長崎県警佐世保署の男性警部補(当時41歳)が2020年10月に自殺したのは、当時の上司2人のパワーハラスメントと長時間労働が原因として、遺族が県に計約1億3870万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決で、長崎地裁は10日、ほぼ請求通りとなる約1億3587万円の支払いを命じた。松永晋介裁判長は、警部補の死亡前に月200時間前後の時間外労働が常態化していたとして、県側の安全配慮義務違反を認めた。
「上司への求償や警察の業務改善につながる判決を願ったが、そうはならず、残念」。亡くなった警部補の妻(54)は勝訴したものの、判決後に長崎市で開いた記者会見で失望感をにじませ、控訴を検討する考えを示した。
国家賠償法は公務員個人が職務中の行為で他人に損害を与えた場合、国や自治体が賠償責任を負うと定める。一方、国賠法には公務員に故意や重大な過失があった場合、国や自治体が対象者に賠償を求める「求償権」の行使も規定されている。妻は会見で、警部補が残した遺書に「(長崎県警の業務が)改善されることを願います」と記してあったと説明。ただ、判決は重過失について言及せず、「県に求償させ、県警の業務改善につなげたかった」と悔しさをにじませた。
遺族によると、県警は警部補の宿直業務などについて、「ほとんど労働する必要のない勤務」として労働時間に算入しないことが認められている「断続的労働」とみなし、時間外労働の割増賃金を支払っていなかった。遺族側は、こうした運用が長時間労働の一因になったと考え、訴訟ではきちんと労働時間と認めて割増賃金を支払うよう求めた。だが判決は、この点も認めなかった。
警部補が生前に着けていた腕時計や結婚指輪、遺品のスマートフォンや水筒を持参して判決に臨んだ妻は「お金が欲しいのではなく『県警が変わってほしい』と思って裁判をした。それをくみ取ってもらえず、主人も残念に思っているだろう。これでは終わらない」と語った。【樋口岳大、百田梨花、添谷尚希】
米価高騰の中…“パックご飯”を万引き「お腹が空いてお金がなかった」77歳の男を逮捕 北海道
北海道・帯広警察署は2025年6月8日、住所不定・自称無職の男(77)が窃盗の疑いで現行犯逮捕されたと発表しました。
男は8日午後4時ごろ、帯広市稲田町のスーパーで、パックご飯(販売価格689円)を盗んだ疑いが持たれています。
警察によりますと、男がパックご飯をトートバックに入れるところを、スーパーの警備員が目撃し、現行犯逮捕したということです。
男は調べに対し「お腹が空いてお金がなかったので盗みました」と容疑を認めているということです。
「殺してやる」母親に包丁向け脅迫…53歳の男逮捕 「イライラしてもめた」と自ら通報 北海道
北海道・苫小牧警察署は2025年6月8日、苫小牧市に住む無職の53歳の男を暴力行為等処罰法違反の疑いで現行犯逮捕しました。
男は8日午後5時半ごろ、73歳の母親に対し、包丁を向けながら「殺してやる」と脅迫した疑いが持たれています。
警察によりますと、男は「イライラしてもめた」と自ら110番通報したということです。
事件当時、男は酒が入った状態でした。
男は調べに対し「間違いありません」と容疑を認めているということです。
【速報】熊本県宇城市でコンビニ強盗 現金10万円奪い刃物を持ったまま逃走
6月9日未明、熊本県宇城市松橋町曲野のコンビニエンスストアに男とみられる人物が押し入り、店員に「金を出せ」と刃物を突きつけ、現金10万円を奪って逃走する強盗事件がありました。
警察によりますと金を奪って逃げたのは男とみられ、年齢50歳から60歳くらい、身長は160センチから170センチくらいで、黒の長袖、長ズボンに黒のニット帽を着用していたということです。
押し入った人物は、刃物を持ったまま現在も逃走中です。
店には男性の店員1人がましたがけがはありませんでした。
警察が逃げた人物の行方を追っています。
元ひめゆり隊の経験を語り続けた母、その活動を支えた長男…講演きっかけに関連本の出版も
太平洋戦争末期の沖縄戦で生き残った元ひめゆり学徒隊員・与那覇百子(ももこ)さんが昨年11月、96歳で亡くなった。「悲惨な経験を若者に伝えたい」と1970年代から30年余り暮らした埼玉県桶川市を拠点に全国各地で講演した。会場への送迎などで母親の活動を支えた長男・満さん(71)に思いを聞いた。(佐伯和宏)
与那覇さんは今の那覇市で生まれ、沖縄師範学校在学中、学徒隊に動員された。著書「生かされて生きて」(道友社)によると、病院で看護に携わったが、45年6月18日、隊は解散され、海岸の洞窟に逃げた。
その場で兵士が手投げ弾で自決しようとした。「出ていかねば叩(たた)き切るぞ!」。別の兵士の叫び声に追われて洞窟を出て、米軍の捕虜になった。沖縄戦では学徒隊員136人と姉2人を亡くした。
戦後、与那覇さんは東京に移り、身内以外に過酷な経験を語ることはなかったという。満さんによると、自宅の購入をきっかけに桶川市に転居した後、勤め先の病院の同僚が沖縄戦について知らないことに驚き、語り部の活動を始めたという。
満さんは小学生の時、父母に連れられて沖縄を訪れ、学徒を慰霊する「ひめゆりの塔」を見た。その後は精力的に小中学校を回り、体験を話す母を支えようと、会場までの移動や出版する本の推敲(すいこう)を手伝った。
「銃撃を思い出すのか、母は花火に行かなかった」「キュウリもみを運んでいた学徒が銃撃で死亡したそうで、キュウリもみは食卓に出なかった」
満さんは母の姿をそう周囲に伝えている。好きな習字の教室に通うのもやめて、講演を続けていたという。
与那覇さんは2004年に沖縄に戻った後、ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)で証言員を務めた。満さんは「母は事実を淡々と話した。平和の大切さ、戦争の悲惨さを私も訴えたい」と思っている。
与那覇さんの講演を聞いて感銘を受け、劇画「ひめゆりたちの沖縄戦」を出版した中沢秀夫さん(75)の話
「楽天家で、出版の打ち合わせをした時、『沖縄戦から帰ってきた時、かすり傷もなかった』と話していた。戦争は今も各地で続いており、体験を訴え続けてほしかった」
ひめゆり発言で謝罪の西田昌司参院議員にまたも舌禍か 北陸新幹線延伸に反対する地元・京都の高僧を“ポル・ポト支持者”呼ばわりして騒動に
5月3日に沖縄・那覇市での講演会で「ひめゆりの塔」の展示説明について「歴史の書き換え」などと発言して騒ぎを巻き起こした自民党の西田昌司参議院議員。その後、発言を一部撤回、謝罪したものの、5月30日発売の月刊誌で「事実は事実」と正当性を主張している。“爆弾男”とも呼ばれる西田氏の発言をめぐっては、沖縄のみならず、地元・京都でも騒ぎが起きていた。
「西田参院議員の『ひめゆり発言』を聞いて、私を『ポル・ポト支持者』と言った時と同じだと思いました。彼は自分勝手な解釈で適当なことを口にする人物なのでしょう」
こう語るのは京都仏教会常務理事の宮城泰年(聖護院門主)氏だ。京都仏教会は金閣寺や清水寺などの1000か所の寺が加盟する団体。なぜ西田氏は宮城氏に口撃を仕掛けたのか。
背景となったのが「北陸新幹線延伸」問題だった。西田氏は北陸新幹線の与党整備委員会委員長として「小浜・京都ルート」を推進してきた。同ルートは山岳地帯から京都市内まで地下トンネル掘り新幹線を通すというもので、環境面や財政面から疑問の声が噴出している。宮城氏が所属する京都仏教会も「千年の愚行」と反対した。宮城氏が語る。
「京都の北から南まで大穴(トンネル)が開くことで鴨川や地下水が汚染される可能性がある。鴨川の水は寺や祭りには不可欠であり、酒造、染物、豆腐、和菓子など地下水を必要とする産業も京都には多い。地盤沈下による文化財への影響も心配です。
太平洋戦争時のアメリカ軍でさえ文化財に配慮し京都空爆を行わなかったのに、京都選出の政治家(西田氏)が京都の街や自然を破壊しようとする。私は有史以来の愚行だと思っています」
そうした対立のなか、北陸新幹線問題を特集した英紙『THE TIMES』に西田氏のこんな発言が掲載されたのだ。
〈反対運動に西田氏は激怒しており(中略)宮城氏を“左翼の人物”であり、カンボジアの残忍な指導者ポル・ポトの支持者であると非難した〉(2025年3月15日付、日本語訳)
宮城氏が一笑に付す。
「私がカンボジアに行ったのはポル・ポトの“被害者”を支援するため。その後もカンボジアで学校再建や仏教復興の活動をしている。西田氏は事実を把握しないまま発言している。取材したタイムズ記者も呆れていた」
はたして、英紙に掲載された発言は事実なのか。西田氏に問い合わせると、取材を受けたことは事実だとして、西田事務所がこう回答した。
「取材で反対される宮城氏のことなどを質問され、報道を含めて知られる宮城氏がリベラル思考の強い方である点や、ウィキペディアで読んだベトナムやカンボジアでの宮城氏の平和活動の取り組みを記者の通訳の方に『こんな方だよ』と説明したもので、『ポル・ポトの支持者』とは言っていません」
西田氏の“発言力”が注目されているのは確かだ。
取材・文/赤石晋一郎(ジャーナリスト)
※週刊ポスト2025年6月20日号
【6月9日はご成婚記念日】天皇陛下と雅子さま「32年の変わらぬ愛」公務でもプライベートでも“隣同士”、おふたりの軌跡を振り返る
1986年に天皇陛下(当時の浩宮さま)と出会った当時、外務省への入省を控えていた雅子さま。おふたりのご成婚は、それから7年弱を経た1993年6月9日のことだった。親となり、そしてお立場が変わっても、変わることのない関係性を振り返る。
●1961年2月 陛下(浩宮さま)1才の誕生日。それまでの天皇家の「親子が別々に暮らす」という慣習をあらため、上皇ご夫妻の手元で育てられた。
●1964年 生後3か月頃の雅子さまと、父の小和田恆さん。1才のとき、恆さんの転勤に伴い露・モスクワに居を移された。
●1993年6月 ご結婚の直前、東宮仮御所で過ごされた雅子さまと陛下。陛下からのプロポーズの言葉は「ぼくが一生全力でお守りしますから」。
●1993年6月 「結婚の儀」が執り行われ、パレードでは約19万人が沿道から祝福した。無事にパレードを終え、仮御所に到着された際には、安堵したような表情も。
●1994年11月 ご成婚後、初めての外国訪問。サウジアラビアでは赤い砂漠を背景に、互いに写真を撮り合った。
●1997年11月 リラックスした様子を感じさせる、おふたりでの自転車移動。2024年5月にも、両陛下と愛子さまが一緒に自転車を走らせる写真が公開された。
●2001年12月 愛子さまご誕生。お祝いの記帳は、2日間で12 万人にのぼった。1才半のときには公園デビューをするなど、子育てでも最善の形を常に模索されていた。
●2002年8月 栃木県の那須御用邸に滞在中、那須連山の湿原を散策。8か月の愛子さまは、陛下に背負われご機嫌なご様子。
●2002年10月 牧場を散策中、牛と触れ合う愛子さま。生きものを愛する心も、親子の間でしっかりと受け継がれている。
●2002年12月 ニュージーランドと豪州を訪れた両陛下。ニュージーランドの景勝地ミルフォード・サウンドでは、カメラを手に野鳥の観察も。
●2002年12月 豪州・シドニーのタロンガ動物園にて、コアラを抱く雅子さま。友好親善のための海外訪問が叶ったのは、1994~1995年の中東7か国ご訪問から約8年ぶりだった。
●2008年3月 学習院幼稚園の卒業式にて、緊張したご様子の愛子さまと笑顔の両陛下。愛子さまの胸元には卒園生のお花が飾られている。
●2019年5月 皇位を継承して初めてお言葉を述べられた陛下と、お隣で見守る新皇后・雅子さま。
●2024年6月 御料牧場にてご静養中、たけのこ掘りを楽しむおふたり。レタスやミニトマトも収穫するなど、のびのびとした時間を過ごされた。
●2024年6月 両陛下が留学されていた思い出の地、英・オックスフォード大学を初めてご一緒に訪れ、庭に桜の苗木を植えられた。
●2025年1月 国立西洋美術館にて。愛子さまが公務をともに務められるようになり、両陛下も頼もしく感じていらっしゃることだろう。
●2025年4月 赤坂御用地で行われた園遊会にて。けして平坦な道のりではなかったが、32年前の言葉通り、陛下は一貫して雅子さまを守り、雅子さまも陛下を支え続けている。
撮影/雑誌協会代表取材、『女性セブン』写真部 写真/宮内庁提供、アフロ、共同通信社
※女性セブン2025年6月19日号
九州など雨が強まり土砂降りに 局地的には線状降水帯となるおそれも
今日9日(月)は九州の全域や四国で雨が降っていて、九州南部では断続的に雨が強まっています。
このあとも活発な雨雲が流れ込みやすくなる見込みです。局地的に発達した雨雲が同じようなところにかかり続ける場合は、線状降水帯となるおそれがあります。大雨による道路冠水や土砂災害などに警戒してください。
局地的には土砂降りの雨に
梅雨前線が九州の南岸付近まで北上しています。昨日から九州ではところどころで活発な雨雲が通過して、日付が変わってからも長崎県などで1時間に20mm以上の強い雨となった時間がありました。
7時現在は発達した雨雲は九州南部を中心に流れ込んでいて、宮崎県小林市では1時間に14.5mm、鹿児島県さつま町のさつま柏原では1時間に13.0mmの強い雨を観測しています。雨雲レーダーを見ると、一部には発達した赤いエコーも含まれていて、その下では一時的に土砂降りの雨となっています。
激しい雨のリスク高まるおそれ
明日にかけて梅雨前線はさらに北上し、九州は南部だけでなく北部でも雨が強まるところがある見込みです。特に、西側からの暖かく湿った空気が流れ込みやすい東シナ海側を中心に降水量が多くなるとみています。
上空に進んでくる気圧の谷の影響も合わさり、局地的には1時間に50mm以上の非常に激しい雨となるおそれがあります。湿った空気の流入が強まり、発達した雨雲が同じようなところにかかり続ける場合は、線状降水帯が形成されるおそれもあります。道路冠水や河川の急な増水などに警戒が必要です。
梅雨前線の活動が活発な状態は明後日11日(水)朝頃まで続く見込みで、多いところではこのあとも200mmを超える雨量が予想されています。この24時間ですでに100mm以上の雨が降っているところにさらに大雨となるため、土砂災害の発生にも警戒が必要です。
自治体からの情報などにも留意して、安全を第一に行動するようにしてください。
この政治家が今の日本にいてくれたら…GHQ占領下にあっても国民生活を最優先した「在任9カ月の首相」の功績
政治の世界では、時代を超えて同じ課題が繰り返し現れる。
2023年末から表面化した自民党派閥の政治資金パーティー収入を巡る裏金問題、立憲民主党と国民民主党など主要野党間の連携や共闘の模索、日本維新の会による「第三極」としての位置取りなど、現在の日本政治は明確な方向性を見出し難い状況にある。
経済面でも、OECD諸国の中でも高い水準にある相対的貧困率、約40年ぶりとされる歴史的な物価高騰下での実質賃金の継続的な低迷、正規・非正規雇用間の処遇格差といった構造的課題が深刻化している。
こうした政治的混迷、経済格差、社会の分断や党派対立が同時進行する状況は、実は戦後日本が何度か経験してきたものだ。危機の時代にこそ、過去の政治指導者たちがどのような選択をし、どのような結果を生んだのかを振り返る意味がある。
その一つが、1947年、敗戦後の混乱と極度の物資不足、激しいインフレーションの中で誕生した片山哲内閣の経験だ。経済再建、労働問題、連合国軍総司令部(GHQ)との関係調整といった複雑な課題に直面した日本社会党首班のこの連立政権の歩みは、現代日本の政治状況を考える上で示唆に富む。
しかし、この総理大臣は、たとえば鳩山一郎や吉田茂に比べて、知る人は多くないだろう。そこで、この「忘れられた総理」片山哲(1887-1978)の物語を振り返ってみたい。
片山哲とはどんな人物だったのか?
彼は戦後の混乱期に、わずか9カ月で終わった短命内閣の首相だった。決断が遅く、リーダーシップに欠けるとして「グズ哲」とあだ名された政治家。この評価は、異なる政治勢力間の合意形成を重視し、拙速な判断を避ける彼の政治スタイルに由来していた。
しかし、その「遅さ」の背後には、戦後日本の社会保障制度を築いた確かな実績があった。
労働基準法の制定(1947年)、児童福祉法の成立(1947年)、社会保険制度調査会の設置(1948年)など、現代日本の社会保障制度の基礎となる法整備を進めたのだ。こうした片山内閣下での構想や準備作業が、後の制度設計に重要な影響を与えたことは見過ごせない。
そこで、本稿では昭和恐慌期から戦後首相就任までの片山の歩みをたどる。戦前の政党政治、軍国主義の台頭、そして戦後民主主義という激動を生き抜いた「忘れられた総理」の足跡は、近年『愚図の英断』(鷹匠裕著、笠間書院)でも再評価されているように、政治的安定と経済的公正のバランスを模索する現代日本に示唆を与えている。
片山哲は戦後突然現れた政治家ではなかった。彼の政治キャリアは1930年代の昭和恐慌期にまでさかのぼる。
彼は経済政策の目的を一般市民の生活向上に置き、上からの経済回復ではなく、下からの購買力拡大による景気浮揚を目指した。この視点は、今日の分配政策や格差是正の議論に直結するものだ。
1929年10月、ニューヨーク株式市場の暴落から始まった世界恐慌は、巨大な津波となって日本経済を襲った。1930年から31年にかけての「昭和恐慌」は、日本社会の基盤を揺るがす壊滅的打撃をもたらした。
生糸や米の価格は半値以下に暴落。農村は悲鳴をあげた。「娘を売る村」「欠食児童」といった言葉が新聞を賑わせ、農家の自殺者が急増。都市部でも失業率が跳ね上がり、「窮民」と呼ばれる貧困層が社会問題になっていた。
このままでは日本の底辺層が崩壊する――。この危機感が、それまで分かれていた複数の無産政党(労働者や農民の政党)を統合へと動かした。
実際、1931年7月に労農党・全国大衆党・社会民衆党合同賛成派が合同し、さらに1932年7月24日に社会民衆党が合同して、「社会大衆党」が結成された。安部磯雄が委員長に、麻生久が書記長に就任し、片山哲は中央執行委員として党の幹部に名を連ねた。
社会大衆党の特徴は「現実主義」だった。マルクス主義政党が階級闘争や革命を主張する中、社会大衆党は現実的な政策提言による改革を重視した。「理論で飯は食えない」という当時の庶民感覚に寄り添い、具体的な生活向上策を打ち出したのだ。
弁護士経験を持つ片山哲は、この現実主義路線に共鳴した。抽象的な理論より具体的な制度改革や政策実現を通じた社会変革を志向する彼の政治姿勢には、法律家としての実践的思考が影響していたようだ。
当時の政府は「高橋財政」と呼ばれる経済政策を展開。1931年12月に蔵相となった高橋是清は、金本位制からの離脱、積極財政、低金利政策の三本柱で日本経済の立て直しを図った。この政策は一定の効果を上げ、日本経済は1932年後半から回復基調に転じた。
しかし、その恩恵は大企業や軍需産業に比較的大きく及んだ一方、農村や中小企業、一般労働者の生活改善は限定的だった。
国家全体の経済回復と普通の人々の生活向上は必ずしも一致しないという認識から、社会大衆党は独自の経済政策を打ち出していく。その基本理念が「民衆本位」だった。
これは、経済政策の目的はまず一般市民の生活向上にあるべきだという考え方で、次のような具体策が提唱された。
これらの政策の根底にあったのは「下からの経済回復」という発想だ。当時の政府政策が「上から」のてこ入れに重点を置いていたのに対し、社会大衆党は一般庶民の購買力を高めることで「下から」経済全体を活性化させようとした。
1930年代半ばの日本政治は、陸軍を中心とする軍部の影響力が急速に拡大し、政党政治の枠組みが根底から揺らぎ始めていた。国会の廊下では軍服姿の将校たちが目立つようになり、政策決定における軍部の発言力は日に日に強まっていった。
転機となったのは1934年10月、陸軍省による『国防の本義と其強化の提唱』というパンフレットの発行だ。このパンフレットは、国防を単なる軍事問題でなく、政治・経済・文化など社会全体に関わる概念として再定義する「総力戦体制」の思想を提示していた。
注目すべきは、現行の資本主義経済体制に対する批判的視点であり、これが社会大衆党内に波紋を広げることになった。
軍部の経済改革構想と社会大衆党の「民衆本位の経済」政策には一定の共通点があるとの認識から、書記長の麻生久や亀井貫一郎ら党幹部は軍部との協力関係構築に前向きな姿勢を示していった。
これに対し、片山哲を含む党内穏健派は、軍部の政治的影響力拡大に慎重な立場を取り、議会制民主主義の原則を守る必要性を党内会議で何度も指摘するなど、党内対立が深まっていった。
片山哲のこの時期の姿勢は、極端な対立を避け政策的実質を追求するという彼特有の現実主義に特徴づけられていた。背景には法律家としての経験から培われた「妥協による前進」という信念があったのだろう。
1937年7月、北京郊外の盧溝橋での小さな衝突が全面的な日中戦争へと拡大する中、日本の国内政治は急速に戦時体制へと移行していった。街頭では「挙国一致」「尽忠報国」のスローガンが踊り、批判的言論への統制も強まっていた。
社会大衆党も1937年11月の党大会で綱領を大幅に改正。創立時の「労働者、農民、一般勤労大衆の生活擁護」という表現は影を潜め、代わって「国体の本義に基づく国民の進歩発達」という国家主義的表現が前面に出された。
この転換は「聖戦協力」の表明であり、実質的に階級政党から国民政党への路線変更を意味していた。
この変化をどう評価すべきか。一面では、戦時統制強化の中で政党として存続するための現実的適応という側面があった。同時に、党内で力を増していた親軍派幹部の影響力拡大という内部要因も見逃せない。
麻生久を中心とする親軍派は、「陸軍パンフレット事件」以降、軍部との協力関係を積極的に模索し、国家社会主義的方向への転換を主導していた。片山哲らの穏健派は表立った反対はしなかったものの、静かな危機感を抱いていたことが後の回想からうかがえる。
片山自身は、党の方針転換の中でも、可能な限り社会政策の視点を維持しようと努めた形跡がある。公然たる抵抗は避けつつも、「国民生活の擁護」という観点からの発言を続けることで、戦争協力一辺倒ではない独自の立場を模索していた。
1940年2月2日、帝国議会において立憲民政党の斎藤隆夫が行った「支那事変処理に関する質問演説」は、日本政治史上に残る転機となった。斎藤は日中戦争の長期化と見通しのなさを批判し、「聖戦」の名のもとに継続される戦争の実態を鋭く問うた。
これに対し軍部と親軍的政党は猛反発し、「聖戦の目的を冒涜するもの」として斎藤の処分を求めた。
議会では斎藤の除名決議案が提出され、社会大衆党内でも対応が大きな問題となった。党内の対立は深刻で、麻生久らの親軍派が斎藤への厳しい処分を主張したのに対し、片山哲・安部磯雄・西尾末広ら旧社会民衆党系の穏健派は、これに反対した。
彼らの多くは斎藤除名の本会議採決に際して不登院(欠席)という形で事実上の棄権を行った。この行動は単なる個別案件への対応ではなく、戦時体制下における言論の自由と議会政治の本質に関わる原則的立場を示すものだった。
穏健派のこうした姿勢に対し、党の主流となっていた親軍派は強く反発。3月10日、麻生久らの主導により、片山哲ら旧社民系の議員8名は社会大衆党から除名処分となった。この処分は片山にとって社会大衆党への参加から8年目での別離を意味した。
除名後、片山らは「十日会」を結成したが、間もなく解散。その後、彼は衆議院倶楽部を経て鳩山一郎率いる同交会に入った。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補するも落選し、政界からいったん退くことになる。
話は少しさかのぼるが、1938年に社会大衆党内で提唱された「国民の党」という構想が提唱されていた。これは、単なる政党再編ではなく、日本政治の再構築を目指す野心的な試みだった。この構想は、特定階級ではなく国民全体を代表する「一国一党」を目指し、「協同社会」の理念に基づく新たな政治体制を目指すものだった。
ただ片山哲は、こうした全体主義的方向性に内心では批判的だったと思われる。彼が求めていたのは、階級闘争ではなく社会調和を基礎とした民主主義的な改革であり、それは戦後の日本社会党結成時の「民主的社会主義」の理念につながるものだった。
終戦を迎えると、片山は政界に復帰し、1945年11月の日本社会党結成に参加。そして書記長、委員長と要職を歴任した。
1947年、片山は日本の首相となるが、その就任過程は驚くべきものだ。衆議院の首班指名選挙で、426名中420票という圧倒的支持を得ているのだ。2位の吉田茂と齋藤晃はわずか1票。この419票差は、今日まで国会史上最大の記録となっている。
しかし、この圧倒的数字の裏には複雑な政治事情がある。日本社会党と民主党、国民協同党が連立を組み、保守的な吉田茂政権に対抗する思惑。そして左右両勢力のバランスを重視する占領軍(GHQ)の意向がそれだ。片山内閣は、戦後日本の複雑な政治力学が生み出した産物なのだ。
日本国憲法下で初めて、かつ日本初の社会党党首を首班とする内閣の誕生は、戦後日本の新たな政治体制構築への期待を担うものだった。しかし、その前途は茨の道であった。
まず、社会党、民主党、国民協同党というイデオロギーも支持基盤も異なる三党による連立政権は、常に内部分裂の危機をはらんでいた。
特に経済再建の柱とした「炭鉱国家管理法案」は、党内外の意見対立から大幅な修正を余儀なくされ、内閣の求心力低下を招く。加えて、占領下という特殊な状況下、GHQの意向と国内の現実との間で常に難しい舵取りを迫られた。さらに、片山自身が率いる社会党内部の左右両派の深刻な対立も、政権の安定を揺るがした。
このような極めて困難な状況下、わずか9カ月という短期間ではあったが、片山内閣が残した足跡は大きい。
戦後の劣悪な労働条件の改善を目指した労働基準法の制定(1947年)、弱い立場にある子どもたちの権利と福祉を保障する児童福祉法の成立(1947年)、そして国民皆保険・皆年金制度へと繋がる社会保険制度調査会の設置(1948年)は、その後の日本の社会システムの根幹をなすものだ。
これらの画期的な法制度の実現は、GHQによる民主化指令が大きな推進力となったことは論を俟たない。しかし、その理念を日本の社会・経済の実情に即した具体的な法文へと落とし込み、国内の多様な意見を集約して成立させるまでには、片山内閣による困難な調整と粘り強い努力が不可欠だった。
決断が遅いと「グズ哲」と揶揄されながらも、彼が貫いたのは、特定のイデオロギーや党派の利益を超え、国民生活の安定と向上という共通の目標を見据える姿勢だった。
それは、対立ではなく対話を通じて合意形成を図り、一歩ずつでも社会を前に進めようとする戦後民主主義の理念を、手探りながらも実践しようとする試みに他ならない。
この困難な状況下での合意形成の努力と、生活者の視点に立った政策立案の経験こそが、その後の日本の福祉国家としてのあり方や、多様な意見を調整しながら国政を進めるという(理想としての)政治文化の「礎」の一つを築いたと評価できる。
彼の政権運営は、失敗も含め、戦後日本の民主主義が直面した最初の試練であり、そこから学ぶべき教訓に満ちた貴重な経験として捉え直す必要がある。
片山哲が、戦後の混乱期にあって貫こうとした「民衆本位」の精神と、合意形成を重んじた「漸進主義」。これらは、政治不信が深刻化し、社会の分断が顕在化する現代の日本社会にこそ、重要な示唆を与える。
短期的な成果を追い求め、対立を煽ることで支持を得ようとする風潮の中で、片山が示した異なる意見に耳を傾け、粘り強く対話し、共通の着地点を探るリーダーシップは、現代の政治家が改めて向き合うべき姿ではないか。
地球規模の気候変動対策から、国内の少子高齢化、持続可能な社会保障制度の構築に至るまで、国民的コンセンサスなしには解決し得ない課題が山積する。こうした時代に、彼の「調整」の努力は、民主主義を機能させるための、時間と手間を惜しまない誠実なプロセスであったことを教えてくれる。
また、広がる経済格差や構造的な課題に対し、彼の「民衆本位」の理念――政策の出発点を常に一般の人々の生活向上に置き、最も弱い立場の人々への配慮を忘れない姿勢――は、経済効率や市場原理だけでは測れない、政治が果たすべき役割を改めて問い直す。
片山内閣が築こうとした「戦後民主主義の礎」。その経験は、成功も失敗も含め、多元的な価値観が共存する複雑な社会で、いかにして公正なルールを形成し、社会全体の幸福を追求していくかという、民主主義の根源的な問いへの格闘の記録なのだ。
参考文献
高橋彦博「片山内閣の成立過程:救国民主連盟と吉田内閣打倒国民大会」『社会労働研究』第19巻第3・4号, 1973年, 99-152頁.
渡部亮「昭和新党運動の重層的展開」『社会雑誌』第132編第2号, 2023年, 1-37頁.
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(政治社会学者 堀内 進之介)
中国空母「第2列島線」越える=南鳥島沖、米けん制か―防衛省
防衛省は9日までに、中国海軍の空母「遼寧」が東京・小笠原諸島の南鳥島沖約300キロの海域で活動していたと発表した。近海で戦闘機やヘリコプターの発着艦も確認。同諸島と米領グアムを結ぶ「第2列島線」を越える中国空母の活動は初めてで、米国をけん制する狙いがあるとみられる。
同省によると、遼寧とミサイル駆逐艦など計4隻は7日、南鳥島沖約300キロの排他的経済水域(EEZ)内を航行。8日には同島と硫黄島の中間地点で、遼寧の艦載機やヘリによる発着艦が確認された。
第2列島線は中国が有事の際、米軍の接近を阻止する防衛ラインの一つに位置付けているとされる。中国は空母の作戦能力向上や遠洋での運用を図っているとみられ、海上自衛隊の護衛艦「はぐろ」が警戒や情報収集を行っている。 [時事通信社]