被害者15人全員と面識なし 横浜ゴム三島工場襲撃の容疑者

静岡県三島市の横浜ゴム三島工場で、社員15人が刃物で刺されるなどして負傷した事件で、けがをした人はいずれも、殺人未遂容疑で現行犯逮捕された元従業員小山雅貴容疑者(38)と面識がないことが30日、三島署への取材で分かった。捜査関係者によると、容疑者は「会社に不満があった」という趣旨の供述をしている。県警は無差別に会社関係者を襲撃した可能性も視野に入れ調べる。
捜査関係者によると、容疑者は車で工場敷地内に侵入。マスクを着け、次々に刃物で社員らを襲い、漂白剤のような液体をまいた。
事件は26日、午後4時半の直前、工場関係者から複数人が刃物で刺され液体をまかれたと通報があった。20~50代の男性15人が搬送された。

森友公文書改ざん 加藤勝信前財務大臣が赤木俊夫さんの墓を訪れる 手を合わせ「お詫びと二度と起こさない誓いを」財務大臣経験者として墓参りは初めて

森友学園への国有地売却を巡る決裁文書の改ざん問題で、自殺した財務省近畿財務局元職員の墓を加藤勝信前財務大臣が訪れました。財務大臣経験者の墓参りは初めてです。

30日午前9時すぎ、花をもって訪れた加藤勝信前財務大臣は岡山県にある近畿財務局の元職員・赤木俊夫さん(当時54)の墓に手を合わせた後、墓前で俊夫さんの妻・雅子さんと会話を交わしました。

雅子さん「加藤さんのおかげで開示が進みました」

加藤氏「これからですけどね」

雅子さん「石破さんと加藤さんのおかげで開示に進んだのでもう一歩、もう一歩と」

雅子さんの夫の俊夫さんは森友学園への国有地売却をめぐる決裁文書の改ざんを命じられたことを苦に自殺しました。雅子さんは、改ざんをめぐり財務省が任意で検察に提出した文書などの開示を求めていました。

国は一度不開示の決定をしましたが、今年1月に大阪高裁が国に対して決定の取り消しを命じ、当時、財務大臣だった加藤氏が開示決定を行いました。そして、今年4月からこれまでに5回にわたり約9万ページの文書やメールなどの電子データの開示が行われています。

また、雅子さんは今年10月、当時の加藤勝信財務大臣に改ざん問題の再調査を求める手紙を出したところ、俊夫さんが「公務に起因して自死に至った」ことへの謝罪などが書かれた「直筆」の返信が加藤氏から届いていました。

加藤氏は墓参りの後、取材に応じ手を合わせた際の思いを次のように話しました。

(加藤勝信前財務大臣)「本当に長きにわたって一生懸命に仕事をしていただいたことに対する感謝とそうした仕事の中で、改ざんをせざるを得なかった。 そういった中で、残念ながらお亡くなりになられた。そうした事態に対するお詫びとそしてこうしたことを二度と起こさない、私としての誓い、これをお墓に向かって申し上げさせていただきました」

こう述べたうえで、雅子さんが求めている再調査について、一国会議員として問われた加藤氏は次のように話しました。

(加藤勝信前財務大臣)「そういう話は前からもお聞きしています。財務省の中で、資料を含めて、できる限りの調査をさせていただいた。その状況は変わってないというふうに思います。したがって、まずは、情報を開示させていただく、これが第一だということです。見る側も大変だと思いますが、やはりそれが大事だと思います」

加藤氏の墓参りを受けて雅子さんは‥

(雅子さん)「今日直接お会いして、開示についてお礼を言うことができたので、良かったなと思っています。これから17万枚全部出てみないとわからないんですけど、少しでも夫が何で改ざんをすることになったのかが分かればいいなと」

そしてこの1年を次のように振り返りました。

(雅子さん)「今年1月、高裁で判決で勝ってから、あっという間なんですけど、この1年が長いようで、短いようで、色々ありましたけど、今年のうちに、加藤さんがお墓参りに来てくださるということは、本当にいい1年になったなと思います」

▼真相解明のため第三者の調査を要望

一方で改ざんを指示したとされる当時、理財局長だった佐川宣寿氏のメールはこれまでの開示では「cc」など情報共有者として含まれるものだけしか確認されていません。財務省は、当時のメールシステムはメールの保存期限が最大2か月で、佐川氏が発信元となるメールは保存期限が切れており「存在しない」との説明を雅子さん側に行っています。

雅子さんは改ざんの真相解明を求めて今後の開示に向けての決意を語りました。

(雅子さん)「開示は来年も続くと思うんですけれども、なかなか開示文書の中に佐川さんの指示であるとか、そういった方たちの言葉を見つけるのは難しいんですが、それでも、土地の売却と、当時どのようにして改ざん作業にあたったのかを、知ることができるので、これからまだ続けていけたらなと思っています」

改ざんは誰が発案しどういった内容の指示のもと行われたのか。雅子さんは第三者による再調査を強く求めています。

外国人とみられる男2人が押し入り200万円奪い逃走 住民に刃物突きつける 強盗傷害事件として行方追う 茨城・古河市

昨夜、茨城県・古河市の住宅に2人組の男が押し入り、現金およそ200万円を奪って逃走しました。
きのう午後11時半ごろ、古河市中田新田の住宅で、「泥棒が入った。けが人が出ている」と近くの住民から110番通報がありました。
警察によりますと、外国人とみられる男2人が窓から押し入り、この家に住むスリランカ国籍の男性(40)に刃物を突きつけたうえで、現金およそ200万円を奪って、逃走したということです。
男性は顔にけがをしたということで、警察は強盗傷害事件として逃げた男2人の行方を捜査しています。

線路脇にクマの死骸 JR東海道線と接触か、目撃情報も 静岡・掛川

静岡県掛川市は29日、同市満水のJR東海道線の線路脇でクマが死んでいるのを確認したと発表した。今月24日以降、現場近くや隣接する菊川市で複数の目撃情報があったが、掛川市農林課によると、大きさなどから同一個体とみられるという。
同市によると、29日午前8時45分ごろ、JR東海から「走行中の列車からクマらしき死骸が見えた」と連絡があった。その後、JR、掛川署、地元猟友会、掛川と菊川両市の立ち会いで死骸を確認した。死んでいたのは体長115センチのオスで、損傷が激しいことから電車と接触した可能性が高いとみられる。
掛川、菊川両市は外出時などは引き続きクマに注意するよう周辺の住民などに呼び掛けている。【丹野恒一】

高市首相「年明けの外遊」見送りへ、物価高対策など内政重視…慣例では通常国会召集前に2国間訪問

高市首相が、年明け早々の外遊を見送る方向となった。歴代首相は1月の通常国会召集前に、外国を2国間訪問するのが慣例となっていた。首相は閣僚に積極的な外遊を促しつつ、自らは物価高対策の着実な実施など内政に重点を置く姿勢を鮮明にしている。
首相は25日に東京都内で行った講演で、「日本を必ず再び世界の高みに押し上げていく」と首脳外交への決意には触れつつ、大半を新年度の予算編成や税制改正など経済政策に割いた。
首相は10月の就任以来、国際会議に出席するためマレーシア、韓国、南アフリカを訪問したが、外国への2国間訪問は行っていない。
政府は通常国会を1月23日に召集する方針で日程的な余裕はあるものの、1月に外遊予定は入れていない。2013年以降、首相が年始に外遊しなかったのは、通常国会召集日が1月4日と早かった16年、新型コロナウイルス禍の21~22年、能登半島地震などへの対応を優先した24年だけだ。
政府関係者によると、首相は閣僚に対しては年始に積極的に外遊するよう指示している。茂木外相は来年1月中旬にイスラエルとパレスチナを訪問するほか、インドへの訪問も検討中だ。小泉防衛相もヘグセス米国防長官と会談するため、年始の訪米を調整する考えを明らかにしている。
トランプ米大統領らも出席を予定している1月19~23日にスイスで開かれるダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)には、首相が欠席する一方、小泉氏が日本の防衛相として初めて参加する方向だ。
1月の通常国会召集前には、韓国の李在明(イジェミョン)大統領、イタリアのメローニ首相が相次いで来日する予定で、首相も会談して迎える。首相は3月を軸に、訪米してトランプ氏と会談することにも意欲を示している。

「家族にも言えない」女学生160人が集められたのは、地図にない島だった…15歳で背負わされた加害責任、60年後の“発覚”(前編)

1944年11月、瀬戸内海に面した広島県の忠海高等女学校に通う約160人が、沖にある大久野島に集められた。周囲4キロほどの小さな島は、当時の地図には載っていない。島にある工場が、高度の軍事機密下に置かれていたからだ。
工場の正式名称は「東京第2陸軍造兵廠忠海製作所」。 160人のうちの1人で、15歳だった岡田黎子さん(96)は、入所式での所長の訓示を覚えている。
「ここでの兵器生産は極秘である。家族といえども言ってはならない」
何をさせられるのかは見当もつかない。ただ、「正義の戦争に参加する名誉ある国民」として懸命に働かなければ、と思った。それが後に半世紀を超えて社会の脅威になるとは、思いも寄らなかった。(共同通信=辰巳知二)
大久野島=6月、広島県竹原市
▽直径10㍍の風船爆弾 岡田さんたちは毎朝、広島県の自宅から列車で港まで行き、船で大久野島に通った。列車内では憲兵が常に目を光らせ、島が見える海側の窓は、よろい戸が閉められていた。 まず携わったのは「風船爆弾」の製作。最初に和紙5枚をこんにゃくのりで貼り合わせて強化する。終わると下から光を当て、傷の有無や強度が足りない箇所がないかをチェックして補修。その後は、専門の工員が紙に耐久性を持たせる「なめし処理」を行って強化した。 補修となめし処理を繰り返して原紙を完成させ、貼り合わせると球体になるように裁断した。 「冬場で寒く、こんにゃくのりは氷のように冷たかった。裁断した原紙の貼り合わせは、手の指を後ろに強くそらすよう言われたが、それがうまくできなくて、見張り役の軍人の中尉にしごかれた」 風船爆弾は直径10㍍の巨大な兵器だ。組み立てが終わると半球になるまで空気を入れ、中に女学生が入り、外に向かって光を当てて強度不足の部分を探してさらに補修した。完全な球状になるまで空気を入れ、はけで表面にラッカーを塗って完成させる。 「軍人からは、水素ガスで膨らまして爆弾をつり下げ、米国で爆発するよう設計されていると聞いた」 結果を知ったのは戦後になってから。「米西部オレゴン州で6人の子どもが風船爆弾によって亡くなったと知り、戦争加害性を自覚した」
現在も大久野島に残る毒ガス貯蔵庫跡=6月、広島県竹原市
▽迫る米軍の空襲 1945年に入ると、戦局は一段と悪化。日本の主要都市に対する米軍の空襲が激化し、6月には沖縄が陥落した。翌7月、大久野島の岡田さんたちはある命令を受けた。 「ドラム缶を、保管庫から桟橋まで運搬せよ」 中身が何なのか、詳しい説明はない。配られた軍手をはめ、一つの大八車にドラム缶を4、5個積み、保管庫から桟橋までの片道1㌔を、1日に13往復した。 この時、大人たちから奇妙な注意を受けた。「運搬で使った軍手で、素肌に触れないように」
大久野島の周辺地図
ドラム缶に入っていたのは、実は毒ガス兵器の原料。島で毒ガスを製造していたことは知らされていなかったが、岡田さんたちにはなんとなく分かっていた。作業に当たった生徒たちに異変が起きていたためだ。
昼食後に友人2人が松の葉をようじ代わりにしたところ、歯茎やほおが腫れ上がった。ドラム缶に腰かけた人は、尻に水ぶくれができてその後、長く苦しんだという。島で学徒たちに防毒マスクが配られたこともあった。 「運搬途中にはカーブがあり、重さで海に落ちそうになる。危険な作業だった」
動員学徒たちが毒ガス原料を近隣の島に疎開させた様子を描いた岡田黎子さんの絵(岡田さん提供)
ドラム缶は船で近隣の大三島に運ばれ、畑に埋められたと聞いた。 運搬を命じられた理由について、岡田さんが説明する。 「当時、近くの契島が爆撃されたことがあった。アメリカ軍は大久野島と間違えたのだろう。毒ガス兵器がある大久野島が攻撃されたら被害が拡大するから、原料運搬の命令が出されたのではないか」
広島市の原爆ドーム
▽被爆者救護にも動員 8月15日、学徒たちは島内の広場に集められ、天皇が敗戦を告げる「玉音放送」を聞いた。岡田さんは冷静に受け止めていたという。 「負けるのは明らかだと思っていたから」 戦時中、学校では日本が勝ち続けていると喧伝されていたが、母親は岡田さんにこう言っていた。 「どうして負けるのが分かっているのに戦争をするんじゃろう」 岡田さんにアメリカ製の口紅を見せ、日本が戦っている相手国の豊かさを説明していた。「学校で聞くことと、母の言うことを比べ母の方が正しいように感じた」 終戦から三日後の18日、岡田さんは広島原爆の被害者を救護する活動に動員され、広島市近郊にある中学校の講堂に向かった。そこが救護所になっている。 目にしたのは凄惨な現場。人が毎日亡くなる。「弱った体にウジがわく湿った世界だった」 救護活動を2週間続けた中で、家族全員が死亡した男の子のことが忘れられないという。 「おにぎりを配りに行ったら、おなかが膨れて体の半分の肉がそがれていた。自分が大人だったら家に連れて帰るのにと思った。涙が止まらなかった」
戦時中の体験を語る岡田黎子さん=6月、広島県三原市
▽「加害を反省し平和につなげよ」 岡田さんは戦後、京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)で学んだ後、広島に戻り、高校で美術教員を務めた。ただ、戦争時の過酷な経験は、岡田さんの健康をむしばんでいた。 大久野島に通ったことによる慢性気管支炎に苦しみ、毒ガス障害者向けの「医療手帳」を受け取った。さらに、原爆投下から2週間以内に救護のため広島市内に入ったため、後に「入市被爆者」とも認定された。被爆の後遺症にも苦しんだ。 自らの戦争体験から一つの信念にたどり着いた。 「戦争の加害を自らの責任として受け止め、直視し、反省し、謝罪し、補償し、友好・平和につなげるべきだ。日本もいつ戦争するか分からない。国民一人一人が惑わされず、皆で戦争阻止の方向にいかんといけん」
岡田黎子さんが戦争体験を描いた画集。1989年に出版
最も警戒すべきは「国家主義」と声を振り絞った。 教員退職後の1989年に自らの戦争体験を記録した画集を出版。中国人戦争被害者らに送り反省と謝罪の気持ちを伝えた。その後も絵と文で反戦を訴えている。
終戦まで毒ガス兵器が製造された大久野島の忠海製造所=1946年
▽悪魔の原料「シモリン」 あの「ドラム缶」に入っていた「毒」は、一体何だったのか。岡田さんは1980年後半、大久野島で動員学徒を指揮していた元責任者に電話で聞いた。返ってきた答えは「シモリン」。旧陸軍内で使われていた通称名であり、正式には「ジフェニールアルシン酸」という有機ヒ素化合物だ。シモリンは、大久野島で製造した毒ガス兵器の一つ「あか剤」の原料だった。 この名称を、岡田さんは21世紀になって聞くことになる。
水質基準の450倍のヒ素が検出された井戸周辺の地中をレーダー探索する技師ら=2003年5月、茨城県神栖町(現神栖市)
2003年、茨城県神栖市の井戸から水質環境基準の450倍のヒ素が検出された。井戸水はこの地域では昔から飲用水として使われており、150人を超える住民たちが原因不明の健康被害に苦しんでいた。 行政が詳しく解析した結果、自然界には存在しないジフェニールアルシン酸であることが判明。その後の調査で、この有機ヒ素化合物がコンクリートに混ぜられ、空き地の地中に埋められていたことが分かった。時間をかけて地中に漏れ出し、地下水を伝って井戸水に混入した可能性が高い。 国の公害等調整委員会も2012年、住民の体をむしばんだ原因はジフェニールアルシン酸と判断し、茨城県の賠償責任を認めた。 コンクリート詰めの毒物を、誰がいつ投棄したのかは分かっていない。ただ、コンクリートからは1993年製造と刻印された飲料の空き缶も見つかっている。つまり、埋められたのは少なくともこの年より後ということになる。この毒物は紛れもなく「シモリン」であり、これを原料に毒ガスの「あか剤」を製造していた唯一の施設は大久野島の秘密毒ガス工場だった。 戦時中に製造された毒ガス兵器の原料が、21世紀に日本人を襲っていた。茨城県のニュースを伝え聞いた岡田さんは、こう語った。「国は毒ガス原料をしっかりと処分せず、管理もずさんだったわけで、本当に無責任です。強い怒りが湧いてきます」
※後編「手の震え、頭痛…家族4人がなぜか体調不良に、原因は「おいしい地下水」に混入していた「毒」だった」は31日10時に公開予定です。

軍歴照会で父親の戦火をたどる…約8万人がほぼ全滅 “何の意味もなかった戦い” フィリピン・レイテ島で最後の慰霊 友廣南実アナウンサーの大伯父も

フィリピン中部のレイテ島。南北に細長く、中央に山岳地帯を持つこの島は、80年前、多くの日本兵が命を落とした場所でした。
レイテ島では毎年、戦没者の遺族が慰霊の訪問を行なっています。
「父ちゃーん」 橋の上から遠くに向かって泣きながら叫ぶ男性。
(岐阜県に住む遺児・兼村正美さん 84歳) 「僕たちはいま、楽しく幸せに暮らしています。まだ日本は平和で繁栄しています。これも皆さんの犠牲があってのことです」
しかし、遺族の訪問はことしが最後。関係者が高齢化する中、戦争の“記憶”は、風化しつつあります。
“大伯父が戦死”ことし初めて知った友廣アナ
一方で「記録」を元に、知らなかった親族の戦争をたどる若い世代も。
友廣南実アナウンサー24歳。戦後80年のことし、遠い親戚が戦死していたことを、初めて知りました。祖父の兄 静雄さん。
どこでどう亡くなったのか、詳しいことは家族の誰も知らず、調べることに。都道府県が管理する旧日本陸軍の個人情報を、「軍歴照会」という制度で開示請求し、届いたのが9枚の資料。手書きで、どこで何をしていたのかが記されています。
そこには長く戦争に関わった、静雄さんの人生が。
最後を迎えたのは“ブラウエン飛行場”
1937年、日中戦争に従軍。
(友廣) 「11月9日、ツヤ子さんと結婚」
1939年に一旦兵役をとかれ26歳で結婚。子どもも授かりましたが、その誕生を見ることなく、太平洋戦争で再び招集されフィリピンへ。
(友廣) 「死亡時の所属部隊が、歩兵9連隊というところだったみたいです。死亡場所はレイテ島ブラウエン飛行場となっています」
静雄さんは、ブラウエン飛行場という場所で最期を迎えたとありますが…
(友廣) 「レイテ島…このなかのブラウエン飛行場というところ。このバーオーアン(Burauen)、ローマ字が「ブラウエン」とも読めます。8月15日以降がどこにも書いてないですね。軍歴が詳しく書いてあるこの紙も、昭和17年で終わってしまってそれ以降は空欄なんですよ、何していたんだろう静雄さん」
同じ場所で父親を亡くした遺族を訪ねると…
日本遺族会に連絡をとり訪ねたのが、福岡県に住む大江ヒロミさん87歳。大江さんの父親も、ブラウエン飛行場で戦死した一人です。
(大江ヒロミさん) 「レイテ島は幻の島だったのね。私が4~5歳の時に出征し、抱かれた記憶も言葉を交わした記憶もない。顔もおぼろにしか覚えてないから、お父さんは、レイテ島のブラウエン。父親=レイテ島ブラウエン。それしか情報がなかったから」
大江さんが父親の最期を調べていたところ、戦没者の遺族から貴重な資料を託されました。それは、父の名前が載った部隊の業務日誌。 (友廣) 「中隊長と書いてあります」 (大江さん) 「飛行場を作っていて完成して、8月に遊軍機がたくさん来て万歳した。その飛行場は一度も使われることなく、アメリカに占領されてしまった」
「もしかしたら守れた命だったかもしれない」
(友廣) 「私の大伯父の静雄さんは、歩兵9連隊というところに所属していたんですけれど」
(大江さん) 「12月の戦死なら、レイテ島の脊梁山脈が連なっている。この山ににいた人たちが、奪回作戦でブラウエンに行って、12月に亡くなった」
太平洋戦争の序盤、日本はフィリピンを占領支配していましたが、その後アメリカ軍の猛攻を受け戦況は悪化。
ブラウエン飛行場など、日本軍が作った3つの航空拠点を奪われ、その奪回作戦が1944年12月に行われたのです。
しかしアメリカは物量で圧倒。多くの日本兵が山岳地帯に追い込まれますが、「生きて虜囚の辱めを受けず」という、いわゆる「戦陣訓」が掟だった当時の日本兵は、降伏することもせず戦い続け、約8万人がほぼ全滅したのです。
(大江さん) 「奪回作戦は何の意味もなかったと書いてあるでしょう」
(友廣) 「私の大伯父の静雄さんはここで命を落としたけれど、もしかしたら“守れた命”だったのかもしれない」
20年ぶりに父が亡くなったレイテ島を訪問
12月13日、大江さんはレイテ島に。毎年遺族会が行なっている、慰霊訪問に参加していました。現地訪問は20年ぶりですが、高齢になる中、今回は娘の満里さん(57)と一緒に参加。戦争の事実を引き継いでいくためです。
(大江さん) 「やっと父親に辿り着けた。若い人にも悲惨なことがあったと繋いでほしいと思います」
(娘 満里さん) 「海や山を見ても、人がたくさん死んだんだと思うと、今の穏やかさも違うものに感じる」
遺族の高齢化も進み、ことしで最後の慰霊に
戦後80年が経ち遺族の高齢化が進む中、現地訪問はことしで最後となりました。飛行場跡の慰霊碑の前で、追悼文を読み上げる大江さん。
「304名の中隊の名簿を携えて、最後の慰霊に参りました。想像を絶するご苦労の末、散華された多くの方々。それぞれの家で、大事な方であったに違いありません」
大勢が戦死した飛行場の跡地は、小学校や田んぼに変わっています。
(大江さん) 「もう来られないからね。一緒に連れて帰る。父のことばかり考えていたら、レイテ島の人たちが一番迷惑よね。アメリカと日本がやってきてバンバン戦って…。そういうことにも、思いを致さないといけませんね」
日本陸軍の慰霊碑をフィリピン人が建立
島の東海岸に、日本ではアメリカの占領統治の責任者として知られる、ダグラス・マッカーサーの銅像が立っています。フィリピンでは最高司令官として、日本の支配から島を解放した英雄の扱いです。
アメリカ軍の記録では、レイテ島攻略は、飛行場の占領で東アジアの制空権を抑えて、日本への石油の供給を断つための計画で、狙い通りこの戦い以降日本の戦況は急速に悪化していきました。
(資料館ガイド) 「この写真は陸軍大尉の山添勇夫さんです。山添大尉はゲリラ戦で亡くなりましたが、原住民に友好的だったので、戦死後にフィリピン人が記念碑を建てました」
街のあちこちにある慰霊碑
現地では、学生たちがレイテ島の戦いを伝え、日本人が建てた慰霊碑もあります。そこには友廣アナウンサーの大伯父、静雄さんが所属していた、歩兵第9連隊の名が残されていました。
街のあちこちに、慰霊碑が。
(住民) Q.あなたがこの慰霊碑を管理している? 「はい、これは来場者名簿です。ここに来る日本人は優しくて会話も楽しいです」 Q.第2次世界大戦を知っていますか? 「知りません。ごめんなさい」
戦争は“自分事” 戦火の記録をたどってみて…
太平洋戦争の戦跡が、今は重要な観光資源にもなっているレイテ島。島そのものが、あの戦争の記憶と記録です。
現地には仕事で行けなかった友廣アナ。映像を見て…
(友廣) 「自分の子どもの顔を見ずに亡くなった、その資料を見ただけで私は胸がぐっと痛くなったんですけれど、でも、レイテ島に向かった方々の話を聞いていると、『お父さんの顔なんて見たことがない』という人がたくさんいて。戦争はずっと遠い昔の話と思っていたけど、そんなことは全然ない。“自分の家族が戦死した”ということで、どんどん調べて何よりも一番感じたのは、戦争は“自分事”なのだと捉えられるようになった」
これからの時代を「戦前」にしないため、どう戦争の悲惨さを共有していくのか、戦後80年を迎えた日本の課題です。

国連の障害者権利委員なのに…十分な手話通訳つかず自腹

各国の障害者権利条約の実施状況を監視する国連障害者権利委員会の委員で聴覚障害者の田門浩さん(58)について、活動の際に十分な手話通訳が付かないことから、権利委が国連本部に改善を要請する事態になっている。外務省も国連に対応を求めており、「ゆゆしき問題だ」(担当者)としている。
弁護士である田門さんは18人の委員に過去も含め2人目の日本人として選ばれ、2025年1月から4年間の任期がスタートした。
権利委の会議はスイス・ジュネーブの国連欧州本部で年2回(3、8月)開催される。委員はそれぞれ3週間ほどかけて日本を含む190カ国以上の条約批准国の障害者施策などの取り組み状況を審査する。
1日約6時間の公式会議で各国政府から報告を受けるほか、非公式の会議でも障害者団体や人権団体から現状や意見を聞く。
だが、国連は公式会議にしか手話通訳を用意せず、他の活動や滞在中の生活に伴う手話通訳は自前で手配する必要がある。このため、補助制度はあるものの経費の大部分を自腹で賄っている。
権利委は25年3月、国連の事務局や補助制度を管轄する人権高等弁務官事務所(OHCHR)に対して手話通訳の確保などを求める声明を出した。
それでも改善が見られないため、日本政府による提案の下、12月17日にはグテレス事務総長への要請決議が国連総会で採択された。【加藤昌平】

「3階から黒煙が」動物病院兼住宅で火事 男女3人が救助も死亡確認 高齢の院長ら3人が居住 神奈川・大和市

「3階から黒煙」動物病院兼住宅から出火
きょう未明、神奈川県・大和市の動物病院と住宅を兼ねた建物で火事があり、3人が死亡しました。
午前4時ごろ、大和市西鶴間にある動物病院と住宅を兼ねた3階建ての建物で「3階から黒煙があがっている」と通行人の男性から119番通報がありました。
ポンプ車など14台が出て消火にあたり、およそ2時間後に火は消し止められました。
男女3人救助も・・・いずれも死亡確認
警察などによりますと、現場の建物から男女3人が救助されましたが、男性1人の死亡が現場で確認されました。
また、このほかに男女2人が意識不明の重体で病院に搬送されましたが、その後、死亡しました。
高齢の動物病院の院長ら3人が居住 身元の確認急ぐ
近所に住む男性 「サイレン鳴りっぱなしって形でしたね。亡くなった方もいらっしゃるし、近隣のことなので結構ショックが大きいですね」
建物にはいずれも高齢の動物病院の院長とその弟、弟の妻の3人が住んでいたということで、警察は3人の身元の確認を急ぐとともに出火原因などを調べています。

日本も原潜「持つべき? まだ早い?」 実は“洗浄便座”が重要なカギかも? 「ミクロな視点」で見る原潜保有論

昨今、日本国内でにわかに盛り上がりを見せている原潜保有論。これについて、とかく戦略面を含めた大きな視点からの議論が多いなか、見過ごされがちな論点が「人」です。そこで、原潜保有論を「温水洗浄便座」というミクロな視点から論じてみます。
意外と馬鹿にならない潜水艦の「温水洗浄便座」
日本を訪れる外国人観光客が驚くものの一つに、温水洗浄便座があります。「魔法みたいだ」「未来的で快適だ」という声が聞かれる一方で、「ボタンが多すぎて怖い」など、SNSでも度々話題になります。日本では温水洗浄便座は世界でも突出した普及率を誇り、生活インフラの一部となっています。
この「日本のトイレ文化」は海上自衛隊の潜水艦でも例外ではありません。潜水艦は構造上、使用されるトイレ機器は特殊仕様ですが、そうりゅう型潜水艦「とうりゅう」のトイレにもしっかりと洗浄便座が取り付けられています。新造艦だけでなく、既存艦にも改修で配備が進んでいるそうです。潜水艦にまで洗浄便座を標準化している海軍種組織は、世界広しといえどおそらく日本の海上自衛隊だけでしょう。
ただし、この優れた「快適装備品」にも弱点があります。温水モードが使えないのです。潜水艦内は寒いわけではありませんが、やはり温水で洗浄できるほうが気持ち良いのは言うまでもありません。では、なぜ温水が使えないのでしょう。理由は単純で、艦内の電力容量に制約があるからです。
温水洗浄便座は意外と大きな電力を消費します。暖房便座、温水生成、乾燥機能などを併用すると、瞬間的に最大1200~1400Wを消費するとされ、一般家庭では年間電気使用量の2~5%を占めるともいわれています。電力を自艦内で賄わなければならない潜水艦にとっては、バカにできない負荷です。
ディーゼル機関で発電し、バッテリーに蓄電して電動機で動くディーゼル・エレクトリック方式のいわゆる通常型潜水艦では、バッテリー残量に注意を払わなければなりません。潜水艦艦長は行動中、浮上またはシュノーケルでいつ発電できるかを常に考えているそうで、例えるならば現代人がスマホのバッテリー残量で行動が影響されるのに近いといえます。
最新の「とうりゅう」などはリチウムイオンバッテリーを採用し、従来よりも大幅に潜航持続時間が延び、各種電子機器も刷新されました。しかし、デジタル装備が増えれば電力消費も増えます。艦内の電力配分は厳密に管理され、乗員の快適性よりも任務上の機能が優先されても致し方ありません。
そのため、洗浄便座の温水モードは封印されているというわけです。些細な話に聞こえるかもしれませんが、「通常型潜水艦の限界は『電力』に象徴される」というのがポイントです。
この電力制約がほぼ解消されるのが、原子力潜水艦(原潜)です。原子炉による強大な発電能力は、単純に航続距離や水中速力を伸ばすだけでなく、艦内の電力設計そのものを劇的に変えます。生活区画の電力にも余裕が生まれ、洗浄便座の温水モードも実質使い放題です。これにより、乗員の艦内生活は大きく変わることが予想されます。日本が原潜を持つべきかどうかという議論は主に戦略面、外交面で語られがちですが、実は「ミクロ視点」でも違いがはっきりしているのです。
肝心なのはやはり「人」 原潜議論で見過ごしてはならない論点とは
ミクロな乗員視点で原潜のメリットを挙げると、行動時間と範囲が飛躍的に広がることで任務への意識が高まること、艦内生活環境の改善、原潜を動かすという技術者としての自己充実感、さらにはキャリアや待遇面での実利などがあるでしょう。
一方、デメリットも無視できません。原潜自体は無補給連続潜航が可能ですが、乗員のストレス耐性には限界があり、世界の原潜保有国では、連続潜航期間は約2か月が一つの目安とされています。艦が大型化し乗員数が増えれば、少数精鋭ゆえの強いチームワークが希薄になる懸念もあります。教育と訓練の質・量は格段に増加し、原子炉を扱う精神的負担も重いものとなります。
日本の原潜保有論では、建造費や維持費が莫大であることや、国内の根強い核アレルギーの存在がしばしば議論を止めてしまいます。しかしミクロ視点で見れば、本質はもっと足下にあります。「その艦を動かす人をどう確保し、どう守るか」、ここを抜きにした議論は成立しません。
現在でも、自衛隊は深刻な人手不足に悩まされています。潜水艦乗員になるには適正もあり、志願者が単純に増えればよいというわけでもありません。まして福島第一原発事故以来、日本では人材の原子力離れも指摘されている状態です。原潜の運用には、原子力と潜水艦双方の高度な専門性を有する人材が不可欠であり、その育成には長い時間がかかります。
日本が原潜を保有する方向に動けば、海洋国家として戦略的選択肢が広がることは間違いありません。しかし、温水モードの快適さが手に入る一方で、日本全体が本当に「気持ちよく」なるかは別問題です。潜水艦の洗浄便座という極めてミクロな話ではありますが、原潜という巨大な戦略アセットを動かすのは、乗員の日常の積み重ねにほかなりません。
厳しい安全保障環境のなか、原潜保有の議論自体は必要でしょう。しかし、温水モードのスイッチを押すよりもはるかに重い「原潜保有」という選択肢を、日本が押すべき時期はまだ来ていないのではないでしょうか。(月刊PANZER編集部)