大医学部教授が手を染めた“凄絶な実験”《1945年・九大生体解剖事件》 〉から続く
80年前、日本の敗北で終わったあの戦争の間、日本の軍人や医師による生体解剖が行われた。公になったのは戦争犯罪として裁かれたわずかなケースだが、実際にはほかにも知られていないいくつかの例があったといわれる。
どのような状況で、どのような人々がどのような思いで手を下したのか。そこから見えるものは何なのか。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。人名は適宜実名を外した。軍人の肩書きは戦後「元」が付くが、煩雑なので新聞の見出し以外は現職の肩書きで記す。(全3回の2回目/ つづきを読む )
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1948(昭和23)年2月、前前年から続いていた極東軍事裁判(東京裁判)は弁護側の反証が大詰めの段階に入っていた。社会面は前月末に起きた 帝銀事件(東京の銀行で行員ら12人が毒殺され、現金などが奪われた事件) 関連のニュースで持ち切りだった。
2月26日には九州帝国大学(当時/以下九大)医学部でおきた「生体解剖」事件で28人が起訴されたことが各紙で報じられ、生体解剖は4回で、殺害されたアメリカ人捕虜は8人だったことなどが公表された。起訴状による事件の概要を最も控えめな毎日で見よう。
解剖後、「宴会で肝臓を食べた」?
〈 昭和20年5~6月の間に4回にわたり、医学実験用としてB29乗員8名の捕虜が九大に移され、試験のため投薬された後、九大病院手術室(引用者注:解剖実習室の誤り)に運ばれた。手術は医学実験のためのみでなく、むしろ捕虜に対する復讐と、医師に生体解剖の機会を与えるためだった。
解剖は捕虜の肺、脳、肝臓、胃、心臓の各部について行われ、1人の捕虜に1つ以上の解剖実験を合わせ行った。この実験中に海水が血漿の代用となるか否かを試す注射も試みられた。これにより捕虜は全員死亡した。実験で摘出された肝臓は九大医学部職員(引用者注:偕行社病院の誤り)食堂での宴会の席上、料理され酒のさかなに供された。〉
記事には第8軍法務部長カーペンター大佐の「これまで数々の事件の調査に当たってきたが、人道を無視した本事件の野蛮さ、冷酷さは類例がないものである」との談話が付されている。
「今日まで起訴した事件のうち最も戦慄すべき事件」
裁判が始まったのは3月11日。生体解剖だけでも十分衝撃的だが、「食肉」まで加わったことで、血なまぐさいことに慣れていた戦争直後の国民にとってもショッキングだっただろう。12日付読売は初公判記事を抑えて、社会面トップに「正視せよ残虐」の見出しで、アメリカの通信社INS(のちUPと合併してUPIに)の記者の署名記事を載せた。
「総司令部法務当局でも、今日まで起訴した事件のうち最も戦慄すべき事件だとみている。これは戦闘の真っただ中で行われた他の事件のように、全日本人が『おのれの知ったことではない』とうそぶくわけにはいかないものだ」
「今回の事件関係者は優秀な頭脳の持ち主であり、医学の専門家であった。しかも、事件は前線からはるかに遠い所で起こったのである」
被告30人が無罪を主張
同紙の初公判の記事も「ずらり丗(三十)被告 世界の注目あびて出廷」(九大関係者2人が加わり被告は30人になっていた)の見出し。本文はこうだ。
〈 戦慄すべき数々の残虐性を示した本事件の審理には、さすがに全世界の耳目が集中し、開廷前から廷内には内外の傍聴者、カメラマン、新聞記者らが詰め掛け、緊張の中に被告の長男や妻ら二十余名の被告関係者の不安げな姿も。皆、沈鬱な表情だった。
開廷30分前、初の日本人女性被告、九大第一外科看護婦長(32)がカーキ色に紺が混じった上着、水色のスカートで案外元気な姿を見せれば、続いて横山、稲田両元中将以下の全被告が定めの被告席に着く。しばらくは煌々(こうこう)たる明光の下にカメラマンの動きが慌ただしく、大裁判開廷の興奮がみなぎった。
かくて定刻9時半、ジョイス軍法委員長のおごそかな開廷宣言があり、サイデル主任弁護人が日本人弁護人11人を紹介。フォン・バーゲン主任検事によって起訴状が朗読され、ここに秘密のベールに包まれた事件の審理が開幕した。〉
「不当に8人を殺害」「捕虜の虐待死体を冒涜」
読売を含めた各紙によれば、弁護側は「人肉嗜食を戦争犯罪とする戦争法規や慣習はない」としてこの部分の削除を要求。却下されると、生体解剖事件との分離を求めたが、これも却下された。罪状認否では被告30人全員が無罪を主張した。罪状については読売が詳しかった。
〈▽生体解剖 西部軍11人、九大13人
1.被告らは昭和21年6月、故意かつ不当にも米飛行士12人のうち8人を殺害
2.8人を生体解剖に付した
3.捕虜の虐待死体を冒涜した
4.埋葬の怠慢
5.軍法会議にかけずに処刑した
6.捕虜8人を九大に不法拉致した
7.正式な捕虜取り扱い規定を無視した
8.捕虜逮捕とその生死に関し、米政府になすべき情報提供を怠った
9.捕虜は昭和20年1月30日の空襲で死亡したと虚偽の報告をした
▽人体試食 軍医、歯科技術者ら6人
被告らは西部軍将校クラブ(偕行社病院食堂)で捕虜8人(1人の誤り)の肝臓を醤油で味をつけて試食した〉
横浜BC級裁判は東京裁判と違って司法的な裁判ではなく、裁判の主体は各国の軍事委員会で、判事は全員軍人。読売も含め、各紙の記事が「軍法委員長」としているのはそのためだ。軍の司法機関ではなく行政機関なので、司令官の命令で審判結果が執行されるが、一方で減刑されることもあった。
法廷はその後、連日のように、取り調べ段階で聴取した被告の口供書の朗読、証人の証言が続けられた。当時の新聞は4ページ程度でスペースが限られていたうえ、生体解剖・人肉食という深刻な問題にためらいもあったのか、報道は断片的で、記事で事件の詳細をつかむのは不可能。
国立公文書館に所蔵されている裁判記録に加えて事件関係者がつづった手記などもあるが、自己弁護も混じり、微妙に食い違っている。上坂冬子『生体解剖―九州大学医学部事件』(1980年、以下『生体解剖』)、生体解剖を実見した東野利夫の『真相―「九大生体解剖」最後の目撃証人の実証記録』(2019年、以下『真相』)など資料を突き合わせ、妥当と思われる事実を確認していくしかない。
生体解剖はなぜ行われたのか?
事件の端緒が、石山外科出身で、召集されて西部軍司令部脇の偕行社病院に勤務していた小森卓という見習士官軍医だったのは間違いないようだ。同病院の副院長格で、九大医学部助教授の話もあったといわれる優秀な医師だった。交通事故で同病院に入院した西部軍防空担当参謀、佐藤吉直大佐の治療に当たったことから大佐と親しくなった。
1945年4月、病院内で話しているうち、撃墜されたB29の乗員で西部軍に捕らえられている捕虜の話題になり、佐藤大佐が持て余していることを漏らすと、どうせ処刑されるのだったら自分に任せてもらえないかと持ち掛けた。大佐は承諾した。この時点で両者の間では実験手術を名目にした生体解剖が了解されていたとみられる。
小森見習士官は石山外科で同僚だった開業医に「手術」を持ちかけたが断られ、“恩師”の石山福二郎教授に頼み込んだ。
5月18日に法廷に提出された石山教授の口供書は、1945年5月12日に小森見習士官から電話で「負傷した外国人の治療に関して来てほしい」と言われたが、「大学に規定がない」として断った。しかし、注射に関する問題だったので行ったが、患者は死亡。遺体を解剖した、としていた。
石山教授は胸部外科の権威だったが、当時輸血用の血液が不足していたことから、海水で代用できないかと考え、医学部内で研究会を作って研究を進めていた。他の被告や証人の証言からは石山が「実験手術」が生体解剖であることを認識したうえで積極的だったことがうかがえる。
「時がそうさせるんです」
西部軍に捕虜収容所はなかったが、司令部近くに仮設の収容施設があり、1945年5月5日、大分県竹田市で日本軍戦闘機の体当たり攻撃で撃墜されたB29の搭乗員10人が収容されていた。
この年、3月10日の東京大空襲以降、B29の空襲は大都市を標的に激化していた。水谷鋼一・織田三乗『日本列島空襲戦災誌』(1975年)の5月5日の項には「(午前7時すぎより)別働約20機は大分県に侵入。同地航空施設を攻撃して、佐伯付近より脱去した」とあり、別行動の10機と合わせ、日本側の「総合戦果」は「撃墜3機(うち不確実1機)」と書かれている。「手術」を受けたのはこのうちの1機の乗員で、死亡者1人を除く10人が福岡に運ばれ、機長だけは「情報に価値あり」として東京に移送されていた。
「文藝春秋」1957年12月号に載った平光教授の「戦争医学の汚辱にふれて―生体解剖事件始末記」では、石山教授から電話で「あす、西部軍の依頼命令で負傷した米軍飛行士の手術をしたいから、大きい解剖(実習)室を貸してもらいたい」と依頼があった。平光教授が事情を聴き返すと、石山教授は「時がそうさせるんです」と答えた。しかし、翌日は来ず、来たのはそれから4~5日たってからだったという。
1945年5月17日、西部軍の所要の手続きを踏み、米軍飛行士2人をのせたトラックが九大に到着。石山教授と2人の助教授、講師が出迎えた。解剖実習室に運ばれた捕虜1人はけがをしており、治療を受けると思っていたようだ。
教室には看護婦長ら看護師3人、記録係ら十数人がおり、捕虜と同じトラックで到着した佐藤大佐ら西部軍幹部も見守った。執刀は石山教授、第一助手は小森見習士官で、麻酔注射で眠っている2人からそれぞれ肺の片方を摘出。海水を注射し、2人は“手術”の途中で死亡した。
肺、胃、心臓、肝臓……次々と
2人の助教授と講師は1人目の途中から尋常の手術でないのに気づいたが、何も言わず、そのまま従った。途中で外出先から帰った平光教授が入ってきたが、しばらく見て出て行った。終了後、解剖学教室の助教授らが胃、肝臓、腎臓、心臓などを切除して持ち去った。彼らはのちに「平光教授の命令だった」と供述した。
2回目は5月22日。捕虜2人に対して、1人からは胃全部と心臓を摘出し、もう1人からは肝臓を切除した。この時、小森見習士官が肝臓を持ち帰ったことが「食肉事件」に結び付く。3回目は5月25日に1人の脳を切開。最後となった4回目は6月2日で、捕虜は3人だった。1人は代用血液としての海水注射、1人は胸腔内の縦隔の手術、残る1人は肝臓の半分の摘出だった。
一部で不満が出ていたが、表立った抗議などはなかった
1回目の後、助教授2人は「軍が手術を望むなら軍病院でやるべきで、九大でやるのは筋違い」などと訴えたが、石山教授は「軍の命令だ」と跳ねつけた。そのため、石山教授の“一番弟子”とされた助教授は3回目から不参加。他のメンバーの間でも「必要がない実験」「こんなこと嫌」などと不満が出ていたが、表立った抗議などはなかった。石山教授は医学界の権威で、学内では「独裁者」と呼ばれており、その威光には逆らえなかったのだろう。
『生体解剖』によれば、4回の中間に開かれた学会で、石山教授は代用血液としての海水の有効性について発表しており、同書は「自ら最も関心の深い研究テーマに沿って生体解剖を行っている」と書いている。
小森見習士官が焼夷弾の直撃により死亡
最後の「実験」の約半月後、福岡は大規模な空襲に見舞われる。『日本列島空襲戦災誌」掲載の「西部軍管区司令部発表(6月)20日6時」は、B29約60機が19日22時半ごろから20日0時半ごろまでの間、福岡市に主として焼夷弾攻撃を実施したと記している。「死者213人、負傷者565人、焼失家屋1万3309戸、罹災者5万7883人」(同書)。実際はもっと多かったといわれる「福岡大空襲」だった。
そのさなか、出先から偕行社病院に戻った小森見習士官は焼夷弾(しょういだん)の直撃を受け、九大第一外科に担ぎ込まれた。駆けつけた石山教授が右足を切断。いったんは命を取り留めたが、佐賀県の陸軍病院に移ってから破傷風にかかり、九大に戻された後、7月9日に死亡した。
約3年後に獄中で自殺した石山福二郎教授は数通の遺書を残していた――。
〈 「当時の精神状態に戦慄する」捕虜8名が犠牲になった“実験手術”、“人肉食疑惑”まで報じられ…医師たちを異常行為へと踏み込ませたものとは 〉へ続く
(小池 新)
“外国人”と生きる保守王国・群馬で聞いた参政党「日本人ファースト」への思い 取材で見えた“共生の現在地”
最近、20歳前後の学生、数十人と話をする機会があった。「今、気になっているニュースは何ですか?」と尋ねると、口を揃えて「この間の参議院選挙です」という答えが返ってきた。
若い世代がこんなに政治に関心を持つという社会の空気を、私はこれまで感じたことがない。「どの部分に関心を持ちますか?」と聞くと、「外国人を巡る議論」「排外主義」「参政党の躍進」だという。
分析で見えた・・・保守王国・群馬で起きた“異変”
この夏の参議院選挙。 選挙結果を分析していると、少し不思議な現象が起きている街があることに気付いた。
全国有数の保守王国・群馬。参議院・群馬選挙区は自民党が長く議席を獲得してきた。
今回も自民党の清水真人さんが当選したのだが、いつもと違ったのは参政党の青木ひとみさんが、約2万8000票差にまで迫ったことだ。
さらに、参政党の青木さんの得票数が、自民党の清水さんを上回った自治体が複数あった。
そのなかでも【伊勢崎市】【太田市】【前橋市】…この3つの自治体は、群馬県内で外国人の住民が多い自治体トップ3だ。いずれの街もここ最近、急速に外国人の数が増加している。
伊勢崎市には1万7000人ほどの外国人が暮らす。これは市民の約8%に当たる。この街に住む日本人は、外国人は、今何を思うのか。取材に向かった。
「『外国の人だ、悪いことしているな』と思われているかも・・・」
伊勢崎市内。 英語だけでなく、ベトナム語やポルトガル語、タイ語など、様々な言語の看板が目に入ってくる。
街をさらに進むと、イスラム教の礼拝堂「モスク」があった。
20年ほど前にできた「伊勢崎モスク」。 管理人によると、インドネシア人やパキスタン人が多く訪れ、金曜日の礼拝には、多い時で200人ほどが集まるという。礼拝に訪れる人が多い日は建物内に人が入りきれず、路上でお祈りする人もいるそうだ。
伊勢崎モスクに通うひとり、リズワン・ウル・ハックさんに出会った。28年前にパキスタンから来日し、今はカレー店を営んでいる。
日本に来てからは、漬物の製造や建設業など、様々な仕事に就いてきたリズワンさん。この国に馴染もうと、日本の文化や慣習に必死に対応してきたと話す。
サラームカレー リズワン・ウル・ハックさん 「8時半から仕事だったら8時20分までにと思って行かないとだめ。これは日本だから。仕事が5時に終わるなら、5時5分まで仕事ちゃんとやらないとだめ」 「(外国人の自分に対する)日本人のイメージが大事。イメージが崩れちゃうと仕事もできないし、イメージが悪い人は嫌われちゃうし…」
“日本人ファースト”という考え方をどう思うか?と尋ねてみた。すると…
サラームカレー リズワン・ウル・ハックさん 「selfish。自分のことだけ考えている。周りは関係ないということかな」 「日本人は仲良くなると友達みたいに助けてくれるし、問題が起きた時もすぐに電話をかけてくれる。でも、『外国の人かな、何やっているのかな、悪いことしているのかな』と思っている人もいるかもしれない」
日本のルールを守り、馴染もうとしてきたという自負のあるリズワンさん。
サラームカレー リズワン・ウル・ハックさん 「ちょっとイライラするけど、しょうがない」
複雑な感情を抱いてるようだった。
“肩身の狭い思い” 『日本人ファースト』への共感
それでは、伊勢崎を生活のベースとする日本人は、どう考えているのか。
30代女性(伊勢崎市民) 「やはり皆さん、あるんじゃないでしょうかね・・・外国人に対する思いというか。今まで日本に来てくださっていた外国人とは違うな、というのを感じてるのかな。なんか日本語が通じなくなった」
確かに、声をかけた外国人から「私あんまり日本語わからない」「日本語がちょっとわからない」と返される場面が多々あった。
10代男性2人組(伊勢崎市民) 「外国人が多い地域だからこそ、外国人に対しての不満は溜まっていって…で、外国人が多い地域の日本人は、一層“日本人ファースト”の参政党を選んで、また結束が高まってじゃないですけど」
隣町から伊勢崎市に通勤をしているという男性にも話を聞いた。
――伊勢崎では“日本人ファースト”は響きやすいんでしょうか?
30代男性(みどり市在住・仕事で伊勢崎市へ) 「私は、めちゃめちゃ正しいって感じますけどね。他の地域の人たちよりも“日本人ファースト”の気持ちを身近に感じているからこそ参政党が強いのかなと」
外国人が増えたことで、日本人が肩身の狭い思いをしているんだ、と話す。
30代男性(みどり市在住・仕事で伊勢崎市へ) 「お店に行っても、私が1人で外国人の方が大勢だと、どんちゃん騒ぎしていたり、こっちは別に悪いことしているわけじゃないけど、こっちが逆に肩すぼめながら『すみません』ってよけたりとか。外国人の方の比重が多くなってきちゃうと “郷に入っては郷に従え”みたいなのがちょっとずつ崩れてきて外国人の人たちのメインの庭みたいな感じになってきちゃってる感覚があるんじゃないかと個人的には思います」
この男性は、“日本人ファースト”に共感していると話した。
外国人の同僚がいるという男性にも出会った。
男性2人(高崎市民と前橋市民) 「同じ会社にカタカナの名前が入っている人っていうのはもちろんいます。言葉悪いですけど、どちらかというと労働力という扱いっていうか。プライベートでは会わないです」
外国籍の人たちの間で独自のコミュニティができていて、プライベートな関わりはほとんどないそう。
男性2人(高崎市民と前橋市民) 「外国籍の人が住んでいるってだけで、日本人は正直、『共生している』っていう認識はないです。やっぱ“日本人ファースト”と言われるとああそうだな、っていうのはあるかもしれない」 「もしかしたらプライベートで会ったら良いところも見えたりっていうのがあるかもしれないですけど、文化の違いもあるんで、そういうのは難しいかも」
小学校クラスの3分の1外国人「みんな一緒」
逆に、外国人との“共生”をポジティブ捉えている人もいた。
県内の高校に通う女子高校生。ブラジル人やフィリピン人の同級生が多くいるという。
女子高校生(16・伊勢崎市民) 「外国人はフレンドリーな人が多いじゃないですか。けっこう楽しい」 「外国人だから、というのはない。みんな一緒みたいな。小学校から、外国人がクラスの3分の1くらいいたんで、多分環境で慣れている」
銭湯で外国人に接する機会が多いという60代の女性は、ある変化を感じていた。
60代女性(伊勢崎市民) 「よく風呂やサウナに行くんですけど、外国の方がすごく多くて。前はもう好き勝手やってたのが、段々気を遣って譲るようになったりとか、入り方もキレイになってきました。以前と違います」 「外国人も早く日本に溶け込みたい、日本人も外国人を受け入れようという姿勢がなんとなく出てきたかなって感じ。これだけ外国人が増えてきたから、そういった傾向に進んでいるような感じがします」
伊勢崎市で建設業を営む男性は、7~8年前から、外国人を従業員として受け入れるようになったという。
今は、必要不可欠な存在だと話す。
50代男性(伊勢崎市で建設業営む/太田市民) 「建設業に応募する日本人が少なくなってきた。来ても仕事が続かない。もう何十年も前から」 「外国人を受け入れないとやっていけないです、やっていけない」
家族のなかでも「外国人」と「日本人」?
ブラジル食品を扱う大型スーパーに入ると、ブラジルの特産品・コーヒーや、ブラジル料理でよく使われる豆などが店内に並んでいた。
スーパーTAKARA ルイーザさん 「牛肉。ステーキにしたり…。これはイチボ。外国人にすごく人気!」
店長のルイーザさんは、18歳の時、初めてブラジルから来日したという。日本とブラジルを行き来し、のべ30年、日本で暮らしている。
スーパーTAKARA ルイーザさん 「言葉が通じないということで『やっぱり外国人だからダメだ』とか言われて。自分も少しは喋れるんですけど・・・寂しいですけどね、やっぱり寂しい」
ルイーザさんの国籍はブラジル。 ルイーザさんの32歳と29歳になる2人の子どもの国籍は日本。つまり日本人だ。日本で育った2人が話せるのは日本語だけ。家族の会話は日本語だ。
日本人の子ども2人を持つ、ブラジル人のルイーザさんに最後に聞いた。
――“日本人ファースト”は正しいと思うか?
スーパーTAKARA ルイーザさん 「いや~、それは違うと思うんですね。外国の方も違って面白いし、日本の方も違って面白い。この2つが一緒になればすごく良い街になったり、良い日本になっていったりすると思う」
日本人から見ると、ルイーザさんの家族は、“外国人家族”なのか?“日本人家族”なのか?そして、“外国人家族/日本人家族”、と、国籍でカテゴライズする必要はあるのか。
少なくとも、この街に、“外国人/日本人”と、国籍だけで簡単には割り切れない思いを抱えている人もいることがわかった。ただ、まだ何か答えを見つけたわけではない。今後も“共に生きる街”の声を取材したい。
TBSテレビ報道局 宮嵜仁美
“コメ”を脅かす最強級外来種「オオバナミズキンバイ」除草剤が効かない 小さな破片からも再生する脅威の繁殖力
見た目はキレイでも恐るべき繁殖を見せる外来植物が、今じわじわと全国に広がっています。三重県ではついに田んぼに入り込んだと聞いて、現場を取材しました。
一面に広がる鮮やかな黄色い花。一見花畑ですが…所々に見えるのは稲穂。ここは、もともと田んぼです。
三重県桑名市で起きている深刻な環境問題。田んぼをこの黄色い花が覆い尽くそうとしています。道を境に、右側はごく普通の田んぼ、左側は田んぼのほぼ半分近くまで、黄色い花が広がっていたのです。
農家によると、初めて見つかったのは3年ほど前ですが、最初は誰も気に留めていませんでした。しかし、気付いたときには農業にも支障が出るように。
(被害にあったコメ農家) 「『どうするんやこれ』みたいな感じで、皆さん知っているのは知ってるので『何やあれ、見たことない草が入ってきとんぞ』みたいな」
(被害にあった別のコメ農家) 「これはすごいことですね、やっぱり駆除しないと駄目。水路で水が出入りするんだけど、水が全然出入りできない」
この植物の正体は、南アメリカ原産の外来種『オオバナミズキンバイ』。最大の特徴は恐るべき“生命力”。
あっという間に繁殖して元の環境や生態系を脅かす上、ほんの少しの破片からでも再生するため、駆除も極めて難しく2014年に国から特定外来生物に指定されました。
除草剤で枯らしたはずの茎から“新しい葉っぱ”が
ここに繁殖するオオバナミズキンバイへの警戒をいち早く呼びかけてきたのが、「なごや生物多様性保全活動協議会」の小菅崇之さん。
(なごや生物多様性保全活動協議会 小菅崇之副会長) 「水草が好きで水草を見て、いろいろな田んぼを巡っているが、ここ(三重・桑名市)に来たときに、まず日本のミズキンバイっていう貴重な水草があるのですが、そちらを見つけたと最初は喜んだが、よくよく見てみたら本当に危険なオオバナミズキンバイだった」
「去年はここ、全くこの水路は生えていなかった。なのに、ことし来たらここまで広がってるっていうのは本当に驚きで、どうしようって感じです」
(被害にあったコメ農家) 「繁殖率がすごくて、除草剤ふったり草刈りしても、ちょっとした断面からばーって広がっていって、穂の高さまで来るんですよ」
除草剤で枯らしたはずの茎からは、新しい葉っぱが生えていました。さらに、この植物の適応能力も駆除を難しくしています。
水上でも陸上でも…「形」を変えて繁殖
(小菅さん) 「水の近くにあるときは(葉が)丸いが、陸地にあるものは若干細くなったりする。水陸両用という感じで、水に浮くときに葉っぱが丸い方が安定感が出るのでしょうね」
水上でも陸上でも形を変えて繁殖し続ける。それが、この侵略植物の脅威を一層高めています。
(被害にあったコメ農家) 「重機とか使ったりしてやらないことには、とても人の手だけじゃ追いつかないですよね。取るのもすごい重たいので、こんなちょこっとでも根っこからしっかりしているので、持ってくるとなったら重たいです」
重機を使うことにも問題が。オオバナミズキンバイは、根や茎の切れ端からでも完全に再生できるため、重機で大がかりに撤去したり、田んぼや畑に生えているのを知らずにトラクターなどの農業機械を使ったりすると、他の場所に広がる恐れがあると言います。
(小菅さん) 「トラクターのタイヤの隙間にちょっとだけ破片が付いただけでも、そのトラクターが移動することで、次の田んぼへと広がっていってしまう」
(被害にあったコメ農家) 「トラクター使ったときにこの田んぼで洗って、次の田んぼに入っていくことは無理です。本当はやりたいんだけど、作業上無理です」
今まで以上に深刻な状況…
一旦広がれば完全駆除は極めて難しく、普段の農作業も出来なくなるという、農家にとってまさに悪夢のような状態。コメの収穫にも影響が心配されています。
(被害にあったコメ農家) 「減収になります、お米が悪いし。(お金の面で)マイナスですね、プラスには絶対ならない」
外来種の特別展を開いている、豊橋市の自然史博物館。ここでもオオバナミズキンバイは“最強”扱い。その研究では第一人者の学芸員・稗田真也さんは、桑名市で田んぼに広がった事例は今まで以上に深刻だと話します。
(豊橋市自然史博物館 稗田真也学芸員) 「これまで水路とか池とか湖という水辺に侵入してるということは、よく見られていた。水田の中、田んぼの中に侵入して生い茂っているという事例は、実は多くはない。その点において侵入のステージが進行しているのではないか」
今回の特別展向けに、稗田さんが作った侵略的外来種のトレーディングカード。オオバナミズキンバイは「愛知県では確認されていない」とありますが…
「すごく驚きました…」
(前川智彦記者) 「愛知県豊田市の住宅街の近くを流れる西中山川では、オオバナミズキンバイが大量に繁殖しています」
豊田市の御船町を流れる西中山川と御船川で見つかったのです。稗田さんが、オオバナミズキンバイだと特定しました。
(稗田さん) 「すごく驚きましたが、入ってくる可能性はあるかなと以前から思っていました。ある程度、入ってくることを前提にして、早く見つけて早く対処するという心構えが大事」
稗田さんの助言を受け、豊田市はすぐに駆除作業を実施。手作業で抜いた後、水面に浮かぶ小さな葉や茎の切れ端に至るまで、残らず網ですくい上げました。
(豊田市環境政策課 弘中陽介さん) 「初期の段階なので、現状であればまだ駆除も可能と専門家の意見もありましたので、今回緊急で駆除作業を実施しました」
しかし、相手は恐るべき生命力のオオバナミズキンバイ。実際少し離れたところへ行ってみると…
(記者) 「先ほどの駆除作業の現場から車で2分ほど下流に来た場所です。こちらでもオオバナミズキンバイの繁殖が確認できます」
水害リスク・生態系への影響も…
(稗田さん) 「豊田市で今侵入してる場所の下流に矢作川があるので、その流域などでも例えば水田に侵入して田んぼを覆い尽くしてしまったり、水路や排水施設を詰まらせて水害リスクになる可能性が懸念されます。生態系への被害も想定されます」
三重県桑名市では水田に広がり、コメ作りの妨げにもなっているオオバナミズキンバイ。このような水田での被害が、他の地域でも起きたらどうなってしまうのか。自治体や農協も駆除に向け動き出しています。
(稗田さん) 「実は外来水草の駆除はシンプルなことで、植物を除去することに尽きます。侵入初期の段階の方が(駆除が)容易であると、皆さんもそういう心づもりになっていけばいいのかなと思います」
猛スピードで繁殖し、日本固有の生態系を脅かす黄色い花の侵略植物。
ちょっと注意して見回してみると、あなたの周りにも見つかるかもしれません。
CBCテレビ「ニュースクロス」2025年8月7日放送より
発砲判断は「自治体」市街地で銃を使った駆除可能に 第一優先は安全確保 訓練で見えた課題 北海道
クマについて9月1日から、一定の条件を満たせば市街地で銃を使った駆除が可能になります。
ただ、発砲の判断と責任を負うのは「自治体」です。
ハンターや警察との連携を確認する訓練が札幌で行われました。
(山本記者)「いまあちらにクマが出没した想定でハンターらが対応訓練を行っています」
札幌市西区の公園で実施されたクマ駆除の訓練の様子です。
公園の周辺で断続的にクマが出没している想定で行われました。
しかし、市街地では原則発砲が禁止されています。
そこで発砲を許可したのは、警察やハンターでもなく札幌市の職員。
(札幌市の職員)「準備整い次第、撃っていただいて構いません」
許可を受け、ハンターらが模擬銃を構えます。
訓練では「ヒグマ緊急銃猟」という腕章を身に着けた担当の市職員の許可で発砲するという駆除が実施されました。
(山本記者)「銃声が響き渡っています」
7月に道南の福島町で男性を襲い死亡させたクマが駆除されたのも、発砲が原則禁止されている住宅街の中の茂みでした。
このときは警察が法令に基づいて発砲を命令しましたが、9月1日からは改正鳥獣保護管理法が施行されます。
これによって住民の安全が確保できるなどの条件を満たしていれば、自治体がハンターに対し、市街地での発砲いわゆる「緊急銃猟」を委託できます。
この緊急銃猟の運用にあたり、自治体はどのような対応が必要なのでしょうか。
(山本記者)「なぜここで発砲できたのか?」
(札幌市環境局 清尾崇さん)「要件を満たしている中で、安全確保の一つに射線の確保とバックストップが確保できているかどうかがポイント。銃をこっちから狙った時に銃弾が突き抜けたとしても、斜面のところで止まって奥の住宅地にの中にいかないという地形だから、ここで発砲することができた」
(山本記者)「仮に平坦なら? 」
(札幌市環境局 清尾崇さん)「平坦だったり下がっている場合は、向こうの住宅地の方に飛んでいく場合があるので、ここでは発砲することはできない」
第一に優先しなければならないのは安全の確保。
自治体はこれまで以上に難しい判断が求められ、発砲の責任も負うことになります。
(札幌市環境局 坂田一人さん)「やはり制度の中でも、かなり手順や安全確認が必要。実際に速やかに捕獲までつなげるパターンは限定的なのかな。壁面がコンクリートだったり住宅街のど真ん中にクマが出没した場面になった時に、果たしてこの制度が使えるのかどうか。課題が色々見えてきた」
(山本記者)「緊急銃猟が実施可能になるまで1か月を切った今、市町村と警察そして猟友会のより密接な連携が必要です」
今日は関東から西日本で猛烈な残暑 内陸部で体温並みの危険な暑さも
今日17日(日)は、強い日差しが照りつける東北南部から西日本で厳しい残暑が続きます。
昼は最高気温が35℃以上の猛暑日となる地点が続出し、内陸部では36~38℃の体温並みの暑さになる所がある見込みです。引き続き、万全の熱中症対策を心がけてください。
各地で猛暑日予想 内陸部は体温並みの気温も
今日も本州付近は太平洋高気圧に覆われる予想です。今日も西日本や東海では晴れて、関東では昨日16日(土)よりも日差しがしっかりと届きます。
東海から西日本にかけては猛烈な残暑が続く見込みで、各地で最高気温が35℃以上の猛暑日となりそうです。大阪は34℃、京都や高松は35℃、名古屋は36℃の予想です。
東日本でも厳しい暑さとなり、東京や福島の最高気温は35℃の予想。内陸部ではさらに気温が上昇し、体温並みの暑さとなるところも出てきそうです。前橋では38℃が予想されています。
外出の際は、帽子や日傘などでの日差し対策、屋外での長時間の活動を避け涼しい場所で休憩するなど、熱中症に十分に注意してください。
一方、北海道は雨が降り昨日よりもだいぶ涼しくなりそうです。昨日よりも10℃近く気温が下がる所もあるため、体感差にお気をつけください。札幌の予想最高気温は25℃です。
休み明けも残暑は継続 名古屋は明日38℃予想
上空1,500m付近に+18℃以上の暖気が流れ込む日が続くため、西日本や東日本では猛暑となる日が多くなりそうです。
特に、名古屋では1週間以上猛暑日が続き、明日18日(月)は最高気温38℃が予想されています。東京都心でも週前半は猛暑日が続く見込みです。
こまめな水分補給や塩分補給、睡眠をしっかりととるなど、熱中症対策を万全にお過ごしください。
石破おろしか、続投か…大役を一任された自民党総裁選選管委員長・逢沢一郎の皮算用
【永田町番外地】#39
自民党内の石破おろしの動きは、週明けから再び活発になるのだろうか。当面の関心事は、総裁選実施の可否判断、そしてやるとなればその実施の時期だ。そこでにわかに注目を集めるのが、総裁選挙管理委員会の逢沢一郎委員長の存在である。
今回のような総裁選の前倒しは前例がなく、地方組織の意思確認のやり方や総裁選の実施時期など、今後の段取りはすべてが逢沢委員長に一任されたからだ。
「(総裁選管として)議員の皆さん、党員に対して公正な選挙でなくてはならないので、きちんとした仕組みをつくり上げることが必要」
逢沢委員長は8日、自民党両院議員総会後に記者団にこう語った。
もっとも「公正な」といっても、すんなりとは受けとってもらえない。
党内の反石破勢力からは、逢沢委員長が昨年9月の総裁選で1回目、決選投票ともに石破首相に一票を投じていることから、選挙の公正な運営を疑問視する声が聞こえてもくる。
総裁選の前倒しは参院選の結果責任を問うものであれば、常識的には秋の臨時国会前にも石破退陣、新体制発足となるはずだが、「たとえば逢沢さんが、総裁選実施の地方組織の可否判断について党員投票で決めると言い出せば、丁寧だけれども、それは同時に石破延命に手を貸すことにもなる」と指摘するのは旧安倍派の中堅議員だ。極端な話、逢沢委員長のサジ加減で総裁選の先送りが可能になるわけだ。
逢沢委員長は1954年生まれの71歳。当選13回を数えるベテラン議員ながら、政治家後半生は安倍-麻生ラインに疎まれ長く不遇をかこち、自民党内では一度の閣僚経験もない稀有な存在である。ちなみに石破首相とは当選同期であり、立憲民主党の野田佳彦代表とは、松下政経塾第1期の同窓であり、肝胆相照らす仲でもある。
「逢沢さんからすれば、石破首相は最後のよすが。今さら初入閣には興味ないようですが、国対や議運の委員長経験者ですし、議会人としての自負はあります。石破-野田の大連立政権で額賀(福志郎)衆院議長の後釜狙いでしょうから、体を張ってでも石破を守るでしょうよ」(前出の安倍派中堅議員)
先々のことは見守るしかないが、確かに衆院議長ポストは逢沢委員長にとっては魅力的な誘いであろう。 (特命記者X)
知床・羅臼岳の海岸線にクマ1頭目撃 体長2メートル…山に消える 男性襲われ死亡後も目撃続く
【速報】クマに襲われた26歳男性 死因は「全身多発外傷による失血」と判明 北海道・羅臼岳
北海道羅臼町岬町付近でクマの目撃がありました。
警察によりますと、2025年8月17日午前4時10分ごろ、「海岸線に2メートルくらいのクマがいる」と通報がありました。
クマを目撃したのは付近に住む住民で、家の中から300メートルほど先のモセカルベツ川下流の海岸線でクマ1頭を目撃したということです。
クマは、天狗岩トンネル方向の山の中へいなくなったということです。
この付近では、8月14日、羅臼町と斜里町にまたがる羅臼岳で、登山中の男性(26)がクマに襲われ、死亡する事故が発生しています。