陸軍が拠点を置く「軍都」として、40万人前後が暮らしていたとされる広島県・広島市は、1945年8月6日に投下された原子爆弾(原爆)によって、筆舌に尽くしがたい被害を受けた。投下から43秒後に地上600メートルで炸裂、摂氏100万度の火球からは強烈な熱、高圧の爆風、そして放射線が発せられ、この年に約14万人が亡くなったとされている(正確な実数は不明)。
市民の足として機能していた「広島電鉄」も「市内の建物51カ所のうち50カ所が倒壊」「従業員の3割以上が死亡・負傷」という壊滅的な被害を受けた。しかし、生き残った人々が絶望に打ちひしがれる中、一部区間とはいえ早くも当日に復旧し、無賃で市民を乗せた。焼け野原を走る電車の姿を見て、多くの広島市民が「もう電車が動くんか!」と、驚いたという。
同様に原爆の被害を受けた長崎電気軌道は復旧に3カ月を要した一方、なぜ広島では、被爆当日から乗客を乗せて、路面電車を走らせることができたのか。
当時、広島電鉄で電気課長を務めていた松浦明孝氏の手記と、その手記をまとめた書籍『 だから路面電車は生き返った 』(南々社)の著者で広島電鉄・元運転士の中田裕一さんへの取材、広島電鉄の社史などを基に当時の様子を辿ってみよう。(全2回の1回目/ 続きを読む )
通勤・通学ラッシュの時間帯に、原爆は炸裂した
原爆が投下された時間帯はちょうど朝の通勤・通学ラッシュでもあり、走行可能な車両のほとんどが市内を走行中であった。いまと違って当時の車体は木造が多く、爆心地近くの電車は乗客・乗員とも一瞬で焼き尽くされたという。
関係者によると、爆心地から1キロ内を走っていた21両はおそらく超満員。計2000人はいたであろう乗客のうち、生き残ったのはわずか十数名であった。ブレーキ操作を行う間もなく運転士は一瞬で焼け焦げ、飛び降りて助かった乗客が振り返ると、電車は燃え盛りながら惰性でレールの上を走っていたという。
「死の街に電車を走らせ、乗る人はいるのか?」
広島電鉄の従業員も1241人中、185人が命を落とした。特に、屋外作業中であった人々は瞬時に熱戦・爆風の被害を受けており、爆心地近くで市内中心地付近の紙屋町で電線・電柱の整備作業中であった「架線係」は全員死亡。紙屋町・的場町・土橋などの地上で線路分岐を手動操作していた「ポイントマン」も、多くの人々が落命した。
運行を担う設備も、市内の送電を担っていた櫓下変電所は一瞬で倒壊し、中にいた人々は即死。本社の前にあった千田町変電所も屋根が落ち、整流器にガラスが刺さって使用不能となった。
本社や車庫では火災こそ発生しなかったものの、123両の車両のうち全焼22両、半焼3両、大破23両、小中破が60両。もともと故障していた12両を除くと、無傷で動けた車両はたったの3両しかなかったという。
路面電車は車両・設備・人材・すべてを徹底的に破壊され、焼き尽くされた広島の街並みには、歩く人々すらほとんどいない。松浦課長もあたりを見渡して「路面電車はもうダメだな、と思った」と第一印象を手記に記しており、会社幹部ですら「瓦礫の街に電車を走らせることはできるのか」「死の街に電車を走らせ、乗る人々があるだろうか?」と議論するような状況であったと手記に残している。
ところが、広島電鉄はあっという間に乗客を乗せ、ふたたび走り出している。
「電車が走れば、勇気が湧く」呼びかけに応じた人々がかいた汗
無事に助かったと思われた人々も放射線障害(原爆症)によって、続々と命を落としていく中、生き残った社員たちは伊藤信之常務(当時)の「焼け野原に電車が走れば、みんな勇気も湧き、喜んでくれるに違いない」との呼びかけに応じて、手分けして線路上を歩いて線路・車両・橋の状態を確認していった。
当時は出征した男性運転士に代わって、広島電鉄が創設した「広島電鉄家政女学校」の生徒が電車の運転・車掌業務を担っており、彼女たちも8月の炎天下をくまなく歩きまわった。こうした活動により「電柱が842本中393本が倒壊」を中心に、克明な被災状況を把握できた。
被爆当日に復旧できた理由
電車は、動かすための電気がないと走れない。その点、広島電鉄は市内中心部を走る路面電車(軌道線)以外に郊外を走る宮島線(己斐(現:広電西広島)~宮島(現:広電宮島口)の16.1キロ)があり、その電気供給を担う廿日市変電所が爆心地から西に15キロほど離れていた。
松浦課長の8月6日の手記を見ると「廿日市変(変電所) 無事 宮島線被害軽微」と記されており、さらに中田さんによると、当時は己斐に宮島線の車庫があり、そこや宮島に架線柱などのメンテンナンス資材を疎開させていたことも功を奏した。復旧作業にすぐ当たれた。また、宮島線は爆心地から比較的遠いこと、さらに市内の路面電車と架線の構造が異なることなどもあって、当日の昼過ぎには一部区間(草津~宮島)で、翌7日には己斐まで無賃での全線復旧を果たす。
しかし、電気は遠い距離に送るほどロスが生じ、まとまった量の送電はできない。そのため、宮島線以外の市内線で即座に復旧できたのは、できるだけ宮島線寄りの己斐~西天満町(現:天満町)に限られた。同区間は、一般的な路面電車とは異なり「専用軌道(新設軌道)」と呼ばれる構造で被害が軽微だったことも背景にある。この区間は8日に試運転を行い、9日の午後に復旧を果たしている。
広島と長崎、路面電車の復旧に差が生まれた理由
広島電鉄が被爆当日から復旧できた一方、同じ原爆被害を受けた長崎の路面電車では一部区間で復旧したのが被爆3カ月後の1945年11月。なぜここまでの違いが生まれたのだろうか。
まず長崎電気軌道は、郊外路線のある広島と違って、市街地の軌道線しかなく、現在の「長崎スタジアムシティ」北側にあった変電所が焼き尽くされてしまった。かつ長崎は電車運行の心臓部であった大橋営業所・車庫が爆心地から約500メートルという至近距離にあり、多くの人々がここで落命する被害を受けている。
携わる人々が路面電車を復旧させるために汗を流したことに、もちろん変わりはないだろう。しかし、変電所の位置や爆心地と車庫・本社の距離で、電車復旧に大きく違いが出てしまった。
大半の区間は未復旧……2度の台風被害も乗り越え、どう復旧したのか?
被爆からわずかの期間で広島電鉄が復旧したことは広島市民をかなり驚かせたようだ。
広島電鉄が発行した『広島電鉄開業80創立50年史』には、一番電車を運転した運転士さん・車掌さんの「みんな『電車が動くじゃないか』とたまげて見てくれたんがね」「ただで乗っても『料金を』とか言わりゃせん。銭金じゃなかったから」など、当時を回想するコメントが残っている。
しかし、一部で走り出したとはいえ、市内中心地を走る大半の区間の復旧はこれから。原爆による甚大な被害に加え、秋口にかけて2度の大型台風にも襲われながら、広島電鉄は様々な人々に助けられつつ、復活への道を歩んでいく。
〈 原爆から無傷で生き残った車両は「わずか3つ」…広島電鉄の“奇跡的スピード復旧”を支えた「名もなき人々」とは 〉へ続く
(宮武 和多哉)
砂浜陥没で4歳死亡、県がブロック管理の不備認める…「仮設物」巡視・点検対象に含めず
宮崎県日南市で2022年、消波ブロックが埋まった砂浜が陥没し、生き埋めとなった4歳男児が死亡した事故で、海岸を管理する県がブロックの維持管理を怠った不備を認め、県内全海岸で管理方法を是正する方針を固めたことがわかった。「撤去予定の仮設物」だとして巡視・点検対象に含めず、危険を周知する看板も設置していなかった。国土交通省も経緯を把握しており、海岸に設置するブロックなどの工作物を安全に管理するよう、全国の自治体などに通知する方針だ。(波多江航、野崎達也)
宮崎県などによると、事故は22年4月29日に日南海岸国定公園内にある伊比井(いびい)海岸で起きた。砂浜には1~2トンの6脚型ブロックが約360個積まれ、大半は砂に埋もれていた。
男児は秋田県から母親らと旅行中、砂浜を歩いていて砂に埋もれたブロック間にできた陥没に巻き込まれ、窒息死した。海岸はサーファーらに人気のスポットだが、立ち入り規制や危険を知らせる看板はなかった。
読売新聞が宮崎県に情報公開請求して開示された工事記録によると、ブロックは県が16~21年に同海岸で行った護岸の改修工事の際に砂浜に仮置きされ、工事完了後もそのまま残された。県は、陸側の土地が海水で削られる「浸食」を防ぐためだったと説明する。事故原因については、現場の砂浜を流れる水路の水によって、砂に埋もれたブロック間の砂が吸い出されて空洞が生じ、陥没につながったと推定している。
県は海岸法に基づき、津波や高潮による浸食などを防止するため設置した堤防や護岸などの「海岸保全施設」については、異常がないか巡視・点検していたが、ブロックは仮設物と認識し、対象としていなかった。開示された巡視・点検の日誌にも、ブロックに関する記述や写真はなかった。
県河川課は読売新聞の取材に「当時は危険だという認識がなかったが、原因が明確になった今では危険だったという認識だ。(結果的に)巡視・点検ができていなかった」と不備を認めた。その上で、全海岸を対象に、今月中にも、保全施設に限らず海岸に置く全ての工作物の巡視・点検を徹底し、危険を知らせる看板を設置する方針を明らかにした。再発防止策がまとまれば公表する予定だ。
読売新聞の問い合わせで経緯を把握した国交省は、「海岸管理者である県が砂浜にブロックのような工作物を設置する場合は、仮設であっても事故が起きないよう、安全な状態に保たなければならない」と指摘。類似の事故を防ぐため、注意喚起の看板を設置したり、立ち入り禁止にしたりするなどの安全確保を徹底するよう、海岸を管理する全国の地方整備局や各自治体に通知する方針だ。
事故を巡っては、宮崎県警が県の管理責任者を業務上過失致死容疑で書類送検し、宮崎地検は23年4月に不起訴とした。県は再発の恐れがあるとして、事故直後から周辺を立ち入り禁止とし、今年7月末までにブロックの撤去を完了した。
「巡視・点検不要」誤った認識
宮崎県がブロックの維持管理の不備を認めるのに3年を要したのは、海岸保全施設でなければ巡視・点検は不要との誤った認識にとらわれていたからだ。再発防止の観点を欠いた認識だったと言わざるをえない。
海岸法や同法施行規則は災害時などの海岸防護に支障を及ぼさないよう、保全施設の巡視・点検を求めている。ブロックは埋設されていたものを護岸工事の際に掘り出し、余った分を陸地の浸食防止を理由に砂浜に置いていたといい、保全施設として整備しなかった。だが、海岸に工作物を置く以上、一時的な「仮設」でも予期せぬ危険が生じる恐れがあるのに変わりはない。
現場では一部のブロックが崩れ、散乱していた。同様のブロックを保全施設としている海岸では、強度を増すためにブロック同士の突起をかみ合わせ、巡視時の確認項目に「散乱」を設けている。維持管理が徹底されていれば、事故は防げていたのではないか。
国土交通省は、仮設物でも安全な状態を保つのが管理者の責任だとの考えを示した。同じように「巡視・点検の網」から漏れている工作物は全国にあるとみられる。国と自治体には、幼い命が失われた宮崎の教訓を生かす責務がある。
(波多江航)
「時間は残されていない」 高齢化する“黒い雨”訴訟原告らの叫び
広島への原爆投下後に降った「黒い雨」を浴びた住民らが、広島県や広島市に対して被爆者健康手帳申請の却下処分の取り消しを求めて起こした訴訟。原爆投下から80年、原告たちは高齢化しており、判決を待たずに亡くなった人もいる。原告らは「一刻も早い救済を」と訴えている。
黒い雨を巡って国は1976年、広島の爆心地から北西方向にある一部地域に激しく降ったとして、その地域を援護区域に定めた。しかし、この区域外でも黒い雨が降って、健康被害を受けたと訴える住民が2015年に広島地裁に提訴。21年の広島高裁判決は被害者の救済拡大を命じ、国は22年から援護対象を従来より大きく広げた。
しかし、新基準でも手帳交付が認められない人たちが23年4月、広島県や広島市に手帳申請の却下処分取り消しを求めて広島地裁に提訴し、裁判は今も続く。当初23人だった原告は追加提訴を重ね、今年5月時点で84人にまで増えた。
「今度の裁判に来られますか」。5月上旬、「原爆『黒い雨』被害者を支援する会」の事務局長を務める高東征二さん(84)=広島市佐伯区=は、自宅から原告一人ずつに電話をかけて、翌週に控えた次の口頭弁論後にある集会に出席できるか確認していた。
しかし、電話をかけた約60人のうち約20人は電話がつながらない。残りは電話はつながっても「病気で行けない」などの反応で、集会に参加できると答えたのは15人ほどだった。高東さんは「病気になって、途中から裁判に来られなくなった人もいる。原告たちの時間もほとんど残されていない」と訴える。
さらに、今年5月時点で既に原告が4人も亡くなっている。23年12月に老衰のため101歳で亡くなった吉田文枝さんは、そのうちの1人だ。
吉田さんは広島市の爆心地から西に約25キロにあった旧津田町(現広島県廿日市市)で黒い雨を浴びたと訴えていた。黒い雨が降った時に一緒にいた妹の高野鈴子さん(82)=広島市佐伯区=によると、吉田さんは原爆が落ちた日のことを鮮明に覚えており、いつもきょうだいに「油っぽい雨が降ってきた」と話していた。
しかし、22年に始まった新しい救済制度で、旧津田町は対象区域に含まれていなかった。そのため、高野さんは、吉田さん、もう1人の姉、先矢喜久子さん(90)と原告に加わった。生前の吉田さんは「真実を知ってもらいたい」と語っていた。
吉田さんは亡くなる約2カ月前から、体調不良で入院した。見舞いに行った高野さんが、新型コロナの感染予防のためにガラス越しに「(裁判の判決は)まだかかりそうだからもうちょっと頑張ってね」と声をかけると、小さくうなずいていたという。高野さんは「原告は高齢化し、今後も亡くなる人は増えていく。一日も早く判決が出ることを望んでいる」を話した。【井村陸】
三原じゅん子・こども政策担当相に暴力団関係者との“ゴルフ&忘年会参加疑惑”発覚 事務所は「それと知って参加することはない」と回答
参院選の惨敗を受けて、自民党内からも退陣を求める声が噴出する石破茂首相。そんな石破首相を支える閣僚の一人、三原じゅん子・こども政策担当相に、その資質が問われる「写真」が見つかった。ゴルフコンペ後に撮影されたものだという暴力団関係者の幹部とのツーショット写真で、取材を進めると、同関係者主催の忘年会にも参加して持ち歌まで披露していたことがわかった。三原氏サイドはこの疑惑について、どう説明するのか。【全3回の第3回。第1回から読む】
「あの会に女性を呼べる雰囲気じゃない」
本誌・週刊ポストは三原氏を広域指定暴力団の幹部だったA氏が取り仕切ったゴルフコンペと忘年会に誘ったとされる芸能関係者B氏にも話を聞いた。具体的に語ってくれた。
「たしかに僕が主催したゴルフの会に三原さんが出席してくれたことは一度だけあります。彼女は後輩だから飲み会かなんかで久々に会って『コンペやるから出ない?』とかそんな感じで。その時は表彰式でバンドも入れて、(三原氏が)『セクシー・ナイト』を含めて何曲か歌ってくれて、三原じゅん子賞なんかもあったと思います。Aさんも僕のコンペに一回ぐらい参加したことはあるかもしれない。もしかしたら三原さんと(参加した年が)重なっていたのかもしれないが、200人くらいの参加者がいたから全然覚えていませんね」
──A氏が暴力団関係者とは知っていたか。
「Aさんが当時、現役の暴力団関係者だということは、そうじゃないかな、と何となく感じてはいました。もしかしたら、って。忘年会にはもっといかつい人たちがいましたからね。ですが、名刺を渡されたわけではないですし……」
──A氏主催の忘年会にも三原氏を誘ったのか。
「Aさんとは10数年以上前、芸能関係者のイベントでお会いしました。その関係者を通じて誘われて、忘年会には何度か参加させていただきました。ですが(三原氏が)出たか出ていないかはわからない。忘年会のゲストに関しては、僕は全くタッチしていない。それこそ誰が参加するのか当日にならないとわからないことも多かったんです。そういう人(暴力団関係者)の集まりというか、祭礼関係の集まりだったので。さすがにあの会に僕は女性なんか呼べないし、呼べる雰囲気じゃないじゃないですか。何となく、よろしくないのかなって」
──主催者側に三原氏の忘年会参加のギャラ30万円を提示したのではないか。
「僕が? 知らないです」
──三原氏はあなたのゴルフコンペに参加した年にA氏の忘年会に出席している。あなたがつないだのではないか。
参政党議員のSNSアカウントのマークに「やめてくれるかな…」みかん農家から切実な声
7月20日に投開票された参院選で14議席を獲得するなど、大躍進を遂げた参政党。元フリーアナウンサーで、比例選で当選した梅村みずほ議員を含めた参政党議員のSNSアカウントに“クレーム”が相次いでいる。
「参政党のイメージカラーがオレンジ色ということもあり、アカウント名にオレンジのマークをつけているんです。そのためみかん農家から、オレンジのマークを外して欲しいという声が上がっているんです」(ITライター)
参政党に「柑橘農家を利用するな」
愛媛県のみかん農家アカウントが、
《参政党を(みかんマーク)で表すのやめてくれるかな…》
と投稿すると、1082万回表示を超える反響が。コメント欄では、
《私も同じです。柑橘農家を利用するなってね》
《特に果樹農家さんにとっては、ある意味死活問題になる・・・》
と、農家関係者から共感が相次ぐことに。
「参政党は熱心な支持者が多いものの、アンチも多い政党です。そのためイメージカラーであるオレンジ色の服を着られなくなった、オレンジがメンバーカラーの推しの応援がしづらくなったという人たちが、“#オレンジ色返して”とハッシュタグをつけて不満を投稿したことで、Xでトレンド入りしたほどです」(スポーツ紙記者)
みかん農家のコメントが反響を呼んだことで直接、梅村議員のアカウントにクレームを言う人も増えている。
《日本人ファーストといいながら、こちらのみかん農家さんの(みかんマーク)やめての言葉は全く届かないのですか》
《(みかんマーク)を使うのヤメて下さい! みかんが売れなくなっています! みかんの風評被害です!》
しかし参政党議員がみかんマークを外す動きは、現状見られない。
「注目度の高い参政党だけに中には言いがかりだろうと思われるアンチの声もあるものの、みかん農家が続々と声をあげているのを見る限り、かなり風評被害が出ているのでは。“日本人ファースト”を謳うなら、SNSアカウントからみかんマークを外してあげてほしいですね」(前出・ITライター)
このままだと秋から冬にかけて旬を迎える、みかんの売り上げにも影響が出ちゃうかも?
「祈りの朝」極まる混乱 警察が活動家を強制排除 機動隊員ともみ合いに 原爆投下80年
広島は6日、米軍による原爆投下から80年の「原爆の日」を迎えた。早朝、安全対策の一環で原爆ドームを含む平和記念公園(広島市中区)全体で入場規制が始まったが、前夜から座り込みを続けた活動家らが移動を拒んだため、警察の機動隊員が強制排除に乗り出す事態に発展した。市によると、規制に従わない活動家らの排除は初。
「規制が始まります。ただちに退去してください」
午前5時前の原爆ドーム北側。市職員らが広島県警とともにこう呼び掛けたが「改憲戦争阻止」などと書かれたプラカードとのぼりを掲げた「8・6ヒロシマ大行動実行委員会」のメンバーらが腕を組み、徹底抗戦の構えを示した。
市による再三の警告にも応じず、市は県警に排除を要請。県警が市に対する業務妨害行為に当たると通告した上で機動隊員を突入させ、午前6時ごろまでにメンバーら10人程度を園外へ出した。
メンバーら数百人は拡声器を使って「排除を止めろ!」「暴力的な弾圧を許さないぞ!」などと猛反発。機動隊員ともみ合うなどし、現場は騒然とした。
公安関係者によると、メンバーには、過激派・中核派や中核派全学連の活動家が含まれているとされる。
園全体への入場規制は令和5年、業務中の市職員に集団で暴行したとして、中核派活動家の5人が後に逮捕、起訴される事件発生を受けた対応。昨年から実施され、同5時以降は手荷物検査を済ませた人が入場できる。
【平和記念式典】広島市長・平和宣言「核兵器に依存しないための建設的な議論をする責任」訴える
8月6日、広島市の松井一實市長が『平和宣言』を読み上げました。
今から80年前、男女の区別もつかぬ遺体であふれかえっていたこの広島の街で、体中にガラスの破片が突き刺さる傷を負いながらも、自らの手により父を荼毘に付した被爆者がいました。「死んでもいいから水を飲ませて下さい!」と声を振り絞る少女に水をあげなかったことを悔やみ、核兵器廃絶を叫び続けることが原爆犠牲者へのせめてもの償いだと自分に言い聞かせる被爆者。原爆に遭っていることを理由に相手の親から結婚を反対され、独身のまま生涯を終えた被爆者もいました。
そして核兵器のない平和な世界を創るためには、たとえ自分の意見と反対の人がいてもまずは話をしてみることが大事であり、決してあきらめない「ネバーギブアップ」の精神を若い世代へ伝え続けた被爆者。こうした被爆者の体験に基づく貴重な平和への思いを伝えていくことが、ますます大切になっています。
しかしながら、米国とロシアが世界の核弾頭の約9割を保有し続け、またロシアによるウクライナ侵攻や混迷を極める中東情勢を背景に、世界中で軍備増強の動きが加速しています。各国の為政者の中では、こうした現状に強くとらわれ、「自国を守るためには、核兵器の保有もやむを得ない。」という考え方が強まりつつあります。こうした事態は、国際社会が過去の悲惨な歴史から得た教訓を無にすると同時に、これまで築き上げてきた平和構築のための枠組みを大きく揺るがすものです。
このような国家が中心となる世界情勢にあっても、私たち市民は決してあきらめることなく、真に平和な世界の実現に向けて、核兵器廃絶への思いを市民社会の総意にしていかなければなりません。そのために、次代を担う若い世代には、軍事費や安全保障、さらには核兵器のあり方は、自分たちの将来に非人道的な結末をもたらし得る課題であることを自覚していただきたい。その上で、市民社会の総意を形成するための活動を先導し、市民レベルの取組の輪を広げてほしいのです。その際心に留めておくべきことは、自分よりも他者の立場を重視する考え方を優先することが大切であり、そうすることで人類は多くの混乱や紛争を解決し、現在に至っているということです。こうしたことを踏まえれば、国家は自国のことのみに専念して他国を無視してはならないということです。
また、市民レベルの取組の輪を広げる際には、連帯が不可欠となることから、「平和文化」の振興にもつながる文化芸術活動やスポーツを通じた交流などを活性化していくことが重要になります。とりわけ若い世代が先導する「平和文化」の振興とは、決して難しいことではなく、例えば、平和をテーマとした絵の制作や音楽活動に参加する、あるいは被爆樹木の種や二世の苗木を育てるなど、自分たちが日々の生活の中でできることを見つけ、行動することです。広島市は、皆さんが「平和文化」に触れることのできる場を提供し続けます。そして、被爆者を始め先人の助け合いの精神を基に創り上げられた「平和文化」が国境を越えて広がっていけば、必ずや核抑止力に依存する為政者の政策転換を促すことになります。
世界中の為政者の皆さん。自国のことのみに専念する安全保障政策そのものが国と国との争いを生み出すものになってはいないでしょうか。核兵器を含む軍事力の強化を進める国こそ、核兵器に依存しないための建設的な議論をする責任があるのではないですか。世界中の為政者の皆さん。広島を訪れ、被爆の実相を自ら確かめてください。平和を願う「ヒロシマの心」を理解し、対話を通じた信頼関係に基づく安全保障体制の構築に向けた議論をすぐにでも開始すべきではないですか。
日本政府には、唯一の戦争被爆国として、また恒久平和を念願する国民の代表として、国際社会の分断解消に向け主導的な役割を果たしていただきたい。広島市は、世界最大の平和都市のネットワークへと発展し、更なる拡大を目指す平和首長会議の会長都市として、世界の8,500を超える加盟都市と連帯し、武力の対極にある「平和文化」を世界中に根付かせることで、為政者の政策転換を促していきます。核兵器禁止条約の締約国となることは、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会を含む被爆者の願いに応え、「ヒロシマの心」を体現することにほかなりません。また、核兵器禁止条約は、機能不全に陥りかねないNPT(核兵器不拡散条約)が国際的な核軍縮・不拡散体制の礎石として有効に機能するための後ろ盾になるはずです。是非とも来年開催される核兵器禁止条約の第1回再検討会議にオブザーバー参加していただきたい。また、核実験による放射線被害への地球規模での対応が課題となっている中、平均年齢が86歳を超え、心身に悪影響を及ぼす放射線により、様々な苦しみを抱える多くの被爆者の苦悩にしっかりと寄り添い、在外被爆者を含む被爆者支援策を充実することを強く求めます。
本日、被爆80周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、決意を新たに、人類の悲願である核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に、これからも力を尽くすことを誓います。
令和7年(2025年)8月6日
広島市長 松井 一實
【2025年8月6日放送】
「核兵器廃絶、実現しなければ死も意味しうる」 広島知事の訴え
核兵器廃絶は実現しなければ、死も意味しうる、現実的・具体的目標です――。広島県の湯崎英彦知事は6日、80回目を迎えた広島市の平和記念式典であいさつし、核廃絶に向けて歩みを止めないと誓った。
湯崎知事はまず、法と外交を基軸とする国際秩序が様変わりしたと指摘。「むき出しの暴力が支配する世界へと変わりつつある」とした。
こうした中で、核抑止がますます重要だと声高に叫ぶ人たちがいるとしたうえで、「本当にそうなのか」と疑問を投げ掛けた。
抑止とは自信過剰な指導者の出現や突出したエゴ、高揚した民衆の圧力などで崩れると主張。「力の均衡では圧倒的に不利と知りながらも、自ら太平洋戦争の端緒を切った」。抑止論を前提とした合理的判断が働かなかった事例として、かつての日本を挙げた。
核による抑止が破れて核戦争になった場合、人類や地球が再生不能になると警告し、「国土も国民も復興不能な結末がありうる安全保障に、どんな意味があるのか」と疑問を呈した。
そのうえで、抑止力の概念について「武力の均衡のみを指すものではなく、ソフトパワーや外交を含む」と強調。核のない新たな安全保障のあり方を築くため、「頭脳と資源を集中することが今我々が力を入れるべきことだ」とした。
締めくくりとして、核兵器廃絶は具体的な目標だと掲げ、「決して諦めず、粘り強く、核兵器廃絶という光に向けて進み、人類の、地球の生と安全を勝ち取ろうではありませんか」と訴えた。【矢追健介】
広島・平和記念式典会場で警備員を暴行した疑い 男を逮捕
原爆の日の6日、平和記念式典が行われる広島市の平和公園で、警備員に暴行を加えたとして、男が逮捕されました。
暴行の疑いで逮捕されたのは、住所・職業不詳の男です。
男は6日午前5時55分頃、広島市中区の平和公園で、式典のための警備にあたっていた30歳の男性警備員の足を蹴る暴行をした疑いです。男は式典にあわせて行われる集会に参加していました。動機などについて、黙秘しているということです。
(2025年8月6日午前8時30分の情報)
石破首相あいさつ全文=広島市平和記念式典
広島市で開かれた平和記念式典での石破茂首相のあいさつ全文は次の通り。
今から80年前のきょう、一発の原子爆弾がさく裂し、十数万ともいわれる貴い命が失われました。一命を取り留めた方々にも、筆舌に尽くし難い苦難の日々をもたらしました。
内閣総理大臣として、原子爆弾の犠牲となられた方々のみ霊に対し、ここに謹んで、哀悼の誠をささげます。そして、今なお被爆の後遺症に苦しむ方々に、心からのお見舞いを申し上げます。
2年前の9月、広島平和記念資料館を、改装後初めて訪問しました。80年前のあの日、立ち上るきのこ雲の下で何があったのか。焦土となり灰じんに帰した街。黒焦げになった無辜(むこ)の人々。直前まで元気に暮らしておられた方が4000度の熱線により一瞬にして影となった石。犠牲者の多くは一般市民でした。人々の夢や明るい未来が瞬時に容赦なく奪われたことに言葉を失いました。
広島、長崎にもたらされた惨禍を決して繰り返してはなりません。非核三原則を堅持しながら、「核兵器のない世界」に向けた国際社会の取り組みを主導することは、唯一の戦争被爆国であるわが国の使命です。
核軍縮を巡る国際社会の分断は深まり、現下の安全保障環境は一層厳しさを増しています。しかし、だからこそ、国際的な核軍縮・不拡散体制の礎である核兵器不拡散条約(NPT)体制の下、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現に向け、全力で取り組んでまいります。
来年のNPT運用検討会議に向けて、対話と協調の精神を最大限発揮するよう、各国に引き続き強く呼び掛けます。また、「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき、核兵器保有国と非保有国とが共に取り組むべき具体的措置を見いだすべく努力を続けます。
「核兵器のない世界」の実現に向け歩みを進める上で土台となるのは、被爆の実相に対する正確な理解です。
長年にわたり核兵器の廃絶や被爆の実相に対する理解の促進に取り組んでこられた日本原水爆被害者団体協議会が、昨年ノーベル平和賞を受賞されたことは、極めて意義深く、改めて敬意を表します。
今、被爆者の方々の平均年齢は86歳を超え、国民の多くは戦争を知らない世代となりました。私は、広島平和記念資料館を訪問した際、この耐え難い経験と記憶を、決して風化させることなく、世代を超えて継承しなければならないと、決意を新たにいたしました。
政府として、世界各国の指導者や若者に対し、広島・長崎への訪問を呼び掛け、実現につなげています。資料館の年間入館者は、昨年度初めて200万人を超え、そのうち3割以上は外国からの入館者となりました。日本だけでなく、世界の人々に被爆の実相を伝えていくことも、私たちの責務です。
「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」は、施行から30年を迎えました。原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、引き続き、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を進めてまいります。
結びに、ここ広島において、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々のみ霊の安らかならんこと、併せて、ご遺族、被爆者の皆さまならびに参列者、広島市民の皆さまのご平安を祈念いたします。
「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。公園前の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝さんの歌を、万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。 [時事通信社]