[東日本大震災]
雑魚寝、冷たい食事、トイレの我慢……。大規模災害のたび、被災者の生活環境を守る難しさや災害関連死の問題が生じる。避難所運営には給水、居住空間の確保が不可欠で、政府は国際赤十字などが示した最低限の「スフィア基準」の達成を目指していく。ただ、自治体の予算や担当職員が限られ、実現には民間企業やボランティアの力も鍵となりそうだ。
物資や空調、自治体で差
スフィア基準は避難所の運営について、「居住空間は1人当たり最低3・5平方メートル」「飲料水、生活用水合わせて1日最低15リットル」といった指標を設けている。政府はこの基準を2030年度、再生可能エネルギー設備の導入などについては35年度まで、それぞれ100%の達成を目標とする。2年前の能登半島地震と豪雨災害で、多くの災害関連死が出たことも教訓としている。
内閣府が都道府県や市区町村を対象に実施した24年の調査によると、災害用の備蓄は簡易ベッド(段ボール式を含む)57万5204台、毛布1472万1159枚などだったが、担当者は「自治体によって偏りがあり、課題は少なくない」と言う。寒さだけでなく、酷暑も予想されるなか、全国8・3万か所の指定避難所では、空調機器の確保率が暖房は78%、冷房は74%ほどにとどまる。
この先も「南海トラフ地震」「日本海溝・千島海溝地震」など大きな災害が想定されるが、総務省によると、全国市区町村のうち2割超に防災専従の職員がいない。財政上の理由などから、46都道府県の計433市町村で配置がゼロ。複数業務を兼任するケースが多く、初動の遅れや、長期化した場合に大きな負担となる懸念もある。
こうしたなか、企業の活用を求める声も出ている。佐賀県唐津市危機管理防災課の井上裕太主査は「災害時は必要な作業量も多く、職員自身が被災する可能性もある。避難所運営を任せられると大きな力になる」と期待する。
佐賀県や唐津市は、避難所運営の業務を請け負おうと模索する大手ゼネコン清水建設の社内ベンチャー「シェルターワン」(東京)と合同訓練に取り組んだ。昨年10月に建設事業者やボランティアらを指揮し、エアコン付きテント、食堂や温水シャワーなどを設置した。
シェルターワンは、自治体の資機材を活用した速やかな避難所設営システムの構築を進める。災害発生から48時間以内にトイレやキッチン、食事スペースを設置できるように長野県諏訪市、佐賀県伊万里市などとも訓練に励んだ。児島功社長(45)は「災害時は専門的作業が多く、自治体職員だけの力には限界もある。民間に貢献できる業務の範囲は広い」と強調する。
跡見学園女子大学の鍵屋一教授(福祉防災)は「自治体職員の負担軽減には、ホテル、老人ホームなど民間の知恵を活用することが望ましい。ただ、費用面で国の補助が欠かせない」と指摘し、避難の長期化を見据えて「ニーズの把握は自治体の本来業務で、すべてを民間任せにするのではなく、被災者の自主性も含め役割分担が必要」と語る。
イタリアは州にボランティア登録
イタリアでは大規模災害が発生した場合、国の「市民保護局」が司令塔となる。各州にも市民保護局があり、連携して被災地に物資や要員を送り込み、被災自治体を支援するという重層構造になっている。
実際に現場で避難所運営にあたるのは訓練を受けた専門のボランティアだ。医師は被災者の診療、土木技術者は避難所の設営、調理師は炊き出し――と、個人の職業技術を災害対応に生かす仕組みだ。
こうしたボランティアは全国で約30万人に上る。州に登録され、必要に応じて招集される。定期的に州などが実施する訓練を受け、全国レベルでの合同演習にも参加して有事に備える。
イタリアのボランティアは日本のような「善意の市民」ではなく、国家の災害対応能力の一部とみなされている。このため、交通費や保険料などの経費は公的資金で賄われる。仕事を休む場合は、雇用主に補助金が支払われる。
2009年のラクイラ地震で大きな被害を受けた中部アブルッツォ州が昨年実施した訓練にはボランティア約2000人が参加した。州市民保護局のマウリツィオ・シェッリ局長は「我々とボランティアは、いわばオーケストラだ。全員で一つの『曲』を奏でなければならない。普段から交流し、信頼や一体感を醸成することが大事だ」と語る。
台湾でも官民の連携が進んでいる。東部・花蓮の当局は18年の大きな地震で、避難所を整えるのに2日を要し、被災者から不満が出た。この反省を生かして民間団体や企業と災害に備えた訓練を行ってきた。
24年に花蓮で震度6強を観測した地震では、発生10分後に役所近くの小学校で避難所の開設準備を開始。民間団体を交えたLINEグループで情報共有を図り、避難所にプライバシーを保護できる仕切りを設けた。飲食店などは温かい食事を被災者に提供した。
政府がリーダーシップを
東日本大震災時は、紙管を柱と梁(はり)にしてカーテンを通して使う「間仕切りシステム」を避難所で使ってもらおうとしましたが、「前例がない」と断られるケースも少なくなかった。これを教訓に、震災後は71自治体と協定を結び、迅速に供給できるよう改善しました。
日本の避難所運営は遅れている。イタリアは備蓄資材に統一の規格があり、シェフが作る温かい食事が提供される。台湾はボランティアが熱心で、海外の被災地でも活動しています。
日本はそれぞれの被災者を取り巻く生活の質がバラバラ。そもそも運営する職員が被災している。専門性のある国の職員、ボランティア、民間企業による運営が望ましいと考えます。
ただ、国が統一したルールを作り、明確な目標を定めなければ実現できない。政府のリーダーシップが問われていると思います。
地方部 長谷裕太、ベルリン支局 工藤彩香、台北支局 園田将嗣、編成部 十河靖晃、デザイン部 石崎紬音が担当しました。
『そろそろ帰ってきませんか』『ダメ出しを下さい』 “会えなくなってしまった”彼方のあなたへ…それぞれの思いつづった“15年目のメッセージ”『every.特集』
岩手県山田町。東日本大震災で甚大な被害を受けたこの町で、震災から15年がたった今だからこそ伝えたい思いをつづったメッセージが募られた。
気持ちがすれ違ったまま旅立ってしまった「幼なじみ」へ。いつもそばにいた「家族」へ。そして、優しかった「おばあちゃん」へ…など、「もう一度あの人に会えたら、伝えたいこと」をテーマにメッセージが寄せられた。
そして、メッセージを寄せた方たちを訪ね、話をうかがうと、あの日を境に会えなくなってしまった大切な人を思い続けながら、一歩前へ進もうとする応募者の15年が見えてきた。
太平洋を臨む、岩手県山田町。
2011年3月11日、この町を襲った大津波で680人を超える尊い命が失われ、いまも139人の行方が分かっていない(※関連死を含む・2026年2月現在)。
15年の月日が流れた山田町で、“ある募集”が行われた。それは、あの日を境に“会えなくなってしまった人”へ向けたメッセージを募る試みだ。
メッセージを寄せた方を訪ねると、大切な人を思い続けるそれぞれの15年があった。
東日本大震災で、甚大な被害を受けた山田町。震災15年にあたり、メッセージを募ったのには理由があった。
山田町 生涯学習課の福士幸枝さんは「記憶の風化がまず課題だなと思っています。やっぱり伝承は大事だなと思って、15年目の機会にメッセージという形で事業を行おうと思いました」と話す。
寄せられた20通は冊子にし、後世に語り継ぐ資料にすると言う。
『天国から見てダメ出しを下さい』
『会いたい あなたに』
『海に会いに行きます』 (すべてメッセージより抜粋)
その中の1通には、こうあった。
『たった一人の孫からのお願いです。そろそろ帰ってきませんか。家族で待っています』
『帰ってきませんか』、この一文が気になり、メッセージを書いた方に取材をお願いした。
そのメッセージは、山田町に暮らす、震災で被災した長根さん家族の娘の璃歩(りほ)さんが書いていた。
取材スタッフの「誰に向けてのメッセージか」の問いに、璃歩さんは「おばあちゃんですね」と答える。
宛先は、一緒に暮らしていた祖母の享(きょう)さん(当時78歳)。あの日、愛犬と避難する途中、津波に遭い、15年たった今も行方は分かっていない。
おばあちゃんは折りに触れ、「津波には気を付けろ」と、璃歩さんたちに伝えていたと言う。
長根璃歩さん
「家族の中で一番『(地震が来たら)避難するように』と、ずっと言っていたおばあちゃんだったので、ちょっと信じられない。そう言っていた、おばあちゃんだったのに『なんで?』って…」
たった1人の孫は、さぞかしかわいかっただろう。先に夫を亡くした享さんは、学校の宿題などいつも気にかけてくれた。
津波の怖さを、口を酸っぱくして教えてくれたおばあちゃん。中学2年だった孫娘は、29歳になった。
璃歩さんは「15年たったからこそ、自分が考えたり、思ったことを改めて文章にして振り返れないかなって」と話す。
璃歩さんらは、おばあちゃんと暮らしていた自宅の近くへ向かう。璃歩さんはおばあちゃんへ、こんなメッセージをつづっていた。
『おばあちゃんへの手紙 たった一人の孫より
普段から家庭で津波のことについて話していたので、一番話してくれたおばあちゃんのことだから、愛犬と裏山の八幡様へ避難しているものと強く信じていたんだよ。
あれから15年。いつも仏壇で話しているように、学校を卒業、就職し、2年前に県外からUターンして両親と同居して、またにぎやかに暮らしていること、見ていてくれたよね。
いつも見るおばあちゃんは、写真で笑っているけれど、時々声を聞きたくなります。
たった一人の孫からのお願いです。そろそろ帰ってきませんか。家族で待っています』
よくおやつを作ってくれたおばあちゃん。声が聞けなくなり、15年がたった。
璃歩さん
「『15年たって大人になりましたけど、私はあのまま、いつも通りの孫のままですって、いつも通り、当時のままの孫として待っているので、早く帰ってきてください』っていう感じですね」
たった一人の孫からの節目の便りは、「彼方(かなた)のおばあちゃんへ」届いただろうか――
メッセージの中に、誰に宛てたものか分からない1通があった。
『天国から見てダメ出しを下さい』
誰を思い書いたのか、取材をお願いすると快く応じてくれた。
このメッセージを寄せたのは、山田町で生まれ育った後藤夕香里さんだ。彼女は地震当日、娘の結婚式で町から離れていたため、家族3人全員無事だった。
現在県内の婦人会で活動する彼女に、取材スタッフが「どなたに向けて書かれた?」に尋ねると「幼なじみです」と答えた。
メッセージは“のりちゃん”と呼ぶ、幼なじみの河西典子さんへ宛てたものだった。
今回“のりちゃん”へメッセージを書いたのは、誤解が解けないまま彼女と会えなくなったことを「ずっと後悔しているから」だと教えてくれた。
15年前のあの時、母親と孫2人で自宅にいたのりちゃんは、震災から半年後に、無言の帰宅をしていた。
「(幼い頃は)もう近所で、気がついたら隣にいたっていう感じで。本当になくてはならない人だった、自分にとっては」と後藤さんは話す。
家がはす向かいで、同い年。優しく静かで、何でもできたのりちゃんは、そばにいるのが当たり前の存在だった。2人きりで旅行に行ったこともあった。
のりちゃんは結婚後、夫が経営する海苔(のり)の卸の手伝いに、実家の事や孫の世話と、忙しい毎日を送っていた。
一方の後藤さんも、夫の仕事を手伝いながら、合間を縫い、地域のボランティア活動に参加し、忙しくも充実した日々を送っていた。
後悔のきっかけは、東日本大震災の半年ほど前に、のりちゃんのところで海苔を買おうと訪ねた時のことだった。
後藤夕香里さん
「私が『(地域のボランティアで)のり巻きを作るから』って言ったら、(のりちゃんが)『いいね。自分が好きなことができるんだもの』って言われるの。すごくきくよ、そう言われると」
「好きな事が出来る時間があっていいね…」という、のりちゃんの言葉に「いやいや私だって、仕事も家事も精いっぱい頑張っているのよ」と返せなかった後藤さん。
心通じていると思っていた人からの、思いがけない一言が胸の奥に刺さったまま、のりちゃんは二度と会えない人になってしまった。小さな後悔が、大きな後悔になった。
だから後藤さんは“のりちゃん”を宛先に選んだ。今の自分が、彼女からどう見えているかと。
後藤さん
「“私も生きて15年間、必死でここまで頑張っていたよ”っていうのを認めてもらいたいのがあったんだと思う」
そして、考えながらこう続ける。
「私はのりちゃんに認めてもらいたかったのかな、自分が頑張っているのを」
“のりちゃん”のいない15年。ふるさと山田町で、自分なりに頑張ってきた姿を幼なじみは、見ていてくれただろうか――
幼い頃、のりちゃんと遊びに来た浜辺から、彼女へ“15年目のメッセージ”を届ける。
『天国の貴方(あなた)へ
しばらくは貴方の死を受け入れることが出来なかった私ですが、震災から2年位たった頃、目にいっぱいの涙をためた貴方の夢を見ました。
最後のお別れに来てくれたのかなと思うと、寂しい気持ちがこみ上げて来ました。
それから間も無く私は、地域婦人活動に参加する様になりました。
もう少し地域のために頑張りたいと思いますので、天国から見てダメ出しを下さい』
貴方のいないこの「ふるさと」で、私なりに、これからも頑張っていく――
帰り道、後藤さんはのりちゃんの夫・寛太郎さんの家へ向かった。震災後は足が向かなかったというこの家を、後藤さんが訪ねるのは初めてだ。
今回改めて深く、のりちゃんと向き合った事が背中を押したのだろうか。
後藤さんは、のりちゃんの遺影に手を合わせる。幼なじみとの静かな再会。
2人だけの時間。後藤さんは、少しほほえんだように見えた。
典子さんの夫・寛太郎さん
「近くにね、夕香里ちゃん(後藤さん)たちみたいな、同級生もいっぱいいたし、典子は幸せだったかもしれない…」
後藤さんは、じっと遺影を見つめ続けた。
後藤さん
「(この家に)来られなかったのは、(亡くなったことを)受け入れるのが嫌だったから、来られなかったんだと思う」
「(のりちゃんが亡くなったのを)信じたくないけど、やっぱり受け入れないとダメだね」
そして、後藤さんの「私もこれから来られる、ここに」という言葉に、典子さんの夫の寛太郎さんも「来て」と返す。
心の整理は、まだまだだけど、“のりちゃん”の事はずっと忘れない。また、夢で会える事を信じて――
山田町が“15年目のメッセージ”を広く募集しようとなったのは、町に関わる“ある出来事”が関係していた。それは、2025年10月に報じられたニュースにあった。
2023年、山田町からおよそ100キロ離れた宮城県の海岸で見つかった“小さな骨”が、山田町の山根捺星(なつせ)さんのものと判明。地震から14年7か月ぶりの帰宅だった、というものだ。
このニュースは、2025年10月16日のnews every.でも報じている。
震災当時6歳だった女の子が、ようやく家族の元へ帰れた事が、メッセージを募集するきっかけとなっていた。
捺星さんの5歳上の兄、山根大弥(だいや)さんが話を聞かせてくれた。現在、山田町の役場に勤務している。
生クリームのケーキが大好きで、小学校入学を控えていた、なっちゃん。14年7か月ぶりの帰宅は「おかえり…」の言葉で迎えた。
山根大弥さんは涙を拭いながら話す。
「見つかってよかったって気持ちもありますし、(震災前の)元気な姿しか見ていないので、あんな妹がこう、こんな小っちゃな…。顎の骨の一部だけになって帰ってきたっていうのは、やっぱり、悲しかったっていう記憶もありますね」
大弥さんが捺星さんのいないことに気づいたのは、震災翌日だった。両親は何も答えてはくれなかった。
大弥さんは当時を振り返る。
「妹としょっちゅうケンカしました。最後もケンカしたんですよ。私も(当時)小学生だったので、小学校に行く前に、急にイスを投げられて、腹を立ててしまって、ちょっと怒って泣かせてしまったんですよね。っていうのが私が妹に最後に会った時ですね」
3月11日が近づくと気持ちが沈んでいく。その繰り返しだった。大弥さんは、「町の復興に携わりたい」と町役場に就職した。
お兄ちゃんから、5つ違いの妹へ“15年目のメッセージ”。
『捺星へ
まずはじめに「おかえり」。
気づけば、兄ちゃんは、小学生から社会人になりました。今は山田町役場の職員として働いています。
兄ちゃんはこれからも、捺星の分まで精いっぱい生きて行こうと思います。
そして、また会えた時に話せるように、捺星に聞いてほしいこと、伝えたいことをたくさん用意しておきます。
また、会いましょう 兄ちゃんより』
サヨナラを言えなかった「遠い彼方のあなたへ」。メッセージには、大切な人を思い、過ごした15年がつづられている。
(2026年3月11日放送「news every.」より)
奪った現金で200万円相当「ウブロ」の高級腕時計や1000万円相当「アルファード」購入か…上野4億円強盗事件で”指示役”など男7人逮捕
今年1月、東京・上野の路上で現金4億円あまりが奪われ、きのう、男7人が逮捕された事件で指示役とみられる男が犯行後、1000万円相当の高級車などを購入していたとみられることがわかりました。
この事件は今年1月、台東区東上野の路上で、現金およそ4億2300万円を奪い、男性(43)に催涙スプレーをかけたとして「指示役」とみられる、指定暴力団・山口組弘道会系の組幹部、狩野仁琉容疑者(21)ら男7人が逮捕されたものです。
その後の取材で狩野容疑者が犯行後、奪った現金の一部で200万円相当の「ウブロ」の高級腕時計や1000万円相当の高級車「アルファード」を購入していたとみられることがわかりました。
警視庁は家宅捜索で現金2750万円を押収していますが、残る4億円近くは見つかっておらず、調べを進めています。
「実際に避難者っているんだ」震災を知らない世代へ…福島原発事故の避難者たちが学生とともに被災地を巡る【東日本大震災から15年つなぐ、つながる】
被災地の今を見つめる、シリーズ「つなぐ、つながる」です。東日本大震災の記憶や教訓を伝えようと、福島から1000キロ以上離れた愛媛で活動を続ける避難者たちがいます。
福島第一原発事故を受け、福島から愛媛に避難している渡部寛志さん(47)。同じ立場の仲間たちとNPO法人を設立し、記憶や教訓を伝えるため、自身の経験を語ったり、学生を被災地に案内したりする活動を続けています。
福島から愛媛に避難 渡部寛志さん 「月日が流れれば流れるほど、当事者じゃない人たちにとっては自分事として考えることが難しくなってくると思う」
発生から15年、渡部さんは若い世代に現状を伝える動画を制作するため、一緒に活動する学生たちを再び被災地に連れていくことにしました。
愛媛の大学生 「最初は全然興味がなくて、(渡部さんと出会い)実際に避難者っているんだと思ってから震災や災害に興味を持つようになった」
学生たちは撮影を行いながら、岩手や宮城を巡ったのち、渡部さんのふるさと、福島へと向かいました。当時の記録や現状に触れます。
福島第一原発が立地する福島県双葉町も訪れました。NPOのメンバーで、この町から愛媛に避難している澤上幸子さん。今も避難指示が続く自宅に向かいます。
福島から愛媛に避難 澤上幸子さん 「結構、変わっている…何もない」
解体が決まり、家財道具などが全て撤去されていました。
自宅前の田んぼは、家屋の解体などで発生した廃棄物の仮置き場になっていました。
愛媛の大学生 「なんでここが仮置き場に?」
福島から愛媛に避難 澤上幸子さん 「見えない場所だからじゃない?あれがあると、みんな嫌だよね。住民は戻ってこなくなる。これが見える所には戻ってこない。最後の最後、この辺は」
愛媛の大学生 「復興が進んでいるというより“終わらせている感”」 「片付けという感じがする」
そして迎えた3月11日。制作した動画の上映会が開かれました。
「田んぼは廃棄物の保管場所になっていました。もう15年。私は15年も経っているなら、もうすこし未来に進んでいるものだと思っていました」
福島から愛媛に避難 渡部寛志さん 「あの時のことを忘れさせないと、学生たちが始めてくれているのは非常にうれしく感じる3月11日だった」
渡部さんたちは愛媛から、あの日の記憶と教訓をつなぎ続けます。
衆院選で議席半減の共産党、「重大な後退」と総括…来春の統一選での地方議員増が「反転攻勢への突破口」
共産党は15日、党本部で第8回中央委員会総会を開き、2月の衆院選結果を「重大な後退」と総括する決議を採択した。
決議は、敗因について「党の自力の不足」などと指摘した上で、比例選各ブロックの得票や議席の目標を示すのが遅れたことを反省点に挙げた。党後援会活動の推進やSNSでのショート動画の発信強化なども課題とした。
今後の国政選の比例選での得票目標に「450万票、7・5%以上」を掲げた。来春の統一地方選で地方議員を増やすことで、「国政選での反転攻勢への突破口を開く」と強調した。
共産は衆院選で4議席と公示前から半減し、比例票は約252万票にとどまった。
「外国人労働者の春闘」でデモ行進 差別にも反対 東京・上野
日本で働く外国人労働者の権利を守り、差別や排外主義に反対するデモ行進「マーチ・イン・マーチ2026」が15日、東京都台東区上野公園周辺で行われた。昨年の参院選を前後して、外国人労働者をターゲットにした批判的な言辞が増えたことに労働者や市民の間に危機感が広がり、昨年を上回る350人が参加した。
デモは、1993年に、外国人労働者の労働条件向上と権利獲得を訴える「外国人労働者の春闘」として、外国人を組織する労働組合や市民団体などが始めた。多様なルーツを持つ労働者が集まり、一斉に声を上げ、「私たちはここにいる」と訴え、共生社会の実現を目指してきた。
デモの実行委員会を構成する労組の一つ全国一般労働組合京南部の中島由美子委員長によると、昨年の参院選以降、外国籍の組合員から「電車の中などで冷たい視線を感じる」「職場で差別的な扱いを受けている」などの相談が増えたという。中島さんは「30年外国人問題に取り組んでいるが、ヘイトの広がりに危機感を感じる」と話す。今回、他の労組や市民団体に職場の実態を伝えるとデモへの参加が広がった。
デモは、サンバ隊を先頭に「ヘイトにNO」「労働者分断にNO」などのプラカードや「コンビニのお弁当を作っているのは私です」「クリーニング店でアイロンをかけているのは私」など社会の中で働く姿をアピールした。外国人労働者の男性は「この国で働き、税金を払い社会に貢献している。移住は犯罪じゃない、生きることは犯罪じゃない」と訴えた。
実行委は、よりよい多民族・多文化共生社会を求める「ヘイトにNO!全国キャンペーン」の取り組みを強めたいとしている。【東海林智】
「違法性はない」 れいわ新選組、元所属議員の週刊誌告発に反論も物議
れいわ新選組が12日に公式X(旧Twitter)を更新し、元所属議員が告発した週刊誌報道に対し反論した。
11日、「デイリー新潮」(新潮社)が報じた、れいわ新選組の「公設秘書枠を党に上納する」というシステム。超党派議員団としてイスラエルを訪問したことをきっかけに今年1月に同党を離党した多ケ谷亮前衆院議員と同党の代表である山本太郎氏の元私設秘書の証言をもとにした報道となっていた。
報道によると、れいわ新選組は、所属する国会議員に対して公設秘書の枠を党に差し出すことを求めているとのこと。多ケ谷氏は党に言われるがままに党の男性職員を第一秘書としたものの、男性は秘書としての勤務実態はなかったとのこと。
なお、国会議員の公設秘書の給与は国費から支払われることになっている。多ケ谷氏はこうした同党の指示を「党の人件費を浮かしたいから」と推測。さらに報道では、このシステムに協力した議員に報酬が入る制度もあったと報じられていた。
報道について、れいわ新選組は12日に公式Xで「記事の内容は、当方の認識する事実とは大きな相違があり、非常に問題があると考えております。党の名誉を損なう内容が多く含まれ、守秘義務にも反しており、当方としては弁護士と相談し対応を進めています」と発表。
また、公設秘書問題については、「れいわ新選組のような少数政党では、国会議員全員が党役員となり、重要な党務を担っています。そのため、議員事務所の体制についても党と各議員が相談しながら整備してきました」とし、弁護士にも相談した上で違法性はないという認識を示した。
さらに、党が多ケ谷氏に公設秘書の枠を差し出すよう求めたことについては、「事実はありません」と否定。「議員活動と党務の双方を担うことが可能な人材について、議員と相談のうえ公設秘書として採用いただくケースはありますが、いずれも党と議員との合意に基づくものであり、強制的に決めるようなものではありません」と説明。
一方、協力した議員に報酬が入る制度については支給を認めていた。
釈明に対しXからは、「『守秘義務にも反しており』とありますが、虚偽の事実なら守秘義務違反にはならないのでは?」「結局、党職員を議員秘書にあてがってたんやんけ」「苦しい言い訳にしか聞こえません」という批判が集まっていた。
衆院選で大きく議席を減らしたれいわ新選組。この問題はまだ広がりを見せそうだ。
名大関・若嶋津が死去、69歳 「南海の黒ヒョウ」で人気 みづえ夫人「親方、ありがとう」
「南海の黒ヒョウ」の愛称で人気を誇った元大関・若嶋津の日高六男(ひだか・むつお)さんが15日午前11時34分、肺炎のため千葉県鎌ケ谷市内の病院で死去した。69歳。鹿児島県出身。
夫人で元歌手のみづえさんによると昨年夏から体調を崩し同施設で入院。この日、家族らに見守られて天国へ旅立った。みづえ夫人は「親方には、ありがとうという気持ちです」と感謝の思いを口にした。
日高さんは鹿児島商工(現樟南高)から角界入り75年春場所に「土俵の鬼」と言われた第45代横綱の初代・若乃花が師匠の二子山部屋に入門し、初土俵を踏んだ。80年春場所で新十両昇進。81年初場所で新入幕。83年初場所で大関に昇進した。幕内最高優勝は2度。引退後は松ケ根部屋を興し小結・松鳳山ら関取7人を育てた。
《若嶋津年表》
▼1957年1月12日 鹿児島県種子島に生まれる。8人兄弟の末っ子で6男。
▼1974年 鹿児島商工高(現樟南高)入学と同時に相撲部に入部。3年時に県選抜チームの大将として茨城国体に出場。団体優勝に貢献。
▼1975年春 二子山部屋に入門。師匠は初代・若乃花の花田勝治氏。三月場所で「日高」のしこ名で初土俵を踏む。
▼1980年三月場所 新十両昇進と同時にしこ名を「若島津」に改名。
▼1981年一月場所 新入幕で10勝を挙げ敢闘賞を受賞。
▼同年十一月場所 横綱・北の湖を破り初金星。
▼1982年一月場所 北の湖から2場所連続金星を獲得するなど12勝を挙げ技能賞を受賞。
▼同三月場所 三役昇進(関脇)
▼同九月場所 敢闘賞・技能賞を受賞。
▼同十一月場所 技能賞を受賞。
▼1983年一月場所 大関に昇進。9月場所で「若嶋津」に改名。
▼1984年三月場所 14勝1敗で初優勝。
▼同七月場所 15戦全勝で二度目の優勝。
▼1985年9月27日 歌手の高田みづえさんと挙式。
▼1987年七月場所 場所中に引退。通算515勝330敗21休。年寄「松ケ根」を襲名。
▼1990年2月 二子山部屋より分家独立し松ケ根部屋を興す。
▼1999年三月場所 若孜(中尾)が十両昇進
▼2000年一月場所 若光翔が十両昇進
▼同五月場所 若東龍が十両昇進
▼同十一月場所 春ノ山が十両昇進
▼2010年五月場所 松谷(松鳳山)が十両昇進。
▼2014年4月 日本相撲協会の理事に。
▼同12月1日 年寄「二所ノ関」を襲名。
▼2017年10月19日 船橋市内の路上で倒れる。
▼2019年七月場所 一山本が十両昇進
▼2021年12月 元横綱・稀勢の里の荒磯親方と名跡を交換。放駒親方(元関脇・玉乃島)が旧二所ノ関部屋を継承。
▼2022年1月11日 日本相撲協会を定年。参与として協会に残る。
▼同三月場所 島津海が十両昇進。
▼2023年7月 日本相撲協会を退職。
あの日、被災した12歳は“父親”に…「繰り返してほしくない」東日本大震災を知らない世代へ 津波の記憶つなぐ 北海道
【動画】あの日、被災した12歳は“父親”に…「繰り返してほしくない」東日本大震災を知らない世代へ 津波の記憶つなぐ 北海道
あの日から15年。
東日本大震災で被災した12歳の小学生はいま、娘を持つ父親になりました。
震災を知らない世代が増えるなか、津波の記憶をつなごうと活動する男性の姿を追いました。
「亡くなった方も道端にいた」被災の経験を語り継ぐ
(渡邊滉大さん)「僕の家があった場所というのが、ちょっと坂を上った所の位置でして、津波、まあ来ないだろうなという思いでいました。僕の家の方も基礎しか残っていませんでした」
被災した経験を語るのは、渡邊滉大さん27歳。
ふるさとの宮城県で東日本大震災にあいました。
(渡邊滉大さん)「マチはこんな感じで流されてしまっているので、(流された自宅に)行く道中は倒れた家だとか、大きい魚がごろごろいるような。亡くなった方ももちろん、道端にはいました」
現在、札幌市内の会社に勤めている渡邊さん。
15年前のあの日は、まだ小学6年生でした。
(渡邊滉大さん)「3月11日。あの日は雪が降っていたので。こんな感じのうっすらの雪」
渡邊さんのふるさと・宮城県女川町。
押し寄せた津波で800人以上が犠牲となり、マチは壊滅的な被害を受けました。
(渡邊滉大さん)「パキパキパキというすごい音が鳴って、その瞬間、誰かが『津波だ』と叫んだ。その声と同時に焦って逃げるように小学校のちょっと上に総合体育館があったので、そっちの方にみんなで逃げていく」
自宅にも津波が達し、親戚や知人が犠牲になった渡邊さん。
選んだ道は、橋や道路を補修する仕事でした。
(渡邊滉大さん)「補修業界で、補修したことによって、災害が起きたときに緊急車両とかがいち早く現場に着けるような、違う角度から人の命を守る」
「災害からいのちを守りたい」。
その思いの原点が、女川に建てられた「いのちの石碑」です。
「いのちの石碑」は、渡邊さんが中学生の時に同級生と考えた防災の取り組みです。
津波が到達した地点よりも高い場所に、避難の目印となる「いのちの石碑」を設置。
費用は募金でまかない、21基の石碑が完成しました。
「千年後の命を守るために」。
石碑には中学生たちの思いが刻まれています。
震災から15年。
当時12歳の少年は“父親”に「家族を守りたい」気持ちに変化
渡邊さんにも家族ができました。
妻の琳茄さんと娘の莉陽ちゃんです。
宮城県石巻市出身の琳茄さんは自らも被災した経験があります。
(渡邊琳茄さん)「私たちが子どもの時に震災に遭って、悲しい思いだったり辛い経験をしたことを、できるだけ同じ思いはしてほしくないなと思うので」
「いのちの石碑」に取り組んだ渡邊さん。
社会人になってからも避難の教訓を伝える活動を続けています。
(渡邊滉大さん)「家族が増えて、家族を守りたい、自分の身を守ってほしい、そういう気持ちは強くなってきているかなと思います。これから震災を知らない子たちが何か起きたときに対応できるように、それをモチベーションにやっています」
甚大な被害をもたらした東日本大震災。
実は北海道太平洋沖の千島海構沿いでは、それと同じクラスの超巨大地震と津波が切迫している可能性があります。
(北海道大学 高橋浩晃教授)「大体400年に1回ぐらいのペースで(地震が)繰り返し起こってきているということが明らかになっています。そして、前回の地震が今から400年前に起こったと、これも確かめられておりますので、次の地震はもう満期に達している」
千島海溝沿いでは、陸側のプレートの下に海側のプレートが沈み込んでいますが、北海道大学などの研究チームが海底観測をした結果、海側と陸側のプレートがそれぞれ年間8センチ動いていることを確認しました。
プレートの境界付近に巨大地震を引き起こすひずみが蓄積している可能性が高くなっていると分析しています。
(北海道大学 高橋浩晃教授)「400年の間に30メートルたまったエネルギーが一気に放出して大きな地震が発生する。超巨大地震が起こりますと、東日本大震災と同じような超巨大な津波が発生して、それが太平洋沿岸を襲うということになりますので、現在の想定では高さで言うと20メートルを超えるようなところもある」
子どもたちに震災の教訓を…「いつか思いがつながれば」
この日、渡邊さんは講演のため、家族と一緒に旭川市を訪れました。
渡邊さんの同級生で、一緒に「いのちの石碑」に取り組んだ鈴木智博さんも宮城県から駆け付けました。
(渡邊滉大さん)「こういうタイミングでしか会う機会ないからね」
(鈴木智博さん)「ていうかこういうのも久々、かなり久しぶりだもんね。やっぱり15年経ってくるとなかなかちょっと少なくなってくるっていうのもあるし、お互いに引っ越したり仕事もある、少なくなってくる。呼んでもらえるのはありがたい」
(渡邊滉大さん)「本当にありがたい」
3年ぶりの再会を喜ぶ間もなく、すぐに入念な打ち合わせに入ります。
震災の教訓を語り継ぐ講演会には、地域の住民や子どもたちが集まりました。
ステージの傍らに設置されたのは、「いのちの石碑」のレプリカです。
(渡邊滉大さん)「いま私たちの故郷の女川に何ができるか考えてみようというのが一番最初の授業でした。まず1つめ・絆を深める。2つめ・高台に避難できる街をつくる。3つめ・記録に残し、未来へ伝える。まだ若い世代だと思うので、将来、例えば僕が札幌で仕事をするように、どこで仕事をするかわからないような状態で、その時にタイミングが悪くてってこともあるかもしれない。そんなときに何か僕たちのこの話が役に立っていただければ幸い」
(鈴木智博さん)「震災後に起きた大津波によってふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が奪われました。悲しみで涙を流すひとが少しでも減り、笑顔溢れる町になるよう祈り、そして信じています」
「悲劇は2度と繰り返してほしくない」。
その思いを15年前の2人と同じくらいの子どもたちにも伝えます。
(小学生)「こんなにも大きな被害が出ているとは思っていなかった」
(小学生)「自分の身の回りのことを気にしながら、そういう(防災の)ことを考えていきたいと思います」
(小学生)「今回だけでこの話を終わらせてはいけないと思うし、友達とかにもしっかり伝えて、災害の恐ろしさをずっとずっと伝えていきたいと思いました」
(渡邊滉大さん)「15年が経つんだなっていうこと、僕も被災した当時はそのくらいの子だった。こんな話をして響くのかなって今の僕からしたらも思うんですけど、少なからずこの思いがどこかに響いて、つながってくれればいいなって思います」
「千年後の命を守るために」。
震災を知らない子どもたちに記憶をつなぐリレーはこれからも続きます。
《園遊会で「りくりゅう」と対面はあるか?》愛子さま、スケートはお得意でご学友とリンクに足を運ばれたことも 同い年の三浦璃来選手と“女子トーク”に期待
3月8日、東京ドームで行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本対オーストラリア戦を観戦された天皇皇后両陛下と愛子さま。両陛下とともに侍ジャパンの激戦を目撃された愛子さまはこの春、立て続けにお出ましを控えていらっしゃる。
【写真】愛子さまがボブヘアにイメチェン!ブルーの“リンクコーデ”でWBCを観戦される天皇ご一家。他、『桃太郎電鉄』のグッズを着用するりくりゅうペアや武豊・佐野量子夫妻と懇談される愛子さまなども
「3月下旬には、東日本大震災の被災地である岩手・宮城両県、4月上旬には福島県を両陛下とともにご訪問。そして4月中旬には、東京・港区の赤坂御苑にて春の園遊会が催され、愛子さまも客人をもてなされる予定です」(皇室ジャーナリスト)
園遊会は、毎年春と秋に天皇皇后両陛下の主催で開かれる社交の場。首相や閣僚、各国大使に加え、各界の功績者が招待され、招待客には“天皇の料理番”である宮内庁大膳課が腕によりをかけた料理が振る舞われる。間もなく開催される春の園遊会について、とある宮内庁関係者は「ミラノ・コルティナ五輪のメダリストたちが招待されるでしょう」と語る。
「オリンピックイヤーの園遊会には、メダリストが招待されるのが恒例です。今回の五輪では開催地と日本は8時間ほどの時差がありましたが、ご一家はそろって、御所のテレビで試合を観戦されていました。陛下のお誕生日には大会マスコットを手に、仲睦まじげに会話されるご一家の写真も公開されています」(宮内庁関係者)
冬季五輪では過去最多の24個のメダルを獲得した日本選手団。その中でも国民の話題をさらったのが、フィギュアスケートの「りくりゅう」こと三浦璃来(24才)・木原龍一(33才)ペアだろう。
「日本ペア史上初のメダル獲得が期待されていたりくりゅうですが、満を持して臨んだショートプログラムでは、得意のリフトでまさかのミス。5位発進となりました。しかし、一夜明けたフリーでは渾身の演技を披露し、世界歴代最高得点をマーク。大逆転で金メダルを獲得したのです。逆境を跳ね返した2人の姿は、日本中の涙と感動を誘いました。それと同時に、2人の強い信頼関係や仲のよさも注目されています」(スポーツ紙記者)
ショートでの失敗に沈む9才年上の木原を激励し、“お姉さん”ぶりを発揮していたことでも話題になった三浦。実はこの三浦、愛子さまと同い年で、誕生日も2週間ほどしか離れていない。
「テレビで感動の瞬間を目の当たりにされた愛子さまにとって、三浦選手はまさに“同期の星”でしょう。 園遊会に招待される約2000人のうち、皇族方との会話がニュースなどで報じられる招待者は毎年数人です。今回はりくりゅうが選ばれるとの呼び声が高く、同い年の三浦選手と愛子さまの会話を垣間見ることができそうです」(皇室ジャーナリスト)
得意なジャンプは何ですか?
愛子さまは幼少から、スケートに親しまれてきた。
「愛子さまは4才の頃から、元スピードスケート日本代表の長久保初枝さんから手ほどきを受けられています。雅子さまも、幼少の頃滞在されていたロシアでスケートを習っていたそうで、ご一家で一緒にスケートを楽しまれる機会が多くありました。
愛子さまは持ち前の運動神経のよさと勘のよさで、大変お上手に滑られるんだとか。初等科時代は週末にご学友と都内のスケートリンクに足を運ばれることもありました」(前出・皇室ジャーナリスト)
男子シングルで五輪連覇を果たしたレジェンドへ、メッセージを託されたこともある。
「2014年、上皇ご夫妻がソチ五輪のメダリストを皇居に招待された際、愛子さまは陛下に“羽生結弦選手(31才)に会ったら質問してきて”と伝言を託されたのです。陛下は愛子さまから預かった“得意なジャンプは何ですか?”という質問を投げかけられ、羽生選手は『“アクセルジャンプが好きです、得意です”ということをお伝えください』と陛下に伝えたそうです」(前出・皇室ジャーナリスト)
年齢、さらにスケートという共通点を持つ愛子さまと三浦。若いお二人ならではの会話に花が咲きそうだ。
「愛子さまは昨年末、映画のチャリティー上映会で隣に着席した俳優に“同い年ですよね”と声をかけられていました。ご公務でかかわるのは比較的年齢層が高い人々が多く、同世代との会話は新鮮なのでしょう。また、愛子さまは年齢の近い佳子さまにコスメの相談をされることもあるといいますから、同世代の三浦選手と愛子さまの“女子トーク”も見られるかもしれません」(前出・皇室ジャーナリスト)
国を代表して大舞台に臨んでこられたご経験も、愛子さまと三浦の共通点だ。
「天皇家の長女として、世界の首脳陣を相手に国際親善に務めてこられた愛子さまの重圧は計り知れません。愛子さまは初めての海外ご公務となったラオスご訪問でも相当なプレッシャーを感じていらっしゃったようで、ラオス伝統の儀式に臨まれる際はぎゅっとハンカチを握り締め、かなり緊張されているようにお見受けする場面もありましたが、それも乗り越え、すべてのご公務を無事にやり遂げられました。
20代前半にして、日本代表として世界の舞台に立っているのは、三浦選手も一緒です。お互いに共感する部分も多いのではないでしょうか」(前出・皇室ジャーナリスト)
園遊会へのご出席は、今回で5回目となる愛子さま。回を重ねるごとに、ご成長を遂げられているという。
「2024年の春に園遊会デビューを果たされた際は、佳子さまが愛子さまの方へさりげなく合図を送るなど、アイコンタクトでサポートされる場面もありました。しかし愛子さまは前回の園遊会では終始落ち着いたご様子で、客人と穏やかな笑顔で会話を重ねられていました。
今回、WBCでの天覧試合でも垣間見えたことですが、愛子さまはご質問がいつも鋭い。これは、事前の勉強の賜でしょう。皇族方は事前に参加者全員のプロフィールをチェックされますが、愛子さまは目下、準備に励み、メダリストたちへの質問を練っているところでしょう」(前出・宮内庁関係者)
対面する一人ひとりに、心を尽くして向き合われる愛子さま。その躍進は、間もなく迎える春、そしてその後も、確かに続いていく。
※女性セブン2026年3月26日・4月2日号